003 王妃陛下は、謝罪文に「しかし」を使いません
王妃陛下が、ローゼンベルク公爵家へ直々にいらっしゃいました。
謝罪文に「しかし」を使わない方は、話が早いのでございます。
王妃陛下は、午後きっかりにいらっしゃった。
早すぎず。
遅すぎず。
先触れの時刻から、一分もずれていない。
その時点で、私は少しだけ感心した。
レオナール殿下なら、おそらく三十分ほど遅れてから、「王族の到着とは、場を整えるための時間も含む」とおっしゃる。
そして五分後に、頭皮関連の追伸が届く。
王妃陛下は違った。
馬車は静かに止まり、扉が開き、護衛が必要以上に騒ぐこともなく、王妃陛下は屋敷へ入ってこられた。
銀の扇。
深い青のドレス。
揺れない背筋。
昨夜の舞踏会場では、王太子殿下の頭部に視線を吸われていたため少し分かりにくかったが、王妃陛下はやはり王妃陛下だった。
ただし。
王妃陛下が扇を閉じる。
ぱちん。
音は上品だった。
昨夜までなら、その一音で会議室の三割が黙った。
今日は、よくできた扇が閉じた音である。
けれど、応接室は十分に静かになった。
姉が小声で言った。
「威圧補助なしでも効いておりますね」
「王妃陛下ご本人の実力かと」
「記録しておきます」
「お姉様」
「実務です」
王妃陛下は私たちの前まで進み、深くはないが、明確に礼をした。
「エルミナ・ローゼンベルク嬢」
「はい」
「昨夜の件につき、王家を代表して正式に謝罪します」
私は静かに礼を返した。
「承ります」
「あなたが三年間、王太子と王宮に提供していた聖女加護を、王家は正しく評価していませんでした。王太子は報告書を読まず、私は読んでいながら、あなたに甘え続けました」
その場にいた全員が、少しだけ静かになった。
父は王妃陛下を見ている。
母は紅茶を置いている。
姉は赤ペンを持っている。
セドリックは、なぜか頭皮箱を少し遠ざけた。
王妃陛下の謝罪には、言い訳がなかった。
私は問いかけた。
「王妃陛下。月次加護報告書は、読まれておりましたね」
「読んでいました」
「内容も理解されておりましたね」
「ええ」
「では、知らなかったとは言えません」
「その通りです」
王妃陛下は、まっすぐに答えた。
声は落ち着いている。
逃げも、飾りもない。
私は聖女加護管理台帳を開いた。
「確認いたしました」
「それだけ?」
「はい」
「責めないのね」
「責めることと、契約条件を確認することは別でございます」
王妃陛下の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「あなたらしいわ」
「恐れ入ります」
姉が小さく赤ペンを動かした。
謝罪文、口頭謝罪ともに「しかし」なし。
王妃陛下はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「オリヴィア嬢。その赤字は?」
「記録でございます」
「合格かしら」
「謝罪としては合格です。契約相談はこれからです」
「手厳しいわね」
「契約ですので」
王妃陛下はうなずいた。
「では、契約の話をしましょう」
父が静かに書類を出した。
「王妃陛下。まず、再契約の対象を確認いたします」
「ええ」
「王家中枢分のみ、でよろしいですね」
「その通りです」
王妃陛下は迷わなかった。
「王城の最低限空調。王族の健康維持。重要書類の誤字防止。国璽を押す時の手ぶれ軽減。外交晩餐会での食器曇り防止。私の偏頭痛軽減。それから」
王妃陛下は、一度だけ扇を見た。
「扇を閉じる音が妙に怖く響く威圧補助と、『黙りなさい』が三割増しで効く声圧補助」
姉が赤ペンで、すでに丸をつけていた。
「王国運営上、必要と判断しております」
「ありがとう。話が早いわ」
母が紅茶を置いた。
「昨夜から、そちらは停止中でございますね」
「ええ。扇を閉じても、会議室が少ししか黙りませんでした」
「少しは黙るのですね」
「そこは私の努力です」
「さすがでございます」
王妃陛下は、ほんの少しだけ疲れた顔をした。
「けれど、王宮会議室では足りません」
「違いますか」
「黙らせる相手が多すぎます」
母が紅茶を置いた。
「では、公務ですね」
「ええ。かなり公務です」
姉が赤ペンで、王妃陛下の契約項目に小さく丸をつけた。
王国運営上、必要。
「ただし」
王妃陛下は扇を開いた。
「補助がなくても、黙らせる努力はします」
「さすがでございます」
「そこまで加護に任せたら、王妃ではなく扇が本体になりますから」
父が静かにうなずいた。
「それは避けるべきですね」
「ええ」
私は台帳に記録した。
王妃陛下の威圧補助。
必要。
ただし本人性能も高い。
次に、王妃陛下は少しだけ表情を引き締めた。
「王太子殿下個人分は、最低限に絞ります」
「はい」
「最低限の健康維持と、発言前思慮補助三倍のみ、緊急仮復旧で」
「承知いたしました」
私は聖女加護管理台帳へ、仮復旧の印を入れた。
薄い金色の線が、台帳の上を一度だけ走る。
遠く王宮の方角へ、細い祈りの糸が伸びた。
王太子殿下の健康維持。
発言前思慮補助、三倍。
この二項目だけが、仮復旧した。
「発動を確認いたしました」
「ありがとう」
「頭髪保護特別枠、寝癖抑制、寝起き声爽やか補助、自尊心確認時の侍女微笑み補助は、審査後でございます」
「ええ」
「特に頭髪保護特別枠は、謝罪文の再提出と月次加護報告書の読解確認後でよろしいでしょうか」
「承知しています」
父が静かにうなずいた。
「頭髪だけではありません」
王妃陛下が父を見る。
父は穏やかに続けた。
「信用です」
王妃陛下の表情が、少しだけ変わった。
「王太子殿下は、確認印を押しながら報告書を読んでいませんでした。契約相手としての信用を失っています」
「ええ」
「王家と契約することは可能です。ですが、王太子殿下個人の加護をどこまで戻すかは、別途審査が必要です」
「厳しいわね」
「髪は戻っても、信用はすぐには戻りませんので」
王妃陛下は、静かにうなずいた。
「その通りです」
その時、セドリックが控えめに入室した。
銀盆の上には、小さな封筒が一通。
「お嬢様。王宮より、速報でございます」
王妃陛下の扇が止まった。
「内容は」
「王太子殿下が、鏡の前で『今日の私はどうだ』とお尋ねになったとのことです」
応接室が静かになった。
昨夜、停止した加護を私は思い出す。
殿下の自尊心確認時に、侍女が自然に微笑む意欲維持補助加護。
停止済みでございます。
王妃陛下は、ゆっくりと目を閉じた。
「続けて」
「侍女一同、自然に微笑む意欲維持補助が停止中のため、沈黙」
姉の赤ペンが止まった。
「沈黙」
「はい」
「正直ですね」
「補助がございませんので」
王妃陛下は、扇を閉じた。
ぱちん。
やはり音は上品だった。
けれど、部屋は静かになった。
「その後、レオナールは?」
セドリックは書面に視線を落とした。
「殿下はしばらく沈黙されたのち、『正直でよい』とおっしゃったそうです」
応接室の空気が、わずかに変わった。
私は聖女加護管理台帳を確認する。
「発言前思慮補助三倍の初期効果が、わずかに出ております」
姉が赤ペンで書いた。
改善の兆し。
頭髪は未確認。
父が穏やかに言った。
「仮復旧の価値はありそうだね」
「はい」
王妃陛下は深くうなずいた。
「三倍のままで」
「承知いたしました」
私は、発言前思慮補助の横へ追記した。
三倍。
根拠あり。
王妃陛下は深く息を吐いた。
「息子の成長を、侍女の沈黙で知る日が来るとは思いませんでした」
「人生には、さまざまな確認方法がございます」
「慰めになっていないわ」
「恐れ入ります」
契約の確認は、思ったより早く進んだ。
王家中枢分は、三十日間の緊急契約。
正式契約は監査後。
料金は緊急復旧費込み。
婚約者特典は適用されない。
王太子殿下個人分は、最低限の健康維持と発言前思慮補助三倍のみ緊急仮復旧。
頭髪保護特別枠は、謝罪文再提出と月次加護報告書の読解確認後。
寝癖抑制は、頭髪保護とは別料金。
寝起き声爽やか補助は、審査保留。
王妃陛下は最後の項目で少しだけ眉を寄せた。
「寝起き声は保留なのね」
「はい」
「外交に影響は?」
「朝の外交を避ければ問題ございません」
「避けさせます」
「ご判断が早くて助かります」
そこで、セドリックが再び控えめに入室した。
銀盆の上に、今度は封筒が一通。
その場にいた全員が、差出人を見る前に少しだけ察した。
王妃陛下が目を閉じる。
「レオナールね」
「はい。王太子殿下より、追加の書状でございます」
「読み上げなさい」
セドリックが私を見た。
私はうなずいた。
「お願いいたします」
セドリックは封を切り、無表情で読み上げた。
『母上へ。もしエルミナが怒っているなら、私から改めて謝罪する用意がある』
王妃陛下が少しだけ頷いた。
「続けて」
『ただし、頭髪保護特別枠については、外交上、時間との勝負である』
王妃陛下の扇が閉じた。
ぱちん。
やはり音は上品だった。
それでも、部屋は静かになった。
「……黙りなさい」
王妃陛下の声は静かだった。
そして、十分に怖かった。
部屋の中にはレオナール殿下はいない。
いないのに、少し黙った気がした。
姉が小さく赤ペンを動かした。
声圧補助なし。なお有効。
王妃陛下は、涼しい顔でセドリックに告げた。
「続きは読まなくて結構です」
「承知いたしました」
「その文書は?」
私は静かに言った。
「頭皮箱へ」
セドリックは一礼した。
「承知いたしました」
王妃陛下がこちらを見た。
「その箱、正式名称は?」
「王太子殿下の頭皮関連暫定箱でございます」
「暫定なのね」
「はい」
「永久にならないよう、母として努力します」
「よろしくお願いいたします」
姉が赤ペンで小さく書いた。
王妃陛下、改善意思あり。
王妃陛下はそれを見て、少しだけ笑った。
「記録されるのは怖いわね」
「記録がないものほど、後で責任者がいなくなりますので」
父が言った。
王妃陛下は、深くうなずいた。
「本当に、その通りね」
そして、王家以外の加護は各自契約。
これが、王妃陛下の判断だった。
貴族令嬢の巻き髪も。
王宮楽団の音程も。
側近団の威厳演出も。
神殿儀礼の後光も。
王家の契約からは外れる。
切り捨てではない。
責任の切り分けである。
無料で続けるな。
相手が馬鹿になる。
父の言葉が、応接室の中で静かに形になっていた。
その時、セドリックが新たな封筒を持って入室した。
「宰相府より、追加報告でございます」
王妃陛下は、扇を開いたまま止まった。
「今度は何です」
「王太子側近団より、剣を抜いた際の威厳演出音、通称シャキーン音が発生しないとの相談が再提出されました」
応接室が静かになった。
「再提出?」
「はい。初回は『剣を抜いた時の音がしない』との相談でしたが、今回はより具体的です」
「何と」
「『いつもの、あの、騎士らしいシャキーンがない』と」
王妃陛下は目を閉じた。
「剣は抜けるのですね」
「抜けます」
「戦闘に支障は」
「現時点では不明。ただし、本人たちの士気に大きな支障が出ております」
父が静かに言った。
「剣ではなく、威厳の問題だね」
「はい」
私は聖女加護管理台帳を開いた。
「側近団の威厳演出補助でございます」
姉が赤ペンを構えた。
「次は、それですね」
王妃陛下は額に手を当てた。
「王家中枢分に、偏頭痛軽減を入れておいて正解だったわ」
「はい」
私はうなずいた。
「では、順番に確認いたします」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第3話は、王妃陛下との正式謝罪と再契約相談でした。
謝罪文に「しかし」を使わない方は、話が早いのでございます。
次回、王太子側近団より相談です。
剣は抜けます。
ただし、シャキーン音は戻りません。
マントはなびかず、名乗りも響きません。
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