007 神殿長の後光が弱まっております。いえ、それは窓の光でございます
王都大神殿より、抗議文が届きました。
後光は自然現象ではございません。
昼食後の紅茶は、まだ温かかった。
温かいものを、温かいうちにいただく。
それだけで、ずいぶん人間らしい気がした。
……のだが。
セドリックが銀盆に乗せて運んできた封筒は、まったく人間らしくなかった。
金色だった。
封筒の縁にも金。
封蝋にも金。
文字にも金。
王都大神殿からの抗議文である。
内容だけは、かなり切実だった。
『聖女加護の停止により、神殿長の後光が弱まっております。至急対応を求めます』
私は、その一文をしばらく見つめた。
隣で、姉が赤ペンを構えた。
「お姉様」
「はい」
「後光が弱まっているそうです」
「照明設備の相談でしょうか」
「いえ。神殿儀礼補助の相談かと」
母が紅茶を置いた。
「神殿長の後光は、昔から少し強すぎると思っていました」
「お母様、気づいておられたのですか」
「元高位聖女ですもの。自然な後光と、盛った後光の区別くらいつきます」
盛った後光。
姉が赤ペンで書いた。
神殿長、後光を盛っていた。
「お姉様」
「事実確認です」
「早いですね」
「後光が強すぎる方は、だいたい盛っています」
母が静かにうなずいた。
「自然な方は、本人が光ろうとしませんからね」
父が封筒を見た。
「抗議文なのだね」
「はい」
「契約相談ではなく」
「はい」
「では、まず抗議の根拠を確認しよう」
父がそう言った時、セドリックが入室した。
「お嬢様。王都大神殿の使者が到着しております」
「使者ですか」
「はい。神殿長猊下ご本人でございます」
応接室が静かになった。
母がゆっくり瞬きをした。
「後光が弱まっているご本人が?」
「はい」
「お通しして」
「承知いたしました」
ほどなくして、神殿長が入ってきた。
名はグラディウス猊下。
白い法衣。
金の刺繍。
大きな杖。
長い白髭。
見た目だけなら、たいへんありがたい。
ただし。
後光が、なかった。
いや、正確には、神殿長ご本人は背後に光があるつもりで立っていた。
けれど実際にあるのは、窓から差した昼光が、法衣の金刺繍に少し反射しているだけである。
ありがたいというより、やや眩しい布だった。
神殿長は、威厳ある声で言った。
「聖女エルミナよ」
普通の声だった。
よく通るが、普通である。
以前なら、天井から少し遅れて響くような、ありがたい反響がついていた。
今は、応接室の壁に当たって終わった。
姉の赤ペンが動いた。
ありがたい声、壁で終了。
神殿長の眉がぴくりと動く。
「今、何を書いた」
「記録でございます」
「見せよ」
「有料でございます」
神殿長は言葉に詰まった。
父が穏やかに言う。
「本日は、抗議でしょうか。契約相談でしょうか」
「抗議である!」
神殿長は杖を床に打ちつけた。
こん。
音は軽かった。
以前なら、床から神聖な重みが広がるような音だったはずである。
今は、普通に木の杖が床に当たった音である。
神殿長は、もう一度杖を打った。
こん。
やはり軽い。
三度目。
こん。
本人も少し不安そうな顔をした。
母がやさしく言った。
「杖は、悪くありませんよ」
「慰めるでない!」
姉の赤ペンが走る。
杖、悪くない。
私は聖女加護管理台帳を開いた。
「確認いたします。大神殿儀礼補助、項目番号四百八十二。神殿長後光演出補助、停止済み」
私は台帳から顔を上げた。
「現在見えている光は、自然光でございます」
神殿長が背後を振り返った。
「自然光」
「はい。窓でございます」
神殿長は、半歩だけ横へ動いた。
光も消えた。
応接室が静かになった。
「……窓でしたね」
「窓でございました」
姉が赤ペンで書いた。
後光ではなく窓。
「書くな!」
「記録でございます」
「見せよ!」
「有料でございます」
神殿長は白髭を震わせた。
私は台帳を読み上げる。
「項目番号四百八十三。ありがたい声の反響補助、停止済み」
神殿長が咳払いをした。
「項目番号四百八十四。杖を打った際の重々しい余韻補助、停止済み」
「それは必要だ!」
「必要でしたら契約が必要でございます」
「聖女の加護とは、神の恵みであろう!」
「神の恵みを運用するにも、管理記録が必要でございます」
神殿長は白髭を震わせた。
「神聖なる沈黙を!」
そう言って、神殿長は黙った。
応接室も黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
気まずかった。
とても気まずかった。
以前なら、この沈黙には不思議な重みがあった。
人々が自然に背筋を伸ばし、心を清めたくなるような空気が流れた。
今は、ただ神殿長が怒って黙っているだけである。
セドリックが静かに紅茶を注ぐ音だけが響いた。
姉が赤ペンで書いた。
神聖な沈黙、気まずい沈黙へ移行。
「書くな!」
「記録でございます」
「見せよ!」
「有料でございます」
「またか!」
私は台帳を確認した。
「項目番号四百八十五。神聖な沈黙が気まずくならない加護、停止済み」
母が小さくうなずいた。
「それは大切ですね」
「はい。沈黙は、管理しないとすぐ気まずくなります」
神殿長は信じられないものを見る目で私を見た。
「沈黙を管理するな」
「されていたのは神殿側でございます」
父が書類をめくる。
「契約名義は」
「王都大神殿儀礼局でございます」
「王家ではないね」
「はい」
「では王妃陛下の王家中枢再契約には含まれない」
「その通りでございます」
神殿長の表情が変わった。
「待て。王家が支払うのではないのか」
「いいえ。神殿儀礼補助は大神殿の個別契約でございます」
「しかし、王族も儀礼に参加する」
「参加と支払いは別でございます」
姉が赤ペンで書いた。
参加と支払いは別。
神殿長が震えた。
「聖女とは、神のために無償で祈るものだ」
その言葉で、応接室の空気が少しだけ変わった。
母の紅茶を置く音が、静かになった。
父の目が、裁判所になった。
姉の赤ペンが止まった。
私は台帳から顔を上げる。
「神殿長猊下」
「何だ」
「無償奉仕とおっしゃるなら、なぜ神殿は王宮へ毎月、儀礼維持費を請求していたのでしょうか」
神殿長の口が止まった。
「それは、神殿運営のための」
「請求項目を読み上げます」
私は別紙を開いた。
「神聖儀礼環境維持費。祈祷反響設備保全費。聖鐘音質維持費。大神殿長儀礼威厳保持費」
姉が顔を上げた。
「大神殿長儀礼威厳保持費」
「はい」
「それは、後光ですか」
「後光も含まれます」
母が少しだけ目を細めた。
「後光代」
「通称では」
「やめなさい」
父が静かに言った。
神殿長は、白髭を震わせた。
「それは、神殿全体のためであって」
「神殿は請求しておりました。王宮は支払っておりました。ですが、加護を実際に維持していた聖女本人への労務評価は、婚約者特典に含まれておりました」
私は淡々と告げる。
「つまり、神殿は有償で受け取り、聖女には無償奉仕を求めていたことになります」
神殿長の背後には、もう窓の光もなかった。
ただ、金刺繍が少しだけ光っている。
姉が赤ペンで書いた。
後光、消失。金刺繍のみ残存。
「書くな!」
「記録でございます」
「見せよ!」
「有料でございます」
神殿長は、ついに椅子に座った。
白い法衣が、以前ほどふわりと広がらない。
私は台帳を確認する。
「項目番号四百八十六。法衣の裾が神聖に広がる補助、停止済み」
神殿長は自分の裾を見た。
「これもか」
「はい」
「これは、ただの布だったのか」
「高級な布ではございます」
「そこは慰めるでない」
母がやさしく言った。
「布は悪くありません」
姉が赤ペンで書いた。
法衣、悪くない。
その時、屋敷の外から鐘の音がした。
神殿の使者が連れてきた小さな儀礼鐘を、控えの神官が鳴らしたらしい。
かぁん。
いや。
かぁん、ではなかった。
がん。
錆びた鍋を軽く叩いたような音だった。
神殿長が立ち上がった。
「今のは違う!」
もう一度、鐘が鳴る。
がん。
母が目を伏せた。
「お鍋でしょうか」
「鐘でございます」
セドリックが答えた。
姉が赤ペンを走らせる。
聖鐘、鍋化。
神殿長が叫んだ。
「聖鐘だ!」
「聖鐘音補正加護も停止済みでございます」
私は答えた。
「鐘そのものの音が出ております」
「鐘そのものが、これか」
「はい」
神殿長は、遠い目をした。
父が静かに言う。
「磨いた方がよいのでは」
「鐘を?」
「はい」
「加護ではなく?」
「まず、鐘を」
神殿長は黙った。
その沈黙は、やはり気まずかった。
私は台帳を閉じる。
「神殿長猊下。本件は抗議ではなく、契約相談として受けることは可能でございます」
「料金は」
神殿長が、非常に小さい声で聞いた。
私はすでに計算済みの紙を出した。
「神殿長後光演出補助。ありがたい声の反響補助。杖の余韻補助。神聖な沈黙維持。聖鐘音補正。法衣の裾演出。祈祷時の風演出。以上、大神殿儀礼補助一式でございます」
神殿長は紙を見た。
後光より顔色が薄くなった。
「高い」
「はい」
「だが、後光がないと」
「はい」
「ありがたみが」
「はい」
「鐘も鍋だ」
「はい」
神殿長は、深く息を吐いた。
「一部だけでは」
「可能でございます」
「後光と声だけ」
「聖鐘は鍋のままでよろしいですか」
神殿長は固まった。
母が静かに言う。
「儀礼で鍋の音がすると、少し生活感が出ますね」
神殿長は紙を握りしめた。
「鐘も入れる」
「承知いたしました」
姉が赤ペンで書いた。
後光、声、鐘。優先度高。
私は契約書を整える。
「ただし、神殿側に条件がございます」
「何だ」
「今後、聖女加護を無償奉仕と表現しないこと」
神殿長の顔が歪んだ。
「それは」
「契約条件でございます」
私は静かに続ける。
「聖女の祈りは尊いものです。ですが、尊いことと、無償で使い続けてよいことは別でございます」
応接室が静まり返った。
今回は、神聖な沈黙ではない。
けれど、気まずい沈黙でもなかった。
神殿長は、長く黙ったあと、低く言った。
「……条件を、確認する」
「お読みください」
神殿長は契約書を手に取った。
読み始めた。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
姉が小さくうなずいた。
「読んでいますね」
「はい」
「読んでいるだけで、現状ではかなり前進です」
「評価基準が低うございます」
その時、セドリックが新たな封筒を持って入ってきた。
「お嬢様。王国監査院より、正式な照会状でございます」
父が目を上げた。
「監査院が?」
「はい。王都大神殿の儀礼維持費、および聖女加護管理台帳の監査資料化について、確認したいとのことです」
神殿長の顔から、金刺繍の反射よりも色が消えた。
「監査院……」
母が静かに紅茶を置いた。
「後光の次は、帳簿ですね」
姉が赤ペンを構える。
「後光代が、経費かどうか確認されますね」
「後光代と言うな!」
神殿長の声は、やはり壁で終わった。
私は照会状の差出人を見た。
王国監査院。
ユリウス・クラウゼ。
昼食後に届いた照会状と、同じ名だった。
今度の文面は、さらに具体的だった。
『王都大神殿の儀礼維持費と、聖女加護管理台帳の記録について、確認したく存じます』
神殿長の顔から、さらに色が消えた。
私は台帳の表紙に、そっと手を置いた。
この台帳が、便利な覚書ではなく、確認すべき記録として扱われようとしている。
「順番に確認いたします」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第7話は、神殿長の後光回でした。
後光も、ありがたい声も、鐘の音も、契約範囲でございます。
窓は契約範囲外でございます。
次回、王国監査院のユリウス・クラウゼ様から正式照会です。
聖女加護管理台帳が、ただの覚書ではなく、監査資料として扱われ始めます。
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