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第十話 禁忌の闇

「はあっ……! はあっ……!」

 満身創痍となり、もはやボロ布のようになった男が、リエヴァンの北に位置するオレオル山の麓――鬱蒼とした木陰に隠された廃屋へと滑り込んだ。


「あ、ドルヒ様! 成功したのですか……!? ――ひっ、そ、その腕は一体何が……!」

 暗がりの奥から声をかけたのは、薬草採取の隊を裏切り、いち早く現地から脱出していた案内人のジョスタンだった。


「……喋るな。不快だ」

 ドルヒと呼ばれたその暗殺者は、激痛に顔を歪めてジョスタンを一瞥した。


 彼は先ほどまで、五歳の少女ブランシェの手によって完璧に「梱包」されていた男だった。光子の絶対的な拘束から抜け出すため、ドルヒは自らの左腕を対価(反応物)として差し出し、「転移」を強制発動させたのだ。ブランシェがエミの修復作業にその全意識を集中させていなければ、たとえ腕の一本を犠牲にしたところで、脱出することなど到底叶わなかっただろう。


「も、もう教会には戻れませんし……そ、その、約束の報酬の方を……」

「……報酬だと? ああ、くれてやるとも。ついでに、お前のその薄汚い肉体に代わる、新しい身体もな」 


 ドルヒが冷酷に呟いた次の瞬間、ジョスタンの足元からドロドロとした黒い泥が噴出し、彼の五体を瞬く間に飲み込んだ。ジョスタンは悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった。

 やがてジョスタンが立っていた床から、新たな泥人形ゴーレムがずるりと不気味に這い上がってくる。生きた人間をそのまま触媒(材料)として鋳造する、王国において最大級の禁忌とされる闇の魔術であった。


「随分と機嫌が悪いではないか、ドルヒよ……」   


 廃屋の隅、光の届かぬ暗闇の中から、部屋の空気を凍らせるような低い声が響いた。そこに佇んでいたのは、漆黒の法衣ローブを纏った一人の男だった。


「シ、シュテルン様……! 師匠自ら、このような辺境の地に赴かれるとは……!」

 ドルヒは慌てて、目の前に現れた「師匠マイスター・マギアー」の前に跪いた。


「お前との『ゼーレン・シュティンメ(思念通話)』が何者かに傍受された気配があった。その後、一向に定時連絡がなかったゆえ、様子を見に来たのだが……む、その左腕はどうした」

「も、申し訳ありません……」

 ドルヒは無くなった左腕の断面を押さえ、荒い息を吐きながら深く頭を垂れた。


「ドルヒよ。だから油断するなと厳命したのだ。獲物が子供だからと侮る、それが貴様の悪い癖だぞ。……実験用の泥人形ゴーレムが破壊されたというのは真実か?」

「はい。一瞬でした。あのガキに……文字通り消滅させられました。私たちが使うものとは根本的に異なる、文字も祈りもない、見たこともない奇妙な魔法円サークルでした」


「『あれ』は実験用とはいえ、魔力換算値にして十万(特級クラス)の出力がなければ一撃で瓦解させることなど不可能なはず。……それに、見たこともない魔法円だと? 色は何色だった。何色に輝いていたのだ」


「白い……一点の曇りもない、真っ白い光でした。その光に包まれた直後、塵一つ残さず、跡形もなく……。それだけではありません。奴は、俺が遠隔で『思念通話ゼーレン・シュティンメ』を立ち上げた僅かな魔力のノイズを捉え、俺の隠密術式ごと、居場所を完璧に逆探知してきたのです。あのガキの眼に映っていたのは、ただの殺意ではありません。まるで不快な害虫を視線で潰すような、冷徹な排除の光でした……!」


「白い、光……そして完璧な魔力探知だと……!?」

 シュテルンと呼ばれた男は、弟子の報告に、フードの奥の鋭い眼光を初めて驚愕に見開いた。


「あのガキは……あれは人間などではない。まるで、本物の……」

「女神、アルビナか……?」


 ドルヒは、先ほど自分を絶対的な力で縛り上げた白銀の帯を思い出し、無くなった左腕の痛みを堪えながら小さく身震いした。


「……そうなると、この計画。さらに徹底的に、かつ大規模に遂行する必要があるようだな。防衛など容易く踏み潰せるほどの、圧倒的な数(軍勢)を以てな。……だが、それにはまだ仕込みの時間がかかる」

 シュテルンの言葉の意図を察し、ドルヒの顔が恐怖に強張った。

「シュテルン様……。まさか、あの『禁忌の術式』を、リエヴァン全域で行うとおっしゃるのですか……!」


 ◆◇◆


 オレオル山からリエヴァンへと戻った一行を、大聖堂の広場を埋め尽くす割れんばかりの歓声が迎えた。

 特に、無事な姿で奇跡の生還を果たしたエミは、片時も離したくないと言わんばかりにブランシェを強く抱きしめ、枯れるほどの涙を流していた。


(……ったく、身体がミシミシ言うくらい抱きしめられて、目は回るし掃除する暇もない。エミが持ってきたあの石だって、俺が触ったら勝手に光って粉々になっただけだし、全部俺のせいじゃないんだけどな……)


 救われた修道女や信者たちは、五歳の少女の足元に次々と跪き、額を石畳に擦り付けて泣きながら感謝を捧げていた。その異様な光景は、さながら地上に降臨した本物の聖女を崇める、狂信的な儀式のようであった。

(あの時助けたお姉さんなんて、地面にめり込みそうな勢いで泣きながら拝んでるな。砂埃が舞って空気が汚れるから、あんまり激しく動かないでほしいんだけど……)


 どうしてあんな魔法が使えたのかと大人たちに問われても、彼女は困ったように微笑みながら、子供らしいあどけない声を演じてみせた。

「おばあちゃん、きれいにお掃除できたでしょ?」

 そう答えておくのが、一番波風が立たないと考えたのだ。

(うまく誤魔化せたみたいだったけど、エミたちは『本物の聖女様だっ!』って大騒ぎして本当に大変だったな……)


 その後、エミが砕け散ったイゾラントを抱え、血相を変えて大司教エヴィックの執務室へと報告しに行ったため、ブランシェはようやく大人たちの過剰な抱擁から解放された。しかし、案の定というか、彼女の身の安全(あるいは教会の隠蔽工作)のために屈強な護衛が張り付きとなり、大聖堂の一室に実質的に閉じ込められる羽目になってしまった。


(それにしても。生まれてから今朝まで、ずっと魔法なんてこれっぽっちも使えなかったんだよな。それが突然、あの汚らしいゴーレムが現れて、あれを消し去りたい、きれいさっぱり拭き取りたいって脳内で『作業工程』を組み立てた瞬間、当たり前のように力が引き出せるようになっていた)


 ブランシェの周囲には、生まれた時からいつも、ハウスダストのような「埃」が浮かんでいた。ブランシェの赤い瞳だけが捉えることのできるそれこそが、この世界を構成する最小単位の粒子――光子フォトンであった。

 元清掃屋の精神が、その世界の構成単位を「不純物の排除」のために意のままに操れるようになった瞬間。それこそが、彼女の魔法の覚醒の正体だった。

(あれ、やっぱり俺にしか見えないのかな? あれを好きな座標に動かせる指向性の力が、この世界で言う『魔力』ってやつなんだろうな)


 今のブランシェには、ベッドに寝転んだままでも、部屋の外の様子が3D映像のように俯瞰の透過図として鮮明に感知できていた。

 廊下に三人、中庭には五人。誰がどの位置にいて、どれだけの魔力総量を保持しているかまでが手に取るように分かる。空気中に満ちる光子フォトンが、彼女の脳内へすべての空間情報をリアルタイムで書き込んでくれるのだ。

(あの山で俺たちを襲った男、とんでもない魔力量のノイズを放ってたな。エミおばあちゃんにも、あのレベルの不快な気配が分かったりするんだろうか。今度それとなく聞いてみよう)


 ふと見上げた部屋の天井には、永年の煤が真っ黒にこびりついていた。壁にはカビが生い茂り、床板には無数の砂粒と油汚れが深く染みついている。

 それは、元プロの清掃員であるブランシェにとって、同じ部屋で寝起きすること自体が絶対にあり得ない「最悪の衛生環境」だった。

 力を手に入れた今こそ、真にやるべき仕事を完遂する時だ。


(……範囲指定マスキング完了。室内全域。対象、汚れの濃度、最大。……クレンジング・プログラム、実行)


 部屋の壁と床の境界線をなぞるように、純白の細い光の線で描かれた、巨大でノイズレスな魔法円サークルが鮮烈に展開する。


「……『極高圧光子剥離フォトン・スクレイパー』!」


 魔法円の中心から、一気に超高密度の光子が濁流のように噴き上がった。

 それは円の内部に存在する、永年の染みついたすべての汚れ、カビ、煤、不純物だけを的確に捕捉し、その結合を素粒子レベルで剥離・分解していく。

「ブ、ブランシェさまっ!?」

「お、お部屋の中が……光り輝いて……!?」

「おお……なんと神聖な、不浄を祓う聖なる浄化の御業だ……!」

 部屋の外で見張っていた護衛の兵や修道女たちが、ドアの隙間から漏れ出す強烈な白銀の光に気づき、またしても涙を流してバタバタと床に跪き始めた。

(……よし、これでようやく快適になったな。塵一つ、ハウスダスト一つないぞ。まるで前世の『無菌室』みたいだ)

 大人たちの新たな勘違いと熱狂のノイズを完全に無視し、ブランシェは真っ白に磨き抜かれたクリーンな部屋の空気をおいしそうに吸い込み、満足げに微笑むのだった。

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