デマの連鎖は夜更けに育つ(前編)
「……お願いだから、もうやめて……」
深夜二時の市街地。街灯の影に隠れるようにして、三浦由香、四十五歳はスマホの画面を見つめたまま震えていた。
彼女は地方自治体の広報課長だ。数日前、市が主導する地域振興イベントで発生した小さな設備トラブルについて記者会見を開いた。だが、会見の一部分――頭を下げた直後、緊張で汗を拭った数秒間だけが短く切り取られ、SNSに拡散された。
『【激怒】謝罪中に笑みを浮かべる悪徳公務員! 市民の税金を泥棒しておいて反省ゼロ!』
事実とは真逆のテロップ。AIで強調された煽り動画。再生数は瞬く間に数百万回を超え、ネット上には「税金泥棒」「人として終わってる」「顔写真晒せ」といった悪意の濁流が溢れかえった。
市役所の電話はパンクし、自宅の前には自称「突撃系Youtuber」や野次馬が張り付いている。
無責任な正義感を振りかざす顔の見えない群衆に囲まれ、由香は逃げるように街を彷徨っていた。もうどこにも、身を置ける場所などなかった。
――プシューッ。
静まり返った通りに、あずき色のレトロな大型バスが静かに停車する。
行き先表示板には『終着駅なし』の文字。
「……バス……?」
ドアが開き、芳醇な出汁と炒めたネギの香りが漏れ出してくる。
「乗るかい、お姉さん。正義の味方に追われて、疲れ果てた顔をしているぞ」
運転席から顔を出したのは、エプロン姿のマスターだった。
由香は吸い込まれるように、バスのステップを上がった。
車内に入ると、すでに先客がいた。
「いらっしゃいませ!」
明るい声で迎えてくれたのは、バイトの真田玲だ。
そしてカウンターの端には、常連となった健太が、彼女と手作りしたというパンの写真を嬉しそうにマスターに見せているところだった。さらに奥には、いつものようにロックグラスを傾ける九条老人の姿もある。
「マスター、今日のおすすめは?」
「ああ、じっくり炒めた白ネギと豆腐の『焦がし葱のあたたかいお清め汁』だ」
由香は促されるままカウンターの席に腰掛けた。
出されたお椀から漂う香ばしい香りに、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。
「……あの、私、何か悪いことをしたのでしょうか」
一口汁を飲んだ由香の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「誠心誠意、謝罪したんです。でも、ネットでは私が笑っていたと……切り取られた数秒だけで、私の人間性も、これまでの人生も全部否定されて……」
由香の言葉を聞いて、玲と健太が顔を見合わせた。
「切り取り動画……またあのパターンですか」
玲が苦々しい顔で呟く。
「ネットの不特定多数は、一次情報(事実)なんてどうでもいいんです」健太が静かに言った。「アルゴリズムは『怒りを煽るコンテンツ』を優先して拡散しますから。怒りは一番手軽で強烈な娯楽なんです」
「そうさ」と九条老人がグラスを鳴らす。「誰も真実なんて求めちゃいない。『殴ってもいい悪者』を欲しがっているだけだ。正義のヒーロー気取りの愚民どもがな」
マスターは静かに由香の前にお椀を差し出しながら言った。
「お姉さん。ネットに溢れる『正義の怒り』なんてものはな、他人の人生を勝手に燃やして暖をとる、ただの不法投棄のゴミ火だ。お前さんが一人でその火を消そうと抱え込む必要はないんだよ」
「でも……市役所にも迷惑がかかっていて、私、もう退職するしか……」
「逃げたら奴らの思うツボだぞ」
九条老人がニヤリと笑い、ポケットからスマホを取り出した。
「健太、お前さんのIT知識と、玲ちゃんの『元・炎上当事者』の感性、それとワシの法知識だ。……おいマスター、この店の常連一同で、この理不尽なデマの源流を叩き潰してやろうじゃないか」
「あいよ。常連たちの『逆襲の作戦会議』なら、朝までたっぷり付き合うぜ」




