005 王宮楽団の祝典行進曲が、だんだん葬送曲になっております
王宮楽団より、緊急相談が届きました。
太鼓だけは、なぜか元気です。
王宮楽団は、門前で止まっていた。
正確には、止められていた。
理由は簡単である。
全員を応接室へ通すには人数が多く、楽器も多く、太鼓がすでに強かった。
セドリックは、代表四名だけを応接室へ案内した。
王宮楽団長ベルトラン・メイゼル。
笛奏者。
弦奏者。
太鼓担当。
鍵盤奏者や他の楽団員たちは、玄関ホールで待機している。
ひゅる。
細い弦の音が、応接室の中で鳴った。
弦奏者が、自分の楽器を見つめている。
「申し訳ございません。まだ自分を探しております」
楽団長が目を閉じる。
「弦は、朝からずっとこうです」
姉が赤ペンを持ち直した。
「まず、そこからですね」
楽団長ベルトラン様は、白髪交じりの髪を後ろへなでつけた、細身の老紳士だった。
燕尾服はきちんとしている。
背筋も伸びている。
指先も美しい。
ただ、顔色は楽譜の余白のように白かった。
笛奏者は笛を胸に抱き、すでに泣きそうだった。
弦奏者は弓を握りしめ、自分の楽器と目を合わせられずにいる。
太鼓担当だけは、妙に姿勢がよかった。
大柄で、腕が太く、目がまっすぐである。
太鼓への信頼が深い顔をしていた。
「ローゼンベルク嬢」
楽団長は深く頭を下げた。
「王宮楽団は、危機にございます」
「どのような危機でしょう」
「祝典行進曲が」
楽団長は、震える声で言った。
「だんだん葬送曲になります」
応接室が静かになった。
父が穏やかに尋ねる。
「だんだん?」
「はい。最初の四小節までは祝典なのです」
「その後は」
「人生の終わりを感じます」
母が胸に手を当てた。
「重いですね」
「本来は、王太子殿下が入場なさる時の曲でございます」
「それが人生の終わりに」
「はい」
姉の赤ペンが走った。
祝典行進曲、葬送化。
私は聖女加護管理台帳を開いた。
「王宮楽団への加護を確認いたします」
該当項目をめくる。
「音程微調整加護。音が風に乗る加護。演奏後の余韻補助。指揮棒がはっきり見える加護。演奏者がなんとなく格好よく見える加護。鍵盤奏者の指先きらめき補助。笛の泣きすぎ抑制。弦の自信維持補助。太鼓だけ元気になりすぎない加護」
楽団長が両手で顔を覆った。
「最後のものです」
「はい」
「最後のものが、特に必要でした」
太鼓担当が、胸を張った。
「私は、いつも通り叩いております」
楽団長が叫んだ。
「いつも通りだから困るのだ!」
太鼓担当は傷ついた顔をした。
「楽団長。太鼓は楽団の心臓です」
「心臓が走りすぎて、全身が置いていかれている!」
姉が赤ペンで書いた。
心臓が先行。
「お姉様」
「本人たちの比喩です」
私は台帳を確認する。
「本来、太鼓だけ元気になりすぎない加護により、周囲の音量、速度、空気に合わせて、太鼓の存在感が調整されておりました」
太鼓担当が目を見開いた。
「私の熱意が抑えられていたのですか」
「はい」
「なんと……!」
彼は胸に手を当てた。
「では今の私は、本来の私」
「その可能性がございます」
楽団長が震えた。
「本来の君は、王宮に少し大きい」
太鼓担当は黙った。
笛奏者が、か細い声で言う。
「あの、私も、本来の私なのでしょうか」
私は台帳を見る。
「笛の泣きすぎ抑制加護が停止しております」
「やはり」
「はい」
「私の笛は、泣きすぎておりますか」
楽団長は目をそらした。
弦奏者も目をそらした。
太鼓担当だけが正直に言った。
「泣いている」
笛奏者は椅子に座り込んだ。
「私の笛が……」
母が薬草茶を用意する。
「まず、お飲みなさい。喉と心にやさしいものです」
「ありがとうございます……」
弦奏者が、小さく手を上げた。
「あの、私ども弦は」
「弦の自信維持補助が停止しております」
「自信でしたか」
楽団長がつぶやく。
「はい」
「技術ではなく」
「自信でございます」
弦奏者は弓を見つめた。
「朝から、弦が私を信じていない気がしておりました」
「逆でございます」
「逆」
「あなたが弦を信じておりません」
弦奏者は静かに泣いた。
ひゅる。
細い音が、応接室に落ちた。
太鼓担当がまっすぐ言った。
「弦は迷っている」
楽団長が目を閉じる。
「言わなくてよい」
姉が赤ペンを走らせる。
弦、自信不足。要練習および睡眠。
楽団長が、震える声で言った。
「本日は、実際にお聞きいただきたいのです」
「ここで演奏を?」
「いえ。応接室では、太鼓が強すぎます」
太鼓担当が少し誇らしげな顔をした。
「褒めていません」
楽団長が即座に言った。
「庭側で、冒頭だけ演奏いたします。言葉では伝わりません」
父が母を見る。
母が私を見る。
姉は赤ペンを構えた。
「短くお願いします」
「承知しました」
私たちは庭に面した広間へ移動した。
応接室より広く、音が逃げる。
玄関ホールで待っていた他の楽団員たちも、最低限の人数だけ広間へ入った。
鍵盤奏者は、指先を見つめている。
きらめき補助が止まっているため、今はただのよく動く指である。
太鼓担当は、庭側に置かれた太鼓の前へ立つ。
その姿だけは、たいへん頼もしかった。
頼もしすぎて、楽団長が少し怯えていた。
「では」
楽団長が指揮棒を上げる。
だが、誰も入らなかった。
静寂。
楽団長の眉が震える。
「なぜです」
笛奏者が小さく答えた。
「見えませんでした」
「私の指揮棒が?」
「はい。以前は、妙に見えました」
私は台帳を確認した。
「指揮棒がはっきり見える加護が停止しております」
楽団長は、自分の指揮棒を見た。
「これは、ただの細い棒だったのですか」
「はい」
「王宮楽団長の指揮棒です」
「はい。ただの細い棒に、役職が乗っております」
姉が赤ペンで書いた。
指揮棒、役職込み。
楽団長は、深呼吸した。
「では、少し大きく振ります」
「お願いいたします」
今度こそ、演奏が始まった。
最初の二小節は、確かに祝典だった。
王宮の大階段が見えるような、明るく華やかな旋律。
だが三小節目で、笛が少し泣いた。
四小節目で、弦が迷った。
五小節目で、太鼓が戦場を始めた。
どん。
どどん。
どどどん。
祝典は、遠征になった。
笛はその後ろで泣いた。
弦は帰り道を探した。
太鼓だけが、勝っていた。
「止めなさい!」
楽団長が叫んだ。
太鼓担当は、最後に一発だけ余韻を足した。
どん。
庭木の葉が、少し震えた。
沈黙。
とても長い沈黙。
母が静かに紅茶を置いた。
「お元気ですね」
太鼓担当は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
楽団長が言った。
姉の赤ペンが走る。
祝典行進曲。五小節目より戦場化。
「お姉様、戦場化ですか」
「実測です」
楽団長は震える手で楽譜を出した。
「前までは、こんなことはありませんでした。少し外れても、最後には美しくまとまったのです。余韻が包み、拍手が入り、王太子殿下の入場も、それなりに輝いて見えました」
「それなりに」
「はい」
楽団長は一瞬だけ気まずそうにした。
「演奏後の余韻補助が、すべてを美しく」
「確認いたします」
私は台帳をめくる。
「演奏後の余韻補助は、最後の音を美しく残す加護でございます」
楽団長がうなずく。
「それです」
「ただし、外れた音は」
「はい」
「美しく外れたまま残ります」
楽団長が止まった。
「外れたまま」
「はい」
「美しく」
「残ります」
楽団長はゆっくりと椅子に座った。
「それは、困ります」
「練習してください」
姉が即答した。
太鼓担当が、なぜか感動した顔で言った。
「外れても美しい。深いですね」
「深くありません」
楽団長が即座に言った。
その時、セドリックが封筒を持って入ってきた。
「王太子殿下より、王宮楽団宛ての追加照会でございます」
「なぜ今」
「楽団の皆様がこちらへ向かったと聞き、入場曲について確認したいとのことです」
楽団長の顔色が、さらに白くなった。
「こちらへ向かっただけで」
「はい」
「早いですね」
「頭髪と登場曲については、殿下の反応が早いようでございます」
セドリックは封を開いた。
『私は過度な演出を求めているわけではない。王国外交上、最低限の威厳を確認している』
広間が静かになった。
「思慮三倍、効いておりますね」
「はい」
言い方は整っている。
内容は登場曲である。
セドリックは続けた。
『ついては、入場時の期待感補助は、少し多めで願いたい』
「最低限とは」
姉が赤ペンを走らせた。
最低限の定義、要確認。
私は台帳を閉じた。
「王太子殿下の入場時期待感補助は、王家中枢分ではございません」
楽団長が顔を上げる。
「では」
「個人演出でございます」
「王太子殿下でも」
「個人演出でございます」
父が静かに言った。
「殿下は、王家中枢分と個人演出分の区別を」
姉が赤ペンを置いた。
「お読みになっていないのでしょうね」
私はうなずいた。
「はい。お読みになっていれば、そもそも婚約破棄をなさいません」
広間が、しんとした。
太鼓担当が小さく言った。
「深いですね」
「深くはありません」
楽団長がまた止めた。
母が首をかしげる。
「では、王宮公式行事で最低限必要な楽団補助は、どこまでですか」
「王宮公式行事の最低限音響調整のみ、王家中枢分として仮復旧できます」
楽団長の顔が明るくなった。
「では、登場曲や演奏者の見栄えは」
「別料金でございます」
「別料金」
「はい。音程と、格好よさは、別契約でございます」
鍵盤奏者が、控えめに手を上げた。
「指先のきらめきは」
「別料金でございます」
「指揮者の燕尾服が、それっぽく揺れる補助は」
「別料金でございます」
「演奏者がなんとなく格好よく見える加護は」
「別料金でございます」
「拍手が自然に始まる加護は」
「別料金でございます」
楽団長が両手で顔を覆った。
「王宮楽団の半分は、別料金でできていたのですね」
「半分までは申しません」
私は台帳を確認した。
「三割ほどです」
「三割」
「はい」
「思ったより多い」
「はい」
姉が赤ペンで書いた。
格好よさ三割、別契約。
楽団長は深く息を吐いた。
「では、最低限で構いません。祝典が葬送にならない範囲を」
「承知いたしました」
「太鼓は」
楽団長が太鼓担当を見た。
「太鼓だけ元気になりすぎない加護を、どうか」
太鼓担当が、少しだけ寂しそうな顔をした。
「私は、抑えられるのですね」
「調和でございます」
「調和」
楽団長が力強く言った。
「君に今もっとも必要な言葉だ」
太鼓担当は、深くうなずいた。
「承知しました。私は、調和します」
姉が赤ペンで書いた。
太鼓、調和予定。
私は聖女加護管理台帳に印を入れる。
王宮楽団音響調整加護。
仮復旧。
ただし、王宮公式行事の最低限に限る。
王太子殿下の個人登場曲補助は別契約。
演奏者の見栄え補助、指先きらめき、拍手増量、期待感補助は別料金。
練習の代替不可。
金色の線が、楽団員たちへ細く伸びた。
太鼓担当の肩から、少しだけ力が抜けた。
笛奏者は、笛を見て息を整える。
弦奏者は、弓を握り直した。
楽団長の指揮棒が、少しだけ見やすくなった。
「もう一度、四小節だけ」
楽団長が言った。
今度の音は、先ほどよりずっと整っていた。
笛は泣かなかった。
弦は迷わなかった。
太鼓は、元気だが、帰ってきた。
祝典行進曲は、ちゃんと祝典に戻っていた。
楽団長の目に涙が浮かぶ。
「戻りました……!」
「完全には戻しておりません」
「はい」
「練習してください」
「はい!」
楽団長たちは、契約相談書を抱えて帰っていった。
太鼓担当は、帰り際にもう一度だけ胸に手を当てた。
「私は、調和します」
「お願いします」
楽団長が心から言った。
笛奏者は、泣かない笛を大事そうに抱えていた。
弦奏者は、まだ少し自分を探していたが、足取りは来た時よりましだった。
王宮楽団が屋敷の門を出る。
遠くで、短い音がした。
ぱあ。
ひゅん。
どん。
太鼓は、まだ少し勝っていた。
姉が赤ペンを置いた。
「調和には時間がかかりますね」
「はい」
私は聖女加護管理台帳を閉じた。
その時、セドリックが新しい銀盆を持って入ってきた。
封筒ではなかった。
湯気の立つスープ皿だった。
「お嬢様。昼食のご用意が整っております」
私は少しだけ瞬きをした。
「昼食」
「はい」
母がにこりと微笑んだ。
「王宮は待たせてもよろしいのです。温かいスープは待ちません」
父も静かにうなずく。
「契約書は冷めないからね」
姉が赤ペンを片づけた。
「頭皮も、食後でよろしいでしょう」
「お姉様」
「食前に持ち込む話題ではありません」
その判断は、たいへん正しいと思った。
私は台帳にしおりを挟んだ。
「では」
少しだけ迷ってから、私は言った。
「昼食をいただきます」
王宮楽団の祝典行進曲は、ようやく祝典へ戻った。
なら、私もそろそろ、人間らしく昼食に戻ってよいのかもしれない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第5話は、王宮楽団の音響調整回でした。
太鼓だけ元気すぎる場合は、調和が必要でございます。
次回は、少しだけ昼食回です。
王宮は待たせてもよろしいのです。
温かいスープは待ちません。
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