008 監査官様は台帳を監査資料にします。後光代は経費でございますか
王国監査院より、ユリウス・クラウゼ様が来訪しました。
後光代は、経費として確認されるようです。
王国監査院の使者は、翌日の午前に来た。
王都大神殿の抗議文より地味な封筒。
神殿長猊下の法衣より地味な黒い上着。
王太子殿下の頭髪照会より、ずっと短い来訪理由。
けれど、セドリックがその名を告げた時、私は台帳のしおりを挟む手を少しだけ止めた。
「王国監査院、ユリウス・クラウゼ様でございます」
昼食後に届いた照会状の差出人。
聖女加護管理台帳について、監査資料として確認したいと書いてきた方である。
「お通ししてください」
「承知いたしました」
応接室には、父、母、姉が揃っていた。
机の上には、聖女加護管理台帳。
王都大神殿の請求書写し。
王妃陛下との王家中枢再契約控え。
昨日、神殿長猊下が読み始めた契約書の控え。
神殿長猊下ご本人はいない。
ただし、存在感は少し残っていた。
理由は、昨日持ち込まれた小さな儀礼鐘である。
大神殿側が忘れて帰った。
母が窓際に置かれたそれを見た。
「返した方がよいわね」
「はい」
姉が赤ペンを持ち上げた。
「磨いてから返すべきでしょうか」
「それは神殿側の業務でございます」
セドリックが扉を開けた。
入ってきたのは、黒い上着の若い男性だった。
整った顔立ち。
静かな目。
派手さはない。
けれど、部屋の中を確認する視線に、無駄がなかった。
「王国監査院所属、ユリウス・クラウゼです」
彼は深く礼をした。
「本日は、聖女加護管理台帳の監査資料化、および王都大神殿の儀礼維持費について確認に参りました」
父が穏やかに頷く。
「ローゼンベルク公爵だ。まず、監査資料化という言葉の意味を伺いたい」
「はい」
ユリウス様は、机の上の台帳へ視線を向けた。
「この台帳は、王国の正式文書ではありません」
最初に、そう言った。
「ですが、王宮が月次報告として受領し、王妃陛下が確認していた以上、単なる私的な覚書でもありません」
私は、台帳の表紙に指を添えた。
「監査院としては、これを王国運用の準正式記録として扱い、写しを正式な監査資料にしたいと考えております」
姉の赤ペンが止まった。
父の目が、少しだけ細くなる。
「原本は」
「ローゼンベルク家に残すべきです」
ユリウス様は迷わず答えた。
「監査院が無制限に持ち出すものではありません。写しを作る範囲、閲覧できる部署、照合に使う項目を定めます」
姉が赤ペンを走らせた。
原本持ち出し不可。
写し範囲指定。
閲覧権限指定。
「お姉様」
「今のところ、かなりまともです」
ユリウス様は、その赤字を見た。
「合格基準を伺っても?」
姉は赤ペンを構えた。
「契約書を最後まで読むこと。台帳を雑に扱わないこと。エルミナを便利な聖女として使わないこと」
「妥当です」
「即答ですね」
「当然です」
母が紅茶を置いた。
「まあ」
その「まあ」は、少しだけ楽しそうだった。
私は台帳に手を置く。
便利な聖女として使わないこと。
姉の言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
ユリウス様は、私へ向き直る。
「ローゼンベルク嬢」
「はい」
「この台帳について、管理者本人として説明を伺いたい。王宮や神殿の説明ではなく、あなたご自身の説明を」
管理者本人。
その言葉に、私は一拍だけ返事が遅れた。
婚約者。
聖女。
王太子殿下の隣に立つ令嬢。
便利な加護の使い手。
そう呼ばれることは多かった。
管理者本人、と呼ばれたことは、あまりない。
「分かりました」
私は台帳を開いた。
「これは、私が婚約期間中に提供していた聖女加護の管理記録です。対象、名義、発動条件、停止条件、評価額、月次報告、確認印を記録しております」
ユリウス様は、まっすぐに聞いていた。
遮らなかった。
急かさなかった。
先に結論を奪わなかった。
ただ、私の説明が終わるまで待った。
それだけのことが、王宮では珍しかった。
「本来評価額も記載されていますか」
「はい。婚約者特典として無償提供していたものも、本来評価額は記載しております」
ユリウス様は、神殿の請求書を机に置いた。
「神殿は、王宮から儀礼維持費を受け取っていました」
次に、私の台帳へ視線を移す。
「ですが、その儀礼を実際に支えていた加護の明細は、請求書にありません」
彼は台帳の該当頁を指した。
「この台帳には、それが書かれています。後光、声の反響、鐘の音、法衣の演出。どれが誰の加護で維持されていたのか」
ユリウス様は、二つの書類を並べた。
「つまり、神殿が受け取っていたお金と、ローゼンベルク嬢が実際に支えていた仕事を、初めて突き合わせることができます」
責める前に、騒ぐ前に。
まず、二つの記録を同じ机に置く。
その言い方が、妙に落ち着いて聞こえた。
父の表情が少し変わる。
姉の赤ペンが動いた。
神殿の請求書と、エルミナの台帳を並べる。
母が静かに言った。
「王宮も神殿も、あまり見たくない並びでしょうね」
「はい」
ユリウス様は淡々と答えた。
「ですが、見たくないものほど記録から確認します」
私は、その言葉を聞いていた。
確認する。
責めるためではなく。
叫ぶためでもなく。
事実を事実として置くために。
それは、私がずっとしてきたことに近かった。
ユリウス様は持参した書類束を机に置いた。
「監査院は、神殿の請求書を見ていました」
彼は静かに言った。
「ですが、その費用がどの加護に対応しているのか、神殿は明細にしていませんでした。王宮側も、聖女加護を婚約者特典として処理していた」
「つまり」
父が促す。
「金額は見えていました。実務者が見えていなかったのです」
応接室が静かになった。
ユリウス様は、一度だけ目を伏せた。
「見抜けなかった責任は、監査院にもあります」
その言葉に、姉の赤ペンが止まった。
「ですので、今から記録をつなぎます」
責任を、神殿だけにも、王宮だけにも押しつけなかった。
監査院にも責任がある、と言った。
そのうえで、今から記録をつなぐ、と言った。
私は台帳の角に触れたまま、少しだけ息を吸った。
「承知いたしました」
ユリウス様は頷き、次の書類を開いた。
「大神殿長儀礼威厳保持費については、昨日の抗議文と台帳項目から、神殿長後光演出補助、ありがたい声の反響補助、杖の余韻補助、法衣の裾演出が含まれると見ております」
姉の赤ペンが、すっと動いた。
読んできている。
「お姉様」
「大事です」
父が書類に目を通す。
「後光代に驚く段階は、もう過ぎたということだね」
「はい」
ユリウス様は真面目に答えた。
「問題は、後光だったことではありません。神殿がそれを儀礼維持費として王宮へ請求しながら、実際の加護運用を婚約者特典へ移していた点です」
窓際の儀礼鐘が、何かの拍子で小さく揺れた。
がん。
応接室が止まった。
母が鐘を見る。
「まだ鍋ですね」
「鐘でございます」
セドリックが答えた。
ユリウス様は鐘を見た。
「これが、聖鐘音質維持費の対象ですか」
「はい。昨日、加護停止により鐘そのものの音が出ておりました」
「なるほど」
ユリウス様は、まじめに記録した。
聖鐘音質維持費。
現状、鍋音。
姉が赤ペンを止めた。
「それを監査記録に残すのですか」
「必要なら」
「必要ですか」
「音質維持費を請求している鐘が鍋音なら、必要です」
父が少しだけ笑った。
「正しいね」
私は、ほんの少し困った。
正しいのに、絵面がひどい。
ユリウス様は、別の紙を開いた。
「確認事項は三点です」
指を一本立てる。
「第一に、王都大神殿が王宮へ請求した儀礼維持費の内訳」
二本目。
「第二に、その費用のうち、聖女加護によって実現していた項目」
三本目。
「第三に、その加護が婚約者特典として処理されていた経緯」
応接室の空気が、少しだけ重くなった。
父が静かにうなずく。
「重い話になるね」
「はい」
「だが、必要だ」
「必要です」
そこで、セドリックが静かに入室した。
銀盆の上には、封筒が一通。
「王太子殿下より、追加照会でございます」
応接室の空気が、一段だけ軽くなった。
姉が赤ペンを置いた。
「この流れで頭髪でしょうか」
「件名は、聖女加護管理台帳の閲覧願いでございます」
意外だった。
セドリックは封を開いた。
『私は台帳を読まなかったことを反省している』
「思慮三倍、効いておりますね」
父がうなずいた。
「効いているね」
セドリックは続けた。
『ついては、頭髪保護特別枠の頁に、しおりを挟んでおいてほしい』
姉が赤ペンを止めた。
「読む前から、読む場所だけ決まっております」
ユリウス様は真面目に言った。
「目的意識はあります」
「監査院はお優しいですね」
「改善の兆候は、拾える時に拾います」
姉が書いた。
改善の兆候。
しおり、頭皮。
「お姉様」
「事実です」
私は封筒をセドリックへ戻した。
「神殿と監査の後で、頭皮箱へ」
「承知いたしました」
ユリウス様が、台帳へ視線を戻す。
「ローゼンベルク嬢。この台帳の写しを作る際、あなたの注釈も残せますか」
「注釈ですか」
「はい。運用解釈が重なった箇所。契約外の依頼が常態化していた箇所。婚約者特典として処理された経緯。数字だけでは、実態が欠けます」
私は、少しだけ息を止めた。
数字だけでは、実態が欠ける。
それは、私が何度も思っていたことだった。
五百五十件。
数字だけを見れば、ただの多さで終わる。
けれど、その一件ごとに、誰かの依頼があり、確認印があり、なし崩しの運用があり、私の時間があった。
「可能です」
私は答えた。
「ただし、時間をいただきます」
「急ぎません」
ユリウス様は言った。
「正確な記録は、急がせると壊れます」
姉の赤ペンが止まった。
母が静かにこちらを見る。
父も、何も言わなかった。
私は、台帳の角に指を置く。
「……承知いたしました」
返事が、少しだけ遅れた。
今度も、ユリウス様は待った。
急かさなかった。
私はその沈黙を、気まずいとは思わなかった。
神殿長猊下の沈黙とは違う。
これは、言葉が整うのを待つ沈黙だった。
ユリウス様は、最後に一枚の書類を差し出した。
「台帳写しの監査資料化に関する仮申請書です。内容を確認してください。署名は、読み終えてからで構いません」
姉が小さくうなずく。
「よい書類です」
「まだ読んでおりません」
「読ませる前提で渡している時点で、かなりよい書類です」
「評価基準が」
「現状の王宮基準では高評価です」
ユリウス様は、少しだけ目元を緩めた。
すぐに真面目な顔へ戻る。
「王宮基準では、確かに改善です」
姉が赤ペンを走らせた。
改善の兆候。
書類を読ませる。
「お姉様」
「本来は最低条件です」
「はい」
「ですが、現状では改善です」
「はい」
その時、セドリックがまた扉を開けた。
「お嬢様」
「今度は何でしょう」
「王都貴族街より、複数の相談状が届いております」
「内容は」
「舞踏会用の巻き髪湿気耐性加護、夜更かし後の肌つや維持加護、食べすぎても衣装がきつくなりにくい加護について、至急とのことです」
応接室が静かになった。
母が紅茶を置いた。
「俗ですね」
姉が赤ペンを構える。
「ですが、生活には直結します」
父が頷いた。
「貴族街も、そろそろ自分の実力を見る時間だね」
ユリウス様は台帳を見た。
「貴族社交快適化加護も、記録されていますか」
「はい」
「では、そちらもいずれ確認対象になります」
姉が赤ペンで書いた。
巻き髪も監査対象。
「お姉様、それは少し強いのでは」
「契約があれば対象です」
ユリウス様は真面目に頷いた。
「その通りです」
私は台帳を開く。
王宮。
楽団。
神殿。
監査院。
そして、貴族街。
順番に確認するものは、まだ山のようにある。
けれど、昨日までとは少し違う。
この台帳を、監査資料として扱おうとする人がいる。
数字だけでなく、実態まで記録しようとする人がいる。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「順番に確認いたします」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第8話は、王国監査院のユリウス・クラウゼ様登場回でした。
台帳は、監査資料になるようです。
次回、貴族街より相談状が殺到します。
巻き髪も、肌つやも、衣装の余裕も、契約範囲でございます。
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