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第十五話 天秤と聖女

 大司教エヴィックの鋭い眼光が「かっ!」と見開かれた。その指先が、爆炎の魔法の引き金にかけられる。

 同時にエミもまた、我が身を盾にするべくブランシェの元へと駆け出そうとした。


 ――しかし。

 天秤は、「一ミクロン」の狂いもなく、ただ冷徹な水平を保ったまま微動だにしなかった。


 掌の中の魔力鉱石イゾラントは、無色透明なまま。本来ならば世界を焼き尽くすはずの白金プラチナの絶大なる光は、ブランシェが完璧に施した「養生マスキング」の遮蔽膜に阻まれ、ただの一滴すらも外部へ漏れ出すことはなかった。

 広場を支配したのは、あまりにも絶対的な、そしてあまりにも不気味な「沈黙」であった。


「……なんだ? なぜ反応しない!? 貴様、石を強く握れ! 腹の底から魔力を込めろと言っているんだ!」


 想定外の無反応に、ヴェルネが遮光眼鏡を歪めてヒステリックに怒鳴り散らした。

 その傍らで、測定器の数値を冷静に確認していたジルベールが、来週の長期休暇がこれで無事に守られたことを確信し、どこか嬉しそうな声を上司へと告げた。 

  

「……首席、無駄です。魔力反応は、完全なる『ゼロ』。……この少女は、紛れもない『沈黙者スィランス』確定です」


「……ば、馬鹿な……。そんなはずはあるまい……!」


 ヴェルネは激昂し、ブランシェの細い腕を強引に掴んでもう一度イゾラントを握らせようとした。

 だが、その冷酷な手が可憐な少女の肌に触れた瞬間――それまで息を潜めて沈黙していたリエヴァンの群衆の足元から、地鳴りのような、凄まじい憤怒の地殻変動が這い上がってきた。


「放せ! 聖女様から手を放せ!」

「その汚れた手で、聖女様に触れるなァッ!!」 


 街中を白銀の天界の如く磨き上げ、これ以上ない神聖な朝をもたらしてくれた幼き少女。そんな彼女が、王都からやってきた傲慢な権力によってボロ雑巾のように扱われている――。

 これまで理不尽な弾圧に耐え続けていたリエヴァン市民の感情は、このあまりにも残酷な視覚的ノイズによって限界を超え、制御不能な暴動の炎となって今にも爆発せんばかりに燃え上がった。


「き、貴様ら……! 控えよ! 国家の査察官である私に指一本でも触れれば、全員漏れなく反逆罪で処刑だぞ!」


「首席! もう目的は達成されました! 測定結果は白です、すぐにこの場を引き揚げましょう!」


 ジルベールが悲鳴のような声を上げるのも当然だった。

 数千の怒り狂った市民や祭りの参加者たちが、血走った目を剥いて、ヴェルネたち査察官一行を完全に包囲し始めていたからだ。一触即発の戦場は、エヴィックの魔法ではなく、民衆の肉体的な怒りの濁流によって完全に飲み込まれようとしていた。 


「――もう十分でしょう。ヴェルネ先輩!」

 

 凍りついた一触即発の広場に、リエヴァン代官セネシャルの冷ややかな、だが明確な拒絶の口調が響き渡った。彼は自身の高等文官時代の先輩であるヴェルネを厳しく睨み据え、そのまま一斉に殺気を放つ群衆の方へと向き直った。


「王国の臨時査察は、これにて正当に完了した! この少女に魔力反応はなく、我がリエヴァンの潔白は完全に証明されたのだ!」 


 セネシャルは民衆に対して高らかに勝利を宣言し、そのまま深く頭を下げて謝罪の意を示した。

 だが、最高権力者である代官からの直々の謝罪があったものの、未だ群衆の胸中に沈殿した「王国の横暴への静かな怒り」は消え去ってはいなかった。誰もがその手に石や武器を握りしめ、いつ誰が最初の一歩を踏み出してもおかしくない緊迫が続いていた。


 その時だった。 最前列に陣取り、血走った殺意に満ちた視線をヴェルネへ向け続けていたガラス工房のレゴワールの元へ、ボロ布の服を着たブランシェがそっと近づいた。

 彼女は怯えることもなく、どこか慈愛に満ちた困り顔で微笑みかけると、レゴワールの節くれだった大きな手に、自分の青白い小さな掌をそっと重ねたのだ。

 

 瞬間、ブランシェの指先から、大気中の光子フォトンの振動を介して、人間の脳内物質に直接作用する微細な「精神安定の波動」が周囲へと静かに流れ出した。

 彼女を中心に、広場全体に満ちていた爆発寸前の狂気的な怒りが、まるで濡れた雑巾で黒ずみをスーッと拭い去るかのように、一瞬にして静まり返っていく。


 それこそが、この日最大の奇跡であった。

 大人たちの頭の沸騰を「お掃除」されたその場にいる誰もが、ボロ雑巾のような衣装では隠しきれない、五歳の少女が放った圧倒的な『神威しんい』の前に本能的な畏怖を抱き、言葉を失っていた。もはや、この超越的な現象を目の当たりにして、この薄汚れた少女がただの無力な「沈黙者スィランス」であるなどと本気で信じている者は、この広場に一人として存在しなかった。


「こ、今回はこれで引き上げるが……五年後だ! 十歳になったその時、魔力測定を正式かつ強制的に執行するからな!」

 

 完膚なきまでにプライドをへし折られたヴェルネ首席査察官は、顔を真っ赤にして惨めな捨て台詞を残すと、暴徒化寸前の民衆から逃げるようにして、泥だらけの黒い馬車へと飛び乗り、リエヴァンから這う這うの体で去っていった。   


「本当に……本当に、あなたはという子は……っ!」

 すべてが終わり、緊張の糸が切れたエミが激しく涙を流しながら駆け寄り、ブランシェの小さな身体を壊れそうなほど強く抱きしめた。


 一方、民衆の暴発という最悪の破滅を未然に防いでくれた代官セネシャルの元へ、大司教エヴィックが静かに歩み寄り、声をかけた。

「閣下。査察官殿の暴挙を直前にてお諫めいただき、誠にありがとうございました」


「エヴィック殿、礼には及びません。私とて、この美しいリエヴァンを愛する者の一人ですから。……しかし」

 セネシャルは、エミの腕の中で小さく息を吐いているブランシェへと視線を向け、どこか敬虔な響きを含んだ声で呟いた。

「……真にこの街を救ったのは、私ではなく、あそこにいる小さな女神ではないですか?」


「……確かに、その通りかもしれません」


(いったい、どうやって『魔力隠蔽』を……いや、それだけではない。あの暴徒を鎮めた、奇跡の御業。……あの子は、私が守る必要などないほど、既に遥かな高みにいるのかもしれん……)

 

 エヴィックは大司教としての策謀を忘れ、ただ一人の信仰者として、孫娘を抱きしめるエミの姿を眩しそうに見つめていた。


 ◆◇◆


 収穫祭が終わり、静まり返ったリエヴァン。

 大人たちが安堵の眠りにつく中、ブランシェは一人抜け出し、大聖堂の屋根の上で夜空を見上げていた。


(……やれやれ。有給休暇どころか、とんだ休日出勤オーバーワークだったな。それにしても、エヴィックさんは俺が魔力を隠蔽しなかったら、一体何をしでかすつもりだったんだ? なんかとんでもない熱量の魔法を撃とうとしてたみたいだけど……まあ、いいか)


 澄み切った秋の夜風が、彼女の白銀の髪を揺らす。

 彼女が指先で夜空をなぞると、小さな白の魔法円が火花のように散って、綺麗に消えた。


 ――それから、五年の月日が流れた。

 ブランシェ、十歳。

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