兄のものを欲しがる弟の話
雪のように白い肌。
黒檀のように黒い髪。
スミレのように青みがかった紫の瞳。
半分しか血の繋がらない兄はとても美しい人だった。
屋敷を訪れた婚約者が兄を見て「このお屋敷には天使さまがおられるのね」と勘違いするほど繊細で儚げな、ちょっと人間離れした美しさの持ち主だ。
――ただ、とても馬鹿だった。
「『彼は見つけた』……ええと」
「『彼は見つけたその薔薇を 清らかに咲くその色を愛で』だよ」
詩の一句でさえ暗唱出来ずにいる兄を見かねて答えを口にすると、兄は柔らかな声で「ありがとう。君は頭がいいね」と言った。
一つか二つ違いの兄弟なら微笑ましい光景だが、あいにく自分と兄は八つも年が離れている。
真面目ながらも頭と要領の悪い兄は一つか二つ下の年の子供と同じところを学んでいて、逆に人よりも賢い自分は本来よりもずっと先に学ぶべき箇所を学んでいるから起こる現象だった。
いっそ、王宮魔法使いになればいいのに。
十三歳にしてすでにこの国では右に出る者がいないと言われるほどの魔力と魔法の腕を有している兄を横目で見ながら、そんなことを思った。
伯爵家の跡取りと決まっている兄がその道を選べないことなど、百も承知だけど。
絶望的に頭の悪い兄だが魔法に関する知識は深く、魔法使いとしては一流だ。
一週間前に迎えた兄の誕生日を祝うため、国王陛下が直々にいらしたほどに。
おかげで普段は開かない兄の誕生祝いを開く羽目になったと、母が愚痴を零していたのを覚えている。
当の兄は初めて父からもらったのだという誕生日プレゼント――国王陛下の手前、何も用意しないという選択肢はなかったらしい――を見て、珍しく嬉しそうに微笑んでいたが。
そこまで思い出してふと、ある考えが頭をよぎった。
普段はよく考えてから発言するはずの自分がその時ばかりは何も考えずに言葉を口にしたのは、関わりは少ないが優しく接してくれる兄に対する甘えもあったのかもしれない。
「ねえ、それちょうだい」
「それ?」
「その栞。ぼくも欲しくなっちゃった。ちょうだいよ」
この前の誕生日に兄が父からもらったのは、銀を薄く加工した栞だった。
今は教本に挟まれているそれがどうしても欲しくなった……わけではない。
ただ、大切にしていたものをねだられた時の反応を知りたかっただけだ。
兄は普段滅多に感情を表に出さない。
ひどく叱られたり、折檻を受けたりした時も悲しげに目を伏せるだけだ。
怒ったり泣いたりする姿は見たことがなかった。
それどころか、笑う姿さえほとんど記憶にない。
感情を露にするのは「伯爵家の跡取り」らしくないと父が言ったためだ。
だから先日のあれは本当に嬉しかったのだろう。
それを欲しいと言われた時、兄はどうやって断るのか興味があった。
「……いいよ」
「え?」
けれど、兄は存外あっさりと栞を差し出してきた。
「父上が下さったものだから、大切にしてほしいな」
「……うん」
自分が頷いたのを見て、兄はいつも通りスミレ色の瞳を伏せた。
耳に心地よい声が誤った詩を暗唱するのを聞きながら、貰った栞に視線を落とす。
兄の手元にあった時は魅力的に見えた栞は、今はなぜか色褪せて見えた。
「ねえ、あれちょうだい」
それからというもの、自分はしょっちゅう兄の持ち物をねだった。
初めて魔物を倒した証である大きな魔石。
ようやく手に入れたのだという魔術書。
婚約者から貰った花束。
どれも、兄が大切に扱っていたものばかりだ。
「……いいよ」
でも、大切であるはずのそれらを兄はいつも快く譲ってくれた。
貰ったものをどうしたかは忘れてしまった。
いつの間にかなくなっていたから、おそらく捨ててしまったのだと思う。
兄の元にあった時は魅力的に見えたそれらは、自分の手元に来た途端に輝きを失ってしまったから。
それについて、兄から文句を言われることはなかった。
気づいていない、ということはないだろう。
もらった当初はこれ見よがしに兄の前で使っていたから。
でも、兄はいつも目を伏せるだけだった。
「ねえ、あれちょうだい」
「駄目だよ」
始めて断られたのは八歳の頃。
兄が十六の誕生日を迎えた直後だった。
「……どうして?」
「エミールは確かに伯爵家の使用人だけど、人間だ。
彼には彼の意思がある。
私の一存であげることは出来ないよ」
「じゃあ、エミールがいいって言ったらくれる?」
訊ねると、兄ははっきりと表情を強張らせた。
返事はない。それだけ、エミールを手放したくないのだろう。
兄にとって、エミールは唯一の味方だから。
「ねえってば」
「……エミールが、望むなら」
気づかないふりをして問い詰めると、兄はそう言って小さく頷いた。
物憂げに伏せられた睫毛が微かに震えている。
「ふうん」
それを見た途端、暗い感情が胸をざわつかせた。
今まで感じたことのないこの思いの名は知らない。
だけど、よくないものだということは分かった。
それに気がつかないふりをして部屋を出る。
本気でエミールを自分のものにするつもりはなかった。
これまで何度も母の誘いを断ってきた彼が自分の言うことを聞くはずがない。
ただ、傍にいてくれたら便利だろうなと思っただけで。
だから、夕食を終えた頃にはこの時のやり取りなどすっかり忘れてしまっていた。
いつものように寝支度を終え、ベッドに入る。
やがて眠気が訪れ、次に目を開いた時は朝に……なっていなかった。
「……まだ、こんな時間……」
目を覚ました時、窓の外は真っ暗だった。
時計を見れば真夜中だ。夜が明けるにはまだまだ早い。
特段怖い夢を見た覚えはないのだが、中途半端な時間に目が覚めたらしい。
ベッドに横たわり、もう一度目を瞑る。
しかし、いくら待っても望んでいた眠気は訪れなかった。
夜だというのに暑苦しい空気にため息を吐いて起き上がり、ベッドから降りる。
兄の部屋に行こう。
昼に詩を暗唱していた兄の声が蘇って、ふと思う。
ひんやりとしていて柔らかいあの声を聞けば心地よく眠れるはずだ。
母はいい顔をしないだろうが、見つかる前に戻ればいい。
仮に見つかったとしても、怒られるのは兄なのだし。
マッチで燭台に火を灯し、本棚から適当に取り出した絵本を腕に抱える。
定期的に屋敷内を見回る警備兵に見つからないよう、静かに部屋を抜け出した。
兄の部屋へはすぐに着いた。
もともと、一族の部屋は最上階に用意すると家のしきたりで決められている。
極力姿を見たくないという母の要望で兄だけは家族が暮らしている側とは正反対の方向に部屋を与えられていたが、同じ階なのだからそう離れてはいない。
授業や食事以外でめったに顔を合わせないのは兄が部屋に籠っているせいだ。
自分の部屋と同じ意匠の扉の前に立ち、扉に手をかける。
ノックはしなかった。
今は夜だ。どうせ兄は眠っているだろう。
起きていたとしても、ノックをしなかったくらいで怒る人ではない。
「弟が、君を欲しいと言っていたんだ」
静かに扉を開けた時、囁くような声が耳に届いた。
寝間着姿の兄がベッドに腰掛けているのが目に入る。
窓から差し込む仄かな月明かりに照らされた横顔は暗く沈んでいた。
「ああ、そろそろだろうなと思ってた」
そう言ってくすくすと笑ったのは、昼に話題となったエミールだった。
普段の古めかしい上着は脱いで、シャツとベストだけのラフな格好をしている。
「あの方、なんでもお前のものを欲しがるからな。
それで、どう返したんだ?」
「私の一存ではあげられないと言ったよ。
君は人間だから、その意思は無視できないと……」
兄は途中で口籠り、そのまま俯いた。
普段なら父の厳しい叱責が飛ぶ振舞いをエミールが咎める様子はない。
ただ、静かに兄に寄り添っていた。
「…………行かないでおくれ、エミール」
やがて、兄がぽつりと呟いた。
「分かっているんだ。
弟の下で働けば、君の立場はもっと良くなる。父もきっと君を責めない。
君のことを思うなら、弟の誘いを受けるよう後押しした方がいい。
でも……嫌なんだ。君と、離れたくない」
俗世とは隔絶した雰囲気を纏う兄の執着心を見たのはこれが初めてだった。
いつもは自分が何をねだっても「いいよ」と頷くばかりだったから。
兄も人間だったのだ、と納得する一方で僅かな苛立ちがこみ上げる。
理由のわからない心のさざめきに戸惑っている時、エミールの声が耳に届いた。
「ウィルが離れたいと望まない限り、俺はずっと傍にいるよ」
優しい声でそう言って、エミールは傍らのティーポットを取り上げた。
慣れた手つきでポットを傾け、カップに中身を注ぐ。
ハーブの柔らかな香りが辺りにふわりと漂った。
「俺の立場のことならウィルが心配する必要はないさ。
自分で言うのもなんだけど、俺は結構有能な家宰なんだ。
旦那様も奥様も、俺を首にはしないよ。領地の運営が回らなくなるからな。
だから、ウィルは自分の望みを優先してくれ」
「うん……ずっと傍にいておくれ、エミール」
エミールの言葉に頷いた兄は、とてもしあわせそうな笑みを浮かべていた。
今まで自分が一度も見たことのない顔だ。
父から誕生日プレゼントをもらった時でさえ、あんな表情はしていなかったのに。
「やっと笑ったな」
けれど、それよりも心を打ちのめしたのは兄を見たエミールの反応だった。
エミールは特に驚くこともなく、むしろ安堵した様子で兄にカップを渡していた。
まるで、それが本来の兄の姿だというように。
記憶の中にある兄の顔は物憂げなものばかりだ。
人形のように綺麗だけど人のぬくもりを感じられない。
自分や両親とは全く違う生き物が兄だった。
それなのに、今の兄はどうして人間のように笑っているのだろう。
これ以上ここに留まっていたくなくて、扉を乱暴に閉めた。
エミールや兄が音の正体を確かめに来る前に自分の部屋へと駆け戻る。
途中、扉が開く音が聞こえたので姿を見られたかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
どうせ追ってくることはないのだから。
部屋に戻って燭台を吹き消し、絵本を乱雑に本棚に戻してベッドに潜り込む。
頭の中は先ほどの光景でいっぱいで、胸では怒りがふつふつと煮えたぎっていた。
なんの怒りかは知らない。でも、兄が悪いことだけは確かだ。
だって自分はいつでも正しかった。間違っているのは兄の方だった。
だから兄が悪い。家族でもない他人に笑った、兄が悪い。
苛立たしく寝返りを打った時、本棚のそばできらりと輝く何かを見つけた。
栞だ。見覚えのある銀の栞が、月明かりに照らされて輝いている。
きっと、先ほど持ち出した絵本に挟まっていたのが落ちたのだろう。
無くしたと思っていたものが見つかったのに、気分は晴れなかった。
ベッドから起き上がり、栞を拾い上げる。
父から栞をもらった時、兄は嬉しそうに微笑んでいた。
陛下の命で初めて魔物を討伐した時、兄は誇らしげだった。
貴重な魔術書を見せてくれた時、兄は新しい知識を得る楽しみに満ちていた。
婚約者から贈られた花束を愛でている時、兄は優しげな視線を注いでいた。
だけど、それらすべてを渡してもきっと兄はあんな風に笑わない。
「……もう、いらない」
紙のように薄い銀の栞は、少し力を込めれば簡単に折れ曲がった。
栞としての役割を果たさなくなったそれを屑籠に放り込んでベッドに戻る。
行き場のない怒りはいつまでも胸の中で煮えたぎっていた。




