アルゴリズムの忠犬(前編)
「桐島さん、あなたの本日時点での『幸福度スコア』は38点です。推奨アクション:現在の交際相手との関係を即時解消し、提示された上位0.5%のマッチング対象へ移行してください」
スマートフォンから流れる合成音声は、どこまでもフラットで、一切の温度を含んでいなかった。
桐島健太、三十二歳。大手IT企業でAIマッチングアルゴリズムの開発を手がけるプロダクトマネージャーだ。
「……僕が作ったアルゴリズムが、僕の恋愛を『非効率』と切り捨てるか」
オフィスビルが立ち並ぶ深夜二時の赤坂。街灯の明かりに照らされた舗道で、健太は自嘲気味に呟いた。
彼が開発したマッチングアプリ『Optima』は、行動履歴、購買データ、会話のトーン、さらには心拍数の変動までAIが解析し、ユーザーにとって「最適なパートナー」を弾き出す現代のモンスターアプリだ。
だが、皮肉なことに、完璧な効率化を追求して調整を重ねた最新のアルゴリズムは、健太自身が三年付き合っている彼女――不器用で、趣味も合わず、スコア上は「相性最悪」と判定された女性との時間を「無駄なリソース消費」と吐き捨てたのだ。
「効率、最適化、生産性……。それだけを信じて作ってきたのに、自分自身がシステムにハックされてどうするんだよ」
胃のあたりがズキズキと痛む。
AIの判定に従って別れを告げるべきか、それともスコアを無視して感情を取るべきか。論理で生きてきた健太にとって、「計算に合わない選択」をする恐怖は想像以上だった。思考の泥沼にはまり込み、どこへ向かって歩いているのかさえ分からなくなったその時だった。
――プシューッ。
静寂を切り裂いて、あずき色のレトロな大型バスが目の前に滑り込んできた。
行き先表示板には、手書きの達筆な文字で『終着駅なし』とある。
「な……路線バス? こんな時間に?」
戸惑う健太の前で扉が開き、車内から出汁と香ばしい胡麻油の匂いが漂ってきた。
「乗るかい、お兄さん。顔に『最適化のやりすぎでバグりました』って書いてあるぞ」
運転席から顔を出したのは、エプロン姿の飄々とした中年男――マスターだった。
健太は吸い寄せられるようにステップを上がった。
車内に入ると、そこはバスの面影を残しつつも、立派なカウンターが広がる不思議な空間だった。
「いらっしゃいませー! あ、いらっしゃい……ですかね?」
厨房の脇から明るい声で出迎えてくれたのは、エプロンをつけた若い女性だった。エプロンの胸元には、レトロな缶バッジが光っている。
真田玲――一週間前、SNSの炎上騒動で居場所をなくし、この場所で救われた元アパレル店員だ。今は夜勤特急のバイトとして、週に数夜手伝っているらしい。
「玲ちゃん、今日のおすすめを出してやってくれ」
「はーい! マスター特製の『非効率な根菜豚汁』ですね!」
「非効率……?」
思わず反応した健太に、カウンターの端でウイスキーグラスを傾けていた九条老人がニヤリと笑いかけた。
「なんだいお兄さん。数字とロジックで頭がカチコチになっている顔だな。AIにでも仕事を奪われたか?」
「仕事なら……奪う側ですよ。僕自身がAIのアルゴリズムを作っていますから」
健太はがっくりと肩を落とし、カウンターに肘をついた。そして、自身が直面している「AIによる恋愛と幸福度のスコア化」、そして「自分自身の感情とアルゴリズムの矛盾」をぽつりぽつりと語り始めた。
「……AIの計算上、彼女と付き合い続けるのは無駄なんです。価値観の一致率は14%、将来の衝突確率は82%。数字は嘘をつきません。だけど……別れると決断しようとすると、胸が痛むんです。自分の計算式が正しいはずなのに、答えが出ない」
語り終えた健太の前に、玲が大きなお椀を置いた。
湯気とともに、香ばしい味噌と生姜の香りが立ち上る。中にゴロゴロと入っているのは、不揃いに乱切りされた大根や人参、ゴボウだった。
「召し上がれ。マスターが圧力鍋を使わずに、二時間かけてコトコト弱火でアクを取りながら煮込んだ豚汁です」
健太はスプーンを取り、汁を口に運んだ。
身体の奥まで染み渡るような、優しく奥深い味わい。固すぎず柔らかすぎず、素材ごとの歯ごたえが絶妙に残っている。
「……うまい。でも、圧力鍋を使えば二十分でこの柔らかさになりますよね? なぜわざわざ二時間も?」
「それが『非効率』の価値さ」
グラスを磨いていたマスターが、静かに口を開いた。
「圧力鍋で時間を短縮すれば、確かに同じ柔らかさにはなる。だがな、時間をかけてゆっくり煮込む間に、素材同士の出汁が時間をかけて混ざり合う。大根にゴボウの香りが移り、肉の脂が人参を包む。その『無駄な時間』の中にしか生まれない旨味があるんだよ」
マスターは健太の目をじっと見つめた。
「お兄さん。君の作ったAIは、失敗しない最短ルートを教えてくれるんだろう。だがな、人間が誰かと一緒にいるってのは『効率よく目的地に辿り着くため』じゃない。遠回りして、無駄な喧嘩をして、価値観のズレをすり合わせる……その『非効率なプロセス』そのものが、愛着ってやつになるんじゃないのかね?」
「無駄なプロセスが……愛着……」
「そういうこと!」と玲が笑顔で頷いた。「私だってこの前まで、フォロワー数とか再生数とか、画面の中の『数字』ばっかり気にして生きてました。でも、数字通りに生きようとすると、人間って絶対バグるんですよ。数字は私の胃袋も心も温めてくれませんでしたから」
九条老人がガラリと氷を鳴らした。
「お前さんのAIとやらは、人生の『リスク』をゼロにしようとしているんだろう。だがな、リスクのない人生なんて、味のしないガムを噛み続けるようなもんだ。……で、お兄さん。その優秀なアルゴリズム様を、少しばかりギャフンと言わせてみたくはないか?」
「え……?」
「自分の作ったシステムに飲まれて死ぬか、システムの鼻を明かして『人間様の理不尽さ』を証明するか。朝まではまだ時間があるぞ」




