002 実家に戻りました。王太子殿下の頭皮箱ができました
王宮から、謝罪文と再契約相談が届きました。
まずは、赤入れから始めます。
ローゼンベルク公爵家の朝は、静かだった。
王宮の鐘は聞こえない。
朝一番に殿下の寝癖を確認する必要もない。
三年間で初めて王宮の呼び鈴を気にせず眠った私は、すっきりと目を覚ました。
「おはよう、エルミナ。顔色がいいね」
朝食室に入ると、父が穏やかに笑った。
父、アルベルト・ローゼンベルク公爵は、声も表情も穏やかだ。
ただし、契約書を読む時だけ目が裁判所になる。
母は私の席に温かいスープを置いた。
「まず食べなさい」
「ですが、王宮からの書類が」
「書類は逃げません」
そこで、執事のセドリックが静かに口を挟んだ。
「王太子殿下の書類は増えます」
母は一瞬だけ目を閉じた。
「なら、なおさら先に食べなさい」
「承知いたしました」
朝食室のテーブルには、封筒が三つ並んでいた。
王妃陛下からの正式な謝罪文。
レオナール殿下からの、謝罪文らしき頭髪嘆願書。
宰相府の被害速報。
そして、その横には姉がいた。
姉、オリヴィア・ローゼンベルク。
王都法務院にも名を知られる契約文書の専門家である。
姉は、すでに朝食を終えていた。
皿はきれいに空になり、紅茶も半分ほど減っている。
そして右手には、赤ペンがあった。
「では、王太子殿下の文書から確認します」
「お姉様、早いですね」
「謝罪文に“しかし”が三回あります」
「朝食を終えた理由が分かりました」
「胃に悪い文書は、食後に読むべきです」
姉は赤ペンの先で、一文を指した。
『このたびは、私の不徳により貴女を傷つけたこと、深く謝罪する。しかし、私にも真実の愛を信じる気持ちがあり』
「一つ目の“しかし”です」
「はい」
「謝罪の直後に“しかし”を置く者は、まだ謝っておりません」
「勉強になります」
「次です」
『王太子として、王国の未来を考えた結果でもあった。しかし、結果として貴女の加護を軽んじたことは』
「二つ目です。王国の未来を考えた者は、月次加護報告書も読んでください」
「おっしゃる通りでございます」
「そして、三つ目」
『頭髪保護特別枠については、可能であれば早急な再契約を願いたい。しかし、これは私個人の都合ではなく、外交上の品位維持に関わる問題で』
姉は目を伏せた。
「ここで“しかし”を使う胆力だけは、王族として評価してもよろしいかもしれません」
「評価なさるのですか」
「いいえ。不備です」
姉はその一文の横に、赤く大きく書いた。
謝罪文ではなく、頭髪嘆願書。
私は少しだけ視線を逸らした。
レオナール殿下の文書は、全体としては昨夜よりだいぶましだった。
謝罪の言葉もある。
私を見捨てたと認める言葉もある。
ただし、文面の四割ほどが頭髪に関する内容だった。
人は追い詰められると、本当に大切なものを書く。
殿下にとって、それは信用ではなく、まだ頭皮に近い場所にあったらしい。
「お嬢様」
控えめな声とともに、セドリックが新しい封筒を運んできた。
銀盆の上には、一通の封筒。
『頭髪保護特別枠に関する追加確認』
私は沈黙した。
姉も沈黙した。
セドリックだけが平然としている。
「王太子殿下より、本日二通目でございます」
「二通目」
「はい。現在、頭髪関連文書は合計二通でございます」
「朝の時点で、すでに分類が必要ですね」
「必要かと存じます」
母がスープ皿を置いた。
「髪は減っているのに」
朝食室が止まった。
母は柔らかく微笑んでいる。
元高位聖女である母は、王宮の甘えに対してまったくやわらかくない。
セドリックが銀盆を傾けずに尋ねる。
「お嬢様。頭髪関連文書の専用分類を作成いたしますか」
「専用分類」
「はい。通常の謝罪文、再契約相談、頭髪関連を分けておくと便利です」
姉が頷く。
「妥当です。頭髪関連だけ文書量が多くなりそうですから」
「お姉様」
「文書量で判断しています」
「それが一番つらいです」
セドリックは真面目な顔で続けた。
「分類名は、王太子殿下の頭皮関連暫定箱でよろしいでしょうか」
「暫定なのですね」
「永久分類にするには、まだ時期尚早かと」
「そうですね。暫定でお願いいたします」
「承知いたしました」
母が首をかしげた。
「長いわね」
「正式名称でございます」
「頭皮箱でよろしいでしょう」
セドリックは一礼した。
「略称、頭皮箱。記録いたしました」
「記録しないでください」
「お嬢様。分類運用上、略称の記録は必要でございます」
私は反論を諦めた。
王太子殿下の頭皮は、我が家で正式に箱を得てしまった。
父が、王妃陛下の封筒を手に取った。
「次は、王妃陛下の文書を確認しよう」
封蝋は王妃陛下のもの。
筆跡は落ち着いている。
文面は簡潔だった。
姉が読み進める。
「謝罪文に“しかし”がありません」
「合格ですか」
「謝罪文としては合格です。王妃陛下は、謝罪の文法をご存じです」
「殿下と違いまして」
「そこは比べない方がよいでしょう」
父が書面を受け取り、静かに目を通した。
「正式な謝罪文。外部委託契約の相談希望。王家中枢分の再契約希望一覧。手順は正しいね」
「王妃陛下らしいですね」
「うん。ただし」
父の声が、少しだけ低くなった。
「手順が正しいことと、無罪であることは違う」
朝食室が静かになった。
母が紅茶を置く。
「王妃陛下は、月次加護報告書を読んでいたのね」
「はい。質問を受けたこともございます」
「では、知らなかったとは言えないわね」
「はい」
王妃陛下は、読んでいた。
理解していた。
必要だと判断していた。
そして、そのまま私に任せ続けた。
悪意ではない。
けれど。
「王妃陛下は、契約相手として信用できます」
姉がこちらを見た。
「理由は?」
「報告書を読まれていました。内容を理解し、今回も正式な謝罪文と契約相談状を出しておられます」
「でも、無料で使い続けたわ」
「はい」
私はうなずいた。
「ですから、無罪ではありません」
父が小さく笑った。
「それでも、王太子殿下よりは信用できる?」
「はい」
「評価基準が低いね」
「現状、比較対象が殿下ですので」
「それは仕方ない」
母が、私の前に温かいスープを押し出した。
「食べなさい。冷めるわ」
「はい」
「契約書は冷めても読めます。スープは冷めると悲しくなります」
「お母様らしいご判断です」
「加護で温め直す必要もないでしょう?」
「今は無料提供期間外ですので」
「そうね」
私はスープを口にした。
温かかった。
王宮の朝食は、いつも忙しかった。
殿下の式典。
王妃陛下の頭痛。
神殿からの呼び出し。
舞踏会場の湿度。
ミリア様の発光量。
けれど、今朝は違う。
父が書類を読み、母が紅茶を注ぎ、姉が赤ペンを握り、セドリックが頭皮箱を準備している。
とても安心する光景だった。
最後だけ少しおかしい気もするが、概ね安心である。
父が王妃陛下の再契約希望一覧を開いた。
「王城の最低限空調。王妃陛下の偏頭痛軽減。重要書類の誤字防止。国璽を押す時の手ぶれ軽減。外交晩餐会での食器曇り防止」
姉が赤ペンを構える。
「ここまでは、王家中枢として理解できます」
「続きがあります」
父は、少しだけ目を細めた。
「扇を閉じる音が妙に怖く響く威圧補助。『黙りなさい』が三割増しで効く声圧補助」
母が紅茶を置いた。
「王妃陛下らしい項目ですこと」
「公務でしょうか」
「かなり公務だと思います」
姉が赤ペンで小さく丸をつけた。
王国運営上、必要。
「次です」
父が読み上げる。
「王太子殿下の発言前思慮補助。三倍」
母が頷いた。
「妥当ね」
父も頷いた。
「妥当だね」
セドリックも、銀盆を持ったまま頷いた。
「妥当かと」
私は王太子殿下の名誉のために、何か弁護しようとした。
何も出てこなかった。
「妥当でございます」
四対零で、三倍は妥当となった。
姉がその横に赤ペンで小さく書き込む。
要経過観察。
「お姉様」
「発言前思慮補助は、倍率を上げればよいものでもありません」
「おっしゃる通りでございます」
「まず読解力が必要です」
「そちらは別契約でしょうか」
「おそらく」
父が静かに目を伏せた。
「王太子殿下の読解力補助加護」
母が首を横に振る。
「それは本人の努力でよろしいのでは?」
「そうだね」
あっさり却下された。
殿下には、頑張っていただきたい。
ほどなくして、セドリックが戻ってきた。
今度は、小さな箱を銀盆に載せている。
「お嬢様」
「今度は何でしょう」
「王太子殿下より、小箱が届きました」
「小箱」
「はい。中身は、昨夜拾われた金髪一房と、手紙でございます」
朝食室全体が、静止した。
姉が、ゆっくりと赤ペンを置く。
「髪を送ってきたの?」
「はい」
父は目を閉じた。
「発言前思慮補助は三倍で足りるかな」
母が紅茶を飲んだ。
「足りないかもしれませんね」
私は小箱を受け取った。
開けると、中には丁寧に包まれた金髪が一房と、殿下の手紙が入っていた。
『昨夜拾った髪である。何かの術式に使えるなら、頭髪保護特別枠の復旧に役立ててほしい』
私はそっと箱を閉じた。
「セドリック」
「はい」
「頭皮箱へ」
「承知いたしました」
セドリックは小箱を恭しく受け取った。
「分類は、返却不可でよろしいでしょうか」
「はい」
姉が赤ペンを取った。
「王太子殿下には、髪を送るより契約書を読むよう返信しましょう」
「その通りでございます」
父が封筒を一通、机の中央に置いた。
「最後に、宰相府からの被害速報を確認しよう」
封筒を開くと、中には簡潔な一覧が入っていた。
王宮楽団、音程不安定。
王城空調、湿度上昇。
王族専用浴室、泡立ち低下。
神殿儀礼準備班、光量不足を確認中。
貴族令嬢数名、巻き髪維持に不安あり。
姉が読み上げるたびに、赤ペンが小さく動いた。
「神殿儀礼準備班、光量不足を確認中」
「後光演出補助でしょうか」
「おそらく」
「緊急性は?」
「低いです」
父が頷いた。
「神殿は後でいい」
さらに次の行。
『王太子側近団より、剣を抜いた際の金属音が発生しないとの相談あり』
姉の赤ペンが止まった。
「金属音」
父が静かに言った。
「剣は抜けているのかい」
「抜けております」
「では、困っているのは剣ではなく、音だね」
「はい」
母が紅茶を置いた。
「王太子側近団は、音で困っているの?」
「今のところは」
私は聖女加護管理台帳を開いた。
「側近団の威厳演出補助の範囲でございます」
「具体的には?」
「剣を抜いた時の適切な金属音補助、マントなびき補助、鎧きらめき補助、名乗り声反響補助、決めポーズ時の姿勢補正などでございます」
朝食室が、静かになった。
父が、少しだけ目を細める。
「剣を抜く実力はある」
「はい」
「でも、剣を抜いた時に格好よく聞こえる実力は」
「加護でございます」
母が紅茶を置いた。
「マントは?」
「加護でございます」
「鎧のきらめきは?」
「加護でございます」
姉が赤ペンで、宰相府の速報の横に書き込んだ。
威厳の内訳、要確認。
父は静かにうなずいた。
「なるほど。側近団は今、剣ではなく雰囲気を失っているんだね」
「はい」
「それは大変だ」
「大変でございます」
「主に、ご本人たちの心が」
「はい」
私は聖女加護管理台帳を閉じかけて、もう一度開いた。
王宮は、思った以上に加護でできていた。
王太子殿下の頭皮だけではない。
神殿の光。
楽団の音程。
貴族令嬢の巻き髪。
側近団のシャキーン。
いったい三年間、私は何を支えていたのでしょう。
母が、私の空になったスープ皿を見た。
「エルミナ」
「はい」
「おかわりは?」
私は少しだけ瞬きをした。
それから、うなずいた。
「いただきます」
「よろしい」
母は満足そうに微笑んだ。
食後の紅茶が半分ほど減った頃、セドリックが新たな封筒を運んできた。
「お嬢様。王妃陛下より、先触れでございます」
「先触れ?」
「本日午後、ローゼンベルク公爵家へ正式にお越しになるとのことです」
姉の赤ペンが止まった。
父が静かに封筒を受け取る。
「王妃陛下が、直々に」
「はい」
母は紅茶を置いた。
「なら、朝食をきちんと済ませましょう」
「お母様」
「謝罪を受けるにも、体力は必要です」
私は聖女加護管理台帳を閉じた。
王妃陛下は、謝罪文に“しかし”を使わなかった。
では、直接お会いした時、何をおっしゃるのか。
そして、王家はどこまでを再契約し、どこからを切り離すのか。
確認するのは、朝食を終えてからでございます。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第2話は、実家と書類整理回でした。
王太子殿下の頭皮関連文書は、頭皮箱に入りました。
次回、王妃陛下が直々にいらっしゃいます。
謝罪文に“しかし”を使わない方は、話が早いのでございます。
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