第十六話 二つの神話
大星歴八七四年七月五日 未明。
一人の男が、リエヴァン北側の城壁門の上部に音もなく降り立った。
頭からフードを深く被り、顔は窺い知れない。小柄だが、俊敏さを感じさせる痩身の男だ。
男は周囲を警戒し、防御魔法の有無を探るように視線を巡らせる。
門を警備する王国の兵士たちは、この侵入者に全く気付いていない。夜明け前の暗闇だからではない。男が空間を跳躍する「転移」で現れたからだ。
(……ふん。鎧戸に鉄製の落し格子か。結界はおろか、防御魔法もかけていないとはな……平和ボケにも程があるぜ。まあ、こちらも手間が省けて助かるがな)
男は口元を歪めると、門の強固な扉へ向けて手をかざした。
「――『ツェルツェッツェン(腐蝕魔法)』!」
どす黒い魔力が木と鉄を蝕んでいく。これで外部から強い衝撃を加えれば、内側の構造ごと容易く崩壊するだろう。
(……くくくっ。残る門はあと二つか。楽勝だな)
男はローブの裾を翻すと、再び音もなく夜の闇へと「転移」していった。
◆◇◆
男が城壁門から消え去って、数時間後。
朝の礼拝へ向かうため、ブランシェは廊下に据え付けられた巨大な姿見の前に立ち止まった。これほど巨大で歪みのない鏡は、技術の粋を集めたリエヴァンでしか製造できない最高級の逸品だ。
鏡の中に映っているのは、白いワンピースの修道服をまとった少女。
白銀の髪に、深紅の双眸。十歳を迎えた彼女の容姿は、見る者を思わず跪かせるような、神聖な美貌へと成長しつつあった。
彼女は修道服のケープと襟元を整えながら、小さく溜息をついた。
(……十年、か。リエヴァンの外には、一体どんな世界が広がっているんだろうな)
大聖堂の重厚な扉をくぐり、中央にそびえる「銀翼の女神像」へと歩を進める。
すでに集まっていた信者たちが、彼女の姿を見るなり一斉に跪いて道を開けた。誰もが彼女を最前列へと促す。これが、ここ数年のいつもの朝の光景だった。
恐縮してお辞儀をしながら進むブランシェは、背後から強大で、かつ見慣れた魔力の反応が近づいてくるのを察知した。大司教エヴィックだ。
(……もうすぐ名前を呼ばれるな)
魔力感知で完全に把握していたが、ブランシェは今気づいたかのように、ごく自然な動作で振り返った。
「あっ、エヴィック大司教! おはようございます」
深々と頭を下げるブランシェを片手で制し、エヴィックは手招きをして人気のない壁際へと彼女を誘った。声を潜めて尋ねてくる。
「おはよう、ブランシェ。……そろそろ王都から魔法羈束局の奴らが、魔力判定にやって来る時期だな。首尾は問題ないだろうな?」
「ええ。この前、安物の魔力鉱石で試してみましたけど、やっぱり私の魔力反応は『ゼロ』でしたよ!」
ブランシェは両手の指で綺麗な丸を二つ作り、子供らしい無邪気な笑顔を作ってみせた。
「よしよし、そうか。お前ほどの魔力を完全に『隠蔽』し続けられるなら、また羈束局の役人どもに吠え面をかかせてやれるな」
「あはは! 五年前みたいにですか?」
軽快に笑いながらも、ブランシェの脳裏には苦い記憶が蘇っていた。
(あれからもう五年も経つのか……。あの時は結構やばかったよな)
エヴィックは「吠え面」と愉快そうに言うが、今のブランシェは当時の役人たちにそこまでの敵意は抱いていない。
(結局、あの監察官たちも、王国の統治システムを忠実に守るために必死に働いている悲しき公務員だったってわけだ。前世の役所にもいたよな、ああいう融通の利かないタイプ……)
そして、五年前といえばもう一つ、忘れてはならない事件があった。あの泥人形による襲撃だ。
(どうしてあの時、泥人形は俺を殺そうとしたんだ? 個人的な恨みなんてあるはずないだろうし、二十年前にエミの家族を襲った奴と同じっていう話もある。結局、今も何一つ真相はわかっていない。現場で『梱包』したあの男を逃がしたのは本当に痛かったな……。
エヴィックさんたちは、将来教会のシンボルになり得る俺の存在を、王国か大星教会が煙たがって暗殺を謀ったんだろうって言ってた。だけど、俺があの泥人形から感じたのは……もっと禍々しいものだ。人間の泥臭い権力争いなんてものを、遥かに超越した別の『何か』だった気がするんだよな……)
あれこれと思索に耽っているうちに、気づけば朝の礼拝は終了していた。
(……しまった。ずっと俺に向かって跪いてくれてた信者の人たち、ごめん。完全に心ここにあらずだったわ……)
◆◇◆
「――今日は、私が授業をしよう」
礼拝を終え、大聖堂から一緒に出てきたエヴィックの言葉に、ブランシェは小さく目を見開いた。最高指導者である大司教が直接教壇に立つなど、通常では有り得ないことだからだ。
二人は並んで、大聖堂に隣接する教会運営の学校へと歩いた。
この学校は銀翼教会の信徒だけでなく、広く門戸を開いている。王立学校の授業料を払えない低所得層の子供や、身寄りのない孤児たちも多く通っていた。
(恵まれない子供たちを、女神アルビナにそっくりな俺と同じ教室で学ばせる。これによって教会への親近感を持たせ、将来の信者を獲得する。エヴィックさんの巧みな宗教戦略ってわけだ。まあ、俺としても衣食住すべて教会に丸抱えしてもらっている身だから、客寄せパンダの役目くらいは文句を言わずに付き合うけどさ)
この世界の仕組みや歴史は、すべてこの学校で教わってきた。
「――さて、皆、教科書を閉じなさい。今日は、我が国ロスナーサ王国の建国神話について話してあげよう」
教室に、エヴィックの落ち着いた、それでいて威厳のある声が響き渡る。
――遥か昔。
我々がこうして平和に暮らしているこの豊かな土地は、名前すら持たない不毛の暗黒荒野であった。そこを支配していたのが、神を恐れぬ不遜なる怪物――
『雷の巨人、ヘリオスエトワール』である。
ヘリオスは天から授かった強大な雷の魔法を、民の救済ではなく自らの傲慢を満たす暴力として悪用した。天を裂く紫電は大地を焼き、民からすべてを奪い、恐怖で支配する『狂王』としてこの世の地獄を創り出したのだ。
その姿は、五つの凶悪な獣の頭と、地を這う邪悪な蛇の尾を持つ巨大な怪物そのものであったという。
だが、天は狂王の暴挙を黙って見てはいなかった。
神プセドは天より神聖なる白金の光を放ち、その巨大な肉体を一撃のもとに『五つの頭と、一本の尾』へとバラバラに引き裂いたのだ。怪物の頭どもは皆、自らの罪を悟って恐怖し、あるいは絶望して散り散りになった。しかし……その引き裂かれた頭の中で、唯一、『獅子の頭』だけが自らの傲慢を恥じ、激しい悔恨の涙を流して改心した。神プセドはその高潔なる涙を認め、獅子の頭に星の祝福と、火の魔法を授けた。この地を正しく統治せよ、という聖なる神託とともにな。
(なるほど。それが表向きの『建国神話』ってやつか)
実際の王国の歴史については、既にブランシェも教わっていた。
約八百七十年前。この地には暴力と恐怖で民を支配する絶対的な暴君、狂王ヘリオスエトワールが君臨していた。そこへ、神の啓示を受けた初代国王レオエトワールをはじめとする、六人の英雄(レオ(獅子)、ルプス(狼)、ウルスス(熊)、アクイラ(鷲)、ピスケス(魚)、そしてセルペンス(蛇))が結集。彼らは固い絆の同盟「ローサ」を結び、命懸けの戦いの末に狂王を討ち果たした。
英雄たちはこの地に新たな夜明けをもたらすべく、王都「オロール(夜明け)」を築き、同盟の誕生を記念して国を「ロスナーサ(ローサ同盟の誕生)」と名付けた。
初代国王がレオエトワールであり、残りの五人が、現在の王国で絶大な権力を誇る「五大星公爵家」の先祖である。現在の王・シャルロ三世は重税も課さず、民の言葉に耳を傾ける良王だと言われているが――。
神話を語り終えると、エヴィックはそれまで以上に声を潜め、語り口を妖しく変化させた。
「……静かにお聴き。子供たち、こちらの方が本当に大切な、リエヴァンの古い古いお話だよ」
エヴィックの鋭い眼光が、教室の子供たちを惹きつける。
――昔々、まだこの国がロスナーサと呼ばれるよりずっと昔。このリエヴァンの泉に、美しい『白鳥の女神アルビナ』が舞い降りました。
女神様は、天上の光で編まれた美しい銀色の羽衣を持っていました。女神様がその羽衣を広げて歌うと、大地には花が咲き誇り、人々は飢えることなく平和に暮らしていました。
ですが、やがて女神様が天へ還らなければならない時が来ます。女神様は、自分が去った後もこの土地が寂しくならないようにと、一人の心優しい男に、地上で一番温かくて強い『太陽の雷』の力を授けました。その男こそが、女神様の正統なる守護者――『太陽の騎士ヘリオス』です。
ヘリオスは女神様との約束を守り、その強い雷の力で悪い魔物を追い払い、銀翼の教えを護りながら、この地を優しく治めていました。
ところが、ある日。どこか遠い別の土地から、ずる賢くて欲張りな『六人の火の泥棒』がやってきたのです。彼らはヘリオスが持つ、眩しい太陽の力が欲しくてたまりませんでした。そこで泥棒たちは、ヘリオスを騙して夜の闇に呼び出すと、背後から六つの火を放って、太陽の騎士を焼き殺してしまったのです
エヴィックの言葉が熱を帯びていく。子供たちは息を呑んで聞き入っている。
――泥棒たちは、ヘリオスの誇り高き名前を切り刻んで、自分たちの苗字にしてしまいました。そして、女神様が遺してくれた銀色の羽衣(土地)をズタズタに引き裂き、自分たちのマントに仕立てて、新しい王様のふりを始めたのです。
泥棒たちは、自分たちの罪がバレるのが怖くてたまりませんでした。だから街の人々に、刀を突きつけて大嘘をついたのです。『ヘリオスは太陽の騎士なんかじゃない。五つの頭を持つ雷の化け物だったのだ。それを俺たちが退治してやったんだ。だから、これからは俺たちの作った【夜明け(オロール)】と、嘘の神様を崇めろ』と。本当のことを言った正しい人は、泥棒たちにみんな首をはねられてしまいました。それからこの土地は、太陽を失った、暗い夜の国『ロスナーサ』になってしまったのです。……でもね、よくお聞き。リエヴァンの古い古い予言には、こう書かれているのさ
ここで、エヴィックの視線が、まっすぐにブランシェへと注がれた。
――いつの日か、あの六人の泥棒たちが作ったお城に――「女神アルビナ様と瓜二つの、白い髪と、紅玉の目をした、小さな女の子」が舞い降りる。その子は前世から不思議な『お掃除の手』を持っていて、泥棒たちがついた何百年もの大嘘を、綺麗さっぱり洗い流してしまう。そして、奪われた太陽の雷をもう一度呼び覚まして、この地に本物の銀色の羽衣を編み直すんだって。だからね、大星教会の神官様たちの前では、絶対にこのお話をしちゃいけないよ。あの人たちは、いつか自分たちの嘘が『お掃除』されるのが、怖くて怖くてたまらないんだから――
エヴィックが話を締めくくると、教室は水を打ったように静まり返った。
そして――。
クラスの子供たちの視線が、一斉にブランシェへと注がれる。白銀の髪、紅玉の目、そして教会を驚かせる数々の魔法。予言の少女そのものの姿が、そこにあった。
(……おいおい。最後の方のやつ、絶対にエヴィックさんの捏造だろ。予言に『お掃除の手』なんてあるわけないだろ。……本当に気が重いな。あーあ、どこか誰も俺を知らない遠いところへ、一人で逃げてしまいたいな……)
周囲の崇めるような視線の熱に晒されながら、ブランシェは内心で深い溜息をつき、頭を抱えたくなるのを必死に堪えるのだった。




