Yeah! yeah! Go ahead, I’ll give them a fourpenny one!
それは深夜だった。救命センターの病棟、部外者は本来なら立ち入れないはずの場所。ここで治療を受ける入院患者を除けば。
誰にも見えない。誰にも聞こえない。不審な気配を感じることさえ。
光は次元の境界を避けて通る。目を凝らせば僅かな揺らぎを見ることもできよう。しかし暗闇の中で注意すべき存在に気づくことの難しさ。消灯後の見回りをする当直の看護師も、何が起きているか知ることはなかったのである。
「…アウラよ希う。略式『G1シークエンス』起動、保存先は外部媒体『L』を選択。完了後、直ちに『G2シークエンス』へ移行せよ……」
部屋の中央。老人が休むベッドには、不可視の結界が張られていた。
言うまでもなく、廊下側の戸口に立つ女の仕業である。これと似たものを、もう一人の娘は見たことがあった。周りの景色が少しずつ速くなる――そうではあるまい。自分のほうが遅れているのだ。彼女か老人、あるいは両方を捕らえるために。
今も信じている。何か理由があるのだと。立ち上がろうとして、身体が動かないことに気がついた。これも魔法の一種だろうか?アリスが使うものと同じなら、声に出して叫べば効果を打ち消すことも不可能ではない。
「…動く。動ける。私は……」
「無理しないで。怪我をするわ。『アイシャ、あなたは動けない』」
「っ……!」
姿勢を崩し、顔から老人の胸に突っ込んだ。当たり所が悪かったのだろう、激しく噎せながら頭を起こしている。売れない物書きと信じていた怪しい女を睨む。
声は出なかった。その力も既にない。空気が洩れる音を繰り返すのみ。男の寿命は尽きかけていた。最期の眠りを貪ろうとしたとき、それは起こったのである。
「…どうして、こんなことを……?」
「時間がないからよ。ユンイェ君もフェアチャイルドさんも、彼女のお父さんも。全員同じところに送ってあげるから安心しなさい」
アイシャの声は間延びしていた。今のうちに言いたいことを言っておかなければ。そろそろ会話も成り立たなくなる。なのに空回りするだけで、考えても言葉が纏まらない。呪わずにはいられなかった。自分に仲間達ほどの賢さがあれば……
「『変わらざるもの』。彼我を隔てよ」
やがてタイムアップを迎えた。ベッドの周りを不可視の障壁が包む。
新たな結界を生み出したのだ。これで中にいる二人は、自力で脱出することができない。術式に一番慣れたアリスでも同じことだったろう。現代人としては大したものだが、過去を振り返れば同じ程度の使い手は何人もいた。次はあの子の番――そう考えたものか、天井に向けられた女の瞳はどこか遠くを見つめている。
背後の闇が、ゆらりと大きく傾いた。
「……順調かね?」
「ええ。何もかも、全て滞りないわ」
軽く目許を擦ると、女は突き放すように呟いた。
「そうか。それはよかった」
屈託がない。男の声である。笑っていたが、ふざけている感じはしない。さりとて誠実なわけでもなく。言うなれば道化。相手の言葉を疑い、己の言葉さえ信じられなくなったもの。本当によかったと思っているのか?それは彼自身にも分からない。
男の背後には、三つ陽炎が揺れていた。
「これで全部だよ。フェアチャイルド女史には少し手間取ったが……」
顔の火傷を指してみせる。どうやらこっ酷く焼かれたようだ。
「まあ、こんなものだろう。ニケア語を知らないにしては、よくやったほうと言える」
「怪我はさせていないでしょうね?」
「大事な駒だ。不用意に傷つけたりしないさ」
歳の頃は四、五十。くすんだ銀髪に白い膚。世慣れした皮肉っぽい表情を浮かべているが、若い頃はそれなりだったろうと思わせる。都会暮らしが長いのか、身体のほうは頼りない。女性と見間違えるほどではないものの細かった。
フランクの前に現れた男である。もっとも今は値の張るスーツを着込んでいない。セーターとスラックスのカジュアルな服装。一瞥すると、女は彼を『魔王』と呼んだ。
親しみも敵意もない。が、含むところはある。それを理解しているのだろう、『魔王』も余計な台詞は言わなかった。目的を達成する上で必要な確認事項を除いては。
「これで君も心おきなく戦えるわけだな。我が使命に協力すると?」
喜色を浮かべる男に対し、女の表情は優れなかった。
「……あなたの味方になったわけではない。ニアのことは今でも友達だと思っている。あの子を本気で畏れたことは一度もないわ」
「仲間を殺されてもか。お人好しなことだ……」
同じ景色は見えない。しかし利用価値はある。今の二人には、互いの存在が不可欠だった。それぞれの狙いを果たすために。この身を生き永らえさせるためだけに。
「ランディ殿にもよろしく伝えてくれ。一度会って話がしたいと」
再び、女の表情が曇った。晴れる材料さえあれば――そうは思っても。とりあえず最悪の状況を脱しただけ。気楽に笑ってなどいられない。
だから女は、いっそ強がってやろうと心に決めた。
「また連絡する。あとの作業はよろしくね」
☆★☆★☆★☆★☆
執務室の環境は、いつも快適に保たれている。
華氏六十度。暑からず寒からず、よく換気されており。しかし外部の脅威に対しては、完璧な体制が敷かれていた。病原体や毒ガス、汚染マナに至るまで。この建物の防護設備は、世界最高レベルの技術を凝らしたと評して差し支えない。
(随分と金のかかることだ……)
カフェイン抜きのコーヒーを啜りながら、アーノルド=ケディスは心の中で嘆息した。
(…俺の実家は、片田舎で灯油を売る商店だというのに)
この部屋ひとつでさえ、土地建物と設備を購入して釣りが来る。庶民派と言えば聞こえはよいが、要するに成り上がりだ。両親が無理をして名門の私立大学へ入れてくれたお蔭で人脈ができ、弁護士と有力議員のスタッフを経て政界へ。後継者がいなかったこともあり、政治的な遺産のほぼ全てを引き継いだ。
幸運だったと言える。一応夢には見ていたものの、徒手空拳の自分には辿り着けないだろうと思っていた高み。オーク材の机にカップを戻し、程よい弾力の背凭れに深く上半身を預ける……
ノックの後、数人の部下達が現れた。
「大統領。今よろしいでしょうか?」
無言で首肯する。彼は首席補佐官。後ろに控えるのも陸軍参謀長、商務長官、国家安全保障局長と錚々たる顔ぶれ。こうなると用件は読めてくる。
「…監視者とやらの件か」
「はっ。まずは、これを御覧ください」
写真だった。隅のほうに若い女が写っている。大学生かフリーターのような服装で……高所から撮影?人間ひとり小脇に抱え、七車線もある街路を飛び越えているようにしか見えない。日付は四年前の秋。リカルド郡の精錬所事故があった頃だ。今いるメンバーの中では、前政権から留任の商務長官だけが情報を知り得たということになる。
「……これは?」
「ミスラ市警が捉えたものを押さえました。『本物』ではないかと推察します」
全国の警察は国家安全保障局長の監督下にある。ミスラ市は大きな力を持つが、首都といえども自治体であることに変わりはなく。
手元に視線を落とす。察するところスナイパーの仕事のようだ。身柄を確保しようとしたができず、ただ逃げられるよりはと写真だけでも撮影。センターに収まっていない事実が、そのあたりを物語っている。
「…死んだのか?」
この部隊の人員は。そう言外に付け加えた。危険な真似をする。『神』の御前では、大統領といえども一個の人間に過ぎない。機嫌を損ねたがゆえに、権力の絶頂で命を落とした実例もあるのだから。
「いいえ。全員生きております。出動したのは『プリースツ』。あの連中が勝てなければ、我々に打つ手はありません」
「当然だ。人知の及ばないものは存在する。精霊は迷信に過ぎなかったが……境界を見誤っては、人間社会そのものが滅んでしまう」
運命の監視者ラフィニアと、それに敵対する神々の秘術を扱う『神官』。後者を特殊部隊として組織したのが『プリースツ』だ。任務は言うまでもなく、奇跡の収集及び研究と影響力の排除。時の権力者による恣意的な運用を避けるため、普段は自治体の公安警察預かりということにしているが……
「公民党も厄介な置土産をしたものですな。一年前に引き継いだときは、思わず妻と娘達の顔が浮かびましたよ」
「他人事の発言は慎んでくれ。君達陸軍の問題でもある」
参謀長は畏まったが、これといって名案はないようだ。軍産官複合体の解消を目指して行った人事であり、それだけに武官としての覇気は疑問符がつく。
「まあまあ。将軍を責めるのは気の毒というものです。精錬マナの安定供給によるイノベーションの創出……かつてない社会的な大転換を前に、尻込みしない者はおりませんからな?斯く言う私も、祖国のためという大義がなければ逃げ出していますよ」
一方の商務長官は、危機意識が足りないようだ。独断専行をSIA――南部独立同盟の定例会であげつらわれる程度と考えているのだろう。いつもどおり落ち着き払った表情は、冷徹な金勘定を続けているものとしか思われない。
次元が違うのだ。下手をすれば今ここに神がやってきて、大統領以下四人の関係者に裁きの鉄槌を下す。与り知らぬことだと命乞いをしても無駄である。誰かを見せしめにするのなら――生贄は大きく、数が多いほど効果的なのだから。
「…何故、今まで報告が遅れた?」
「申し訳ございません。副大統領に止められまして……」
「私が成り上がりだからか。五年で辞める中継ぎには、責任ある判断が下せないと?」
「……申し訳ございません」
「謝罪など求めていない。この件については、以後直接私に報告するよう厳命する」
「はっ」
伝統ある上流階級の人々にとり、監視者の存在は公然の秘密だ。どれだけの権力を握っても、名門として盤石な地位を築かない限り仲間と認めて教えることはない。例外は一部の高級スタッフ、そして参謀本部付きの軍人。その彼らにしても一生マスコミの追撃を振り切り、墓の中まで秘密を持ってゆくよう宣誓させられている。
「現職の大統領は私だ。全ては私が責任を持って決断する。が、まずは君達の意見を聞かせてほしい」
国家安全保障局長は、まず神の核心的利益を探るべきとの意見。どこが逆鱗に触れたのか分からないため、ここ数年の新しい政策をブレさせて観測気球を揚げる。
商務長官は、精錬所の停止に反対。本当に許せないものなら神自身がリカルド郡へ乗り込み、実力を以て施設を破壊し尽くしているだろうとの推論。
陸軍参謀長は、精錬所計画を凍結すれば神の機嫌は直るとの考え。環境負荷の厳しい技術であり、復興の歴史を鑑みれば不快に思うのは無理からぬこと。精錬マナを装備の動力として見た場合も、不安定な資源だと分かったため導入を見直したい。
最後の意見には商務長官も蒼褪めた。アーノルドには、その理由が分かっている。
彼の一族が経営する会社には、ヤンシャオ魔雫開発集団との繋がりがあった。もしかすると株の持ち合いさえあるかもしれない。相手方が今以上の危機に追い込まれれば、いずれ保有資産の処分という話が出てくる。ヤンシャオの株価が暴落したうえ、自社株まで大量に売り注文を浴びせられるとなれば……
「参謀長の意見は性急だが、装備調達の面ではもっともだろう。局長の提言を基本に、予想されるリスクを考えてほしい」
ここで首席補佐官が右手を挙げた。
「監視者が動き出したのは四年前。すなわち我々の施策が引き金ではないと思われます。中間選挙への影響もありますし、見直しは公民党の置き土産を中心に……」
「反対だ!」
すかさず反論。商務長官の声はいつになく荒かった。
「我が国の経済は危機を脱したばかりだ。それもエネルギーの低コスト化による大企業の業績に過ぎない。雇用から賃上げ、個人消費の回復までには時間がかかる。今ここで精錬所を止めるわけにはいかん」
「何かあってからでは遅いのです。そのほうが政権にとっても」
「『プリースツ』は生還したそうじゃないか?今時、強面な武力行使など流行らん。時代に迎合して、神も気長になったのだろうよ」
さも可笑しそうに嗤った。再入植が行われた南部諸国では――殊、何もないところから建国されたミスラでは。彼のように神を侮る者も多くいる。
四人の目が彼らの上司に向かった。指導者として決断を下さねばなるまい。
「本件に関して、君は利害関係が強過ぎるようだな」
商務長官の表情が強張った。
「…仰る意味が分かりません」
「言われずとも分かるだろう。それとも私の口から説明させたいのか?」
「…………っ!」
経済は重要だ。国民が政府に期待する最大の役割とみて間違いない。
だが仕事は他にもある。復興から三百年、民衆がタダだと思い始めている安全と水。言い換えれば治安とインフラだ。私腹を肥やすために、それらを危うくした罪は重い。
「退出したまえ。今すぐにだ」
その言葉を待っていたようにノックされる。許しを受けて現れたのは大統領の腹心。商務長官は――いや前商務長官は、瞬時に全てを悟った。大統領は事実を公表する気であり、損な役回りを最も信頼する者に任せたこと。後任人事が出た以上、このエメラルドホールに彼の居場所はない。
「…後悔しますぞ。四年後どうされるおつもりか」
二期目はないという脅しだ。公民党から借り受けた人材をスキャンダルで辞任させる。少数与党であることも加え、明日からは厳しい議会運営を強いられるだろう。
アーノルドは意に介さなかった。庶民派の彼にとって、政界やエメラルドホール自体がアウェイ。初めて下院に立候補したとき、もはや覚悟はできている。
「エド。私の故郷はハディス市にあってね」
立ち上がると、おもむろに窓際へ歩み寄った。
「毎日ここから眺めるのだ。生まれ育った西の空を。避難民が自宅に戻れるのは、いつの日かと」
軍の統計によれば、住民の三割が命を落とした。そして現在も、慢性的な中毒により少なくない人数が亡くなっている。
「次などないのだよ。地元の信用と利権を失った今ではな」
誰もいなくなった執務室でひとり、呟く。
そして大統領の肩書だけが残った。残る任期、少しでも多くの人々を救うのみ。
☆★☆★☆★☆★☆
「……これでよかったのかね」
「さあ?一庶民としては閣僚の首より徹夜明けの朝食かしら」
「用意させている。御相伴いただこう」
砂色の髪に黒いアサルトスーツ。寛いでいたが、表情の不機嫌さは否めない。
最初からいたのだ。奇跡の力で姿を見えないように隠し。その気があれば、纏めて全員始末することもできただろう。
「それと、あの写真ね。見た人達に言っておいて。私はラフィニアじゃない。理由あって今は、彼女と敵対している」
食堂へ行き、用を済ませる間、二人は一度も口を利かなかった。給仕は大統領自ら行い、料理長すら隣室の厨房に入れない徹底ぶりである。神を見た者は死ぬ――先日、上院議長からそのように聞かされた。伝統的な支配階級の人々は、豊穣の女神ラフィニアを運命の監視者として恐れる。人間の前に姿を現すのは、神の摂理に反した者を粛正するため。野党の重鎮である彼が、それを望んでいるのかは分からなかったけれども。
「…ヤンシャオ魔雫開発集団」
脚を組み直すと、女は天井を見つめながら呟いた。
「董事長が行方不明。執行役員は全てダミー。株式も紙屑同然で、近いうちに潰れるなんて噂もある。偉大な大統領閣下は、どのように決着をつけるおつもり?」
底値前の株式を、労働組合が社員から集めた資金で買い取った。その割合は一定の議決権を行使できる三分の一に及ぶ。前向きな行動はできないものの、労働者が不利になるような定款の変更を阻止できる。
「再生法の申請は受理せざるを得なかった」
雇用の問題がひとつ。世論の反発があるとはいえ、いずれ技術者達には除染の仕事を頼まねばならぬ。事実上の国有化であり、希望者には軍への入隊も許した。せっかく育った専門家を離散させるのは惜しい。
リカルド郡の封鎖は、何者かが精練所を占拠したことによるもの。最初は監視者を疑ったが……居座り続けるのみで、どういうわけか未だにマナが供給されている。
「フェリックはどうするの?あちらもCEOが行方不明だけれど」
「…我が国の仕組みに根差している。今更手を出せない」
苦渋が窺える。莫大な観光収入。実験開発の促進。今やグラキエル経済は、実体経済の四割という規模にまで達した。ミスラの通貨イェンは、基軸通貨の地位を築きつつある。仮想通貨ドルとの兌換システムにより、国際決済の主役へ躍り出たのだ。
それらの利益を考えれば、為政者としてなかったことにできない。比べて副作用は小さかった。仮想世界の殺人を犯罪と呼ぶべきか?いずれ何らかの法規制は必要となろう。
「黒に近いグレー。賠償責任も問えまい」
「人ひとり死にかけて、子供が攫われそうだったのに?」
「公安の勇み足だ。全責任は大統領の私にある」
圧倒的な武力の前では、法の存在など霞む。アーノルドは覚悟を決めたが、降ってきたのは鋭い拳骨。呻きながら目を開けると、今までの不機嫌な態度は消えていた。
「これで許してあげる。あと二つ、私の頼みを聞いてくれたらね」
一つ。今後グラキエルに干渉しないこと。リアル側のプレイヤーも含めて。マインドリンクの利用は可。ただし技術の窃取や軍事転用は認めない。
二つ。活動資金の提供とSIA域内における自由の保障。後者は主に隠蔽工作、目撃情報や歪んだ都市伝説を揉み消してもらう。とりあえずはミスラ国内だけでも構わない。養われるのは苦手だから、彼女のほうも治安維持に協力する。
「……金、なのか?」
アーノルドは意外そうに訊ね返した。
「そ。結構物入りなのよ。こう敵が多いと、なかなかね」
口座の残高を騙していたが、諸般の事情から難しくなったと。
迷惑である。この女も。監視者も。精錬所を占拠した男も。勝手な理屈で暴れ回り、人間社会に爪痕を残す。前触れはないゆえ、自然災害より性質が悪い。
「さてと……主犯格を殴りに行こうかな。こちらは頼まれているし、あまり手加減するわけにもゆかなくてね」
大統領は喉にコーヒーを詰まらせた。
「……手加減したのか。あれで?」
「当然でしょう。本気だと首が落ちるわ」
翌朝。アーノルドは見たのである。
前大統領ユウト=ササハラ及び前商務長官エド=ブライアンが、高級クラブの店先で酔った若い女に絡まれ――全治三箇月の怪我を負い入院したという記事を。




