第十九話 信仰と呪い
「――ブランシェが、消えた……!?」
エミは、学校から戻るはずのブランシェの帰宅をずっと待っていた。
いつもなら、放課後は二人で一緒に修道孤児院へと向かい、乳児たちの世話をしに行くのが日課だった。しかし、いつまで待っても彼女は姿を現さなかった。
教室、大聖堂、いつも通る裏路地――。ブランシェが行きそうな場所はおよそすべて捜し回ったが、どこにもその姿はなかった。少しばかりの寄り道ならまだ分かる。だが、あの子は無断で遠出をするような分別のない子供ではない。
エミの脳裏に、五年前、ブランシェが泥人形に襲撃されたあの事件の記憶が最悪の形でよぎった。あの時、教会の内部には間違いなく敵と内通している裏切り者がいたのだ。
尋常ではない胸騒ぎを覚えたエミは、すぐに大司教エヴィックの元へと駆け込み、事態を報告した。
報告を受けたエヴィックは、即座に大司教執務室へと信頼できる手下や神官たちを緊急招集した。常に冷静沈着なエヴィックをして、さすがにこの突発的な状況は測りかねているようで、その表情には焦燥が滲んでいた。
「……とにかく、放課後にブランシェの姿を見た者を捜し出すんだ。あの子ほどの魔力と機転があれば、そう簡単に誰かに拉致されるなど有り得んとは思うが……。いや、待てよ。今日の私の授業中、あの子は妙に様子がおかしかったな」
エヴィックは厳しい表情で顎に手を当て、授業が終わった後にブランシェと接触していた者がいなかったか、手分けして目撃情報を集めるよう神官たちに鋭く指示を出した。
大司教の直属チームが動いたことで、情報は瞬く間に集まった。
その中に、事態を急変させる決定的な証言があった。ブランシェの同級生の一人が、こう言ったのだ。
『学校が終わった後、ブランシェがお母さんらしき女の人に手を引っ張られて、市場の方へ歩いて行くのを見ました』と。
「――エレーヌがっ!?」
報告を聞いたエミは、心臓の音がドクンと大きく鳴り、自分の指先からサーッと血の気が引いていくのが分かった。
(……絶対におかしい! エレーヌはブランシェに対して歪んだ憎しみしか持っていないはず。あの娘の側からブランシェに近づき、手を引いて歩くなんて……有り得ない……!)
「エヴィック様……! エレーヌは内通者に唆され、利用されてるのかもしれません……!」
「よし、大至急エレーヌとブランシェの二人を捜索するんだ! エミ、お前はエレーヌが家に戻っているかどうかを確認しに行ってくれ。残りの者は、市場付近を中心にブランシェとエレーヌの足取りを徹底的に追え。あの子のあれだけ目立つ容姿だ、目撃した者が必ずいるはずだ!」
「はっ!」
エヴィックの怒号のような命令を受け、神官たちが一斉に執務室から飛び出していった。エミもまた、祈るような心地でエレーヌの自宅へと狂ったように走り出した。
◆◇◆
教会の総力を挙げた捜索指示が下る中、エミは神官たちを伴い、地を這うような心地でエレーヌの自宅へと駆けつけた。
荒々しく扉を開け放つと――果たして、エレーヌは平然と家にいた。
「エレーヌ! あなた、ブランシェと一緒にいたんでしょう!? あの子はどこへ行ったの!?」
エミの切迫した怒号に、エレーヌはわざとらしく肩をすくめて見せた。
「あら、お母さん。それがね……一緒に市場まで出かけたんだけど、酷い人混みではぐれちゃったのよ。さっきまでご近所の人にも手伝ってもらって捜していたんだけど、どうしても見つからなくて。困っちゃったわ」
大袈裟な身振りを交えながら、あらかじめ用意していたことが丸分かりの台詞をスラスラと吐き出す。
「はぐれたですって!? それなら、どうしてすぐに代官所や教会に届け出なかったのよ!」
「そ、そんなに心配しなくても、そのうちひょっこり帰ってくるんじゃないかしら……」
エレーヌは視線を泳がせながら、左手の人差し指で髪の毛先をくるくると弄び始めた。
(……この子は昔から、嘘をつくときに必ずこの仕草をしたわ。駄目よ、これ以上この娘の茶番に付き合っている時間なんてない……!)
エミは一歩足を踏み出し、娘を鋭く睨み据えた。
「どうして今日に限って、突然ブランシェを連れ出したりしたの? この十年間、あの子の体に一度だって触ろうともしなかったお前が!」
「どうしてって、母親が娘と出かけて何が悪いのよ!? 私はただ、ブランシェをあの忌々しい教会から引き離したかっただけよ! 誰かさんみたいに、教会の狂った信仰のせいで頭をおかしくされてしまわないようにね!!」
かつての凄惨な記憶を刺激されたのか、エレーヌは突然、金切り声を上げて激しく興奮し始めた。
「……っ!?」
その異常な様子にエミが息を呑んだ、その時だった。
バタバタと足音を荒立てて、市場の方へ聞き込みに行っていた直属の信徒が部屋へと飛び込んできた。エミの傍らに寄り、緊迫した声で耳打ちする。
『エミ様! 放課後、エレーヌがブランシェの腕を引いて、港の倉庫街の地下へ入っていくのを見たという明確な目撃者が出ました!』
「港の倉庫街……? いったいそんな薄暗い場所に何の用が……。それで、ブランシェは今どこに!?」
『それが……その地下室の入口には、黒地に銀の竜蛇が刺繍された旗印が掲げられていたそうです』
「――竜蛇の紋章ですって!?」
エミの脳裏に、最悪の組織名が浮かび上がった。
「『ヴィーヴル・デ・マレ(深淵の竜蛇)』……! エレーヌ、まさかお前、あの海賊どもにブランシェを……!」
エミは目の前が真っ暗になり、気が遠くなりそうになるのを必死で堪えた。全身の血が逆流するような衝撃の中、悲鳴に似た叫びが口から飛び出す。
「ブランシェを、海賊に売り渡したのかいっ!?」
エミの凄まじい剣幕に見据えられ、エレーヌの視線が激しく泳いだ。言い訳が通じないと悟ったのか、彼女の顔が歪な笑みへと変わっていく。
「ブランシェが、お前に一体何をしたというの……! あの子だって、あの容姿で生まれてきて、ずっと苦しんできたのよ!?」
「あの子は私への呪いなのよ!!!」
エレーヌは狂ったように頭を振り、部屋中に響き渡る声で絶叫した。
「そんなこと、お母さんだけには絶対に言われたくないわ!! あの子の洗礼名に、よりによってアルビナなんて忌々しい名前までつけて……っ! いったいどれだけ私を苦しめれば気が済むのよ!? 女神なんていない! 祈ったって誰も助けてくれない! あの子は私の人生をめちゃくちゃにするために生まれてきた悪魔よ!!」
エレーヌは激しく頭を振り乱し、もはや平静を保つことすらできなくなっていた。その狂態を前に、エミは涙を堪え、娘の両肩を強く掴んで必死に語りかけた。
「エレーヌ! 落ち着いて聞きなさい! 母さんだって、あの日お前のお父さんをあんな風に亡くしたとき、世界のすべてに絶望したわ……! でもね、お前が助かってくれた。お前が生きていてくれたから、私は救われたの! お前こそが私の希望だったのよ……! お前がいてくれたから、私は信仰とともに立ち直れた。ブランシェは呪いなんかじゃない! あの子は、お前にとっての――」
「うるさいっ!! うるさいっ!! うるさいのよっ!!!」
エレーヌが鼓膜を突き破るような金切り声で絶叫した。
「教会が! アルビナが! 私からすべてを奪ったのよ!! 父さんも! ブランシェも! ……あの時、私は教えられた通りの『守護の祈り』を、一言一句、間違えずに全部叫んだわ! でも、何もしてくれなかった! どんなに泣いて祈っても、お父さんを助けてなんてくれなかった……っ!! それだけじゃ飽き足らず、私が初めて生んだ女の子にまで、そっくりの姿という呪いをかけたのよ! 私にはもう、セドリックしかいない……! セドリックだけが、私のすべてなのよ! あの子を王都の王立学校に入れるには、どうしてもお金が必要だったのよぉっ!」
――エミは、エレーヌの存在とアルビナへの信仰を、自らの救いにした。
――エレーヌは、アルビナの存在とブランシェの容姿を、自らの呪いにした。
同じ地獄を見た親子の心が、決して交わることのない正反対の深淵へと、完全に分かたれてしまった瞬間だった。
「……エレーヌ」
エミは掴んでいた娘の肩から、ゆっくりと、諦めるように手を離した。その瞳から、静かに涙がこぼれ落ちる。
「お前がどんなに狂ってしまっても、お前は今でも、私の愛する娘なのよ。……私はもう行くわ。ブランシェを、あの子を助けに行かなければならないから……」
それだけを告げると、エミは振り返ることなく家を飛び出した。そこはかつて、夫アラン、そしてエレーヌの三人で笑い合って住んでいた思い出の詰まった家だった。背後からは、狂気が剥がれ落ちたエレーヌの、子供のような悲鳴に似た激しい嗚咽がいつまでも響いていた。
二十年前。あの薄暗い森の底で、泥人形によって木っ端微塵に破壊されてしまったエレーヌの心。
その粉々になったガラスの断片を、二十年という歳月をかけてもなお、エミは繋ぎ合わせる術を何一つ持っていなかった。




