Player 03 David Bowman
昼寝から覚めると、世界が終わっていた。
正確に言えば、そのとおりではない。街は壊れておらず、急に人だけがいなくなったような感じだ。テレビは問題なく映るし、水道やマナも通っている。
多少の品切れこそあったが、店には豊富な生鮮食品の山。缶詰なども含めれば、優に三年は食い繋げるだろう。着る物や日用品に至っては、一生かかっても使い切れないほど。衣食住の全てが満たされており、生命財産を脅かす犯罪の恐怖もない。自分の他に誰もいないことを除いては、ほとんど普通と変わりがなかった。
さて。これから俺の身に起こったことを伝える前に。少しばかり自己紹介をする必要があるだろう。趣味嗜好は関係ないが、およその考え方や経歴は知っておいてもらったほうがいい。突拍子もない話だし、酒の肴に聞いたとあっては真実味を欠くからな。正気を疑われても困るし、俺から聞いたとは言わないでくれよ。
約束するか?…じゃあ、始めるとしよう。
まず仕事。俺は技術者だった。ようやく小さな班を任せられる程度の、駆け出しから一人前を過ぎたくらいの頃だ。上司の指示を受けながら同僚や後輩達を纏める。悩みばかり多くて実入りの少ない中間管理職ってやつさ。
残業続きで心身共に疲れ果てていたが、文句ひとつ言わなかった。今にして思えば馬鹿馬鹿しい話だが、同期の中では早い昇進だと張り切っていたんだろうな。もしも社長に会えたら、未払い分の給料をきっちり請求してやる。
話を戻そう。とにかく俺は、ライフラインの供給に関する知識を持っている。それも一番新しいマナ工学の分野だ。そうは見えないかもしれないが、高密度配線住宅の加速現象に伴う社会的寿命の損失に関わる論文で修士号も取っている。お前さんが何者であれ、この件で俺を出し抜こうとするのは不可能ってわけだ。
「話をするのは、あなたでしょう?私は、それを聴きに来ただけ」
はは。そりゃごもっともだ。なら精一杯、騙されないように気をつけてくれ。
さあ、ここからが本題だ。○四一四年十月九日、やや肌寒い小雨の降る朝。リカルド郡ハディス、最大級のマナ精錬所を擁する国内有数の工業地帯だ。
と言っても田舎には違いないから、空気はいいし飯も美味い。一押しはアンチョビのマリネ。もし行くことがあったら、どこか適当な店に足を運んでみるようお勧めするよ……と、また逸れてしまったな。どうも俺は、寄り道が多過ぎていけない。
仕事の話ばかりしておいて何だが、事件に巻き込まれたのは仕事中じゃなかった。大きな山をひとつ越えて、久しぶりの休暇を楽しんでいるときだった。
当時嵌まっていた趣味は、全感覚を連動させる体感型のRPG。聞いたことはあるかな?『グラキエル』っていうんだが……空間の記憶結晶に構築した仮想世界で、別の肉体を持つことができるんだ。頭の中だけにある贋物と分かっていても、あれには驚かされたよ。怪我をすれば痛いし、飲めばちゃんと酔っ払えるんだからな。
見てのとおり、俺は腰が悪い。三年前の冬にヘマをしたせいだ。仕事には支障ないが、時々思いきり走ってみたくなるのさ。
自分の足で行くのと、車やバイクに乗るのとは違う。どれだけ早く動いても――それが現実世界のことであれ、どこか嘘臭さが抜けないんだな。一番大きな差は、地を蹴って進む疾走感か。俺のような似非障害者は勿論、生まれつき両脚がない奴でさえ自由に動き回れるというのだから。もはや奇跡と言っても大袈裟ではないだろうよ。
「義足の訓練やリハビリに使っている人もいると聞くわ。普通の歩き方を忘れてしまっては、治るものも治らないものね?」
まあ、そういうことだ。寝る前の五分でもやれるし、動けないせいで気持ちが沈むのも防げる。何だよあんた……随分と事情に詳しいんだな。ひょっとして、そういう業界に勤めているのか?だとしたら人が悪いぞ。あんたの望むような話はできそうにない。
「そんなことないわ。話の腰を折ったのは謝る。でも誤解よ。私は作家をしているの。嘘と真を弄びながら、暮らしの糧を得ている虚業」
そうか。真っ当なブンヤなら、記事が世に出ることはないだろうが……作り話としてなら、連中の目を誤魔化せるかもな。時間がない。話を続けよう。
その日、俺はいつものとおり楽しんでいた。最初の街を走り回ったり、友人と酒を酌み交わせる程度の稼ぎを集めに出かけたりな。たった五十セントでグリフィンの試供品が飲めるうえ、余計な二日酔いも全くない。原材料はデータのみ、酒造メーカーには広告料を差し引いたプレイ料金の取り分が支払われる。運営会社はゲームの奥行きを深められて、損する奴は誰もいないという仕組みだ。食料品や衣料品のメーカーにも、同じルールが適用されているらしい。世の中には、上手い金儲けを考えつく奴がいるものだ。
何の話だったか。ああ、そうだあの夜。浴びるほど酒を飲み、それでも古傷が痛まないことに感謝しながら、店の看板を振り向いたときの出来事だった。
離れた場所にあるものほど、動きが遅いように見えたんだよ。このゲームは無駄に写実的なところがある。そこでマナ工学の技術者である俺はぴんと来た。こいつはマナ欠乏による時間停滞現象だ、と。
学生時代にうっかりマナの貯留槽を開けてしまったことがあるから、不連続な密度差がどのような光景を生み出すかは知っている。自分が速いのも他が遅いのも、目に見える現象としては変わりない。それらのことを一瞬で理解した俺は、甚く酔いの回った頭で一体どこの間抜けがこんな大失敗をやらかしたんだろうと想像した。
『グラキエル』の基本的な目的は、《時間凍結により滅びた世界を解放し、そこを自軍の領土に組み入れる》こと。始まりの街『アスルタン』は領土宣言不可能だが、最も人口の多い都市だけにプレイヤーが自発的に拡張した『新市街』が存在する。
これらは例外なく古参有力ギルドの所領であり、その領主達は紳士風を吹かせて取れる通行税を取っていない。そんな実力派の……言い替えれば廃人プレイヤーの誰かが、基本中の基本である結界の管理でやらかすなんて。俄かには信じ難いと思ったんだけどよ。
今振り返ると、魔が差したとしか思えない。止せばいいのに、俺は異変の中心へ近づいていった。言い訳をさせてもらうなら、そのあたりにも馴染みの店があったということだ。冷やかし半分見舞いがてら、そんなところだろう。
飲み仲間達は、みんな落ちている。野蛮な連中を連れ込みたくはなかったから、丁度いいと言えば丁度よかったのかもしれない。人混みを敬遠した路地裏の小さな酒場は、所帯持ちの俺にとって二つとない貴重な隠れ家だったんだ。
……何だ、意外か?家族もある大人が、休みの日にまで贋物の世界に入り浸っているのが?
一般的に言えば、そのとおりだろう。だが俺達は、そのとき既に別居状態だった。同じ家に住んでいるのに、会話はなければ金も別。世に言う家庭内別居ってやつさ。
九歳の娘だけは相手をしてくれていたが、それも前の日の朝が最後だったよ。学校に行くのを見送って以来、言葉を交わす機会はなかった。
「今でも会いたい?」
そりゃ会いたいさ!子供に会いたくない親なんているはずがない。
名乗り出るかは別として、少なくとも無事に暮らしているのを確認したいと思うのが人情だろう。居場所が分かっていれば、とっくに様子を見に行っているさ。
ああ、どこまで話したのだったか。あんたが余計なことを訊くから、また忘れてしまったじゃないか。
そろそろバスの時間だ。まだ話を聞きたいというのなら、また明日同じ時間に来てくれ。体調が悪いとき以外は、大体いつもこの店にいるからな。
☆★☆★☆★☆★☆
「こんばんは、ミスター。約束どおり、また来たわ」
こいつは驚いた。まさか本当に来るなんてな。甲斐性なしの繰言なんか、とうに聞き飽きてしまったものと思っていたが……
「いいえ。まだまだ聞きたいことがあるのよ。今夜は、どんな話をしてくれるのかしら?」
あんたみたいな人にそう言われれば、悪い気はしないな。今日は俺が奢ろう。昨夜、不躾に怒鳴りつけた詫びだ。
「ありがとう。遠慮なく頂戴するわ」
ここのバラライカは旨いぞ。頗る機嫌の悪い奴でも、こいつを飲むだけで陽気になれる。素材が入荷したときだけ出てくる、『ラプサス』秘蔵の酒には及ばないがな。あいつを超える一杯に、俺は未だかつてお目にかかったことがない。
まだ説明していなかったな。『ラプサス』というのは、俺が行きつけていた店だ。安い金で創作的な酒を飲ませる、やや風変わりな店だ。ここのオーナーが美人でな……って、仮想世界だから当たり前なんだが。それだけでは説明できない面白味のある女だった。足繁く店に通った理由は、酒半分彼女半分といったところだろう。
……そんな目で見るなよ。俺が彼女の元へ通うようになったのは、嫁さんと一切口を聞かなくなってからだ。ああ、認めるよ。実際は酒四割、彼女が六割だ。まだ足りないって?その辺は好きに解釈してくれ。とりあえず進めるぞ。
結論から言うと、『ラプサス』は無事だった。被害が出るとは思っていなかったが、心配しなかったわけじゃない。いつもと同じシオメラの顔を見たとき、心の底から安堵したものさ。他の客がいなかったことも、俺の気持ちを素直にしていたんだろう。
まだ少し赤い俺の顔を見て、彼女はどうしたの、と微笑んだ。
この店に来るとき、俺はいつも酒を抜くようにしている。新しいメニューの実験につきあわされることが多いからだ。心配そうに見えるのは、以前同じことをしたとき酷く荒れていたせいか。後ろめたいことなどないにもかかわらず、俺は浮気をして帰ったような居心地の悪さに襲われた。
――やあ、シオメラ。今日はもう、店仕舞いなのか?
軽く手を挙げると、俺はそう挨拶した。
ゲーム内の仮想時間は、現実世界に準拠している。だから子供が寝ているべき時間に子供はいないし、朝早い勤め人は夜更かしせずにログアウトする。こちら側に住んでいるような一部の連中を除けば、大多数は健全なものだ。リアルでの仕事が何かは知らないが、真夜中を過ぎると店仕舞いすることが多かった。
それにしても早すぎると思って訊ねると、余所の店先で俺を見かけたのだという。
身も蓋もない言い方をすれば、浮気の現場はしっかり押さえられていたというわけだ。ますます居心地の悪そうな顔の俺をひとしきり見つめると、シオメラは口元に手を当ててくすりと笑った。
――冗談よ。今夜は特別。明日遠出だから、早めに寝ておこうと思っただけ。
それで少し酔いが醒めた。早く店を閉めたのは、俺を待っていたからじゃないかと思ったんだ。半分弄ばれたようなものだが、別に悪い気はしなかった。一見の客に対しては、ぎこちない笑顔しか向けられないことを知っていたから。
前に一度だけ、どうしてこの店を始めたのか訊いてみたことがある。それほど流行っているとは言えないし、彼女は明らかに口下手だ。美人で気立てはいいが、多くの男達は彼女の魅力を知る前に足が遠のいてしまうだろう。暗闇に慣れた俺の目には、長閑な午後の陽だまりのように感じられてならなかった。
現実世界で同じような店を持つのが夢。適当を装いながら訊ねた俺に、彼女は真摯な瞳でそう語った。本当の自分は引っ込み思案で、他人と会話をするのが苦手なのだという。仮想世界なら少しは勇気が持てるため、ここで練習しているとのことだった。
「夜の店でなくてもよいのではない?聞いた限りだと、喫茶店かレストランのほうが向いているように思えるわ」
ああ。俺もそう思った。だが、それでは意味がないらしい。小さなうちに亡くなった彼女の母親は、昔バーを経営していてな。それを幼心に憶えていて、どうしても再現したくなったんだそうだ。
結局その日は、眠気覚ましのコーヒーを飲んだだけで帰った。
無理を言っても長居をすればよかったと、今では後悔している。あの日以来、俺とシオメラが会って話をすることはなかったんだ。
さて。店を出た俺は、手持ち無沙汰で立ち尽くした。その日は夜半過ぎまで『ラプサス』にいるつもりだったから、どこにも行く当てがない。さりとて嫁さんが起きている間に、冷たい空気で満たされたリアルへ戻りたくもなかった。治安が悪いのは承知の上、俺は夜の街を散歩することにした。
野次馬根性が満たされなかったのは、あるかもしれない。明日も休みということで、無謀な冒険心が首をもたげていたこともある。護身用の武器を確かめつつ、街の外縁に向かって歩いていった。
アスルタンの新市街は、外側ほど散らかっている。有力ギルドが押さえているのは、運営によって保護された地域の三区画分隣まで。拠点を作るだけの余裕はない中小の古参ギルドが、露地にテントを張って前線基地を形成している。
関所を設けられては初心者が街の外へ出られなくなるから、大通りの延長線だけは有力ギルドに引き渡すのが慣例だ。そして道に面した別の一等地を貰う。リアルの区画整理と同じだから、そこは専門家が関わっているのだろうよ。
剝き出しの地面を歩き回って一時間。俺は何も見つけることができなかった。なけなしの勇気を振り絞ったにもかかわらず、運命の女神は俺に何も求めなかったということだ。
まあ平凡な人生も悪くはないし、リアルでは波風立てず生きてゆくことに決めた。だがゲームの中でくらい、少しは格好つけさせてくれたっていいじゃないか。どこぞの古参ギルドに恩を売って、翌朝の掲示板は俺の画像がトップを飾る。酒を飲みに来るだけのライトユーザでも、一度は夢想したことのある武勇伝ってやつだな。
相当未熟ながら、俺は解凍士のスキルを身につけている。その名が示すとおり、凍結した時間を動かして解放する職能だ。現実世界の俺と同じ、マナ工学の技師と見做して差し支えない。地味な支援役だが、街中でも仕事にありつけるのが強みだ。この力のお蔭で、あまり郊外へ出ずとも酒代を稼ぐことができていた。
「有力ギルドに入れてほしくて、戦闘向きではない解凍士になる人は多いけれど……なるほどね。考えたものだわ」
俺の場合は新しいことを憶えたくなかったからだが。それよりあんた、また秘密を隠していたな。そこまで知っているからには、あんたも相当長いだろう。まったく女ってやつは、隠し事をするのが上手いよな。
「男が鈍いだけでしょう。それより、その後どうなったの?今のところ珍しい話は何もないように思えるけれど?」
それは明日にしよう。そろそろバスが来る。歳を取ると、話が長くなっていけない……
☆★☆★☆★☆★☆
――今日は彼、まだ来ていないのね。
カウンターの前に歩み寄ると、私は長身のバーテンダーに向かってそう訊いた。四十路を回って若干歳を取り過ぎているけれど、意外に誠実そうなところがちょっと好み。そんな内心に気づいているのか、いつもの飄々とした態度で私の質問に答える。
デイヴィッド=ボーマン氏――インカネイト名『スミス』氏は、天気予報が雨のときは現れないのだという。歳のせいか寝込みがちで、前に無理をしたときは一週間も顔を出さなかった。これからの季節、空模様は一層悪くなってくる。話を全部終えるまで、一体どれだけの時間がかかるのか……
「私でよろしければ、話し相手になりますよ。ボーマン氏のことも、それなりに聞いて存じております」
――あ、そう?なら、ゆっくりしていこうかしら。でも、いいの?お客さんのこと話したりして。勝手に秘密を洩らしたって、後で怒られたりしない?
「構いませんよ。ボーマン氏の許可は貰っておりますから。話の核心には届かないかもしれませんが、知っている限りのことはお答えいたしますよ」
――なるほどね。用意周到なこと。来られない可能性を、最初から考えていたわけだ?…じゃあ折角だから、直接本人には聞きづらい話を聞かせてもらおうかな。
――まずは……そうね。彼の名前。あれって本名なのかしら? ボーマンはともかく、デイヴィッドは新し過ぎると思わない?
「ゴールデン・フォックス伝説の五番。彼の名前を借りているのは、ほとんど三十代前半ですね。見た目どおりの年齢なら、偽名なのかもしれません」
グラスを磨きながら、一瞬視線を向けて頷く。一杯の酒と小さな幸せ。それを提供するのが仕事の彼にとって、客の素性は大した問題ではない。味わって酒を飲み、きちんと金を払い、また明日来てくれる。上客とはそういうものだし、その意味で私は最低の客だ。他人の過去をあれこれ探り、頼んだ酒は全てボーマン氏任せ。今は大切な仕事中だから、羽目を外さないよう我慢しているだけなのだけれど……
少し気が引けて、私は追加の酒を注文した。御無沙汰していたこともあって、カクテルの名前を聞いても正直何なのか分からない。氏お勧めのバラライカの杯を空けると、私は二杯目のグラスを受け取った。
「大丈夫ですか?あまり無理はしないほうが……」
無言で微笑みを返し、グラスに口をつけた。思わぬ酒精の強さに怯むも、これくらいなら大丈夫と言い聞かせる。元々酒は強いほうだ。舐めるようにしてゆけば、酔い潰れたりすることはない。
――さ、次をお願い。ボーマン氏は、いつからここへ来るようになったの?
誠実なバーテンダー殿は、やや複雑な顔を浮かべた。氏のことを語るに吝かではないが、それとは別に面倒な客だと思っているのかもしれない。宵の口であることを差し引いても、うら若き女性の酔客は始末に困る。況してや一見となれば尚更だ。
「…二年と少し前ですかね。毎日通われるようになったのは。あれは特別な日でしたから、よく憶えています」
――そのときも今と同じような格好だった?急に老けたりというようなことはない?
「ええ、まあ……持病がおありなのか、時折苦しそうにされますね。近頃、頻繁になってきているみたいです。本人の前では言えないのですが、あまり長くないのでは……」
――そう……急いだほうがいいかもしれないわね。あなたは元々ここの人?彼より先に住んでいたのかって意味だけれど。
「店を出したのが六年前。ここの生まれですよ。ボーマン氏については誰も知らなくて……二年前に引っ越して来られたのではないでしょうか?」
――もうひとつ。家族のことは聞いている?別居状態の奥方と、九歳のとき生き別れたっていう娘さん。とりあえず奥さんはいいから娘さんね。名前だけでも分からないかしら?
「ステラ。そう聞きましたよ。普通に生きていれば、十一歳くらいですかね……」
私は無言でグラスを呷った。酒精の強烈な香りが、渇ききった喉を灼く。
やはり。こちらの計算と大体合う。現実世界で事件が起こった時期。彼のインカネイトが姿を消した時期。仮想世界内で、事故の影響が現れはじめた時期。ひとつ気になる点もあるけれど、それは少し極端な状況を想定すれば説明できる……
――さてと。明日は忙しくなるかな。昼間も仕事があるし、さっさと帰って寝るわ。じゃあまた明日、遅れるかもしれないからボーマン氏によろしくね。
「あっ、お客さん。危な……」
挨拶をして立ち上がった私は、いきなり隣の席へ雪崩れ込んだ。丸椅子は綺麗にドミノ倒し、転ばなかったのがついているほど。夏はまだ遠いのに、じっとりと暑い。
あれ……どうしたんだろう。まさか地震?…いいえ、違うわね。その割には静かだもの。でもおかしいわ。こんなに足元が回……
大きな右手が肩に触れ、私を椅子へ座らせた。上体をカウンターに預けて、ゆらりと頭から突っ伏す。遠話を取り、どこかに連絡している。相手は近くのタクシー会社みたい。馴れたもので、ほとんど説明もなく終わった。
もしかしたら……もしかしたらだけれど。私ってば、泥酔している?
あ。やっぱり。簡単に抜けるからって油断したわ。呂律が回らないと、祈りの言葉は唱えられない。強化された肉体でも、話ができるようになるまで十分。要するに私は――それだけの長い間を、素敵な男性の前で無様に転がっていないといけない……
やって、しまったわね。ばれたらニアに怒られるわ。あの子、どういうわけか私の素行に煩いから。そりゃ昔は上品だったかもしれないけれど、なーんか実感湧かないのよね。とにかく、今の私はこう。それでいいじゃない。
気がつくと、車が走り出していた。運転手のおじ様が、行き先はどこですかなんて訊いてくる。少し考えて、私は適当な住宅地の名前を告げた。塒は三つあるけれど、そこに私の家はない。ここからそのあたりに着くまで、およそ五分。前後不覚のまま出歩いて、拠点が敵に知られるようなことは避けたい。
――あ。ここでいいわ。ここで降ろしてくれる?
私の顔を見て、おじ様は驚いたようだった。さっきまで具合悪そうにしていたのに、五分と経たず素面だものね。術が廃れた今の時代、それは誰が見たって驚くわ。
さてと。ビールでも買って帰るか。冷蔵庫の奥に、スルメが残っていたわよね……
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こんばんは。作家さん。昨夜は悪かったな。
「あらミスター、御機嫌よう。お元気そうで何よりだわ。ずっと一人で淋しかったのよ?」
それは済まないことをした。その分今日は、一気に話を進めよう。俺が解凍士で、結界事故の現場に近づいたところまで話したな?その続きからだ。途中で口を挟まないでくれよ。年寄りの勘だが、俺に残された時間はあまり多くないような気がする。
では始めるか。あの晩、俺は奇妙なものを見たんだ。そんな言葉だけでは足りない、まさに異常と言うべき光景だったよ。空間が剥がれて、七色の闇が滲み出してくる――そういう感じだ。俺は一瞬で、見てはならないものを見たと分かった。
ゲーム内の演出?いいや違う。最前線の攻略プレイヤーでも、そんな現象は一度も見たことがないと聞く。あの仮想世界は、呆れるほど現実世界に忠実だ。各法則の再現率の高さは異常を通り越して不気味だし、他のゲームでやるようなポーカーフェイスも利かない。
擦り剥けば血が出る?高い場所から落ちれば骨が折れる?それは一体どんな計算だ。あんたも物書きなら、物理の基本くらいは知っているだろう。三つ以上の物体の運動は、複雑すぎて予測がつかないってな。
もう分かっただろう。俺達が遊んでいた仮想世界『グラキエル』の正体は……
「……現実。礎の記憶に刻み込まれた、真言法の司る世界」
そのとおりだ。真言法という呼び名は知らなかったが……いずれにせよ現実だ。世界のどこかに箱庭を作って、人同士の殺し合いさえさせているんだよ。
俺は急に恐ろしくなった。天然マナを噴き出している、歪んだ虹色の闇がじゃあない。ここを創った連中は、そんな危険を冒しながら人体実験染みた真似をやって。一体何を企んでいるんだ、と。
そこで俺は、次にどうするべきか迷った。
現実世界と同じなら、無秩序にマナを増減させる『泉』は危険極まりない。下手をすれば瘴気にあてられ、意識不明の重体に陥ることもある。俺の身体は現実にあるが、意識のほうはどこにあるのか。俺だけではない――シオメラがもし、未だログアウトしていなかったら。彼女を危険から守るために、俺はマナの源泉を封印することにした。
天然マナの制御は、まず周囲と切り離した閉鎖系を構築するのが基本だ。記憶格子に必要なデータを書き込み、そのとおりの効果を顕現させる。仮想実験と同じ原理だが、違うのは現実の空間座標を使うってことだ。厳密な測量と設計、それに従って配管を設置する。少しでもずれたらマナが漏れてきて、他の地域と時間が合わなくなってしまう。
最大の難問は、既成のプログラムがないこと。作業の大半を自動化する術式代行システムは、技術者の負担を大幅に軽減する。時間をかけて開発したことはあるが、現場で即興に組み立てるのは初めてだ。妙に簡略化されている操作系も、規格外の仕事をするのには向いていない。
だから俺はシステムの補助を拒否した。たとえ箱庭であれ、現実世界にそんなものがあるのは違和感を覚えるが。『アウラヨコイネガウ』から始まる長文を、俺は書き連ねた。
マナを使わずに術式を組むのは、正直かなり疲れる。仮初めの肉体から生命力を吸われる感じだ。無論こちら側ではできないし、できたとしてもやりたくはない。それでもどうにかやり遂げた俺は、更なる脱力感に襲われた。苦労して作り上げた術式が、全く反応しなかったんだ。
慌てたよ。何せ絶対の自信があったからな。
自分で言うのもなんだが、俺はプロだ。それも学校を出たての新人じゃない。大学院の専門課程を経て、実務経験も積んだ正真正銘の職人だ。命がかかっているからといって、書き間違いなんかするはずがない。
あるいはシステム上の補助を通さなければ働かない仕組みになっているのか……つくづく手が込んでいた。ゲームのルールに従ってやるしかない。
凍結エリアを拓く場合も、注入したマナが発散しないように閉鎖系を構築する。そのまま飛び込めば自分も凍ってしまうから、マナを賦活して時間の停止を防ぐ。普通と違うのは、自分を中に入れないこと。応急手当ではあるが、俺は『泉』の封印に成功した。
無論、根本的な解決には程遠い。俺がやったのは、擦り剥いた膝に絆創膏を貼ったくらいのものだ。結界の効力は時間と共に弱まるから、数日もすれば再びマナが漏れ出す。かといって運営会社に連絡するのも危険な気がする。虚構に気づいたと知れては、どんな目に遭わされるか分からない。とりあえず明日までには、ログインを禁じるなどの措置が取られるだろう。しばらくシオメラに会えなくなってしまうのは残念だったが。
旧市街へ戻る間も、奇妙な現象は続いた。
まず運営会社からの、速やかなログアウトを促す警告。どういうわけか全文を言い終える前に途切れた。俺が結界に悪戯したと思われたのかもしれない。出くわす相手の全員に追い回された。ギルドの自警団とは制服が違うし、体型から一挙手一投足に至るまで完璧に酷似しているのが気味悪い。街中で一人ずつ見たなら、何の違和感も持たなかったろうが。
一番異常なのは空、色味を変えながら激しく明滅を繰り返している。それから急に暑くなったり寒くなったり。旧市街を駆けずり回って不気味な集団を撒いたときには、もう夜が明けて普段と同じように戻っていた。
前にも言ったかもしれないが、『グラキエル』内の時間は現実世界に準拠している。明け方から早朝にかけては最も人口が少ない。大きめの町でも無人になることが珍しくないのは、あんたも知ってのとおりだ。
にもかかわらず、往来は人で溢れていた。不具合のお詫びに補償の品でも配っているのか。それとも新しいイベントの告知?戸惑う俺の元へ獣人族アバターがやってきて、右手に平たい菓子のようなものを押し込んだ。
――祝『グラキエル Ver.4.0』!サービス再開おめでとう!
乾いたクッキーの表には、そんなことが書かれてあった。
徹夜明けで腹の空いていた俺は、おもむろに封を破り中身を口へ運んだ。ピンクチョコの文字は衣と一緒に胃の中へ消えたが、俺の不信感は消えなかった。誰かの陰湿な悪戯か、それとも俺が夢を見ているのか。お決まりの気が早い宣伝じゃあない。何故ならあのときは――異様な事件に巻き込まれる前は。Ver.2.7と呼ばれていたはずだから。
「今の最新は4.3。原型の4.0になったのが二年前……なるほどね」
…とまあ、こんなところだ。俺の身に起こったことが、大体分かっただろう。背景や事情は知らない。興味があるなら自分で頼む。これ以上の厄介事は御免だ。
「ありがとう、ミスター。助かったわ。あなたから聞いたとは言わないし、そのまま発表したりもしない。お互い命は、大切にしたいものね?」
そうだな。俺はともかく、あんたはまだ若い。余計な正義感を発揮して、死に急ぐ必要もなかろう。名前は訊かないでおくよ。口を割られないという自信がないからな。
「それじゃミスター。また今度ね。次に会うときは、普通にお酒を楽しみましょう」
☆★☆★☆★☆★☆
…さて。もう一杯貰ったら、お暇させてもらおうかな。
「大丈夫なのですか?あまり顔色が優れませんが……」
心配はいらんよ。眠り薬みたいなもんさ。それよりあの作家さん、なかなかいける口だったろう?俺の勘は当たるんだ。
「ええ、まあ……バラライカを立て続けに二杯、そのままお倒れになりましたがね」
…そいつは面倒をかけたな。場慣れしているように見えて、意外と初心なところがあるのかもしれん。ちゃんと家まで送り届けてくれたか?
「信用できる運転手に任せました。最近は物騒ですからね、名前も知らない俄かに頼んだりはしませんよ」
それでいい。俺がもう少し若かったら、間違いなく口説いていたな。カミさんとは別れて久しい。娘もどこで何をしているか……そういえばあんた子供はいるのかね。
「十四歳と十二歳になる娘が二人。まあ生意気な盛りです」
…そうか。それは大変だろう……嫁さんには、なるべく優しくしておいたほうがいいぞ。今更後悔しても、時計の針を逆に回すことはできんからな。
ふぅ……御馳走様。ではまた明日、空模様がいいときにな。
「はい、また……本当に大丈夫ですか?よろしければタクシーをお呼びしましょうか」
大丈夫だ。まだそこまでは衰えておらん。俺は無年金だから、金は大事にせんと………む。いや……ぬぅ。これは拙いかもしれんな。仕方ない、あんたの厚意に甘えるとしよう。
「休んでいてください。すぐに来ますから」
ああ……少し息切れがする。やれやれ、俺も長くはないな。悪いが水を一杯貰えるか?話のほうが終わってからでいい。
おお、すまんな。年寄りは喉が渇いていけない……っとと。冗談は止してくれ。あんた手が震えているぞ。いや違う……地面が揺れているのか?
「ボーマンさん!」
何だ?騒々しい。
大声を出さなくとも、俺には聞こえている。
もうタクシーが着いたのか。思ったより早かったな。
あと少し安かったら、座り心地の悪いバスには乗らんのだが。
いずれにしても、最近の車は雑音が酷くていけない………
――週刊ベスト 〇月×日・△月◇日合併号
マナ精錬所漏出事故 政府がひた隠しにする事件の真相
○四一四年十月九日。身の毛もよだつ恐ろしい事故に、南部同盟諸国の全土が震撼した。大陸の南西部に位置するミスラ共和国。豊富な天然マナ資源と発展著しい重工業の景気に沸く、今最も活気ある国だ。昔ながらの漁業文化も息づいており、適当に足を踏み入れた安酒場で堪能できるアンチョビのマリネもなかなかのもの。思わず腰を据え、ついでに一杯と昼間から飲みたくなってしまう。そんな活力と長閑さ、郷愁を併せ持つ不思議の国を襲ったのが、一○・○九に発生したリカルド精錬所のマナ漏出事故だった。(中略)
あれほど厳しかった軍の検問も、今は幹線道路でしか行われていない。大分時間が経ったからだろう。鬱蒼とした常緑樹の森を掻き分けてゆけば、容易く兵士達の目を盗むことができる。蚊や危険な虫に悩まされはしたが、どうにか無事に町へ辿り着いた。
そこで体験したものは、きっと一生忘れられないだろう。真っ青な空。降り注ぐ太陽。潮の香りを運んでくる翠の風。あまりの美しさに、少し早い夏のバカンスに来たのかと錯覚してしまったほど。旅行代理店のチラシやポスターでお目にかかる、あのリカルドが広がっていたのである。(中略)
不審に思った記者は、まず地元のスーパーマーケットへ行ってみた。驚くなかれ、そこは加工食品と日用雑貨の山、山、山。さすがに売り場の生鮮食品は腐っていたが、少なからず持ち出された形跡があった。レジには裸のまま残された現金。『客』のうちの誰かが、いたたまれず代金として置いていったのだろう。(中略)
風光明媚な危険区域。実は既に収束している事故。立入禁止の町で発見された、死後間もないとみられる若い男性の遺体。これらの情報が示している事実はひとつだ。
政府は嘘をついている。私達市民の目を、何かおぞましい陰謀の影から背けるために。それが何なのかは分からない。しかし我々ペンを握る戦士達は、これからも巨悪に立ち向かい続けるであろう。(C・W)




