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聖女加護、解約済みです。王太子殿下の頭皮は自己責任でございます【連載版】  作者: あゆと


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006 閑話 王宮は葬送曲でしたが、実家では温かい昼食でございます

王宮楽団の相談を終えました。

次は神殿……の前に、昼食でございます。


 ローゼンベルク公爵家の昼食は、温かかった。


 まず、それに少し驚いた。


 白い皿に注がれた鶏肉と根菜のスープ。

 焼きたての丸パン。

 香草入りのバター。

 薄く切った焼き野菜。

 蜂蜜を少し落とした温かい紅茶。


 特別な料理ではない。


 王宮の晩餐会のように、銀の皿が何段も重なるわけでもない。

 飴細工の白鳥もいない。

 食べる順番を間違えると隣の伯爵夫人に見られる、謎の前菜もない。


 ただ、湯気が立っている。


 それだけで、ずいぶん贅沢に見えた。


「エルミナ」


 母がやわらかく言った。


「まず、スープを」


「はい」


 私は匙を手に取った。


 ひと口。


 鶏の旨みと根菜の甘みが、舌の上にゆっくり広がった。


 熱すぎない。

 冷めてもいない。

 ちょうどよい。


 ちょうどよい温度のものを、ちょうどよい時に食べる。


 王宮では、それが意外と難しかった。


 儀礼の前に呼ばれる。

 殿下の公務前に呼ばれる。

 王妃陛下の偏頭痛対応に呼ばれる。

 神殿長の声の反響が少し弱いと呼ばれる。

 夜会の湿度が上がったと呼ばれる。


 気づけば、昼食は冷めている。


 冷めたものを食べることに、私は慣れていた。


 慣れていたことに、今、少しだけ気づいた。


「どうしたの」


 母が尋ねる。


「いえ」


 私はもう一度、スープを口に運んだ。


「温かいです」


 母は少しだけ目を細めた。


「昼食ですから」


「はい」


「昼食は、温かくてよいのです」


 その言い方があまりに当然だったので、私は返事が一拍遅れた。


「はい」


 姉がパンを割りながら言う。


「王宮では、昼食も契約外労働に巻き込まれていましたからね」


「お姉様」


「事実です」


 姉は香草バターを塗りながら続けた。


「食事中の呼び出し。休憩時間中の加護調整。夜会後の追加報告。婚約者特典という名の無制限対応。全部、次の契約では禁止条項に入れます」


 父が穏やかにうなずく。


「いいね。食事中の緊急対応は、本当に緊急の場合のみ。頭髪は含まない」


「父上」


「大事なことだよ」


 母も静かに紅茶を置いた。


「頭髪は、食後で十分です」


 私は少しだけ沈黙した。


 家族全員が、王太子殿下の頭髪を食後へ回した。


 強い家である。


 その時、食堂の扉が静かに開いた。


 セドリックである。


 銀盆の上には、封筒が一通。


 とても見覚えのある筆跡だった。


「お嬢様。王太子殿下より、頭髪保護特別枠に関する追加照会でございます」


 母がにこりと微笑んだ。


「食後に」


 セドリックは一礼した。


「承知いたしました」


 封筒は、食堂の外へ運ばれていった。


 私は匙を持ったまま、その流れるような処理を見送った。


「よろしいのですか」


 私が言うと、姉がパンをかじった。


「よろしくない理由がありますか」


「王太子殿下からの照会でございます」


「昼食中です」


「ですが、頭髪保護特別枠は」


「昼食中です」


 姉は強かった。


 父がスープを飲みながら言う。


「王家への対応は大切だ。けれど、王家の都合が、常にこちらの食事より優先されるわけではない」


 母がうなずく。


「エルミナ。あなたは、食べている途中で立たなくてよいのです」


 私は匙を見た。


 スープは、まだ温かい。


 立たなくてよい。


 そんな単純なことを、なぜか少し不思議に感じた。


 その時、扉の向こうで、小さく声がした。


「セドリック様、もう一通、王太子殿下より」


 セドリックの声が返る。


「食後です」


「しかし、至急と」


「食後です」


「頭髪が」


「食後です」


 沈黙。


 そして、遠ざかる足音。


 姉が紅茶を持ち上げた。


「セドリックは優秀ですね」


「はい」


 母が微笑んだ。


「あとで特別手当を出しましょう」


 父がうなずく。


「頭髪防衛手当かな」


「名前が嫌でございます」


 私は思わず言った。


 家族全員が、少しだけ笑った。


 笑い声は、小さかった。


 けれど、王宮の夜会で作られる笑顔とは違った。


 気を遣っていない。

 加護も入っていない。

 誰かの自尊心を支えるための笑いでもない。


 ただ、面白かったから笑った。


 私は少しだけ、肩の力が抜けた。


 その瞬間、食堂の窓の外から、かすかな音がした。


 どん。


 父が窓を見る。


「太鼓かな」


「調和中でしょうか」


 姉が言った。


 母が首をかしげる。


「少しだけ、勝っていましたね」


「はい」


 私は台帳を思い出す。


 王宮楽団音響調整加護。

 仮復旧。

 ただし、最低限のみ。


 完全に戻してはいない。


 戻す必要もない。


 練習する余地があり、自分で整える余地があり、少しずつ本来の音に近づいていく。


 それでよいのだと思う。


「エルミナ」


 父が言った。


「はい」


「午後は、少し休んでからにしよう」


「ですが、神殿から抗議文が」


「神殿長の後光は、昼食後まで弱くてもよい」


 姉が即座に言った。


「後光は、冷めません」


「お姉様」


「事実です」


 母がスープ皿を見た。


「スープは冷めます」


 私は少しだけ笑った。


「はい」


 神殿長の後光より、スープの温度が優先された。


 王宮にいた頃なら、考えられなかった順番である。


 けれど、その順番は、とても正しい気がした。


 私はスープを最後まで飲んだ。


 温かいまま。


 それからパンを食べた。


 香草バターは、ほんの少し塩気が強くて、根菜の甘いスープによく合った。


 食事が終わる頃、セドリックが再び現れた。


 今度の銀盆には、封筒が三通乗っている。


「食後でございます」


「ありがとうございます」


 私は口元を拭いた。


 セドリックは一通ずつ説明する。


「一通目。王太子殿下より、頭髪保護特別枠に関する追加照会」


「頭皮箱へ」


「承知いたしました」


「二通目。王都大神殿より、神殿長の後光低下に関する抗議文」


「確認いたします」


「三通目。王国監査院より、照会状でございます」


 私は顔を上げた。


「監査院」


「はい。聖女加護管理台帳について、確認したいとのことです」


 食堂の空気が、少しだけ変わった。


 姉が赤ペンではなく、食後の紅茶を置いた。


 父が封筒を見る。


「監査院が、台帳を」


「はい」


 セドリックは封筒を差し出した。


 私は受け取った。


 王国監査院。


 王宮や神殿、官庁の会計と契約を確認する機関である。


 封筒の文字は、整っていた。

 飾り気はない。

 金でもない。

 香りもついていない。


 ただ、まっすぐだった。


 私は封を開ける。


『聖女加護管理台帳について、王国運用の記録として、監査資料化の要否を確認したく存じます』


 監査資料化。


 私は、その言葉を見つめた。


 笑われるものではなく。

 隠すものでもなく。

 便利に使ったあと、読まずに積まれるものでもなく。


 確認すべき記録として。


 私は、自分の台帳にそっと手を置いた。


 母が何も言わず、紅茶を注ぎ足してくれた。


 姉は静かに言った。


「食後でよかったですね」


「はい」


 私は封筒の署名を見た。


 王国監査院。

 ユリウス・クラウゼ。


 知らない名だった。


 けれど、その照会状は、私の台帳を「便利な覚書」としてではなく、確認すべき記録として扱っていた。


 私はゆっくりと息を吸う。


「午後は、神殿の抗議文から確認いたします」


 セドリックが一礼した。


「では、頭皮箱は」


「そのままで」


「承知いたしました」


 食堂の外で、どこか遠く、太鼓がもう一度だけ鳴った。


 どん。


 今度は、少しだけ控えめだった。


 私は紅茶を飲んだ。


 温かかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は昼食閑話でした。

王宮も神殿も頭皮も、温かいスープの前では食後でございます。


次回、神殿長の後光が弱まっております。

そして、王国監査院からは、聖女加護管理台帳についての照会状が届きました。


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― 新着の感想 ―
セドリックへの特別手当「頭皮対応」で出るのかな。お姉様、きちんと命名しそう。 「食後です」のやり取りに、敗北。ずーっと笑ってました。このご家族、「小さく笑った」だけ? 私は、大爆笑だよ。止まらないよ…
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