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第十七話 断絶の門出

「――ブランシェ、ちゃんと聞いていたか?」

 

 突然、教壇からのエヴィックの鋭い声に名指しされ、ブランシェはハッと我に返った。


(……しまった! さっき周囲から注目されすぎて、意識が完全に幽体離脱してたわ……)


「あのっ……! ごめんなさい、ちょっとぼんやりしていました」

 

 慌てて取り繕う。エヴィックによる授業は依然として続いていたのだが、彼の奏でる心地よい低音の響きが、ブランシェの意識をどこか彼方へと連れ去ってしまっていたのだ。


「……これこれ、ブランシェ。しっかりしなさい。お前には、皆の手本になってもらわねばならんのだからな」


 大司教からお叱りを受けるブランシェの姿を見て、隣の席の子供たちがクスクスと小さな笑い声を漏らした。


「きっと、大司教さまがブランシェのお母さんに言いつけて、後ですごく怒られるわよ」

「違うわよ、ブランシェにはお母さんはいないの。あの綺麗な人は、おばあちゃんなんだって。うちのお母さんが言ってたもの」

「えーっ! あの人、おばあちゃんなの……!? あんなに若いのに?」


 隣の席から、ブランシェの「母親」に関するこそこそとした噂話が聞こえてくる。


(母親、か……。この十年間、一度も抱きしめられたこともなければ、手を繋いだことすらもないな)

   

 実の母親であるエレーヌとは、エミと一緒に家を追い出されて以来、完全に音信不通の断絶状態が続いている。

 ブランシェはその原因となった、二十年前の「オレオル山での事件」に何かヒントが隠されているのではないかと思い、かつて意を決してエミに尋ねたことがあった。

 しかし、エミは遠い目をしながら、こう答えるだけだった。


『あの、禍々しい泥人形ゴーレムが現れた時ね……おじいちゃんが私たちを突き飛ばして、守ってくれたの。そして、真っ暗な影に呑み込まれてしまった。私はただ、怖くて、泣いて祈ることしかできなかったわ……』


 結局、事件の詳細については、何一つ話してはくれなかった。


(肝心のエミが話してくれないんじゃ、これ以上は仕方ないか……)


 ブランシェは思考を切り替えると、エヴィックが自分から視線を外した一瞬の隙を見計らい、机の下でこっそりと「内職」を始めることにした。


 取り出したのは、今朝、エミの小物入れから拝借してきた、薄汚れた布に包まれていたもの。それは、未完成のまま放置された鏡の破片だった。最近、エミが時折この破片を愛おしそうに、そして寂しそうに手に取って見つめているのを、ブランシェは知っていたのだ。


(まったく、こんな未研磨でくすんだ鏡を、俺と同じ部屋に放置しておくなんて……元清掃員のプライドが許さない。新品同様、ピカピカに仕上げてあげようじゃないか)


 ブランシェは机の下で、鏡の破片に向けてそっと指先をかざした。発動するのは、周囲に気づかれないほどの極小出力に調整した、彼女の固有魔法。

 ――『光子分解洗浄フォトン・クレンジング』。

 数十年分の、鏡の表面にこびりついていた目に見えない汚れや曇りが、光の作用によって分子レベルで分解され、静かに消滅し始めていく。

 

 ――キィィィィィンッ!

 

 突如、鼓膜を突き刺すような高音が脳内に響き渡った。

 ブランシェの手の中で鏡の表面が白銀に爆発するように輝き、次の瞬間、彼女の視界から教室の風景が完全に消失した。

 

(な、なんだ……!?)


 激しい眩暈とともに、ブランシェの脳内へ、強烈かつ鮮明な「映像」が直接流れ込み始める。


 ――それは、緑豊かな山中を歩く、三人家族の姿だった。若い男が、幼い少女を嬉しそうに肩車している。


『お母さん! 早く早く! 置いてっちゃうよ!』

『もう! 待って、アラン! そんなに走らないの。エレーヌが落っこちちゃうわ』

『はははっ! まあいいじゃないかエミ。久しぶりの、三人そろっての遠出なんだから』


 少女を肩車したまま、いきなり悪戯っぽく走り出した父親が、笑顔で母親へと振り返る。


『あっ! あまり森の奥には行かないでね。危ないから!』

『平気、平気!』


 少女は父親の頭の上で、嬉しくてたまらないといった様子で母親に手を振り返している。

 父親の駆け足がさらに速くなった、その時だった。

 ――ふと気づけば、そこだけ森の底にぽっかりと口を開けた深い穴のように、一切の光を拒絶した「異常な場所」が存在していた。


 ――ぞろり。


 どろりとした濃密な闇が溜まったその場所から、ゆっくりと『泥人形ゴーレム』が這い出してきた。

 

「おとうさん……な、に……あれ……!?」   


 父親は顔を強張らせ、突如として現れた不気味な存在を前に、全身の血が凍りついたように硬直した。

 ゴーレムの空虚な双眸がじっと父親を見つめ、距離を詰めてくる。そして、その巨大な拳を頭上へと振り下ろした。


『エレーヌ! 逃げろ!』


 危うい一瞬、父親は必死に少女をかばい、前方へと投げ出した。


『きゃあっ!』


 悲鳴を聞きつけ、後方を歩いていた母親が血相を変えて駆けつける。


『アラン! エレーヌ!』


 エミは即座に、手にする限りの渾身の魔法を放った。


『――ピュリフィカスィオン(浄化)!』


 聖なる光が炸裂する。だが、その光はゴーレムの右肩をわずかに削り取っただけで、無情にも霧散してしまった。


『ああっ……魔力が、足りない……!』


 拳の直撃を受けて完全に動きを止められた父親の右腕を、ゴーレムの濁った泥の手がゆっくりと、確実に掴み取った。


 ――ボキィッ……びちちっ!!


『…………が、ああああああああああ!!!!』 


 人外の暴力によって、父親の右腕が根元から引き千切られた。

 強引に断ち切られた動脈から、鮮血が激しく噴き出す。


『きゃあっっ! ア、アラン!』

『アルビナ様! アルビナ様! どうか! どうか! おとうさんをお助けください! どうかおとうさんを……!』


 地面に投げ出された少女が、教会の『守護の祈り』を、一言一言、喉が裂けんばかりの悲鳴で叫び続ける。   


 ――ボキリッ、ベリリッ……。


『ガハッ……ア、ガ……ッ!!』


 さらに左腕が容赦なく引き千切られる。喉の奥からせり上がる血のせいで、父親はもう叫ぶことすらできない。溢れ出る返り血など一切意に介さず、ゴーレムの冷酷な手が、今度は父親の首筋へと深く食い込んだ。


『……アルビナ様! アルビナ様!……どうか! どうか!』

 

 少女は涙と鼻水に塗れながら、ただ女神の名前を狂ったように祈り続けている。


 ――メキ……ッ、めきょっ!


 ゴーレムは無慈悲にその首を毟り取ると、ただのゴミでも捨てるかのように、無造作に足元へと転がした。

 男の凄惨な返り血を浴びた巨体を揺らし、それはただ、最初から命じられていた任務を淡々と終わらせたかのように。呆然とへたり込む二人を一瞥もすることなく、森の奥へとゆっくりと消え去っていった。


「――うわあああっ!」


 ブランシェの悲鳴が教室中に響き渡り、それまでガヤガヤとしていた空間が一瞬で静まり返った。


「……どうした、ブランシェ? また夢でも見ていたのか?」


 教壇からのエヴィックの呆れたような声に、ブランシェは激しく乱れた呼吸を整えながら、ようやく意識を現在の教室へと引き戻した。


「……えっ? あ、は、はい。そうです……」


 曖昧に生返事を返すと、それを合図にしたように、隣の席の子供がぷっと吹き出した。笑いの渦がまたたく間に教室中に広がっていく。

 ブランシェは周囲の笑い声など耳に入らない様子で、机の下、祖父の遺品である「鏡の欠片」を壊れそうなほど強く握りしめ、呆然と立ち尽くすしかなかった。 

 

 ◆◇◆


 午後の授業がすべて終わっても、とてもそのまま真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。ブランシェは学校を出ると、重い足取りでとぼとぼと歩き出した。

  

(……あの映像は、鏡の銀粒子に記録されていた過去の光景か? 間違いなく、エミたち家族の姿だ。あれが、二十年前の事件の真実……)

 

 エミがこれまで頑なに過去を語らなかった理由も、そして母親であるエレーヌの心が、あんな風に歪んでしまった理由も、今の映像で痛いほど理解できてしまった。


(……いったい俺は、どうしたら……)

 

 大聖堂から放射状に延びる路地を少し入った、人気の途絶えた場所だった。

 思考の海に沈んでいたブランシェの背後の固い地面が突如溶け、「ズブブッ」と泡立つ泥の底から、湿った声が這い上がってきた。


「……よお、お嬢ちゃん。五年ぶりだな。魔力探知に頼りすぎていると、足元の『泥』には気づかないぜ?」


 言葉と同時に、泥の中から弾け飛んだ一筋の冷徹な刺突。無防備なブランシェの延髄を狙い、鋭い短剣が一直線に突き出される。


 ――シュン……。

 

 しかし、ブランシェの頸部に突き立てられたはずの短剣は、肉を裂く代わりに、淡い光の塵となってその場から綺麗に消滅した。


「……なっ…………!? 嘘だろ……!?」


 泥に塗れた男の顔が、驚愕に歪む。

 勝利を確信していたその目は、目の前の超常現象が信じられないといった様子で見開かれていた。


(……危なかった! 完全に油断していた! 念のため、いつも体の表面に『光子の被膜』を張り巡らせておいて助かった! 咄嗟に短剣を『光子超高速分解パーフェクト・クレンジング』で消し飛ばせたからな)


 振り返ったブランシェは、眼前の男を凝視した。

 

(……あっ! あの時の男だ! 五年ぶりってそういうことか! 五年前のオレオル山で俺を襲撃してきた奴! それに……さっきの記憶で、目の前でおじいちゃんを……!)

 

 怒りに全身を震わせながら、ブランシェが男を拘束すべく『梱包ラッピング』してやろうとした、その瞬間だった。


「ここにいたのね、ブランシェ」 


 背後から、不意に女の声が響いた。

 びくり、と身体を強張らせて声の方へ振り返る。あまりにも聞き覚えのある声に、一瞬だけ、眼前の男への警戒が緩んでしまった。


(……今だっ!)


 男はその隙を逃さず、即座に「転移」し、ブランシェの魔力探知の圏外へと、煙のように消え去ってしまった。


(しまっ……逃げられた! あと少しで捕まえられたのに! ……くそ、それにしても、何で今、この女がここにいるんだ……お……母さん……?)


「今日はもう学校終わったんでしょう? 一緒に散歩しない? その後、買い物にも付き合って欲しいのよ」


 エレーヌは信じられないほど陽気な声で話しかけてくる。

 

(……タイミングがおかしすぎる。まさか、さっきの男と繋がっているのか……?)

 

 あり得ない状況にブランシェが激しく困惑していると、エレーヌは有無を言わさず、ブランシェの手をぎゅっと力任せに握りしめ、さっさと歩きだした。

 

「うふふっ。ねえっ、こうして二人で一緒に歩くなんて、初めてじゃないかしら?」

 

 握られた手の感触に、ブランシェの全身にぶわっと鳥肌が立った。

 この十年間、ただの一度たりとも我が子に触れようとしなかった母親が、今、笑顔で自分の手を引いている。

 エレーヌは早足でどんどん進んでいく。


「どうせ教会で碌なもの食べてないんでしょう? ここの屋台でラクレットを食べていきましょ」

 

 エレーヌは小さな簡易屋台の前で立ち止まった。パンに溶かしたチーズとハムを挟んだ、香ばしいサンドイッチだ。

 

「お店は汚いけど、とっても美味しいのよ」

 

(……この女、一体何を企んでいる? そもそも、あれほど溺愛しているらしいセドリックがいない。過保護な母親が息子を連れずに俺を誘うなんて不自然極まりないぞ)

 

 道端でラクレットを食べ終えると、エレーヌは再び、迷いのない足取りで先へと歩き出す。買い物と言っていたはずだが、その進む方向は、いつもエミと一緒に向かうにぎやかな市場とは全く違っていた。


 やがて二人が行き着いたのは、市場とは正反対の場所――薄暗い潮風が吹き抜ける、港の近くの寂れた「倉庫街」だった。

 

「こっちよ、ブランシェ」

 きょろきょろと不審に周囲を気にしながら、エレーヌは、倉庫街の一角にある、地下へと続く薄暗い階段を降りていく。

 下りきった先にある木製の扉には、潮風に晒されて色褪せた黒い布が吊るされていた。そこには、銀の刺繍で『ヴイーヴル・デ・マレ(深淵の竜蛇)』の紋様が刻まれている。何らかの裏組織の旗印のようだった。

 

 エレーヌは符丁を合わせるように、扉を規則的なリズムで数回叩いた。

 しばらくの沈黙の後、ギィと扉が僅かに開き、中からボサボサ頭の中年男が顔を覗かせた。

 男はエレーヌとブランシェの姿を確認すると、前歯の抜けた口元を不気味に歪めて笑い、顔で部屋の奥を指した。中へ入れ、という合図だ。

 エレーヌはブランシェの手をきつく握りしめたまま、躊躇なくその怪しい扉をくぐり、部屋の中へと足を踏み入れた。

 

(……こんな犯罪の臭いしかしない場所に、実の娘を連れ込むなんて、母親として、完全に常軌を逸している)

 

 薄暗い部屋の奥には、入口の歯抜け男の他に、さらに二人の男が待ち構えていた。

 

「娘を連れてきたわ。約束の金貨を、早くちょうだい!」

 

 エレーヌが、部屋の最奥にどっしりと腰掛ける大柄の男に向かって鋭く告げた。

 

「驚いたな。このアマ、本当にあの娘を連れてきやがったぜ」

 

 大男は手にした盃の酒をあおりながら、呆れたように言った。

 

「見事な『白変種』じゃねえか! それに目ん玉は本物の紅玉ルビーの宝石みたいだ。好事家に流せば、相当な高値で売れるぞぉ」

 

 もう一人の若い男がニヤニヤと品定めするような視線を向け、ブランシェの白銀の髪に触れようと手を伸ばしてくる。

 ブランシェは、頭がおかしくなりそうな衝動を必死に堪えながら、その汚らしい若造の手を冷ややかにかわした。

 

(好事家に高く売れる、だって? ……これが、母親のすることなのか……!? さっき鏡の記憶で見た。見たけど……どんなにアルビナが憎くたって、自分の娘だろ。……俺は、どうすればよかったんだ?)

  

「お、お母さん……! 私、どうすればよかったの……?」

 

 偽りの子供の演技ではない。ブランシェの口から、本当の、心の底からの絞り出すような言葉が漏れ出た。

 

「……ブランシェ。あなたにできることはね、このまま私の前から永遠に消え去ってくれることよ」


 エレーヌは表情を冷酷に一変させ、我が子を見下ろした。

 

「この十年間、あなたがこの世に存在しているというだけで、私は許せなかった……! 本当に、今日ほど嬉しい日は無いわ。あなたとはここでお別れよ。……あ、それと、セドリックのために金貨になってくれてありがとうね」

 

「……っ!!!」

 

「じゃあね、ブランシェ。ああ、母さんには『町で人混みにはぐれてしまったとでも言っておくわ。いくら探しても、あなたが見つかることはないでしょうけどね。いい気味だわ!」

 

 エレーヌは歓喜に狂った様子で大男から重みのある金貨の袋を受け取ると、振り返りもせず、地下の階段を軽快な足取りで駆け上がっていってしまった。


 ――バタンッ!

 

 重々しい扉が閉まる音が、地下室に虚しく響く。

 薄暗い部屋に残されたのは、ブランシェと、三人の悪党たちだけになった。

 

(……エレーヌの心は、あの二十年前のオレオル山で……おじいちゃんが惨殺されたあの瞬間に、完全に壊れてしまってたんだ……)

 ブランシェは乱暴に閉められた扉の跡を、ただ呆然と見つめたまま、動くことができなかった。

 

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