第二十話 大災厄
ブランシェが海賊『ヴィーヴル・デ・マレ(深淵の竜蛇)』の手に落ちたと判明した以上、一刻の猶予も許されない。
「すぐに港のアジトへ向かわなくては! 海賊に時間を与えてはまずい。代官所へも早急に使いを出して、組織の拠点へ一斉に踏み込んでもらうよう要請して頂戴!」
エミが同行していた信徒たちへ向けて、矢継ぎ早に指示を出そうとした、その時だった。
信徒は青ざめた顔で、非常に言い難そうに口を開いた。
「そ、それが……。実は、先ほど港で聞き込みを続けていた別の者たちから、最悪の報告が入りました。……沖合に停泊していた『ヴィーヴル・デ・マレ』の高速船は、二時間ほど前に、すでに出航してしまっているそうです」
「な……っ!?」
エミはその場に愕然と立ち尽くした。
よりによって、異常な航行速度を誇る水魔導師たちの操る船だ。それが二時間も前に出航したとなれば、すでにリエヴァンの遥か沖合、追跡不能な領域まで達していることは明白だった。
(何もかもが、遅すぎた……。でも、どうして? あの子の魔力があれば、海賊ごとき問題なく一蹴できたはずなのに……。いえ、無理もないわ。実の母親に裏切られ、奴隷として売り飛ばされたのよ……。十歳の子供の心が受けるショックは計り知れない。可哀想なブランシェ……! 駄目よ、落ち込んでいる暇はない。すぐに次の手立てをエヴィック様にお伺いしなければ……!)
エミは悲痛な胸の内を押し殺し、大聖堂へと狂ったように引き返した。
◆◇◆
大司教執務室。エミからの緊急報告を受けたエヴィックは、机を叩いて立ち上がった。
「何だとっ!? 『ヴィーヴル・デ・マレ』だと……!」
さすがの老練な大司教も、この時ばかりは完全に顔色を変えて驚愕した。
彼は当初、この失踪を「王国側の内通者に唆されたエレーヌの手引きによる、誘拐」だと想定していたのだ。エレーヌの狂気と怨嗟が、まさか我が子を海賊に人身売買するほどにまで肥大化しているとは、エヴィックの計算を遥かに超えていた。
出航からすでに二時間が経過している。
リエヴァンには、海賊の高速船に追いつけるほどの性能を持った船など一隻も存在しない。追う手段が物理的に何もないのだ。陸路で先回りしようにも、海賊船がどこの国の、どの港を目指しているのかが判明しないことには、それすら不可能だった。
(……くそ、どうすればいい!? ブランシェは銀翼教会の最高機密であり、将来『神聖アルビナ教国』を再興するために絶対に必要な切り札なのだ。こんなことで失うわけにはいかない)
――その時だった。
大司教執務室の重厚な扉が激しく開き、一人の信徒が転がるようにして中に飛び込んできた。
「た、大変です……っ! 北の城壁門が破られ、無数の泥人形が街の中に侵入してきました!」
「何だと……!?」
エヴィックは思わず絶句した。俄かには信じ難い報告だった。リエヴァンの城壁門は、鋼鉄製の落とし格子と厚い木製の鎧戸による強固な二重構造なのだ。いかにゴーレムといえども、そう簡単に、破られるはずなどない。だが、現実には街の防衛線は一瞬で瓦解し、侵入を許している。
何が起きているのか、全容は全く分からない。しかし、リエヴァンが敵の致命的な奇襲を受けていることだけは間違いなかった。この大混乱そのものが、敵の狙いなのだ。
そこへ、さらに別の神官が悲鳴を上げて飛び込んできた。
「報告します! 西の城壁門、および東の城壁門からも、同時に巨大なゴーレムの群れが出現! 門衛たちは抵抗の術もなく、一瞬で泥に飲み込まれました! あ、あれは……ただのゴーレムではありません! 泥に取り込まれた兵士や住人たちが、そのまま新たな泥人形となって起き上がり、次の犠牲者を求めて……ふ、増えているんです! ネズミ算式に、街全体が泥に喰われていっています!」
「何が起きている……!? 兵士がゴーレムに変わるだと……!?」
「大司教! 港が……港に停泊していた船が、全船一斉に発火しました! 何者かが組織的に火を放った模様です! 凄まじい黒煙で空が見えません。接岸できる船はもう一隻もなく、我々は……完全に袋のネズミです!」
次々と執務室にもたらされる、逃げ場のない絶望的な凶報。
(くっ……うかつだった! 四方から届く報告は全て『絶望』だ。誰が? どこから? どうやって? 全てが不明だ。……どうやらチェックメイトのようだ。……だが!)
エヴィックの鋭い眼光に、冷徹な覚悟の火が灯った。彼は即座に振り返り、愕然とするエミの肩を掴んだ。
「エミ! 大聖堂の地下深くから、海へと密かに抜ける隠し水路がある。そこに、いざという時のための小型高速艇が用意してある。それを使って、キャルディナル様と一緒に今すぐここから逃げるんだ!」
「……っ! できません! 私はここに残ります! エヴィック様こそ、最高指導者としてお逃げください!」
「いいから、よく聞け! 恐らく、このゴーレムの襲撃とブランシェの誘拐は全くの別件だ! 敵はブランシェがまだこの街の中にいる、あるいは陸路で逃げると思っているはずだ。だから、私がこれからブランシェを乗せた馬車を偽装し、自ら囮となって敵の目を引きつける!」
エヴィックは言い聞かせるように、エミの目を見据えて早口で捲し立てた。
「その隙に海へ出て、安全な領域まで全力で船を走らせるんだ。リエヴァンが落ちても、王国の各地には、我ら銀翼教会の地下組織『羽根』がまだ健在だ。キャルディナル様の指示を仰ぎ、お前は……お前は何としても、海を渡ってブランシェを捜し出してくれ!」
(ブランシェが海賊に連れ去られたことを、ゴーレムを操る奴らは知らないはずだ。五年前の襲撃からもわかるように、あのゴーレムは聖女へ指向性をもって攻撃している。偽装馬車を用意すれば、必ず囮に喰いつくはずだ。何とか時間を稼げれば、エミたちは地下水路を使ってリエヴァンから遠く離れた場所へ出られる)
「キャルディナル様の親衛隊を、すべてお前と同行させる。何が何でも、リエヴァンから脱出するんだ!」
「親衛隊を、ですか!? それではエヴィック様を守る兵が……っ!」
必死に食い下がる悲壮な表情のエミに対し、エヴィックは不敵に、そして傲然と口元を歪めて笑った。
「私が、か? ……エミ、私を誰だと思っている。あの程度の泥人形どもに、この私が後れを取るとでも思うのか?」
「おやおや。それは何とも頼もしい限りですね、エヴィック」
その時、執務室の奥へと繋がる隠し部屋の扉が開き、一人の温厚そうな老人が、静かに、しかし圧倒的な存在感を放ちながらゆっくりと姿を現した。
「――キャルディナル枢機卿……!」
エミが息を呑む。銀翼教会女神アルビナの地上代行者、キャルディナルその人であった。
「エヴィックや。私を仲間外れにするつもりですか? その、不届きな泥人形退治とやらの大舞台から……」
「御冗談を。老師はエミとともに、地下水路から今すぐ脱出なさってください。キャルディナル様こそが、これからの我が教会の立て直し、そして教国再興の要となっていただかねばならんのですから」
「ふん。この先短い老体など、これからの新しい世に何の役にも立つまいよ。ならば喜んで、お前とともに派手な囮になってやろうて。それにのう、エヴィック。……この美しかったリエヴァンを、どす黒い泥の底へ沈めおった阿呆どもに、拳骨の一発でもくれてやらねば、どうにも儂の気が収まらんのじゃ」
一見すれば、好々爺といった風の穏やかな老人。しかし、その固く握り締められた拳からは、大気をビリビリと震わせるほどの、正真正銘の「特級魔導師」の強大な魔力が、濁流のように滲み出ていた。
「……ふっ、老師にはやはり敵いませんな。かつて修行時代に、あなたに死ぬほどしごかれた日々を思い出しましたよ」
「ふぉふぉふぉっ! 腕が鈍っておらねばよいがな? 儂に遅れるなよ、エヴィック」
「――御意、老師」
エヴィックもまた、戦鬼としての凄味のある不敵な笑みをキャルディナルへと返す。キャルディナルは満足そうに頷くと、最後にエミの方へと静かに視線を向けた。
「エミよ」
「……はい、キャルディナル様」
「おそらく、ブランシェは……あの子は、自らの意思でリエヴァンを出て行ったのじゃろうな」
「そ、そんなことは……ないと……」
エミは必死に否定しようとしたが、キャルディナルは優しくそれを手で制した。
「よいのじゃ。……儂ら大人が、神話だの予言だのと、あの子をこの小さな教会に、勝手に縛り付けてしまったせいかもしれん。……エミ、後でブランシェに再会できたら、こう伝えておくれ。『お前のその力を使って、今度こそ、自分の人生を思うままに生きてみよ』とな……」
「キャルディナル様……っ」
エミの瞳から、堪えきれない涙が溢れ出した。
「さて。これ以上、年寄りの長話に付き合わせる時間は無さそうじゃな。――親衛隊よ、命に代えてもエミを死守せよ! エヴィック、行くぞ!」
「はっ! ……アルビナ様の加護のあらんことを!」
大聖堂を揺らす激しい地鳴りと、外から響く無数の悲鳴の嵐の中。
エミと親衛隊は涙を堪えて地下水路の暗闇へと消え、エヴィックとキャルディナルの二人の特級は、地獄と化した街を背負う囮の馬車へと、力強く駆け出して行った。




