012 侍女の微笑みが戻りません。殿下の自尊心は別契約でございます
エルミナは、王妃陛下の招きで王城へ向かいます。
婚約者としてではなく、契約相手として。
王城へ向かう馬車の窓から、白亜の城が見えた。
一週間前まで、私はあの城の中で暮らしていた。
朝は王宮の鐘に合わせて祈り、昼は報告書を整え、夜は結界の乱れを確認する。殿下の寝癖も、王城の湿度も、神殿長猊下の後光も、楽団の音程も、なぜか私の台帳に入っていた。
今、私は同じ城へ向かっている。
けれど、立場は違う。
王太子殿下の婚約者ではない。
王宮に呼び出される便利な聖女でもない。
契約相手である。
その違いを、私は馬車の中で何度か確認した。
「お嬢様」
向かいに座るセドリックが静かに言った。
「頭皮箱は、屋敷に残しております」
「ありがとうございます」
「第二頭皮箱も、鍵をかけて保管いたしました」
「第二の方も」
「はい。王太子殿下の希望が、箱から漏れないように」
「希望は漏れるものなのですね」
「殿下の場合は、追伸として漏れます」
たいへん正確だった。
私は膝の上に置いた聖女加護管理台帳へ手を添えた。
今日確認するのは、王家中枢分の仮契約である。
王城の最低限空調。
王妃陛下の偏頭痛軽減。
重要書類の誤字防止。
国璽を押す時の手ぶれ軽減。
外交晩餐会での食器曇り防止。
王太子殿下の健康維持。
発言前思慮補助三倍。
そして、王妃陛下から追記されていた項目。
王太子付き侍女の表情が硬い件。
私は台帳の該当しそうな項目を思い出した。
王太子殿下の自尊心確認時に侍女が自然に微笑む意欲維持補助加護。
正式名称である。
正式名称であってほしくなかった。
馬車が王城の門をくぐる。
衛兵たちは礼をした。
以前より、少し静かだった。
鎧のきらめきは控えめ。
マントも、必要以上にはなびかない。
遠くから聞こえる楽団の音も、以前より整っている。
ただ、太鼓だけが少し勝っていた。
どん。
控えめに勝っていた。
「調和途中ですね」
セドリックが言った。
「はい」
私はうなずいた。
王城は、まだ完全には戻っていない。
けれど、派手すぎたものが少し減り、必要なものだけが残り始めている。
それは、悪くない変化に見えた。
私が最初に通されたのは、王妃陛下の応接室だった。
銀の扇。
深い青のドレス。
整った背筋。
王妃陛下は、以前と変わらず美しかった。
ただ、机の上に置かれた書類の山は、以前より少し現実的だった。
光る飾り紙ではなく、契約書。
儀礼用の美辞麗句ではなく、確認表。
そして、赤い付箋が大量についている。
王妃陛下は、私を見ると静かにうなずいた。
「来てくれてありがとう、エルミナ嬢」
「お招きいただき、恐れ入ります」
「本日は、王家中枢分の仮契約が正しく機能しているか確認していただきたいのです」
「承知いたしました」
私は椅子に座り、聖女加護管理台帳を開いた。
王妃陛下は、すぐに本題へ入った。
「王城の最低限空調は安定しています。以前ほど快適ではありませんが、会議室で人が湿気に負けることはなくなりました」
「最低限であれば正常でございます」
「楽団も、祝典行進曲が葬送曲へ戻ることはなくなりました」
「戻る方向が不吉でございますね」
「太鼓はまだ時々、勝っています」
「調和訓練中でございます」
王妃陛下は小さく息を吐いた。
「神殿長の後光は、まだ窓頼みです」
「神殿側の契約書確認待ちでございます」
「貴族街の巻き髪は」
「共同契約の仮申請を受けております」
「王太子側近団のシャキーンは?」
「重厚型で申請中です。ただし、心に響くかどうかは審査外でございます」
王妃陛下は目を伏せた。
「心に響かなくても、剣は抜けるでしょう」
「はい」
私は台帳へ確認済みの印を入れた。
王妃陛下の報告は、簡潔で正確だった。
余計な言い訳もない。
隠しようのない頭皮も隠していない。
ただし、最後の一枚で、王妃陛下の指が少し止まった。
「おおむね、王城は回り始めています」
「はい」
「けれど、一つ、現場で見ていただきたいものがあります」
王妃陛下は、少しだけ疲れた顔をした。
「加護でしょうか」
「加護と、息子の余波です」
重い組み合わせだった。
王妃陛下は、侍女長からの報告書を私の前に置いた。
『王太子殿下付き侍女一同、職務上の礼節は維持。ただし、殿下の自尊心確認時における自然な微笑みが戻らず』
私は、報告書を見た。
見なくても、分かっていた気がした。
「該当項目がございます」
「やはりあるのね」
王妃陛下は、覚悟していたように言った。
私は台帳をめくる。
「王太子殿下の自尊心確認時に侍女が自然に微笑む意欲維持補助加護。停止中でございます」
王妃陛下は、しばらく黙った。
「それは、本当に正式名称なのね」
「はい」
「短くできなかったのかしら」
「短くすると、内容が隠れます」
「隠したくなる内容ね」
「隠した結果が、現在でございます」
王妃陛下は扇を閉じた。
ぱちん。
音は上品だった。
王妃陛下ご本人の実力だけで、部屋は十分に静かになる。
「見に行きましょう」
「はい」
王妃陛下が立ち上がる。
私は台帳を閉じ、後に続いた。
王城の廊下を歩くのは、一週間ぶりだった。
白い大理石。
高い天井。
磨かれた窓。
以前なら、私が通るたびに誰かが声をかけた。
聖女様。
エルミナ様。
殿下が。
王妃陛下が。
神殿長猊下が。
湿度が。
音程が。
今日は違う。
王妃陛下の隣を、契約相手として歩いている。
侍女や文官たちは礼をしたが、誰も私を呼び止めなかった。
それだけで、廊下が少し広く感じた。
途中、王太子側近団の一人が訓練場へ向かう姿が見えた。
剣を抜く。
しゃきん。
以前より控えめな音だった。
だが、音のあとに本人が少し満足そうにしている。
王妃陛下は足を止めずに言った。
「控えめ型ではなかったのかしら」
「仮運用は控えめから始めております」
「では、今のは」
「心が少し足された可能性がございます」
「心は契約範囲外です」
「はい」
私は台帳に小さく記録した。
シャキーン、仮運用中。
心の混入、要注意。
王妃陛下は深く息を吐いた。
そして、王太子付き侍女の控え室へ向かった。
侍女長クラリスは、控え室の前で待っていた。
四十代半ばの、背筋の伸びた女性である。
髪はきちんと結い上げられ、表情は落ち着いている。
だが、目の下には薄い疲れがあった。
「王妃陛下。ローゼンベルク様」
クラリスは深く礼をした。
「本日は、お手数をおかけいたします」
「状況を説明なさい」
王妃陛下が言うと、クラリスは迷わず答えた。
「王太子殿下付き侍女一同、通常業務に支障はございません。礼節も維持しております。ですが、殿下から容姿や装いについて確認を受けた際、以前のような自然な微笑みが出ません」
私は台帳を開いた。
「微笑みそのものは可能でしょうか」
「可能でございます」
「では、何が問題なのですか」
「自然に、でございます」
クラリスは、たいへん真面目な顔で言った。
「微笑むことはできます。礼として、職務として、王太子殿下へ失礼のない表情を作ることは可能です」
「はい」
「ですが、以前のように、心から自然に出たように見える微笑みは戻りません」
控え室にいた若い侍女が、少しだけ視線を落とした。
「今は、どうなるのですか」
私が尋ねると、クラリスは静かに答えた。
「沈黙が増えました」
「沈黙」
「はい。殿下が鏡の前で『今日の私はどうだ』とお尋ねになった際、全員が礼儀正しく沈黙いたしました」
王妃陛下が扇を閉じた。
ぱちん。
「それで、レオナールは」
「しばらく沈黙された後、『正直でよい』とおっしゃいました」
「進歩ね」
「はい。ただ、その後に」
クラリスは少しだけ目を伏せた。
「『では、帽子の角度はどうだ』と」
王妃陛下が目を閉じた。
私は台帳へ視線を落とした。
「帽子でございますか」
「はい」
クラリスの声は揺れなかった。
「現在、王太子殿下は、頭部周辺の品位維持のため、帽子を含む装いを工夫されております」
控え室が、とても静かになった。
私は、ゆっくり瞬きをした。
頭部周辺の品位維持。
たいへん気を遣った表現だった。
優秀な侍女長である。
「その帽子の角度について、自然な称賛が得られないのですね」
「はい」
「職務上の事実確認は」
「可能でございます。曲がっていれば、曲がっておりますと申し上げます」
「では、問題は」
「殿下が、曲がっていない時にも、自然な安心を求められることです」
王妃陛下の扇が、わずかに震えた。
怒りではない。
たぶん、疲労である。
私は控え室の侍女たちを見た。
誰も笑っていない。
だが、無礼ではない。
疲れているだけでもない。
自分の表情を、必要以上に殿下へ差し出さずに済んでいる顔だった。
そのことに、私は少しだけ胸が痛んだ。
以前、私はこの加護を維持していた。
侍女たちが自然に微笑めるように。
殿下の機嫌が悪くならないように。
王城の空気が乱れないように。
それは、優しさだったのだろうか。
それとも、無理に微笑まなければならない状況を、見えにくくしていただけなのだろうか。
クラリスが、私へ静かに言った。
「ローゼンベルク様。以前は、私たちが自然に微笑めるようにしてくださっていたのですね」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「微笑まなければならない状況を、放置していたとも言えます」
クラリスは、少しだけ目を見開いた。
私は台帳を閉じる。
「王宮職務上の礼節維持補助は、必要であれば検討できます。来客対応、外交儀礼、式典時の表情管理など、業務として必要な範囲はございます」
侍女たちは黙って聞いていた。
「ですが、王太子殿下の自尊心を支えるための自然な微笑みは、再契約対象外でございます」
王妃陛下がうなずいた。
「当然です」
「殿下の帽子の角度を自然に称賛する補助も、対象外でございます」
控え室の奥で、若い侍女が小さく息を吐いた。
笑いではない。
たぶん、安堵である。
王妃陛下はクラリスへ言った。
「今後、レオナールが『今日の私はどうだ』と尋ねた場合は、職務上必要な事実のみを答えなさい」
「承知いたしました」
「帽子が曲がっていれば、曲がっていると」
「はい」
「不自然であれば」
「不自然でございます、と」
「よろしい」
王妃陛下は、たいへん涼しい顔で言った。
クラリスは深く礼をした。
「王妃陛下。ローゼンベルク様。侍女一同、感謝申し上げます」
「感謝されるようなことではございません」
私は答えた。
「いいえ」
クラリスは静かに首を横に振った。
「微笑まなくてよいと、正面から言われる機会は、あまりございませんので」
その言葉は、控え室に静かに落ちた。
王城では、笑顔も仕事である。
それ自体は、悪ではない。
来客を迎える。
場を和ませる。
相手に不安を与えない。
必要な笑顔は、確かにある。
けれど、誰か一人の自尊心を守るため、自然に見える微笑みまで差し出し続ける必要はない。
私は台帳に記録した。
自然な微笑み補助、再契約不可。
職務上の礼節維持補助は、必要範囲のみ検討。
自尊心確認への対応は、事実回答を基本とする。
姉がいれば、きっと赤ペンでこう書いただろう。
人を鏡にしない。
よい一文だと思った。
確認を終え、私たちは王妃陛下の応接室へ戻った。
廊下の空気は、来た時より少し軽かった。
王妃陛下は席に着くと、静かに言った。
「ありがとう、エルミナ嬢」
「契約範囲の確認でございます」
「それでも、助かりました」
私は少しだけ目を伏せた。
「侍女の皆様の微笑みを戻すことはできません」
「戻さなくていいわ」
王妃陛下は、はっきり言った。
「必要なのは、あの子が人の表情に甘えないことです」
「はい」
「発言前思慮補助三倍は、もう少し続けましょう」
「効果は出ております。ただし、頭髪関連の思考が混入しやすい傾向は残っています」
「そこは本人に努力させます」
「承知いたしました」
王妃陛下は、書類に署名した。
王家中枢分の仮契約確認。
侍女微笑み補助、再契約対象外。
礼節維持補助は、必要範囲のみ検討。
私はその控えを受け取った。
王城の窓から、午後の光が差し込んでいる。
以前なら、その光すら何かの加護で美しく見せていたかもしれない。
今は、ただの午後の光だった。
けれど、悪くない。
帰り際、廊下の向こうで侍従の声がした。
「王太子殿下、帽子の調整はお済みでございますか」
続いて、少し低くなった殿下の声が聞こえた。
「……中央か」
侍従が答える。
「やや右でございます」
沈黙。
王妃陛下が、扇を閉じた。
ぱちん。
私は台帳を抱え直した。
侍女の微笑みは戻さない。
では、王太子殿下が自分の顔と、自分の言葉と、自分の頭部周辺の品位維持にどう向き合うのか。
確認するのは、次でございます。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第12話は、王城訪問と侍女の微笑み確認回でした。
自然な微笑みは、再契約対象外でございます。
殿下は、人を鏡代わりにしてはいけません。
次回、王太子殿下と再会します。
帽子は、やや右でございます。
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