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私の中のリアル  作者: 五月雨
Account-List 2
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Player 05  Frank Poole

 どうなってんだ――虚空に浮かんだままの俺は、心の中で独りごちた。


 帰還のオーブが使えない。正確に言えば、壊れているというところか。飛んでいるはずなのに実感はなく、ところどころで壁にぶち当たったように減速する。かと思えば急に加速して、高い尖塔へ突っ込みそうになったり。地上は運営の放った化物共が徘徊しているから、空を進んだほうが安全なのは重々承知しているのだが……


「本当に、どうなってやがる?」


 今度は声に出して呟いた。苛立たしさが出てしまい、娘と一緒ではなかったことを感謝する。ここは夢と現実の狭間に作られた仮想空間、『グラキエル』と呼ばれるVRMMORPGの世界だ。五体満足に生まれてきたステラは、こんな借り物の身体で自分の境遇を慰めるような真似はしない。


 俺の名はフランク=プール。会社勤めのしがない技術者だ。


 家族は嫁さんと娘が一人。そのうち単身になるかもしれない。仕事上のストレスから酒の量が増えていて、夫婦仲を悪くしているのが主な原因だろう。


 責任の半分以上が俺にあることは分かっている。時代の最先端にいられることが嬉しくて、俺は自分の健康と家庭を犠牲にしながら仕事に邁進した。


 キャシーやステラのことを愛してなかったわけじゃない。言い訳をさせてもらえば、仕事をしている奴には一生に何度か戦いの季節がやってくる。俺にとってのその時期が、最愛の娘が多感な年頃を迎える今だったというわけなんだな。


 俺は、その戦いに勝った。しかし失うものも大きかった。同期で最初の主任という吹けば飛ぶような地位の代償としては、あまりに大きすぎたと言えるだろう。


 それは妻の信用。娘の学校行事などを悉く欠かした俺は、もはや父親の資格なし。養育者としての自覚に欠ける、ノスタルジックな駄目男と認定されてしまったのだ。


 笑えるだろう?仕事の上では最先端を自負している野郎が。それも私生活では結局こんなもんだ。どこで間違えたのか、思い当たる節が多すぎて泣けてくる。俺が娘の期待を裏切ったのは、一度や二度で済む話じゃない。それでもまだ口を聞いてくれるのだから、将来俺のような男に騙されたりしないかと筋違いな心配さえ浮かべてしまう。


 あの子は――ステラは優しい子だ。俺が飲んで帰ると、顔も合わせようとしない嫁さんに代わって水と胃薬を用意してくれる。酔ってるお父さんは嫌いと、はっきり言われているにもかかわらず。


 悲しい顔を見たくなくて、俺はドリームシェアで酒を飲むようになった。こちら側の酒ならログアウトすればすぐに醒める。そこでシオメラと出会い、ますます家から遠のく結果になるとは思いもしなかったが……


 そんな後悔にも似た追憶を重ねていると、俺の身体が不意に高度を下げた。どういう原理か、ついに飛ぶ力を失ったらしい。


 性質の悪いことに、目的地の少し手前に落ちそうだった。このまま行けば聖堂の壁に激突――数秒後に残るのは潰れた新鮮なトマト。マナ量を調節して移動を遅らせたとしても、それは外から見える観測上の話。運動エネルギーは全く同じなのだから。


 さすがに御臨終だ。この速度で叩きつけられたら、どんな化物でも確実に死ぬ。できることなら一瞬の最期を――長々苦しめられながら死んでゆくのは、典型的な市内冒険者の俺だけに是非とも御免蒙りたいところ。


 と、そのとき。いきなり空耳のような野郎の声が聞こえた。


(…何とかなるよ)


「え?」


(まだ大丈夫。全部僕に任せてくれれば)


「!?」


 仮想の死を目前にして、俺もいよいよ頭に来たか。


(説明してる時間がない。僕に制御を渡して。名前を念じればできるはずだから)


「はぁ……?」


(…ここで死んだ場合、あなたはログアウトして元の世界に帰れる。でも僕らは違うんだ。記憶を継承されても、それは僕のコピーに過ぎない)


 わけが分からなかった。大体こいつは、どこから俺に話しかけている?結構長くここにいるが、攻略組の連中からもこんな奇妙な奴の噂は聞いたことがなかった。


 新手のクラッカー?同意の上でインカネイトを騙し取り、悪用する犯罪でも流行っているのか。それでも信じる気になれたのは、俺が他人の痛みというものに対し敏感になっていたからなのだろうか?


「……分かったよ」


 大きく頷いてやる。こいつの言うとおり時間がないのも確かだった。


「それで何と呼べばいい?俺はお前の名前なんか知らん」


(『スミス』。僕はあなたの器。あなたは僕の同居人だよ)


「じゃあ『スミス』!とにかくこの場を何とかしろ!」


 驚いている暇もない。俺は鸚鵡返しに叫んだ。


(…了解)


 じわりと空間のずれるような気配がして、俺の意識は思念のみの存在となった。起きながら夢を見ている、または見ている夢が夢だと分かったときの感覚。それが醒めないまま続く。慣れるまでには少し時間がかかるだろう。しかしそれらを塗り潰して余りある恐怖が、すぐ目の前に差し迫っていた。


(…ナムサン!)


 遠い先祖の祈り文句が、刹那脳裏を迸る。


 次の瞬間、俺は柔らかい衝撃に弾かれて落下した。強かに腰を打ちつけ、微かな呻き声を洩らす。それでも動けるだけマシというもの。次いで身体の制御を渡しても話せることに驚いた。他人任せを嫌う俺には、かなり気持ち悪かったが。


(…っ痛ぇ……!)


「大丈夫だよね。僕が大丈夫なんだもの」


 淡々と埃を払っている。死にかけたばかりなのに、こいつは落ち着いていた。


 何者なんだ――との疑問には、既に答えが示されている。俺のインカネイトを操るこいつは、『スミス』と名乗った。俺の器で同居人。そんな疑わしい説明と一緒に。


 今更ながら不安を覚えて、恐る恐る話しかける。


(おい、お前……)


「ふーん。なるほどねぇ。これが手足の感覚なんだ?」


 あははと笑いながら、くるくる左脚を軸にして回る。


 俺にはできない芸当だ。バランスという意味でも、恥ずかしさのあまり顔から火が出るという意味でも。


(こら!他人の話を聞け!)


「やっと手に入れたよ~。これは僕の身体。もう誰にも渡さなーい」


 不穏なことを言いやがる。このまま乗っ取られ続けたら、俺はどうなるのか。ロッカールームで休まなければログアウトすることはできない。


(今すぐ返せ。元に戻せ。やることはやったから、俺は家に帰るぞ)


「だーめ。もう少し付き合ってよ……僕は、ここを離れなくちゃいけないんだ」


 軽薄な口調も一転、さも深刻そうに呟いた。


(…ここを離れる?どういうことだ)


「マナの転送事故があってね。あなたは今、二年後の世界にいる。父様の半凍結処理とあなたの応急処置と……もう一人、余計な真似をした女がいたね。僕の意識が解放されたのも……何て云ったかな?…そうそう、アップデートの結果というわけ」


 信じられないような話だった。新市街の事件から二年が経ち、今は最新版のver.4.1になっていること。あの騒ぎはver.3.0移行のイベントとして公表され、ver.4.0の開始と同時にPPS――パートナーペルソナシステムが導入されたこと。市内冒険者の俺にはあまり関係のない話だったが、調整槽システムが大幅に緩和されたこと。技術革新により肉体の安定性が増し、癌化を抑制できるようになったとの設定らしい。


 衝突の危険を回避したのは、『創術』と呼ばれる新たな力。これもバージョンアップのときに『法術』と『精霊術』を含めた三つの中から選ぶことになっていた。しかし期限までに決められなかったので、一番無難なやつを選んでおいたとか。


 だが俺は、それらを単なる設定と割り切ることはできなかった。何しろ俺は、あの不気味な虹色の闇を見ている。ここがどこなのかはともかく、元の世界と変わらない現実なのだ。そう信じている俺には、相棒インカネイトの冗長な語り草を時機外れのユーザサポートとして聞き流すことなどできるはずもない。


 事情に詳しいのは、事件前より自我を目覚めさせていた古株だから。運営の指示に従いログアウトした結果、他のインカネイト達は複製の弟妹達とすり替えられた。少なくともアスルタンの調整槽には、自動で働くその手の術式が仕組まれている。


(街を出ると言ったな?どうしてそんなことをする必要がある。ログアウトだけなら聖堂があるし、それでお前は自由になれるだろ。何も問題はないと思うが?)


「それじゃ僕は自由になれない。この街に閉じ込められたままなんだ……分かってるよね。僕がデータだけの存在じゃないってこと」


 ここでログアウトしたら、俺には新たな拠点都市で新たな肉体を与えられる。


 まだ死んだことはないから、スミス二号といったところか。よもや殺されはしないだろうが、使われなくなったインカネイトは滅びた街の調整槽に放置される。


「ここはマナ濃度が高い。魔法は使い放題だけど、それとは別に技術的な問題がある。変異を巻き戻すほどの難しい呪文は使えないんだ」


 アスルタンを逃れるには、俺の解凍士としてのキャリアが必要らしい。加えてスミスの白兵戦能力。わざわざ街の中心部へ戻る直前で目覚めなくてもと思うが、今更それを言っても始まらない。今決めなければならないのはひとつ。こいつを見捨てるか、それとも遠回りをして茨の道を突き進むか。


 二年も過ぎたとなれば、キャシーとステラのことが心配だ。食うに困ってはいないだろうが、ログインしたまま二年も放っておかれたのは気になる。いくら夫婦仲が悪くても、キャシーはそういうところで不義理を働くような女じゃない。


 何かあったのだ。俺を見捨てて家から離れざるを得ない理由が。


 一番考えられるのは、ステラの身の安全に関わること。そのときは俺に構わず、娘を助けてくれと頼んだだろう。


(…さっき言った事故ってのは、あちら側にも関係あるのか?いわゆるリアルのほうって意味なんだが)


「さてね。あるかもしれないし、ないかもしれない。どっちにしても父様は、あっち側の世界からマナを運び出してるって言ったよ」


(………そうか)


 ミスラ側のマナを盗むとしたら、まず間違いなく精錬所だ。そして俺が住むハディス市には、大陸最大級の精錬所がある。


 一刻も早く娘の無事を確かめたい。しかし事故から二年も経った今、ステラのためにできることは全部キャシーがしてくれたはず。結局いつもの入学式や運動会のときと同じだ。慌てて帰ったとしても、居場所をなくしてしまった俺に一体何ができる……?


 スミスの父様とかいう奴も、どうやら不実な男のようだ。血は繋がっていないとはいえ、手前の息子や娘の命を何とも思っちゃいない。


 同じ屑野郎として、そいつに一泡吹かせてやる。代償行為だって?そんな小難しい理屈は知らん。俺はこいつを自由にしてやろうと決めたんだ。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 俺の人生は、仕事以外では挫折するようにできているのかもしれない。


「嘘……だろ……?」


(残念ながら現実だよ。どうやら僕は、ここから出られないみたいだね)


 俺に身体の制御を返したスミスは、淡々と呟いた。


「諦めるな。まだ何か方法がある」


 励ました俺の声も、どことなくうそ寒い。頭の中では分かっていた。こいつは絶対に無理だと。雲霞のごとく大路を埋め尽くす魔物達。辛うじてヒトの形をしているのは、先程見た人形のような兵士達が高密度マナにあてられたなれの果てか。


「とにかく逃げるぞ!あとはお前に任せた!」


 マナ中和の術式を記し、身体の制御をスミスに渡した。持続時間は一時間ほど、新市街を駆け抜けるだけなら充分と言える。徴兵に応じたことのある俺より、こいつは身のこなしが素早かった。どこで学んだか知らないが――まあ十中八九、父様とやらのところだろうが。雑魚数体と遭遇したときは、あっという間に叩きのめしてしまった。子供みたいな態度のくせに、こういう場面では頼りになる。


(他の道はないのか!?)


「同じだよ。どこも似たような数が集まってる」


 利き腕を前に突き出すと、その方向にいる四体の敵が撥ね飛ばされた。スミスが使える『斥力』の奇跡は、指向性にしか働かない。壁に激突するのを免れたのも、この魔法による力だ。新スキル『創術』における初歩の初歩で、より高度な術を使いたければ特定のクエストで補助コードを手に入れる必要があるらしい。


 要するに今は、打つ手なしということだ。奇怪な兵士達は倒しても倒しても涌いてきて、今までサボった分の戦闘経験を取り返してなお、数が減る気配はなかった。


(大丈夫か。まだ喋れるか?)


 答えはない。ただ荒く息を途切れさせている。


(大丈夫かと聞いてる。返事をしろ)


「………………………」


 顎だけで頷いた。俺も息苦しいから分かる。もう喋る気力さえ残っていない。


 逃げなければ。そう考えるが足は動いてくれなかった。風前の灯火――あとは殺されるのを待つばかり。そのとき俺の頭に妙案が閃く。


(制御を貰うぞ。『スミス』!)


 再び入れ替わった。即座に術式を展開する。新市街のマナを封じたときと同じ、違うのは自分も巻き込まれるという点。周囲のマナを集め、収束し、高密度で踊り狂わせる。既に 被曝の進んだ兵士達は、俺達より許容限界が少ないはずだ。更に俺はマナから身を守る術を知っている。危険な自爆攻撃だったが、他に方法はなかった。


「…やっ…たの、か……?」


 片膝を突きながら、どうにか姿勢を保つ。万一のときのため、冗談半分で開発したオリジナル術式が役立った。普通の人間相手では目晦まし程度の効果しかない。敵が高密度のマナを限界まで浴び、今にも崩れそうな身体を引き摺っていたお蔭だ。


 目の前の障害は消えた。しかし、これで全部いなくなったわけじゃない。ものの数分もすれば、他の街区から化け物どもが集まってくるだろう。進むか戻るか、今すぐ決めなければならない。それを考えるのは、多分俺の役目じゃなかった。


「さあ、選んでくれ。お前はどうしたいのかを。俺のことは心配しなくていい。一度取り残されちまったら、五年や十年どうってことないからな」


 嘘だった。両目を閉じると、瞼の裏に娘の顔が浮かんでくる。


 ステラに会いたい。彼女の傍で成長を見守りたい。十年後のステラは、どれほど綺麗になっているだろう。幸い俺には似ないでくれた。母親似のクールビューティ――気立てのいいところは、俺の甘さが移ったと自慢させてもらおう。とにかく最高の娘だ。いい男を見つけて嫁に行くまでは、絶対俺が護ってやる……


 それは叶わぬ夢。俺が自らの足で踏み躙った。

二年も経ったのなら、とっくの昔に会社を馘首になっているはず。無事ログアウトできたとして、誰かを養える甲斐性もない。死亡認定されている恐れさえも。どうでもよくなってきた――そんな感情とは裏腹の、ひと目だけでも娘の顔を見たいとの想い。


(…………………)


「どうした?俺は死んでもログアウトできる。どっちでも困らん俺より、お前が決めるべきだろう」


 スミスは黙っていた。今は引っ込んでいるため、仕種から心情を読むことができない。嘆息を聞いたような気がした。そんなわけはないのだが。こいつも迷っている。今ここで退いたら、一生廃墟の街を出られないかもしれない。さりとて死ねば一巻の終わり。


 まさに究極の選択だ。しかしそのために与えられた時間は少ない。俺はスミスの腕を摑んで引き止めることにした。


「…すまん。やはり帰らせてくれ。今すぐ娘の無事を確かめたい」


 屈んだ姿勢のまま、俺は無様に懇願した。


「お前にとって千載一遇の機会なのは分かっている。ここの調整槽にインカネイトを交替させる特別な仕掛けが施されていることもな」


(……………………)


 無言。張りつめた静寂。それでも不思議と責められている気はしなかった。


「だがアスルタンを脱け出して……その後はどうなる?知ってしまった俺はリアルに帰れるのか。監視の目があるイーサへ行くより、ここでログアウトしたほうが多少はマシなんじゃないのか」


 俺は取り乱していた。娘に会いたいその一心で。


 限界が迫っている。最初の足音が遠くから響いたとき、スミスは微かな声で呟いた。


(……いいよ)


 不安と諦め。俺達の心の中には、そういうものが渦巻いている。


 ここの調整槽を使えば、プレイヤーとインカネイトの紐帯が断ち切られるというのは嘘。やや声を弾ませながら、スミスは俺の困惑をせせら笑った。


(出られないのは本当だけどね。ログインし直すときに『スミス』を選ばなければいいんだ。コピーが生まれない限り、僕との繋がりが切れることはないよ)


 だから今回は諦める。調整槽の中で休みながら、次の機会を待つ。プレイヤーは何人でもインカネイトと契約できる。同じ状態の仲間と協力して、いつの日か廃墟の街を連れ出してくれたら……と。


 茨の道だ。後から知ったことだが、ver.3.0公開以降のアスルタンは『魔都』と呼ばれるようになっていた。無限に補充される混沌の魔物が徘徊し、濃密な不浄のマナが踏み込む冒険者達の行く手を阻むがゆえに。


 しかし可能性がないわけじゃない。スミスが言ったとおり、他のプレイヤーと協力することができれば。事情を知らない連中でも、無謀な探究心から手を貸してくれる奴がいるかもしれない。今すぐは無理だが……まずは実生活を安定させる。会社を馘首になっていたら、適当な就職先を見つけて。いや俺自身が会社を興す手もある。


 俺はマナ制御のプロだ。加えて七十六人いる同期中、一番早く主任の地位に辿り着いた。こっちでも向こうでも、やるべきことは同じ。できるだけ優秀な人材を集め、チームの力を遺憾なく発揮できるようにする。その意味において、俺に不可能の文字はない。


(待ってろ。必ず迎えに来てやる。男と男の約束だ)


「そういう暑苦しいの、趣味じゃないんだけどなぁ……」


 苦笑いでぼやきながら、スミスが『斥力』の奇跡で鋼鉄の扉を破壊する。少し時間がかかるも、まず問題ない範囲。徐々に気持ち悪くなってきた。自爆攻撃の副作用だろう。しかし俺達の調整槽がある部屋は、二階の最も階段に近いあたり。聖堂の中にまで化物が入り込んでいなければ、倒れる前に辿り着けるはず。


「やっと着いたよ……これで死なずに済むね」


(ああ。正直あまり気持ちのいいもんじゃないだろうしな)


 調整槽に横たわりながら、俺はスミスに苦笑を返してやった。


 体感的には数時間しか経っていないのに、数年分の冒険をしたような気がする。いや、本当に二年が経過しているのだったか……


 思えば相当手間取ったもんだ。休暇の晩にゲーム内でマナ漏出事故を発見、一定の安全を確保して帰還のオーブを使ったら飛行中に機能停止。潰れたトマトになるところをインカネイトに助けられた。そして一緒にアスルタン脱出を試みるも失敗。やむなくここでログアウトすることにして現在に至る。


 とんでもない約束をしたことが重くはあったが、意外に気分は高揚していた。


 もしかすると俺は、目標がないと生きられない人種なのかもしれない。現場で試行錯誤しながら都市マナ配管工のモデルケースを確立、次の戦場は異世界に舞台を移して汚染都市に取り残された被災者達の救出。また娘のことを失念している自分に気づいて、俺は何度目になるか分からない興奮と悔恨混じりの自己嫌悪に陥った。


「それでいいんだよ。あなたはやっと正しい選択ができたんだ」


 調整槽の内側からドアノブに手をかけ、スミスが囁きかける。その声は気怠そうで、今にも眠りに落ちてしまいそうだ。それにつられて俺の意識も深い闇の底へ沈んでゆく。


「…逃げたっていいじゃないか。僕達人間は弱いんだから。ずっと戦い続けてたら、いつかへし折られてしまう。あなたは少し、他人より強過ぎただけなんだ」


(……………………)


 だから僕のことは忘れていい――そう言うつもりか。自分のことは放っといて、キャシーやステラ達と人生をやり直せ、と。


 俺に意見するなんて十年早い。若造のくせに生意気言いやがって。そうケチをつけてやろうとする。しかしそれよりも早く、俺の意識は唐突に断ち切られた。


 夢とも現実ともつかない薄明かりの中、最後に聞こえた言葉が空耳だったのかは確かめようもない。


「…さよならフランク。短い時間だったけど、逢えて嬉しかったよ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ――ゲームのバージョンアップが行われました。

 ――復興暦○四一四年十月九日以前に作成されたプレイヤーキャラクターでログインする際に

   は、『運営からのお知らせ』を参考に所定の選択を行ってください。

 ――期限までにプレイヤーキャラクターのコンバートが行われない場合は、習得する技能等が

   ランダムにより決定されます。

 ――………………………

 ――…………………



 ☆★☆★☆★☆★☆



 薄暗かった。


 見上げる窓の外は曇天。今にも最初の一滴が降りてきそうな。


 室内へ視線を移す。そこに色はなかった。未明や黄昏ではない。


「…………………」


 軽い疲労を感じて、頸の骨を鳴らし両腕と肩を回した。


 不思議と凝っていない。むしろ快適、休みの予定を切り上げて今から出勤しても構わないほど。空腹を除けば、それくらい体力が充実している。ならば偏った姿勢で眠ったときの、あの居心地の悪さはどこから湧いてくるのか……?


 分からないことを気に病んでも仕方がない。とりあえず俺はウェアラブルを起動した。目覚ましは使わない性分だが、インテリアとして枕元に置いていた時計は見当違いの時を刻んでいる。復興歴○四一五年三月六日九時五十四分――半年間も眠らずにゲームをプレイし続けられる人間がどこにいる。


 何の悪戯だ。俺がいないうちに茶目っ気のある空き巣でも入ったのか。ステラはこんな真似をしないし、昔ならいざ知らず――キャシーとは、そういう段階を通り越している。微妙な脱力感に包まれながらパーソナルディスプレイの片隅へ視線を彷徨わせた俺は、そこで胃が逆流するほどの衝撃に見舞われた。



 ――復興歴○四一六年九月十八日十五時二十七分。



 公共インフラであるメインフレーム上に刻まれた標準時計は、マナ漏出事故を含む大規模災害が発生しても絶対に狂うことはない。詳しい原理は解らないが……とにかく俺は、ドリームシェアの筐体で二年近くも横たわっていた計算になる。


「…キャシー!?ステラ!?いるのか!」


 堪らなくなった俺は、書斎の外へ飛び出した。


 居間。台所。トイレ。表の庭。どこにも二人はいない。キャシーは在宅勤務の公認会計士、ステラはそろそろ学校から帰ってくる時間だ。休暇中の俺と顔を合わせたくなくて、どこかの喫茶店へ出かけているのでも構わない。今すぐ戻ってきて、気まずそうに俺の横を素通りしてほしかった。ステラの無事を確かめさせてもらいたかった。


 何が起きている。今ここで何が起こっている?


 ログイン前の記憶を呼び出そうとすると、それは鮮明に思い出せた。しかしログインしている間のことについては、霞がかかったように何も浮かんでこない。挙句の果てには、少し居心地が悪い程度の違和感だったものが激しい頭痛にまで増長する。幾つかのフラッシュバックが甦り、それらを繋ぎ合わせて復元できた記憶は……どうにも整合性のない、未熟な洗脳の産物とも言うべき不快に満ちた代物だった。


「…俺はフランク=プール。それだけは間違いない……」


 当たり前すぎることを確認して、俺は居間のテレビをつけた。


 普通に放送している。しかしニュースの内容は見慣れない。大統領や閣僚の名前が変わっているし、そもそもこのアナウンサーは誰だ。MBC2の看板女性キャスター・メアリ=スティムソンは、俺が眠っている間に結婚退職でもしてしまったのか。


 こういうときはフレームのほうが頼りになる。俺はテレビを消して、またウェアラブルのブラウザに向かった。検索条件は『ハディス市』『○四一四年』。十月九日まで入れてもよかったが、あまり狭くすると必要な情報まで弾かれるかもしれない。適当な記事が見つからなかった場合は、微妙に文言を変えて再度検索を行う。



 ――『○四一四年十月九日』ではありませんか?



 メインフレームのプログラムは、俺にそう訊ね返してきた。


 むしろ設定条件が緩すぎたらしい。何か起きたことは間違いないが、逆に『ハディス市』のほうは反応薄。年月日だけ入力して検索すると、膨大な該当件数と一緒に衝撃的な見出しの群れが俺の視界を埋め尽くした。


 リカルド精錬所マナ漏出事故。○四一四年十月九日、ミスラ共和国西部リカルド郡で発生した過去最大級の産業災害。その影響範囲は、近隣の行政単位をも含めた広大な面積に及ぶ。事故から二年が経過した今でも、政府による避難地域指定は解除されないまま。


 時間が経つにつれて、それら一連の騒動は『一〇.〇九』とか『リカルディ・ショック』と呼ばれるようになっている。


「………マジか」


 ブラウザを消して、のろのろと玄関先へ向かう。まともに靴を履く気力もない。適当なサンダルを引っかける。


 それは少しだけ窮屈だった。繊細な植物の模様があしらわれた、女物のミュール。


 これが二人のいなくなった理由。キャシーは出先で、ステラは学校で。それぞれ避難指示を受け、そのまま家に戻れなかったのだろう。


 問題は、どうして俺が取り残されたか。見たところ、現状それほど危険がないように思える。測ってみなければ分からないが、恐らく大気中のマナ濃度は普通。やや低いとはいえ、まず正常値の範囲内だ。一時封印措置による副作用の典型に他ならない。何を以て軍は救出を諦め、今なお被災地域の封鎖を続けるのか。


「……痛っ…」


 頭病みがする。しかし、それと同時に何かを思い出した。


 今回のマナ漏出事故は人為的に引き起こされたもの――そう誰かに聞かされたような。生まれつきの性格からすると、今までの俺なら犯人を殴らずにはいられない。


 それでも思い止まったのは、相手の名前を知らないからだけではなかった。家族を護るために逃げることも、ひとつの正しい選択。そういう考え方が、意外なほど違和感なく俺の中に存在している。それを教えてくれた奴との間に大事な約束があったような気もするが、そちらのほうは何度考えても思い出すことはできなかった。


「見てろよステラ。パパは負けないからな……!」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 最初に出かけたのは、とりあえず勤務先の事務所だった。


 幸いなことに、車は生きている。にもかかわらず、各家庭の駐車場には自家用車が放られていた。最初に予想したとおり、帰宅する余裕がなかったのかもしれない。社用車は残っていないところを見ると、あながち間違っていないように思える。


 大気中のマナ濃度を計測、危険域に達したとき知らせてくれるセンサー。他にも事故現場で着用する汚染除去フィルタや簡易な防護服など。それらを自分の車に積み換えると、次はスーパーマーケットへ向かった。


 何はなくとも大事なのは飯。缶詰が汚染されていなければ、そして火事場泥棒に遭っていなければ。何箇月でも食い繋ぐことができる。果たして期待どおり――無人の食料品売場は、多少荒らされてこそいたものの、平時の秩序を保ち続けていた。


 ほっと溜息をつき、魚介の缶詰とクラッカーに右手を伸ばす。賞味期限は約半年後。優に一年は過ごせる量が残っているから、飢える心配はしなくて済むだろう。バックヤードの冷蔵倉庫には、ネーブルやグレープフルーツといった柑橘類が山と積まれていた。同じく冷凍倉庫には肉と魚。事故が起きてもマナの供給自体は止まっていない――いや、止めることができないのだ。もっとも天然マナの浄化が不充分なら、その毒素はパイプラインを使って市内中にばら撒かれてしまうわけなんだが。


 こうしている間にも、何か気味の悪い陰謀が働いている。詳しい事情は分からなくとも、ログイン中の記憶を大半失っていることがその傍証だ。俺が脳に障害を負い、歪な妄想をするようになったと言えなくもないが。その前提で考え始めたら切りがない。無事ステラを見つける方法、それだけを考えることにする。


 キャシーの性格からして、いつまでも被災者の立場には留まらないだろう。首都圏のどこかにアパートを借りて、知人同業者の手伝いでもしていそうだ。あいつは元々ステラを都会の私立校に通わせたがっていたから捜すのは骨が折れるかもしれない。


 だがその前に、ひとつ確かめておきたいことがある。今更と思わなくもないが、俺の職業人としてのプライドに関わることだ。


 あのマナ浄化炉――リカルド精錬所は、基礎設計を俺が担当している。会社の威信を賭けた新型として、より純度を高められるように考案した。ゲームの神様からのお告げはあったが、あんなものは当てにならない。人生逃げてもいいとか人為的な事故だとか、今の俺にとって言うことがあまりにも都合よすぎる。本当に設計ミスのせいではないのか、それだけは確かめておく必要がある。


 腹拵えを済ませた後、他に取り残された人間がいないか市街地を回ってみた。


 結局、誰にも出会わなかった。残念なことだったのか、それとも安堵すべきところだったのか。置かれている立場が分からないので何とも言えない。しかし緊迫することもなかったのだから、とりあえず悪いことではなかったのだろう。


 缶コーヒーで一服済ませると、車へ乗り込んだ俺は誰にともなく呟いた。


「…よし。そろそろ行くか」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 海辺の平坦な道を進むこと三十分。水平線の手前に、独特の外観を持つ円筒形の構造物が見えてきた。


 海抜三百七メートル、最大半径二十七メートル。何本もの超鋼ワイヤが側面から伸び、様々な角度でメガフロートに繋ぎ留められている。港町の景観にも配慮し、壁面の色は概して灯台と見間違えそうな純白。平常出力の〇.○○○○○○○七%を拝借して、荘厳華麗なライトアップまで行われている代物だ。


 夜は勿論のこと、昼間も薄暗い日は照り返しがビルの屋上から見える。今は曇っているため、幻想的な七色の光が陽炎のように立ち昇っていた。大きな湾の中央に位置し、鮮やかな虹彩が水面に反射して煌めく。実用性と関係がないこれらの設備は、当然のことながら俺達マナ工学技術者による設計じゃない。


 吊橋を渡った先の駐車場に車を停め、管理用の出入口から内部へと踏み込む。濃度センサーは未だ警告を発していなかったが、念のため防護服を身に着けておいた。持ち運びの手間より、どちらかと言えば施設内の狭さが主な理由。変に取り回して傷をつけると、結界の破れ目から高密度のマナが浸み込み被曝してしまう。


(……………?)


 予想に反して、精錬所内部は穏やかなものだった。


 事故後の復旧に勤しむ作業員の姿もなければ、軍による検問もない。もしも立ち入りを拒まれたら、多少の危険は覚悟して設計者の身分を明らかにしようと思っていた。そもそも人がいないのでは、現場の状況も訊きようがない。口伝いの情報収集を諦め、俺は管制室へと向かった。


「…酷いもんだな」


 独語が口を突いて出る。誰もいないと思った途端、遠慮がなくなったらしい。


 ここも人っ子ひとりいなかった。壊れた様子はないから第二管制室も一緒だろう。ここが全体を把握するのに一番便利な場所だ。つまり単独で残った場合を除き、今だけ留守にしているという可能性も消える。


 アクセス権のない俺には、ここの設備を使うことができない。壁に並んだ警報装置を見るのが関の山。こちらは……ひとつだけ他と違うところがあった。精錬所の心臓部、マナ浄化炉。丸く柔らかい様式文字の上、点灯した赤ランプが異常の存在を示している。自己診断システムの誤作動かもしれないが、その惧れも含めてオールグリーンとはゆかなかったようだ。下請を決めたのは俺。これも広い意味では俺の責任に含まれる。


 水深七百三十メートル。精錬塔の海面下は、地上部分よりも長い。海底までおよそ二百メートル、見方を変えれば露出部分と埋没部分が等しく五百メートルになる。これほど巨大な建造物は他に類を見ない。


 海面上に覗く三百七メートルは、噴出するマナの勢いを逃がすために設けられた。言わば安全値という名の飾りで、浄化炉の本体である濾過式は水深十メートルごとに精度の違うものを取りつけている。側面は論理的絶縁境界を構築しているから大丈夫なわけだが、フィルタの状態を調べるには一階ずつ確かめながら下りてゆく必要がある。


「…………………………」


 七百三十メートル。ざっと数えて七十階分。


 思わず溜息が零れた。安全を確かめたら、帰りはエレベータで一気に昇るとしよう。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「何だあれは?」


 精錬ブロックへ踏み込んだ俺は、素っ頓狂な声を上げた。


 見慣れないものがある。侵入者防止用のバリケードにしては低すぎるし、膝丈ほどの高さもない。試しに近づいてみると、ブゥンという奇妙な音がした。いや感覚的には気配と表したほうが近いかもしれない。


 動物の排泄物が転がっているのを見て、ようやく俺は理解した。


 こいつは多分鼠除け。指先を触れてみたら、案の定微かに痺れが走る。雷の小型版とも言われる電気というやつだろう。念のため結界を構造物で取り囲んだ浄化炉は、鼠くらいではびくともしない。衛生面に神経質な所員でもいたのか。


 それなりに効果はあったようで、精錬ブロックに鼠の糞は見かけなかった。


 しかし掃除は行き届いておらず、二年分の埃がコンクリートの床を覆っている。足跡がひとつもないのは、事故が起きて間もなく全員引き揚げたため。本当に誰もいないのだと断言せざるを得なくなる。


 一階につき約四十五分。初日は八階、四日目は七階、七日目は六階と数を減らしながら。俺は少しずつ精錬塔を下りていった。食糧は荷物になるため資材運搬用のエレベータで運ぶ。目算が外れると食糧を求めて移動しなければならなくなるから真剣だ。全体を調べ終えるまでに、およそ十一日から十二日程度かかるだろう。


 作業は順調に進んだ。十日目を終えて想定どおりの地下六十八階。もう一日頑張れば、最下層の地下七十階に到達する。俺の仕事に不備がなければ、ようやく晴れて次の一歩を踏み出すことができる。


 もっとも死んだことにはされていようし、ドリームシェアに関して何か碌でもないことに巻き込まれているのも間違いない。周辺地域との郡境には派手な検問が敷かれている。ここを出られるにしても、人相を変えるやら偽名の算段やらをしておいたほうがいいだろう。


 やることは沢山ある。ゲームの神様のお告げも含めて、すべきことから考えねばならないのは気鬱の種だったが。


 ツナ缶とオレンジで晩餐を済ませると、硬い寝袋に包まった。


 残暑の季節とはいえ、湿った剝き出しのコンクリート床は冷える。泊まり込みは日常茶飯事だったにせよ、明日をも知れぬ身で独りとなると心細さは拭えない。無事避難できたはずの同僚達の顔が浮かんでくる。


(…さすがに、これまでだよな。いくら悪運が強くても……)


 親しい同期の何人かに、現実では聞かせたことのない愚痴を零す。


 慣れた仕事に没頭して、ようやく俺は冷静さを取り戻した。直感的に悟ったことを言葉で理解し、止め処なく涙が溢れる。


 多分俺は、二度とステラに会うことができない。


 会えば迷惑がかかる。何かを知っているはずだとして、俺を捕まえようとする連中がいたら。もしかすると既に二人の周りを見張っているかもしれない。のこのこ様子を見に行けば、利用価値があるとみて誘拐されてしまう惧れすらある。


 記憶が戻ったからといって、そこに意味があるとも限らない。秘密を秘密と認識していないにもかかわらず、知られてしまったと誰かが誤解しているとしたら……?


(…くそっ。考えるな……)


 思考の底を脱け出せないまま、俺は泥沼に引き込まれていった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 翌朝。午前六時四十五分。


 微睡んでいた俺は、無理矢理アラームに叩き起こされた。


「う……」


 精錬塔は式を刻むための構造物だから、必要以上に隠さなくてよい。そうでなくとも地下二十二階以降は海底に没しており、外からの視線や光が一切遮られてしまう。


 日の出を拝むなど贅沢の極み。地層や海洋生物の研究者にとっては、窓の外に見える規則正しい模様が貴重なボーリング試料と言えるだろうが。


 もそもそ這い出し、最後の食事を口にする。五フロア分の深さがあるものの、ここから先は僅か二層。フィルタが二種類あることを差し引いても三時間とかからない。


 地下六十九階と七十階は、他のフロアと様相が違う。エレベータでは繋がっておらず、長い石造りの階段を下りた先にある。


 まるで古代の遺跡だ。俺も最初に踏み込んだときは、異様な雰囲気に気圧されて五分と持たず逃げ出してしまった。まさに混沌そのもの、何もないところで燃えたり凍結したりしている。マナの濃度が非常に高く、そのうえ不安定なのだ。まるで昔話に聞く魔法使いの仕業――眉唾物だと思っていたが、東はリトラ共和国の森の奥にいる精霊の依代エルフ族の伝説は本当だったらしい。口も手も出さずにマナの状態を偏らせ、想像の力で任意の自然現象を起こさせたという。


 こういう憶測も成り立つ。精霊の依代が集団で平穏な様子をイメージすれば、あるいは災いを遠ざけられたのかもしれない。できるかどうかは別として、そのように考えてしまうだけの文化的な素地はあった。未浄化のマナが拡散して滅ぶ前の人々は、荒ぶる自然を鎮めるためにここで儀式でもしていたのだろうか。


 大半の人々は、多分この場所を知らない。ミスラ人だけではなく、同様に浄化炉の恩恵を蒙る全南部諸州の国民達も。


 巧妙に隠された扉の向こうへ俺を誘ったのは、マナ精錬所を運営するエネルギー資源会社の株主。名前は……すまん、はっきりとは憶えていない。ファミリーネームがアル何某と言ったか。とにかくそいつは現場に似つかわしくないブランド物のスーツ姿で現れ、倒壊した術式構造物を指差しながら。戸惑う俺に対し、こう切り出してきた。



 ――直してくれないか?無理なら同じものを造るのでもいい。



 息を呑む間すら惜しく、俺は奴の言葉に頷いていた。


 今の世にはない未知の技術。可能性という名の魔力に魅入られてしまったのだ。


 自業自得と言える。その結果、全てを失ったとしても。昔話に出てくる魔神は、普通の人間と同じ姿をしているという。あいつがそうだと言われれば納得するだろう。


 俺が選ばれたのは、修士号取得の学位論文が原因だった。高密度配線住宅の加速現象に伴う社会的寿命の損失――要は少量のマナを浴び続けて速い時間の中にいると、周りの人間からは早死にしたように見えるって話だ。未浄化成分の蓄積により発生し得る病気についても触れたため、奴の興味を惹いたのだろう。


 それから一年もの間、俺は半ば泊まり込みで古代の遺産を解析した。秘密を守るため、三次元データを取り込み持ち帰ることもできない。一部を写し取っては六十九層へ避難し、地道にプログラムを再現してゆく。


 検討の結果、修復は諦めて似たものを造りなおすことになった。


 同じと言い切らないのは、使われている石材がどこで手に入るのか分からなかったため。またあれほど大規模な石切り技術も、残念ながら失われてしまっている。文明が進歩したからといって、全ての技術が優位であるとは限らない。必要条件が分からなくて不安だったが、とりあえず現時点で製造できる最も堅牢なコンクリートの塊を成型させ、俺が自分の手で術式を書き込んでいった。


 二十日前の晩――いや一昨年の九月三十日。ようやく成果品は完成した。


 九十八もの巨石を積み上げ、ある地点を取り囲むように構成された術式。自分で言うのも何だが、こいつは美しかった。古代人の叡智と近代技術の融合。少しでも工学を齧った者なら、これには一見の価値があると思うだろう。


 フィルタリング機能が問題なく働いたのを確認して、俺は精錬塔を後にした。率直に言わせてもらえば、地上部分や海中の量産型フィルタは壮大なるオマケ。一番大事な部分の起動試験は既に終わっている。役所の完了検査は同僚に任せ、長期休暇を取得した。


 俺しか知らない技術。俺にしか造れない製品。それらが存在することに、俺は満足していた。今この時点において、俺は世界一の技術者。お前のパパは凄い男なんだぞ――そう娘に教えてやりたくて。そのことがキャシーの怒りに触れてしまい、二人とゆっくり話す時間は持てなかったんだが。秘密の部分は曖昧にしつつ、半分酔い潰れながらシオメラ相手に慣れない自慢話をしたわけだ。


 今の名前が使えない以上、二度とシオメラにも会えなくなる。偽名で別のインカネイトを作ったとしても、中身がスミスだと信じてもらえなければ意味がない。また同じ笑顔を見せてくれるとは限らない。


 そう考えると寂しくなった。断崖に摑まる指先を一本ずつ剝がされてゆくような心境になる。死人も同然の俺の手元には、もはや何も残されていないのだと……



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…やあ、プール君」


 重い扉を開けると、そいつは穏やかな調子でのたまった。


「戻ってくると思っていたよ。君は仕事熱心だからな」


「……ほざけ」


 陽気な声を突き放しつつ、俺は怒りに震えていた。無意識に工具を握り締める。誰もいないと結論づけたばかりだったが、奴の姿を見ても不思議と驚かなかった。


 こいつは魔法使いなのだ。幅広い分野において、他者の追随を許さない膨大な知識量を誇っている。埃に残る足跡を隠せたとしてもおかしくない。


 意外そうに肩を竦めると、そいつは自分の顔を丁寧に撫でまわした。忽然と現れたときによくやる仕種。どういう意味があるのか分からない……本当に分からないのか?いや何となくだが思い出せそうな気がする……?


「…本当に大したものだな、君は。記憶洗浄の効果も限定的なのか」


 製錬会社の株主は、草臥れたスーツ姿で頷いた。


 虹色の闇――浄化されていない濃密なマナの海。生身の人間がこんなものに触れたら、まず一時間と保たずに発狂してしまう。にもかかわらず、こいつは防護服の類を身につけていなかった。未知の技術による賜物か、頭がおかしいかの二つに一つ。


 これと同じ光景を、俺はどこかの街で見たことがある。あれは……そう。信じ難いことだが、確かにゲームの中だった。冗談が現実になったとき、それを指摘した人間は虚ろに嗤うしかない。


「…何を企んでやがる?お前は『グラキエル』を作った奴の仲間なのか。ここの事故とゲームの異変には関係があるんだろ。何故なら――」


「ドリームシェアは現実。あの夢は、現実と同じ構造を有している」


「……………!」


 とうとう認めたのだ。フェリックの社員でもない一般市民の前で。


 まだ不整合な記憶はある。アスルタンの旧市街へ戻った後、聖堂まで歩いていってログアウトした記憶がないことだ。にもかかわらず見覚えのない大通りで食べたバージョンアップ公開記念のクッキーの味は憶えている。


 記憶が混ぜられているのだ。モザイクかパッチワークのように継ぎ接ぎされて。俺以外に被害者はいるのか、何のためにこんなことをしたのか。事故の件も含めて問い質す。だんまりを決め込むなら、厳しく身体に訊いてやるまで。


「君と争うつもりはないよ。改めて教えられることも少ないがね」


「ふざけるな。それで納得できると思うのか」


「確かに思わないが……納得できないのは、君のほうが変わったからではないのかな?」


 奴の言うとおりだった。しかし向こうの言い分を認めれば、それで話が終わってしまう。八つ当たりでも何でも、俺はこいつを殴らずにはいられなかった。


「危ないよ。そんなものを振り回しては……」


 俺の繰り出した工具を、見かけによらない身のこなしで躱した。


 動きにくそうな恰好をしているのに、どういうわけか恐ろしく素早い。捉えたと思った次の瞬間には、その場所から消えている。


「別の仕事も頼みたかったのだが……技術者としての自分に未練はないのかね?」


「くそっ!」


「…聞いてくれそうにないな。唄でも唄おうか?…鬼さんこちら、手の鳴るほうへ……」


 身を翻し、擦れ違いざま足を掛けてくる。躓いた俺は、頭から石床へ滑り込んだ。途端に息苦しくなり、喉元を掻き毟りながら激しく噎せる。触って確かめると、防護服の表面が何箇所も擦り切れているのが分かった。素材が傷つけば、そこに書かれた術式も乱れる。国境から遠く離れた精錬所の防護服は、荒事を想定した造りにはできていない。


「上に戻ろうか。落ち着いたら、もう一度話を……!?」


「ふざけるなと言ってるだろうが!」


 盲で放った一撃は、奴の足首を捉えた。いわゆるクリティカルヒット――昔ながらのゲームの文法で言えばそうなる。怯んだところに圧し掛かり、更なる追い討ちを試みた。認めたくないが、青瓢箪のくせに奴は俺より強い。この機会を逃せば、碌でもない企みの報いを受けさせることはできないだろう。


 今にして思えば、このときの俺は覚悟が足りなかった。殺すつもりでやっていれば、あるいは後に続く不幸を避けられたかもしれない。俺の手元も疲労で怪しくなっていた。


 魔法使いが何事か唱えると、周囲のマナが俄かに励起。突如起こった爆炎により翻弄された。どうにか体勢を立て直している奴の頭に当たってくれればと思うが、世の中そう甘いものではない。復讐の鉄槌は見当違いの方向へ撥ね飛ばされ、俺が心血を注ぎ込んだ成果品のコンクリート面に突き刺さった。


「あ」


「…おや?」


 そこは最も重要な式が刻まれた部分。手つかずの不純物を七十層に閉じ込めておくためのものだ。どの文字も同等の価値を持って編み上げられた力は、ごく僅かな傷でも本来の機能を損ねてしまう。


 それゆえ特別に強化プラスチックの覆いをかけていたのだが……経年劣化ならいざ知らず、人工的な突起物が充分な位置エネルギーの転換を以て振り下ろされるとまでは、部品メーカーの開発者達も想像しなかったに違いない。


「…………っ!」


 虹色の闇が、急激に勢いを増した。


 この場に留まる危険性は、今までを遥かに上回る。事を分けて詳しく説明する必要もあるまい。俺の身に起こった事実をそのまま述べればいいことだ。


 まず気分が悪くなり、嘔吐と頭痛に悩まされた。そうして動きを阻害されているうちに、実体を持つ不純物の襲来とそれに伴う更なる防護服の損傷。ほとんどは魔法使いが自分の身を護るために退治してくれたが、即座にとはゆかなかった。不鮮明な鉤爪らしいものに襲われ、俺は一切の加護を失った。気づいたときには化物の姿も魔法使いの影もなく、六十九層から六十八層へ上がる階段の途中に転がっていた。


 一瞬のことだった。違うのかもしれないが、少なくとも俺はそう感じた。


「どう、なったんだ……?」


 呟きを洩らし、皺嗄れた自分の声に驚く。


 それから俺は、あいつがいつもしているように自分の顔を撫でてみた。


 そして愕然とする。やたら乾いて弾力の乏しい感触に。


 どういうことだ。どういうことなんだ。


 今までにない焦りが、俺の心を苛む。


 これ以上失うものなど、ないと思っていた。


 まさか。


 まさか。


 六十八層まで這い上がり、海底の砂だけを映している大きな窓を覗き込む。


 大体予想がついた。気持ちはどうあれ……学術的な理屈のほうは。


 学生時代、自らの修士論文に記述したとおり。


 

 ――加速現象に伴う社会的寿命の損失。

 ――未浄化成分の蓄積により発生し得る病気。



「あ……あ………あぁあ」



 ――高密度マナに中てられた人間のなれの果て。



 そして俺は、現実を受け容れた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ……とまあ、こんな感じだな。余すところなく喋らせてもらった。ミキサーで捻ろうがスクリュープレスで潰そうが、これ以上搾り取れるものは何もないぞ。


「ありがとうミスター。辛いことを思い出してくれて……でもまだ、もう少しだけ説明できることがあるわよね?」


 あんたは鬼だ!それとも悪魔なのか?


 ……だがまあ、言っていることは間違いじゃない。あれからリカルド郡を離れ、ミスラD.C.に出るまでのことを話していなかったな。そのあたりを補足するとしよう。あんたの些細なところに拘る癖も、さすがにそろそろ慣れてきたよ。


「しつこい女でごめんなさいね。病院にまで押しかけてきて」


 まったくだな。マスターの奴も、あのまま死なせてくれればよかったものを……俺に馬鹿高い入院費を払えっていうのか?そんな金どころか俺には保険証もないぞ。


 ああ、何の話だったか。そうだ、この街に来るまでの話だったな。取り立てて面白くも何ともない話だ。聞いても多分、再確認程度にしかならないだろう。


 魔法使いの目を眩ませたものの、俺は若さを失ってしまった。薬で治るもんじゃないし、対症療法をしようにも半ば手遅れときている。思ったより根性が汚れていたのかもしれない。あの後すぐ病状が進まないうちにリカルド郡を脱出した。


 軍歴の浅い俺にも、陸軍の連中はどこか遠慮しているように思えた。遠巻きに被災地域を囲み、精錬所はおろか安全な市街地にすら近寄ろうとしない。お蔭で誰にも見咎められることなく、こうして娑婆の空気を吸えるようになったわけだが。まるでドラゴンの縄張りを前に怯えるリュンクスかグリフィンのようだったよ。


 キャシーが口座を凍結させていないのは助かった。使う暇もなく貯め込んだ残業代のお蔭で、俺はどうにか暮らしてゆくことができている。


 テレビ番組では、今なおリカルド郡が深刻な汚染に冒されていると報じていた。


 冗談じゃない。それが嘘だってことは、現地に行けば誰でも分かる。


 あいつが何かやったのさ。金だけは持っていそうだったからな。軍や政治家の連中に裏から手を回して、えげつない買収工作でもやったのだろう。


 え?違う?政府は政府の都合で、リカルド郡の現状を隠蔽することに決定した?


 それはどういうわけだ。他にも糞みたいな企みがあるというのか。事と次第によっては、殴らなきゃならん相手が増えてくるぞ。


「…元気そうで何よりだわ。でも今は安静にして。私が代わりに殴っておくから」


 ……あんたが?


 はは、そいつはいい。その魅力的な細腕でか?


 やめておけ。悪いがそんなのでは、別れた嫁さんにも敵わんぞ。


 いや……すまん。皮肉を言うつもりはなかった。


 無理はせんでくれ。前にも話したとおり、厄介事は御免なのだ。


 俺には何の力もない。俺のしたことで、誰かが苦しむのを見たくなかった。


 自殺する勇気もなく、あの店の決まった席で泥のように溜まっている。


 それが俺だ。あとは朽ち果てるのを待つばかり。


 仕方がないだろう?相手は常識の範疇を超えた恐るべき魔法使いなのだから。


 さすがに気違い染みてきたか。別にそう思ってくれて構わん。妄想癖の老人が一人、ひっそりと負債を残したまま消えるだけのことだ……


 さあ帰ってくれ。わざわざ見舞いに来てもらって悪かったがな。


 またあの店に行くことがあったら、マスターには世話になったと伝えてくれ。いろいろ愚痴も零したが、あんたのバラライカは最高だったとな。


「……ミスター。あなたに会わせたい人がいるの」


 俺の話を聞いていたか?これ以上関わると、あんたにも迷惑がかかると言ったろう。どこの誰か知らんが、その物好きな奴にも同じことが……


「事情は全部話してある。彼女も疑われていたから。でも結局大したことではなかったの。通商族の重鎮である首相と閣僚の一部が、安定的なエネルギー資源の供給をちらつかせて南部連邦構想を推し進めようとしただけ。ミスラのエネルギー資源に依存するよう仕向けた上で、逆らうと打ち切るぞってね」


 そいつは聞いたことがある……ありがちな陰謀論だと思っていた。魔法使いと軍は仲間ではなかったのか?


「違ったみたいよ。マナ製錬の技術が諸刃の剣と分かって、装備の動力源にと考えていた軍は手を引きたくなった。それに対して財界や商務省は、ここ数年のマナ希薄化による産業競争力の低下を何とかしたかった。利用に出遅れただけあって、エルニア北部には高密度のマナが残されているものね」


 その隙をあいつに突かれたわけか。方針を決められない政府内の矛盾が、軍の曖昧な挙動になって表れた……


「精錬所事故の記事と繋げて再送しておいたから、世論への影響は小さくないと思う。軍高官、政治屋連中、利権官庁、財界……今後三十年は、どの勢力も『深淵』海域の開発に手を出しにくくなるはず」


 俺がいた会社はどうなる?今回の騒ぎ、事件としては報道されなかった。が、あんたの話を総合すると悪事の片棒を担いだと言えなくもない。そうすると……


「知らぬ存ぜぬを繰り返しているけれど、そろそろ限界ね。国内外にある事業所もスパイ防止の名目で閉鎖されたし、言うまでもなく公共事業の入札参加資格は停止。三日ほどストップ安を繰り返しているわ」


 下手すると潰れるかもな。膿は洗い出されたということか……


「ええ。マスコミが煩いからフランク=プールの名を使うのはお勧めしないけれど……あなたと彼女は、もう大手を振って外を歩けるようになったはずよ」


 ……………………。


 ……………………。


 ………そう、なのか……


「yes.あなたの代わりにぶん殴る仕事が残っているから、少し時間をいただくけれど。それでも彼女と会いたくない?」


 ちょっと待て。あんた、さっきから誰のことを言っている?


 確かに俺は、捜してほしい女がいると言った。だが、それは直接会うためじゃあないぞ。あまり裕福な身の上ではないと聞いていたから、俺が死んだ後にささやかな援助を届けてくれるよう頼んだだけだ。人生これからの若い女が、先の短い老人と会ったって何ひとついいことはあるまい。


「そうかしら?だってミスター、本当は三十四歳でしょう?」


 標準時の上ではな。ええい、揚げ足を取らないでくれ!とにかく俺は会わんぞ。あんたはくたばりぞこないの最後の頼みを聞いてくれるだけでいいんだ!


「悪いけれど、それは無理」


 何故だ。約束が違うじゃないか!


「いいえ違わないわ。それに、もう連れてきてしまったもの」


 ん?…今、何と言った?それはどういう……


「アイシャ、入りなさい……彼がフランク=プール氏。スミス氏の中の人よ。見た目はお年寄りだけれど、大体の事情は説明したわよね?」


「はじめまして。アイシャ=ルシエンテスです。一度、リアルでお会いしたいと思っていました。私のために危険を顧みず戦ってくれて、本当にありがとうございます」


 あ……ああ。もう終わったことだ。気にしなくていい……それより会ったばかりで済まないが、後ろを向いて両耳を塞いでいてもらえるか?


「……?こうですか?」


 そう、それでいい。聞き分けのいいお嬢さんだ。素直で助かるよ。


 作家さん……ちょっと来てくれ。折り入って話したいことがある。おいこら待て、何を気色悪い笑みを浮かべているんだ。いいから早くこっちへ来い。


「え?一体何のことかしら?」


 恍けるな!あんた脚色して喋っただろう!?俺がアスルタンの新市街で混沌のマナを封じた理由を!酒に酔って気が大きくなった俺は、翌朝のBBSの話題をかっさらえるんじゃないかと想像しただけだ。あの子のためにやったわけじゃない。


「そうだったかしら?確かにあなたの口から聞いたわよ。『彼女を危険から守るために、マナの源泉を封印することにした』って。ほらここ、取材ノートにも書いてある」


 ……っ!?騙されんぞ。あんた、そんなもの取らなかっただろう。


「ばれたか。でも言ったことは認めるわけね。アイシャ、もう耳栓やめていいわよ。元からしていなかったけれど」


「はい、お姉さん。でも吃驚しました……本当にお姉さんの読みどおりでしたね」


 ……何が読みどおりなんだ。分かるように教えてくれ。


「耳を塞げって言われたことです。私が来ていると分かったら、スミスさ……プールさんは絶対に口裏を合わせたがるだろうって。そしたら案の定……私が恩を着ないように、嘘までつこうとしてくれました」


 ………………。お見通しってことか。全部。


「はい。お姉さんは凄いんです♪」


「男が単純なだけよ。前にも言ったでしょう」


 …頭痛がしてきた。悪いが少し休ませてくれ。


「はい、あの……お邪魔はしませんから。黙っていますから……このまま、傍にいてもいいですか?急に具合が悪くなるかもしれませんし」


 ……好きにしてくれ。だが何もしなくていいからな。本当にいるだけだ。


「はい♪いるだけでいいんですね?」


 いてもいいと言ったんだ。それは意味が違う。


「あれ?そうでしたっけ?」


 ……もう、いい。俺は寝るぞ。


「それじゃあね。ミスター。また今度お酒って約束、三人でお茶にしましょう。あ、それとも私はお邪魔虫になるのかしら?」


 いいから早く帰れ。いや待て、マスターへの伝言は忘れるなよ。そうしたらバラライカを一杯、遺産であんたに奢ってやろう。


「はいはい。分かりました。本当に身勝手な人ね……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 数年ぶりの穏やかな気持ちで目を閉じたとき。あの女は足を止めて振り返った。それから溜息を洩らし、はっきり頷くと――軽い調子でこう云った。これは俺の勘に過ぎないのだが、どことなく思い詰めたような視線が気にかかる。


「いけない。忘れるところだったわ」


 女という生き物は、俺の予想を裏切らないと気が済まないようにできているらしい。


「もうひとつ大事な用があったのよ。アイシャ、ミスター。今でもグラキエルのアカウントは生きている?」


 いきなり何を言い出すのか。だが今更隠すことでもない。正直に答えておく。


「あ、ああ……インカネイトもユーザ名もそのままだ。弄れば生きていることが露見するからな」


「私もです。新しく作り直しましたけど」


 忘れたつもりでいたくせに、心のどこかでスミスとの約束を憶えていたのかもしれない。さすがに恥ずかしくて、これは言葉にできなかったが。


「二人とも持っているのね?…それなら話が早いわ」


「……お姉さん?」


 アイシャが不安げに呟いた。俺の中でも、今まで存在しなかった感情が湧いている。



 ――疑念。


 

 女に弱いのは昔からの悪い癖。いつの間にか警戒するのをやめてしまった。最初は怪しいと思っていたはずのに。


「…あんた。何者だ……?」


「セシリア=ローズ。売れないフリーの物書きよ……いいえ今日からは、アガサ=オースティンだったかしら?」


 瞳が妖しく光る。少なくとも俺には、そう感じられた。主の気分を察して、身体が正常な反応を起こす。端的に言えば激しく噎せた。胸が苦しい。息が詰まる。


「!?ボーマンさん!」


 アイシャと同じ色の指が、あり得ない速さで文字を描く。それを見たとき、俺は魂が消し飛ぶかと思った。驚きのあまり、心臓が早鐘のように脈打つ。


 そう。この女は魔法使い――四年前まで働いていた会社の株主と同じ。


 あいつに命じられて、俺達の口を封じるために現れたのか。だとすればアイシャの願いを叶えてみせたのも、酔狂な茶番ということになる……


 気力は残っていた。しかし、身体が動かなければどうしようもない。


 枕元に立つアイシャの目は、今もお姉さんとやらを信じている。娘のステラをそのまま大きくしたような子だった。お人好しのアルバイトが騒いだところで誰も聞きやしない。せめて彼女を見逃してもらうことはできないのか。


 残酷だ。自分だけならまだしも、よくしてくれた相手を巻き込むなんて。信じたことはないが、神様ってやつは余程人間が嫌いらしい……それでも。


 俺は泣いた。曖昧な意識の中で。あの優しいシオメラのために。


 ただひたすら、願わずにはいられなかった。

――月刊くらしの友 〇四一四年十月号

 二百年前と比べて私達の生活は格段に便利になった



【MANA!マナ!魔雫!】


アサカワ教授(以下、敬称略) 現代の私達の生活に、これほど深く浸透した技術もないでしょ

 う。

編集 そうですよね。

アサカワ 家の中では料理、洗濯、掃除。外でもマナがないと列車やバスは動きません。工場だ

 って同じです。そうなると結局、何も食べるものがないんですね。

編集 食糧の生産や流通が止まってしまう、と。

アサカワ はい。昔ながらの有機農法に戻る手法はあるでしょうけれど、全員の口は到底満たせ

 ないでしょう。今の文明は、マナが失われた時点で終わりです。そういった危うい、一種の綱 

 渡りみたいな状況の上に成り立っています。

編集 なるほど。

アサカワ 先人の偉業に感謝しなければいけません。復興末期の研究者達が、命の危険も顧みず

 に現地調査と検証を繰り返したお蔭で今があるのですから。



編集 そういえば最近、景気のいい話を聞きました。今までより高出力のマナを家庭でも使える

 ようになるそうですが。マナ消費量は多いものの魅力的な商品の開発、マナ料金の値下げなど

 による経済の活性化が期待されます。

アサカワ 新しい精錬所の建設ですね。今まで不可能とされてきた大規模泉脈の利用に目途がつ

 きました。

編集 危険はないのですか?高出力のマナと聞くと、どうしても我々素人は大災厄のことを連想

 してしまって……

アサカワ 二百年前に見つかったときは危険なだけの存在でした。しかし今は大丈夫です。湧出

 量も不純物濃度も安定していますし、普通の施工管理と厳重な警備を行えば問題ありません。

 精錬所の根幹は物質的な資材で造られるものではなく、抽象的かつ論理的なプログラミングか

 ら成り立っています。記憶媒体には永続性の高いアルミニウム系のバインダーを使用したコン

 クリートが使われているとか。意図的に破壊――それこそ爆弾テロでも起こらない限り、まず

 安全と言って差し支えないでしょう。(以下、略)

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