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私の中のリアル  作者: 五月雨
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Player 02  Alice Fairchild

 花を、見ていました。


 開拓地の自由市場、その片隅にある露店で。


 白い蕾のハイビスカス。買ったところで飾る家もないのに。


 私の家はアスルタンにありました。先日のイベント災害で滅んだ、古めかしい城壁の街。ここから移り住んで半年、ようやく新しい暮らしにも慣れてきたところだったのに。


「そいつが欲しいのかい?お姉さん俺の好みだから、少し勉強しとくよ」


 漉き紙に包まれた一輪挿しを、気がつけば受け取っていました。


 お代は一ドル。高いとは言えませんが、それほど安いわけでもありません。私は花瓶がないため、枯らすまいと思うなら追加で五ドルの出費が必要になる。


「それも……いただけませんか。黒い、焼き物風のやつ」


「毎度あり。天気がいいから四ドルでいいよ!」


 おまけに切り花の寿命が長くなるという薬を持たされて。形態形成学を専攻していますが、どこかの研究室の試作品でしょうか。そのまま自由市場を後にしました。


 私の名はイスカ。ここでは、そういうことになっています。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「久しぶり。元気だった?」


「あなたは……」


 倉庫にしているアパートの前で、見覚えのある女性に声をかけられました。


 名前は知りません。本当に見たことがあるだけでしたから。


 珍しくもない黒髪。やや身長高め。あえて特徴を探すなら、膚色の濃さが個性的か。前に会ったときより逞しくなったような気がする。かといって筋肉達磨ではなく、鍛えられた陸上選手のような引き締まった感じに近い。


 私が警戒しているのを見て、招かれざる客は腕組みを解きました。


「そういえば、まだ名乗っていなかったわね。私はレオン。以後よろしく」


 差し出された手を握る前に、私は彼女との出会いを思い出さねばならない。


 目的は何か。再び姿を現した理由は。城壁の上で戦った後、私達はリアル割りの脅迫を受けている。ゆえに友好的ではあり得ず。


「狙いは何ですか?」


「お茶でもしようかな、と。偶然見かけたものだから。私、友達が少ないの」


「…………………」


「訂正。友達が他にいないの」


 友達ではありません。


 しかし断ったらどうなるか。それは聞くまでもないこと。


「花を愛でるのね。少し意外」


「余計なお世話です。本部前で構いませんか」


「ええ。落ち着ける場所ならどこでも」


 中世エレン風といった趣のあるミロスは、少し離れると田園風景が広がっている。当然町並みもそれなりで、繁華街と呼べるようなものはありません。


 案内したのは協会直営のオープンカフェ。鉄と泥の臭いに塗れた冒険者が、仕事の打ち合わせや報酬の山分けを相談するために使う場所。


 慣れていればともかく、大抵の人は気持ち悪くなります。アスルタンからの避難者もいるため、今は難民キャンプの様相を呈している。この店を気に入ったと言うが、荒れ放題の何を見てそう感じたものか。


「表は結構です。裏を伺いましょう」


「その前に……これ花瓶よね。まずは何とかしないと」


 店員に水を運ばせました。包みごと花を受け取り、無造作に挿し入れる――それだけ?呆れて溜息をつく。露店の人もお湿りくらいやっている。


 驚くのはここから。茎に触れると小さな声で何か唱えた。


 抜いてみろと言われ、気負わずに試してみる。ところがハイビスカスの株は、どれだけ力を込めても根が張ったように外れない。


「再生させたの。これも一週間前の力と同じ」


「綴りもなく?いいえそれ以前に、欠損部位を回復する魔法なんて」


 常識を外れている。率直に言ってあり得ない。言霊は主に物理現象のみを司る。相手の動きを封じたりはできるが、ここまで精密なコントロールは不可能。なおも驚いていると、曰く意味ありげな表情を浮かべた。


「イスカさん、だったかしら。是非あなたの意見を聞かせてほしい。十七歳で院試に合格した、稀有な理学士殿の分析をね」



 ☆★☆★☆★☆★☆



「仮想世界の物理法則は現実世界と一緒。力学や電磁気学、酸化還元相転移触媒酵素抗体反応に至るまで」


 相手をする義理もないが、とりあえず生返事だけ。


「…ええ。それは何となく」


 嘘ではない。無駄にリアル過ぎる、というのが正直な感想。


「どれだけ凄いことか分かるでしょう?どの国や企業でも、そこまで精緻なエミュレータの開発には成功していない。最先端の研究ならともかく、これを遊びのために使う。陰謀論者でなくとも、レイ=アルフォードが何者か疑いたくなるわね」


「……ええと」


 知らない単語が出てきた。


 力学や電磁気学、酸化還元相転移触媒酵素抗体反応は分かる。『グラキエル』はこのゲームのこと。しかしレイ=アルフォードというのは誰だったか?


 淡々と教えてくれました。意外そうな表情が癇に障る。


「レイ=アルフォードというのは、『ドリームシェア』の基礎理論を開発した人ね。出資者と二人でフェリック社を興し、二十数年の間に情報産業の雄へと成長させた」


 思い出してきた。一度か二度、テレビで見たことがあるかもしれない。


「ところで、あの噂はどう思う?」


 またゲームのことに話題が飛ぶ。


「一度ログアウトしたら戻れないって話。外部からのメールは届かない仕様だし、内側に広まってる時点でガセじゃないかとは思うけれど……」


「ビフロストからは届きますよ。事件直後にメールを貰いました。今も似たようなことはあるのかもしれません」


「……死んだら戻れなくなる、とか?」


 突飛な話だった。そもそも運営にとって、そんなことをするメリットがない。


「言いたいことは分かるわ。だから発想を変えてみるの。『ドリームシェア』のゲーム群は、商業目的で開発されたものじゃない、って」


 なおのこと無茶な話。妄想を逞しくするにも限度があります。


「直接訊いてはいかがでしょうか。そのレイ=アルフォードという人に。マスコミ関係者を装えば、取材に応じてくれるかもしれません」


 そんなに甘くないことは承知の上。実はもう試してみたというレオン氏の声音は、思いのほか沈んでいた。


「…会ってくれないのよ。機密のセキュリティがどうとか、これでもかというくらい理由をつけてね。代表取締役は彼しかいないし、COO以下他の執行役員達も全部そう。ある程度上からの業務命令はメールで来ること、執行役員の姿を見た人はいないこと。ひととおり調べてみて、分かったのはそれだけ」


 そこまで一気に話すと、不意に黙り込みました。


 喋り過ぎたと思ったようです。だから今のは、恐らく本当の話。


 その気になれば未成年の私でも裏を取れる。彼女という人物の輪郭が、少しだけ見えたような気がしました。


「言い忘れていたけれど、一応マスコミ関係者だから。持ち込み専門、フリーのジャーナリストってやつ。動機は調査報道を行うため」


 執行役員は全員外国人とか、そういう単純な話ではないのでしょう。その程度のことを見落とすようなら、今すぐ記者なんて辞めたほうがいい。


「普段はゴシップ載せてるの。見たことある?『週刊ベスト』とか『別冊宝の山』とか」


「用が済んだのなら、帰らせていただきますが?」


「……まぁまぁ。もう少しだけ付き合って。本題はここから」


 冗長な煽り文句、嫉妬や羨望に基づく卑しいセンセーショナリズム。書く側の人を初めて知りましたが、想像と違っていたことは認めざるを得ないでしょう。


「あなたなら、どう使う?現実と全く同じ広大な箱庭を手に入れたら……いいえ違うわね。むしろ逆。何が狙いで写実的な仮想空間を作る?」


 ドリームシェアのリアルさは、商業利用の次元を超えたもの。


 『古代』『中世』『近代』『現代』『近未来』。これら五つの時代エリアとは別に、学術研究用として開放された仮想空間もあった。そこでは様々な事情により現実世界では困難な実験――環境基準値以上のマナ濃縮や発熱、時間遅滞の検証などが行われる。


 研究者の端くれとして、シミュレーションの有用性は理解していた。だが現実世界並みにリアルな空間――レオン氏はそれを箱庭と表現した――そんなものが個人の自由にできるとしたら。私は仕事の道具になど使ったりしない。


「……隠れ処。誰にも侵されない自分だけの場所。他人に教えたりしないで……独りの散歩や読書、昼寝の時間を愉しみます」


「それは彼もなの?たとえ相棒でも、その場所には入れたくない?」


「……仲間ではないと思います。どう定義すべきか、私も戸惑っているのですが……」


 この数日にあったことを、全部話してしまっていました。


 男の子の姿で後ろから抱きつかれ、咄嗟にダガーを抜いて反撃。殊のほか極まってしまい辺り一面は真っ赤。通行人にも返り血が飛び、自由市場は大騒ぎになった。


 そして、ありがたく頂戴した称号が『狂犬』イスカ。


 アライアンスには事情を説明して済みましたが、噂というものは容易なりません。ここは完璧な仮面社会。誹謗と中傷を好み、他者への賞賛を惜しむ。自分より強い者が躓くのを、安全な高みから一方的に嘲る機会を虎視眈々と狙っている。


 再び現れた彼は、捨てられた仔犬のような目をしていました。


 悪い噂が広まったことへの謝罪。それまでの傲慢な態度が嘘だったかのように。泣いたり土下座をするのでもないのですが、ただ遠くから見つめてくる姿は哀れで。


 もう憎んでいないのを悟られるのは癪。かといって友好的な相手を無碍にするのもどうなのか。表立って赦した途端、また嗤われるのでは――惰弱な不安を捨てきれなくて。


 今日までに十七回。荒らしの復讐としては充分だと思います。元いたギルドや敵側の分も含めて。むしろ別のことが気になりました。あれほど多く死んで、リアルのほうにPTSDを発症したりしないのか。


 実例は私。他人が持つ刃物への恐怖を、未だ克服できていない。



 ――まだ興味があるなら、もう一回殺してあげる。



 そう囁かれたとき、私の身体は震えました。刃が身体に滑り込んだときの窒息。胃もたれ、吐き気、火傷、冷や汗――それらが入り混じった悪寒。二度と味わいたくない。なのに彼は、お替わりのサラダでも取ってくるような言い方をして。


 まず包丁を持てなくなった。考えるだけであの感触が蘇ってしまう。どうにか忘れたものの、他人の手にあるやつは無理だった。カッターナイフが怖い。試料作り用の剃刀が怖い。テーブルナイフが怖い。メタリックカラーの定規や突起物が怖い。


「戸惑っている、と言ったわよね」


 同情の色は窺えず。そのことに何となく安堵しながら。


「人の本質は変わらない。変わったように見えるのは、欲しいものを得るために学習しているだけ。生まれたときは全員同じなんて無知による妄想、または願望による偽り。仮に事実だとしたら、何のために有性生殖が存在するのか分からない」


 自然科学で目的を問うのは愚かだったわね――自嘲気味に笑う。とはいえ私には、彼女の言いたいことが理解できた。


 定向進化説には造物主の存在が求められる。それも億年の長きにわたり、延々と実験を繰り返す気の長い神が。今私達があるのは、《従前の環境下において有利な形質》を偶然手に入れた結果。誰かの思惑どおりに進化したとは考えにくい。


「欲しいものを得るための手段が、殺し合いから甘えることに変わった。となれば欲しいものも変わったと考えるのが道理。そのあたりを洗い直せと?」


「……そう捉えるか。言われてみれば、その可能性もあるわよね」


 狙いは同じで手段だけを変えた場合。それは行動の主体が見誤っていたことを意味する。あの子は賢い。恐らく殺しには別の動機があったのだと思う。


「申し訳ないことをしたわ。本当に勘違いしていたの。まさかストーカーを連れているとは思わなくて」


「……歳相応の可愛いところもあるんですよ。今は荒らしもしなくなりましたし」


 リアル情報を取り違えた件らしい。


 あのときのプレートは今も私が持っている。見られる前に殺したから、彼のほうは私のリアルを知らない。対して私は、一方的に彼の身辺を洗うことができる。


「参考になったわ。当てたら奢る。楽しみにしてて」


 残りのケーキを一呑み。レオン氏が先に席を立ちました。


「リアルでは遠慮します。知りすぎたから死んでもらう、なんて言われるのも困りますし」


「手後れだったり?今夜あなたの家に黒服の男達が押し寄せるかも」


 ステロタイプの応酬に笑いました。もっと気が利いた描写はできなかったのか。


「それでは。お世話に……なっていませんね。正直、疲れました」


「どういたしまして。二重人格の荒らし屋少年にもよろしくね」


 自称三流ライターとは、再会の約束をしませんでした。協会本部の調整棟前では、こちらに気づいた小柄な女の子が笑いながら手を振っている……



 ☆★☆★☆★☆★☆



 そして一時間後。私は薄暗い寝室の天井を見上げました。


 真っ暗闇にならないのは、ここが都心の商業地域に近すぎるため。スーパーの二十四時間営業も、今となっては珍しくない普通のこと。


 光害が問題視されるほどだから、このあたりは特に治安がよくなっている。


 一人暮らしを始めるにあたり、父の名義で契約したのがここ。1LDK十五階建て賃貸マンションの四階。最初は保証人不要のワンルームを選んだのだが、反対されて仕方なく決められた物件を丸呑みし現在に至る。


 午前三時四十七分。日課をこなすためにダイニングへと向かう。公共料金や利用明細書の確認――名前の下にある数字は、私の父に対する新たな負債を示している。



 ――アリス=フェアチャイルド様  九月分請求額 ¥411.86



 家賃は入っていない。それも含めるなら、毎年一万五千イェンもの金額が積み重なってゆく計算になる。幸い授業料は免除。地元企業との研究やVR内の副業も順調。リアルマネーへ換金できる最小取引額には足りなかったが、修士論文を書き上げる頃には届くはず。思ったより早く自分の力だけで生きられるようになるかもしれない。


 世の中全てお金。父はそんなふうに考えている。


 それについて大きな異論はない。お金で買えるものが揃えば、少なくとも悲惨ではなくなる。全く同意しないのは、資産家の父と私が幸せではないから。


 私が五歳のとき、母は事業に邁進する父を残して亡くなった。


 いわゆる出産事故というやつ。今更どうでもいいことだが、主治医によれば死産の子は弟だったらしい。野球を愛する父は、男の子を強く望んでいました。前にも況して仕事を求めるようになり、経営する会社は数倍の規模へ成長。それと反比例するように、互いの存在は薄くなっていったのです。


(………あ)


 端末にメール。


 差出人を確かめると、研究室の先輩でした。


 着信履歴は午前二時十四分。一時間半も前ですから、今すぐ返信しなくて構いません。文面は言葉足らずで、メインは添付された画像ファイルのほう。暗所で撮影されたペチュニアの写真ですが、葉の一部に分子マーカーの色が輝いていることしか分かりません。


 彼は植物の低温耐性に関する研究をしています。重要な因子の目星をつけ、作用部位を調べるためにルシフェリンか何かでマーカーしたところ当たりを引いたのでしょう。


 もっとも、これだけでは不充分です。似た分子構造を持つ無関係なタンパクが、たまたま反応しただけかもしれません。私も学部生の頃は、よく教官に指導されました。


 今頃先輩は寮へ戻り、きっとシャワーも浴びずに爆睡しているはず。週明けには指摘しますが、今日くらいは幸せな夢を見てもらうとしましょう。


 寝室へ戻り、ベッドの上で俯せ。そのまま惰眠を貪ります。疲れているはずなのに、深い眠りはなかなか訪れてくれない。原因は分かっている。洗い浚い話をして、ここ一週間の微妙な気持ちを追体験してしまったせい。


(…また明日。昨夜私は、間違いなくそう言った)


 厳密な約束はありません。だから社交辞令として会わないことも許される。


 朝までは長いし、学生の休日は昼起きが基本。早朝ログインしたら知り合いが誰もいなかった、というのはMMORPGにおいてよくある話。ずっと待ち続けるとかの健気な真似を、あのウゥヤさんが受け入れるはずは……


(……ある、かもしれない)


 およそ十二時間後。午後三時十七分。


 西日の寝苦しさに目覚めた私は、慌ててグラキエル世界へ戻ったのでした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 協会本部の調整室は、猥雑な活気に満ちている。


 だから蹴りつけるように扉を開けても咎められることはない。一足先にログインしたプレイヤーが驚いて肩を竦ませるだけ。


 すぐ外へ飛び出して、息を弾ませながらミロス市内を一周。誰かに呼び止められたような気もしましたが今は無視。あれは私が捜している人の声ではありません。


 彼が好きそうな淋しいところ。人通りが多いメインストリート。すかたん御用達の町で一番高い場所。そのどれにもウゥヤさんはいなかった。あるいは、まだ寝ているのかも――用事を思い出して一度リアルへ戻った可能性も。


 考え直して、調整槽のある協会本部へ戻りました。


 ログインしているかどうかは、その人に割り振られた調整槽を覗いてみれば分かる。ただ困ったことに、私は彼のユーザ番号を知りません。毎日一回以上変わっていたから、確かめておこうという発想すらなくて。


(…さすがに慌て過ぎでしょう)


 乱れた呼吸を整える。


「……相変わらず無視かよ」


 と、横合いから聞き覚えのある声。


「おい、聞いてんのか?」


 機嫌が悪かった。思い出したくないのに、誰なのか分かってしまう。


「……ハンスさん」


「憶えてたか。裏切り者のお嬢様……いや今は『狂犬』だったか?有名人になりやがって、俺様のことなんか忘れちまったのかと思ったぜ」


 半身で振り返ると、隣にはシャロンさんも控えていました。


 私に未開地での戦い方を教えてくれた『あいす☆とーねーど』言霊の長。結婚式に呼ばれた彼女の代理で出撃したのが恐怖症を患ったきっかけ。ハンスさんは火力の長、単身『皆殺し』に挑みかかって呆気なくやられています。


「…ハンス。何もそこまで……」


「いいんだよ。こいつが抜けてから忙しいとか言ってただろ」


「だけど……裏切り者だなんて」


 私のことを気遣いながらハンスさんの顔色も窺う。


 昔からそういう人。私がミロスを去ったのは疲れたから。あの乱闘事件は、偶然きっかけとなったに過ぎません。


「…シャロンさんもお変わりなく。御無沙汰しておりました」


「俺には挨拶なしか。まあいい、今日はお前に話があって来たんだ……うちが領土を守るために、直轄領化を願い出たことは知ってるな?」


 大半のメンバーが戦死するなどして機能不全に陥ったギルドが、土地を担保に出して所属アライアンスから活動資金を借りる仕組み。自前で防衛できる戦力が揃い、借金を完済できれば晴れて領地を取り戻すことができる。うちと戦った『クリムゾン=ベア』も、自ら属するアライアンス――同盟へ申請を行った。イメージ的には会社再生法が近い。


「へこぽんはああ見えて大した奴さ。今朝になって十万ドルを吐き出すと抜かしやがった。ノーシンの親父は五万ドル。俺とシャロンも六万ずつ払うつもりでいる」


 リアルでも同額のイェンに相当する大金です。


「目標の三十万、あと少しで届く。だが他の連中は頼りねえ。言ってみりゃ寄生虫だ。たとえ裏切り者でも、そこ行くとお前は違う」


 声を潜めると、探るような目を向けてきた。


「知ってるぜ。強化そっちのけで、ひたすら貯め込んでたこと。親父だって出せたんだ。三万くらいならイケるだろ?」


 言いたいことは分かりました。ギルドの恩恵を受けておいて危なくなったら逃げる。それはないだろう、と。そんなつもりは皆無でしたが、そういうタイミングになってしまった。この件に関してはハンスさんの言っていることが正しい。


 リアル通貨へ換金するときの下限額は五万ドル。投機に出せば上がるでしょうが、公式の固定相場でも五万イェンの収入が見込めます。それだけあれば博士課程在学中の生活費は賄えるはずでした。そして今……USネイヴァル・インシュアランスの口座に三万四千ドル。要求されたお金は、私にとって払えない額ではありません。


(振り出しに戻る、か)


 ここで積み重ねた努力は、結局無意味なものだった。その一方で地元企業との共同研究が順調、学費と生活費は賄えそうな目処がついている。


(それもいい。全部なかったことにすれば)


 精巧な作り物の世界に浸るより、そのほうがきっと母さんも喜ぶ。


「…アスニオ銀行のミロス支店に、私名義の口座があります。一週間は解約しませんから、これを持っていって三万ドル下ろしてください」


 適当な紙に金額と署名を刻印。これはリアルの小切手と同じ機能を持つ。各人のマナには固有のパターンがあり、網膜や声紋以上に偽造するのが難しい。


「……お前の復帰に反対はしねえ。戻ってくるなら昔と一緒に迎えさせる」


 逡巡の後、小切手を奪われました。私の顔と見比べながら、唸りとも溜息ともつかない声を洩らしている。こちらは言い値どおりの額を大人しく支払ったのに。


「…長い間、お世話になりました」


「おいっ!ちょっと待て!」


「…ねえ、イスカ。今日、私達が来たのは」


「他へ行くつもりはありません。ですから、どうぞお構いなく」


「そんな話じゃねえ!だからお前は……」


「っ!?離してください!人を……呼ばれたいんですか!?」


 左肩を摑まれました。かなり強く、痣ができたかもしれないほど。


「…こいつ……!いい加減に……!」


 振り解くのは無理。こうなったら、もう……


「……そういうマニュアル、どっかで売られてるの?たとえば協会支部とかにさ」


 呑気な声。場の雰囲気が白けるくらい。


 笑っている。戦う気は根こそぎ削がれてしまいました。


「王道だよね。威圧と泣き落とし」


 何が楽しいのでしょう。


 彼の姿は、見たことがないほど明るく生き生きしていて。


「でもしつこいと嫌われるよ?黒髪の綺麗なお姉さん♪」


「……あなたには関係ないでしょう。これはイスカと私達の問題です」


「あるよ。今日はちゃんと約束してるし?」


 私は息を呑み、そして飽和状態に陥りました。


 これで助かったとも。嫌なところを見られてしまったとも。


 感情が交錯する。


 お願いだから煩わせないで。私を一人にしてほしい……


 その祈りは叶えられませんでした。


「らしくないよ、イスカさん。クレクレなんか殺っちゃえばいいだろ」


 ハンスさんは『誇り高き戦士』。


 物乞い呼ばわりされて、大人しく引き下がるはずがありません。


「……何だ、こいつ?女、か」


「失礼な奴だな。こいつ極めてもいい?」


 不自然な胸板の厚さは、幾重にも布を巻いて押さえつけているため。髪は乱雑なベリィショート。黒系の機能的なスタイル、暗殺者紛いの剣呑な目つき。


 まるでカラス。元から中性的だったのに、ますます性別が分かりにくくなって。


「女を殴る趣味はねえ。今ならまだ赦してやる」


「何この人怖い。僕、何か謝らなきゃいけないようなことしたっけ?」


「クレクレ言いやがったろうが!舐めたこと抜かしてッとぶっ殺すぞ!」


「結局殴るんじゃない。あーやだ、おまけに嘘つきなのか」


「ンだと、この……っ」


 剣を握るもそこまで。シャロンさんに止められる。抜かれたら危なかった。私の彼に対する信用は、元よりその程度だったわけで。


「皆さーん。ここにクレクレがいまーす!注意してくださーい」


「なっ……!?」


 まさかこんな行動に出るなんて。瞬く間に物見高い人達が集まってくる。


「物乞いか?」


「お金だよ。脅迫してたっぽい」


「まじで?」


「ほんとほんと、あの脳筋っぽい奴。被害者は女の人ね」


「クレクレ嫌い」


「寄生もキライ」


「嘘トゥキ☆きらい」


「お前も嫌いだけどな」


「荒らし放っとけよ……」


「ムニャムニャなにソレたべれるの?」


「見たことあるな。でも忘れたww」


「小切手持ってるぞ。ガチ?」


「ムニャムニャなにソレおいしいの?」


「ああはなりたくないねぃ」


「僕にもくれる?十万ドルくらい!」


「十ドルならww」


「俺は一セントww」


「だが、断る。僕ちんもお金欲しいな☆」


「…手前ェら……!」


 こういう手合いは相手にしないのが一番。


「今のうちに逃げるよ。早く」


 子供のように手を引かれて。


「人が来ない場所。どこでもいい」


 アスルタンと違って土地も限られています。


「……こちらへ」


 すかたん御用達の穴場のひとつ。


 私には、それしか思いつかなかったのです。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 湖畔の岬は、風の中にありました。


「……ぉぉおおおお。すっ………げぇぇえ!」


「危ないですよ。身を乗り出さないでください」


 初等科の担任教師みたいなことを言わされて。


「だって綺麗なんだもん。イスカもやってみれば?」


 どちらが危なっかしいのやら。子供のように攫われたのが屈辱でなりません。


「落ちても知りませんよ」


「大丈夫……あと少しで届くから……」


 崖の上で俯せになって、十メートル以上ある岩肌を手探り。気後れしながら覗こうとすると、厳しい声で止められました。


「イスカは駄目。もうすぐ取れるから待ってて」


「言うことがさっきと違います。一体何を」


「秘密。そろそろだから。ね?」


 私は高いところが嫌いです。ここは岬の突端――下へ回るには道が遠く、かといって置き去りにするのも気分が悪い。仕方なく待っていると、大事そうに何かを摑んで立ち上がりました。掌を伏せているため、そいつの姿形が私には分かりません。


「………何ですか?」


「いいものだよ、いいもの♪」


 警戒……とは違いますが。身構える私にウゥヤさんが笑いました。


「大丈夫だって。ほら」


 反射的に身を退くと、ますます声を上げて。


「そこまで疑うことないじゃないか」


「何か企んでいます。芋虫とか環形動物を触らせるつもりですね」


「そういうのが嫌なんだ?でも違うよ、生き物じゃない。そこは保証する」


 真顔で直立すると、こちらに向かって再び手を。いつ笑い出しても動けるよう、警戒しながらゆっくりと。十メートルを進む頃には、三十秒が過ぎていました。


「はい。全部イスカさんにあげる」


 零れ落ちたものは、蠢いたり這ったりはしなかった。


 有体に言えば黒っぽい土。やや湿って、部分的に硬いものが含まれている。生体制御学専攻の私は、経歴上これと似たようなものを見たことがありまして。


 生理的な嫌悪感、凍りつく私。それを見た彼の無邪気な笑い。


「分かっちゃったかな?これはガケスズメの糞だよ」


 単位のために血で汚した、決して綺麗などとは言えない手。それでも鳥の排泄物よりはマシなものとして扱うべき――そのように愚考いたします。他者との協調を基本に掲げて生きるのなら。それとも私は、何か根本的な考え違いをしているのでしょうか?



《グラキエル博物誌 動物篇》  一三三ページ下段(図解あり)

 ガケスズメ【学名(笑)Daltonia mironus】

  ミロス湖周辺のみに生息する大型の鳥。移動は主に体長の半分を占める両脚で行い、補助的  

 に翼を広げて滑空する。肉は硬いため食用に適さない。湖畔の切り立った崖を生息域とするこ

 とから名づけられた。学名(笑)のDaltoniaは発見者に由来する。



「きゃあああああっ!?」


 思わず叫んで。しかし粘着力のある泥団子は簡単に離れてくれません。


 私がいよいよ最終手段――地面へ擦りつけようとしたのを見て、ウゥヤさんは昆虫の飼育箱みたいなものを取り出した。無言で睨みつけますが、ありあわせの布で私の手を拭く間も含み笑いをやめようとしません。


「美食ギルドに持ち込むと高く売れるんだ。これで千ドルくらいになるかな。干した繊維をスープに溶かして食べると旨いんだって」


 まだ納得のゆかない気持ちで、私は泥のような物体を見つめた。


 長い食文化の伝統を受け継ぐツォン人。その一部にはゲテモノ食いとしか言いようのない嗜好を持つ人々がいることは知っています。よもや彼らの探究心が、現実はおろか仮想世界の辺境にさえ及んでいようとは……


「ウゥヤさんも食べるんですか?こういうものを」


「まさか。両親はツォン人だけどニケア人に近いかな。爆竹は鳴らさない、家の中で靴を履く。かといって神秘主義者でもない」


 言ってしまってから口を噤む。神秘主義者というのはエレン人の蔑称。大国エルニアの元貴族には、神話を事実と主張して已まない古典的な一派が存在すると。


「…お金が必要、なんだよね。こっちだけじゃなく、多分リアルでも」


「聞かれていましたか。さすがは一流の荒らしです」


「茶化さないでよ……二万ドルくらいなら今すぐ出せる。どうせ僕は持ち出せないし、装備がなくても戦えるから」


「怒りますよ。また刺されたいんですか?」


「そんなこと言ったってさ。ないとどうにもならないんでしょ?」


 無言の背中。それが精一杯の抵抗。


 心配されたくない。誰にも頼りたくない。だから三万ドルを熨斗つけて渡し、そのまま引退するつもりだった。小切手は今もハンスさんの手元に。放っておけばシナリオは進む。もう後戻りできないところまで。


 荒らしのくせに諦めの悪い、無邪気でお人好しな男の子さえいなければ。


「……よし。狩りに行こう」


「は?」


「狩りだよ、狩り。大物を仕留めて、一攫千金を狙うんだ」


 相変わらず読めません。何を言い出すかと思えば、たった二人でハンターの真似事をしようなどと。私の手助けをして、そもそも彼に何の得が。お金を稼ぐだけなら、大勢で群れたほうが効率はいい。枉げてギルドに入ったのも、そういう現実があったから。


 戦力が調ったとして、また別の問題もある。肝心の賞金魔獣がいなければ、それらの努力は結局無駄になってしまうこと……


 心配無用――まるでそう言いたげに鋭い顔を綻ばせた。


「いるじゃない。ぴったりの獲物がさ」


 何でもなさそうに言い放つ。崖の縁に座って、そのまま大きく仰け反りながら。逆さの私と自分の細長い影が重なるのを嬉しそうに見比べている。


「…森の主。今、僕達だけじゃない?あいつが弱ってるのを知ってるのは。相場十万ドル、上手く立ち回れば大儲けできるんじゃないかな」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 メンバー集めは順調でした。早い段階で古参プレイヤーの知人が応募してきて、あとはウゥヤさんと彼女に丸投げしログアウト。昼寝から覚めるなり慌ててログインしたため、入浴や洗濯物の片付けを済ませていなかったのです。


 思ったより時間がかかってしまい、自らの散漫に苛立ちを覚えながら戻ると……


 私は、板塀の陰に隠れていました。


 何故、そのようなことになったのかというと。


 ハンスさんが誰かと言い争って――いや恐らく一方的に絡んでいた。相手の正体が分かると、無意識に身体が動いてしまって。


「……お前、どういうつもりだ?」


「何のこと?クレクレの件なら謝らないよ。本当のことじゃないか」


「そのことじゃねえ。いや、そっちの件も後で泣き入れさせるが……」


 私のこと。


 どうして邪魔したのか。お前にあいつの何が分かる?


 理由あって前線を離れ、央都で養生していたイスカが戻ってきた。


 充分休めたのかと思い、とりあえず迎えに行っただけなのに。


 シャロンも言ったが、これは仲間内の問題だ。


 部外者のお前が首を突っ込むな。


 云々。


「……?意味が分かんないな。お金が欲しかったんじゃないの?」


 同感です。あのとき確かに、領地を買い戻すための資金を差し出せと。


「これだからガキ共はよ。違うっつってんだろ?俺はあいつを認めてる。役職はないが、サブマスのシャロンと同程度にはな……余計な真似しやがって。まさかイスカのやつも本当に金を出すとは思わなかった」


 初耳です。偏屈なのは知っていましたが、まさかそこまで愚かだったとは。


「本人は厭そうにしてたよ?無理強いは感心しないね」


「俺はあいつに好かれていねえ。ギルドに入ってきたときからな……くそっ。やっぱりシャロンか他の奴に来させりゃよかった」


 地面を一蹴。乾いた砂と埃がウゥヤさんのほうへ。


「……っ!何すんのさ」


「とにかくだ。これ以上邪魔をするな。嫌なら腕ずくでも聞かせてやる」


 大剣の鞘を捨て、そのまま正眼に構えなおす。


「…戦うつもりなんだ?僕と一対一で?」


「ああ。そうして舐めた口を聞けるのも今のうちだけだ」


 ウゥヤさんの返事は皮肉な笑い。心なしか凄味がある。


 死にかけながら私を刺したときと一緒。


 本気で来る――それは彼自身の言葉によって、間もなく証明された。


「別にいいけど……また殺されたいの?この間みたいに」


「……なん、だと?」


「忘れっぽいなぁ。しばらく前、僕みたいな女の子にやられたでしょ。それに不具合の噂もね。死んだらアカウント凍結って話。いろいろ調べたけど本当らしいよ?」


 ハンスさんの表情が一変。赤黒い顔とは、まさにこのこと。


「手前ェ……まさか、あのときの」


「さてね。何にしても、見た目で判断しないほうがいいってことだよ」


「忘れもしねえ!『皆殺し』か!ぶっ殺してやる!」


 戦いが始まりました。どこから見てもウゥヤさんの不利。有段者同士の対戦では、武器を持っているほうが二段上に数えられる。


 それにしても余計な話を。とりあえずお説教確定です。


「逃げてばかりいねぇでかかってきやがれ!」


「ヤだよ痛そうだもん。先に仕掛けてきたのはそっちじゃないか」


 振り被った一撃。合金とコンクリートのせめぎあい。片手を広げたほどの小さな亀裂が入る。敷地全体を耕すには、丸五日かかっても不足する計算。


「そんなんじゃ立派な畑は作れないよw」


「いい気になりやがって……っ!」


 忌々しげに呟くと、切先を怒りのまま突き立て。


 言葉とは裏腹の穏やかさ。悠然と深呼吸を数回。その間も隙はありません。ウゥヤさんの表情が次第に厳しいものへ変わってゆく。


「…待たせたな。続きを始めようか。さっきのようには行かないぜ?」


 まるで人が変わったよう。今のは激情を鎮めるための儀式か。


「……ちょっとはやるじゃない。前より面白そう」


 疲れたところを狙うのはウェイトに勝る敵と戦うときのセオリー。ですが戦術を選ぶ上で最も重要な部分を見落としています。不用意に冷却時間を与えた時点でウゥヤさんの負け。マイペースな性格が裏目に出てしまいました。


 そこからは一方的な展開。ゆっくりと間合いを詰め、消耗を避けながら逃げられそうなときだけ大きく踏み出す。路地裏の廃墟には逃げ回れるスペースがほとんどなく。


「さてと……どう料理してくれようか?威勢のいいお嬢ちゃん」


「あんたみたいのがやることは分かるよ」


「言いたいことは、それだけか?」


 やや距離を置いて、どこへ走っても牽制できるよう待機。


 決着はつきました。私も自分なりに大きな果実を狙います。


 ここで姿を見せたらどうなる?


 厄介事が纏めて片づく。それだけは確か。


 ところが。


(……っ!?)


 板塀の陰から出ようとして躓いた。顔から転ばずに済んだのが、せめてもの幸い。指に触れる土の感触だけが生々しく。


 足元のふらつき。砂を撒いたような視界。硬く強張った首筋が熱い。それでいて胸元を伝う汗の冷たさ。止まらない身体の震え。自分の症状を忘れていました。もしも鏡を覗いたら、病人同然の蒼白い顔が映ったでしょう。


(こんな……っ!)


 どうにか治まったときは既に遅く。ウゥヤさんの姿は消えていて、こちらの気配を嗅ぎつけた不機嫌顔のハンスさんがいるだけだったのです。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…おい」


 平然と埃を払い、顔の傷を確かめる。


「聞いてたのか。さっきの話を」


「ええ」


 出血なし。若干皮が剝けているだけ。ギルドにいた頃は日常茶飯事、ハンスさんも殊更に気遣う様子はなく。


「…それでは」


「だから待てって。どう考えたらそういう流れになるんだよ?」


「用事がありません。他の予定も控えています」


「お前は誤解している。とりあえず話を聞け」


「嫌です」


 打てば響くように。


「あのなあ……」


「お金については返していただかなくとも結構です。マスターやノーシンさん、シャロンさんに御迷惑をおかけしたのは事実ですから」


「俺はまた無視かよ?」


 その愚痴も聞き流し。


「…まあ、いい。いや本当は、どうでもよくないんだが……」


 大人の反応をされて拍子抜けしました。そんなに俺のことが嫌いか?と訊かれたら、嫌いですと即答するつもりでしたのに。


「金は預かっておく。へこぽんに執り成すって話もアレだ。あいつは元から、お前がいつ戻ってきても歓迎すると言っていた」


 そのようなことは分かっています。いい加減な人ですが、失敗や負けの原因を自分以外の誰かに押しつけるような真似はしません。


「リアルで使う予定があったなら言え。へこぽんとシャロンと俺、それにお前。四人で組めば三万くらい……すぐとは言わねえが、一年もあれば稼げるだろ」


「……………………」


 この素直さが最初からあれば。ここまで毛嫌いしなかったでしょうに。


 いずれにせよ。


「…何度も言いますが、ギルドには戻りません。銀行口座の閉鎖は取り消します。長ければ……そうですね。あと半年くらいはいるでしょう」


「さっきの奴か。『皆殺し』のインカネイト……あんな捨てアカ野郎と絡んでどうする?裏切られて嬲り殺しに遭うのがオチだぜ」


「どうして言い切れるのです?彼女がPKだと。私達が『皆殺し』に壊滅させられたのは事実。それを確認しただけに過ぎません」


「白状したようなもんだろうが!」


「現に平常心を奪われました。有効な戦術だと思いませんか?」


「……………っ」


 そんなことより。あの子がどうやって消えたのか。


 決着はついていました。魔法を使ったとしても脱け出すのは難しく。


 質問に答えるとき、幾分悔しそうな表情を浮かべながら。


「全力でかかるのを待ってやがったのさ。アルミの手甲を袖の下に隠してな。青痣くらいはできたろうが、刃先を逸らされて終わり。それだけだ」


 吐き捨てるように呟いた結末。彼女を『皆殺し』と信じる理由。そこには彼なりの決定的な根拠があるはずで。


「あいつの戦い方だ。かなりマイナーな流派だから、本人と見て間違いねえ。確か……ニケアの古武術だったはずだ」


「それはツォン人でも習えるのですか?」


「…妙なところに食いつくな?ああそうだ。金さえ積めば誰でも……防御技主体って理由もあるが、資産家の子供に護身術として習わせるのがほとんどだってよ」



 ――裕福な子供。ニケア人と変わらない生活。



「高くはねえんだが、礼がどうとか煩くてな。面倒臭くて習うのをやめた。ちなみに俺はエレン人だぜ。由緒正しい北の家系だ」



 ――礼儀に厳しい古武術。無差別の敵意は抑圧された心の裏返し?



「仮に別人でも、リアルは碌なもんじゃないぜ。仕事か学校か……虐めはねえと思うが、ストレス溜まってんだろうな。同情はする」


 人物像について異論はありません。というよりもハンスさんが、相手のリアルを気遣うだけの優しさを持っていたことのほうが驚きで。


 弱い者が虐められる、というのは過去の話。最近は強い者を狙います。引きずりおろして愉悦に浸る、低俗な遊びの贄として。より巧妙に、少人数で徒党を組み。疑わしきは罰せずの法理を悪用し、自分だけは安全な場所に隠れながら。


「…最近の子は難しいんですよ」


「そりゃ昔からだろ。いつの時代も女ってやつは、な」


 言い方に含みがあります。考えるまでもなく私への当て擦り。


「両方です。今は、男の子も」


「は?そりゃどういう……」


 ハンスさんは『皆殺し』の素顔を知らない。とても傷つきやすく、寂しがりで甘えん坊な男の子を。いいえ見たことがあるのは、もしかしなくとも多分私だけ。


「自分で考えてください」


 立ち去りかけて、思わず足を止めました。他にもまだ知っている――鳥の糞を摑ませて笑う、悪戯好きな男の子の顔が瞼の裏に浮かんで。


「…意外と単純かもしれませんよ。それでは、また……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 結論から言うと、私達はフンババを退治できました。


 曇り空を見上げる。睨みつけたと言ってもよく、通りすがりの人達は機嫌の悪そうな私を遠巻きにして。


 ウゥヤさんの押しに負け、戦力を揃えて討伐に乗り出したのが六時間前。


 前衛は四人。まずウゥヤさん、攻撃型のレイピア使いクェスさんに防御型の戯言使いクルンさん。本職が言霊使いのももさん。この人だけは元からの知り合い。


 それから特殊技能者、捕縛系の罠と爆弾を使うマリンさん。自称イケメンハンター。


 後衛は私。攻撃から支援まで一人でやらなければならないのは不安。そう思って蛙の頭みたいな形のフードを被った人に声をかけてみましたが轟沈。何やら慌てていた様子で、誰かの名前を呼びながら逃げるように西の方角へ立ち去りました。


 戦闘の概略を申し上げると、体内の異物構築と注入毒ダメージの蓄積により成功。ウゥヤさんが機転を利かせ、短剣から釘バットへ構築対象を変えたのが不幸中の幸い。


 そういえば気になったことがひとつ。時々ウゥヤさんに妙なことを言われました。


 ゼリーが何とか、杏仁豆腐や餅がどうとか。燃え尽きる空気嫁?けろぴょんフード?何のことかさっぱり。挙句の果てには、もう一人仲間がいたような気もすると。


 他に特筆すべき事柄はありません。約束どおり報酬を分けて。ウゥヤさんが要らないと駄々を捏ねて、その分は私に貰えとか無理を言うから怒鳴り合いの喧嘩をして。


 ただ……最後に個人的なことを言わせてもらえるなら。


(……このすかたん。一体何を苦しんで……?)


 私はもう、独りには戻れなくなってしまったのでしょうか。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「何でもない……何でもないよ。うん、何でもない」


 赤い目を擦りながら逃げるウゥヤさんは、あからさまに不自然でした。


 トロフィーを作っていた他の仲間達が寄ってくる。両手でももさんが制すると、三人は戻っていった。やはりこの人だけには、事情を伝えたほうがいいのかもしれない。


「驚かずに聞いていただけますか。あの子は……元、荒らしです」


「え」


「リアルは初等科の男の子。ユーザ登録の個人情報を偽って、旧市街以遠の年齢制限を誤魔化しています」


「それは……」


 こっそり後始末に加わるウゥヤさんの顔を、それとなく横目で確かめながら。


「どうなんだろ?何か嫌なことでもあったのかな……」


 軽く腕組み。穏やかな反応を示してくれたこと、心の中で感謝する。


 本名や住所、学校と年齢は言わない。妙なプレイヤーにリアルを割られたことや、私のほうだけが彼のリアル情報を握っている事実は伏せて。


 ありのままを伝えました。そのうえで、たった今の反応は何を意味するのかと。


「弟を持った経験はありませんし、男性との付き合いもほとんど。偉そうにしていますが、私も彼と大差ないんです。十八の誕生日から半年も経っていなくて」


「それでこの強さ?末恐ろしいですねえ」


「……彼のほうが怖いです。多分リアルでも、格闘技か何かをさせられていたのではないでしょうか」



 ――させられていた。



 何気なく使った言葉が、真実を表しているように思えてなりません。


「今、流行りの教育的な御家庭……」


「蓋然性は高いかと。賢い子ですし、充分考えられます」


「…イスカさんって、時々頼もしく見えますよね。男らしいっていうか……何ていうか」


 不本意な評価を受け流しつつ。


「明け方までログインしていたこともありました。眠っているのと見分けがつきにくいとはいえ、普通の親御さんならドリームシェアを取り上げるのでは?」


「うん。私も旦那のを取り上げたことはあります。次の日も仕事だったし」


 子供なら何をか云わんや、です。


 ウゥヤさんの両親は深夜も留守。いたとしても、幼い我が子にまともな注意を払っていない。ただし経済的には、本人の言うとおり裕福だと思われる……


「頭のいい人ですよねえ。みんなに指示をてきぱき出して」


 一族の最も優秀な子に資源を集中させる――ツォン系の社会では、そういう習慣もあると聞きます。その子が将来出世したら、代わりに自活できない親族の面倒もみる。恥とか負担に思う精神はなく、養わなければ逆に恩知らずの烙印を押されてしまう。


 血は水より濃い、のだそうだ。文武両道の彼にかかる重圧は、九歳の子供が背負うには過酷とすら言えるもの……


「…お受験だけなら、まだいいんですけど」


 ももさんがぽつりと呟いた。あまり浮かない顔。無言で続きを促す。


「福祉関係の仕事をしている友達に聞いたことがあるんです。甘えたがりの子って、母親が原因のストレスを溜めてる場合もあるんだとか。裕福そうなお家だし、私の考えすぎだろうとは思うんですが……」



 ――育児放棄。

 ――家庭内暴力。

 ――性的虐待。



(………まさか)



 ――拒絶。



 彼のリアル情報が刻まれたプレートを、半ば無意識のうちに握り締める。


(でも、万一のことがあってからでは遅い)


 不吉な言葉の響きが、私の背中を強く押したのです。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 それから数日後。私の姿は駅前の喫茶店にありました。

 奥の席で待つダークスーツの男性。差し向かいに座ると、挨拶もそこそこにA4サイズの封筒を出してくる。私の頼んだものですが、答えを知るのは恐ろしい。もしも想像が当たっていたら。そのときは一体どうしたらいいのか。


「御確認ください。これが調査の結果です」


「……はい」


「短期間でしたから、あまり詳しくは調べられなかったのですが……」


 黙って受け取る。一瞬躊躇った後、私は中を開けてみました。取り出した何枚かの写真には、一度も会ったことのない賢そうな男の子が微笑んでいる。


「…御依頼の件、チュ=ユンイェ君の身辺について御報告します」


 宣言した四十路の顔に年齢以上の疲れが滲む。


「状況は好ましくありません。今はまだ無事ですが、いつ取り返しのつかないことになってもおかしくは……」


 そこで言葉を濁らせる。我が子に置き換えてしまったのでしょうか。


 ライセン大学附属初等科四年、復興暦〇四〇五年三月七日生まれ九歳。ミスラD.C.アコーズ特別区モタイストリート三九七番地。成績優秀スポーツ万能、明朗快活で友達も多い。放課後は塾にセロにアイキドー。見た目も可愛らしい理想的な男の子。


 というのは表の顔。それを確かめるために、私は大枚叩いて探偵を雇った。


 彼は今、虐待を受けている。離婚間近の実母によって。しかも驚いたことに、今回が初めてのことではないらしい。この報告書によれば、幼稚園へ入る前の約半年、毎日のように煙草の火を押しつけられたり縫い針で刺されたりしていたとのこと。


 原因は仕事に復帰できないことへのストレス。ユンイェ君の母親は服飾デザイナー、今は私でも聞いたことがあるくらい有名なブランドを持っている。父親は証券会社の取締役。一般には知られていないが、かなり大きなところだったと思う。


 子育てに専念すると決めたものの、仕事上のキャリアを忘れられず挫折するのはよくある話。優れた才能を持つ人ほど諦めるのが難しい。


「息子さんが大きくなって、仕事を再開したら改善したそうです。事件化させなかったこともあるのでしょうが、お母さんのほうの記憶はありません。綺麗さっぱり消えています。ただし息子さんのほうは……」


「残っている。今は優しいお母さんの、怖かった顔を憶えている」


「…はい。それが最近、離婚話をきっかけに再び」


 別れることに決まって、次は一人息子の親権問題が浮上。


 当然どちらも退かない。母親は母親だし、父親は相手に養育能力がないとみる。この父親も難物、我が子を事業の後継ぎとしか考えていない。訴訟の準備をするだけで、見張っている間は結局一度も現れなかったのだとか。


 家ではユンイェ君と母親が二人きり。もう泣き喚くような歳ではないが、代わりに母親の奇声が響いてくる。彼の性格からして、大人に助けを求めたりはしないでしょう。近所の人々は虐待を疑いながらも、ありがちな都会の無関心を貫いている。


(……あのすかたん。辛いなら……言えばいいのに……!)


 最悪の状態でした。もはや一刻の猶予もありません。


「…引き取ることはできないのでしょうか?」


「弁護士の領域ですので一般的な話となりますが……難しいでしょう。この場合、父親に扶養能力があります。仮に除外されたとして、次は祖父母や他の親戚。それでも駄目な場合は児童相談所。里親を希望しても簡単ではありません。安定した高水準の経済力、何より子育ての経験が求められます」


 どうしても助けたければ、たった一つだけ方法があるらしい。


「親御さんの名前を借りることです。あなたというお子を立派に育てておられますし。今も御健在という条件付きではありますが……」


 ここで不意に言葉を切る。


「……立ち入ったことを申しました。可能性の一つと御理解いただければ」


「いえ。こちらこそ何もお話しできず……」


「そういうものです。秘密を守る上でも、知らないに越したことはありません」


 私が児童略取に走るとは考えていないようでした。巻き込まれないよう手を打ってあるのか、犯罪の片棒を担ぐことに慣れているのか。いずれにせよ胸の裡は分かりません。分厚い封筒をテーブルに置くと、私は席を立ちました。


「お早い報告、感謝します。本当にありがとうございました」


「いえ、こちらこそ。またの御用命をお待ちしております」


 現金五千イェン――大卒初任給の三箇月分に相当する。


 安くないものの常識的。それがウゥヤさんを救うのに必要な額でした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 三十分後。買い物を済ませて速やかに帰路へ。朝からぐずついたものの、傘は持ってきていない。バスを降りた後、脇目も振らずマンションに向かう。


 父の認めた物件は、安全だが面倒臭かった。指紋は簡単に偽造できるし声紋は録音すればいいけれど、網膜だけは今のところ方法がない。それだけに本気で破ろうとするなら、眼球を抜き取るしかないというのが怖いと言えば怖い気もする。


 暗証コードも含めた四重の認証を経て、ようやくエレベータに乗れた。私の部屋は地上四階。同じ建物内では安いほうに含まれる。遠慮がちに最上階を勧めてくる父を無視、私が勝手に契約を結んだ。地震や火災のときは下のほうが安全なため、それ以上文句をつけられることもなかったが。


 最後のセキュリティ――専用のカードキーを差し込む。そこで私は何者かに襲われました。糸のようなものが絡みついて、まともに息ができなくなる。


 驚いたことに、害意は室内からやってきた。その事実に今更ながら驚く。ここは古いマンションだが、防犯設備だけは最新のものを使っている。住人の許可を得ない限り、誰も中に入れないはずなのに。


 内部の者とは思えない。入居するにも一定の審査がある。部屋の奥から現れたのは、予想したとおり二つとも知らない顔だった。


「Hi,イスカさん。こちらでは初めまして、ね」


「レオンさんですか。他に私のリアルを知る人はいませんし」


「御明察。まだウゥヤとは会っていなかったのね。ここまで調べているなら、あとは心の持ち方ひとつなのに」


 砂色の髪の女性は、床に散らばった書類を拾うと萌葱の瞳を細めて笑った。


 ゲーム内での圧倒的な力はないはずが、何故かそれ以上の迫力を感じる。土足で上がり込んだ靴は普通のスニーカー、タンクトップにカジュアルパンツ、薄手のカーディガン。私と変わらない外出用の普段着。それなのに。


(戦い慣れている……やはりジャーナリストというのは嘘?)


 身動きが取れないまま観察を続ける。後ろはすぐ廊下だが、縛られた状態で鍵を開けるのは無理。会話で目的を探り、身の安全を保障させなければ。


(それにしても……)


 気になるのは、もう一人の子。歳は私と同じくらい。普通の女子高生に見える。かといってレオンを怖がる様子もなく。あれはどういう位置づけなのか。


「あ、ごめんなさい。もしかして土足禁止だった?エレン人みたいだから、てっきり大丈夫だと……」


「……お構いなく。後で掃除しますから」


 不法侵入者に理を説いても仕方ありません。


 もっとも、私に以後の人生が残っていればの話ですが。


「あのぅ……すみません」


 気弱そうな彼女は、むしろこちらのほうに怯えている。近づいたら噛みつく狂犬のように。身動きの取れない私を見ると、微かな声で遠慮がちに懇願した。


「…お手洗い、借りてもいいですか?家を出るとき行けなかったもので……」


 後ろ、突き当たりを右。見えにくい暗がりの中にトイレはある。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 戻ってきた彼女を、レオンはアイシャと呼んだ。思ったとおり普通の子らしい。何のために連れてきたのか、相変わらず目的を量りかねる。


「自己紹介はないのですか?あなたが何者でも今更驚きませんが」


「知らないほうがいいと思う。今までどおりレオンってことにしておいて」


「あちらの名前は問題ないと?」


「ええ。彼女は被害者だもの。私が脅して連れてきたの」


 あからさまな嘘。彼女には――とりあえずレオンとしておきます。これ以上詳しいことを話すつもりがないのだと分かりました。


「…さてと。少し出かけてくるから、あとはお願い」


 遠話とウェアラブル端末が没収。私を見張れということか。その割には仮名アイシャも困ったような顔をしている。


「……あ。言うの忘れてた。イスカさん、アイシャを匿ってくれない?この子、いろいろなところから狙われているのよ。半日だけでいいから、ここにいさせて」


 全く意味が分からない。そもそも私を縛っておく理由は。この期に及んで、それすら答えないつもりか。物事には、順序というものがあるでしょうに。


「その子が話すなら聞いてもいい。それじゃ行ってくるわね」


 窓から身を乗り出すと、視界の外へ消えていった。ここはマンションの四階、薄暮とはいえ街燈の密な国道沿い。騒ぎにならないところをみると、難なく下りて誰にも見られなかったのか。リアルのレオンも、グラキエルのレオンと同じ。



 化物だ。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「お買い物、冷蔵庫に入れときますね」


 玄関先から戻ると、アイシャは勝手に台所へ踏み込んだ。


「夕食作りましょうか。一人暮らしだから結構自信あるんですよ?」


 家主に断りもなく調味料や他の食材を調べ始める。


 悪い子ではなさそう。


 しかし天然。他人の善意や親の愛を疑ったことはないのかも。


「レオンさんは、あなたから聞けと言いました。なら早速ですが教えてください」


「初めに断っておきますけど、お姉さんの本名は知りませんよ。数えきれないくらい名前があって、今ではどれが本物か分からないんだそうです」


「……………………」


 戸籍上の名前はあるはず。しかし聞かされていないのなら仕方がない。


「そうですね……何から話しましょうか。イスカさん、でしたっけ。お姉さんのことに興味があるんですよね」


 少し違う。だが進んで教えてくれるのなら結構。悩む間にも、手だけは効率よく皿や鍋を取り出している。姿は見えないが、音から推測する限りセミプロ級だ。どこに何があるか確かめた後は、迷わず次々と手順をこなしてゆく。


「う~ん……」


 待ち草臥れてきた。それでも話は始まらない。


「……実は私も、お姉さんのことはほとんど知らないんですよね。申し訳ありませんけど、そちらから知りたいことを訊いてもらえませんか?」


 知らない?それならレオン氏は何のために……


「もしかして今、私のこと馬鹿だって思いませんでした?」


 勘だけは鋭い子らしく。


「分かりますよ。グラキエルでは大人の女を演じてましたから」


 手間暇かけて聞き取ったところ、概略は次のようなものだった。


 アイシャもグラキエル内で知り合ったこと。


 私達と同じくあれを見て、より近い新市街の大通りにいたこと。


 現場には彼女の親しい人がいて、事態の収拾に一定の役割を果たしたらしいこと。


 帰還のオーブが使えなくなった後、異様なプレイヤー集団に襲われたこと。


 そのときレオンが助けてくれて、無事にログアウトできたこと。


 何者かが侵入し、家中を引っ繰り返していったこと。


 それから一週間後の今日。学校からの帰宅途中で謎の武装集団に襲われたのだった。


「だからお姉さんには感謝しているんです。私が死んでいたら、誰もあの人を捜さなかったでしょうし」


 死んでいたら。その言葉にぞっとする。


 あの日ウゥヤさんと私がいた場所は、概ねアイシャと同じ。一歩間違えていたら、自分達が狙われていたかもしれなかった。考えるだけでも震えが止まらない。


「あなたは……」


 この子も逆鯖を読んでいる。さもなくば店を開くどころか新市街にも出られない。営業を続けられたのは、年齢以外の情報が全て本物だったから。


 それがリアルの襲撃者を呼び寄せてしまった。


 怖くないのか。私は恐ろしくて堪らない。


「…あなたは、レオンさんを信じているのね?」


 だから正気でいられる。死の恐怖を忘れられる。


「はい。とても頼りになるお姉さんです!」


 曇りなき言葉。彼は私のことを信じているだろうか?


「それとイスカさんのことも信じてますよ」


 いきなり胡乱なことを。もしもそうなら打ち明けているはず。


 助けてほしいと。今の地獄から僕を連れ出してほしいと。


 たった一言。そう口にしてくれれば。私はあなたを迎えに行くのに。


「頭のいい人だって褒めてました。でも機嫌を損ねると刺されるから、言葉には気をつけろって……あ」


 ここ数日は見られていたらしい。ユンイェ君と私の家を比べ、乗っ取りやすいほうを選んだ。つまりレオンは彼のリアル事情を知っている。


「私の仲間のことは?」


 意外そうに瞬く。あの表現では瞬間湯沸かし器と誤解されても無理はない。


「…ここに来る前、実は寄ってきました。さすがに母子家庭の邪魔はできないかな、って。お姉さん、あれで優しいところがありますし」


 知らなかったようだ。彼の場合、母親と一緒にいることが最も危険。


「私だけ教えるのは不公平です。イスカさんも何か話してください」


 グラキエルでの体験を語った。血腥い前線の話をしても喜ばないだろうから、主にレオンと知り合ったときのことを。敵同士なのは聞いていたらしく割と驚かなかった。強く反応したのは、ウゥヤさんが運営に問い合わせメールを送った件。包丁を握って現れたことに、私のほうが息を詰まらせて蒼褪める。


「あっ!ご、ごめんなさい!…でも、それって危ないですよね?運営が悪い人の仲間だったら。せっかくバレなかったのに、あのとき近くにいましたーって教えるようなものですし……私の考え、間違ってます?」


「…………!」


 メールアドレスの取得には、通常リアルの住所氏名と生年月日が要る。


 回答を望むなら、捨てアカの選択肢はなかった。そして恐らく、あのときだけはウゥヤさんも外のアドレスを使った。後から聞いた話によると、あの晩はゲーム内で眠っても強制ログアウトできなかったらしい。それで思わず怖くなり、初めてユーザサポートに連絡を入れたとか。アスルタンの外壁で数分、別行動をしたときのこと。


 ユーザ情報を元に襲ってくるような連中だ。その場にいたことが発覚すれば、他社の防壁を破ってでもリアルアタックを仕掛けようとする可能性は高い。


「住所は分かるんですよね?その子の」


 包丁を使って拘束する紐を切り始めた。


「アイシャさん……!?」


 血の気が引く。震えてしまうのを必死に耐えた。私を殺そうというのではない。彼女は私を、ユンイェ君を助けようとしてくれているのだ……


「我慢してください。もうちょっと……なのに、このっ」


 ジャガイモやニンジンのようにはゆかない。


 喋っていたほうが楽になる。だから、とりあえず訊いてみた。


「……どうしてでしょうね。お姉さんなら、こうする気がしました。私は弱いですから、あまりお役に立てませんけど……」


 どうやら一緒に来るつもりらしい。


 スミス氏。アイシャ。レオン。ユンイェ君。この四人が狙われている。顔が割れていないのは私だけ。こっそり連れ出すには適任だ。況してや彼のことで、他の誰かの手を煩わせたくはない。が、しかし。


「イスカさんは人質なんです」


「……誰の?私が交渉材料になる相手なんて」


「お父さんがフェリック社の代表とお友達……知らなかったんですか?」


 失言のポーズ。普通の親子なら、互いの友人を教えるのかもしれない。


 別居以来、父との間に会話はなかった。今では相手の声すら忘れかけている。節目に数回メールを出したがそれだけ。交友関係など私が知る由もなく。とにかく今は、ユンイェ君の無事を確かめるのが先。


「…切れましたっ!」


 端末を返してもらい、ユンイェ君宅の遠話番号にかける。一瞬繋がりかけた後、それからぶつりと切れた。回線そのものが断たれているのかもしれない。念のためかけなおしてみたが、二度目は呼び出し音さえ流れなかった。


「アイシャさんはここにいてください。私ひとりで」


「こういうときのために預かっています。タクシーで行きましょう」


 札束を覗かせた。軽く一万イェンは超える。子供にこんな額を持たせるなんて、本当にあのレオンという人は何者か。


「……車から降りないこと。それだけ約束してください」


 お金の誘惑に負けました。我ながら情けない限りですが、フンババの討伐報酬は探偵費用に消滅。共同研究のパテント料も次に入るのは三箇月後。


「モタイストリート三九七。急いでお願いします」


 タクシーはすぐ捕まった。光害も役立つことがあるらしい。雲行きの怪しくなった空を車窓から見上げる。こんなところで父の名前を聞く羽目になるとは思わなかった。未だに胸のざわつきが止まらない。


(……VR業界最大手フェリック社のCEO。損得勘定抜きで付き合う相手じゃない。まず間違いなく仕事の話が絡んでいる)


 私の父は、他人を値踏みする男でした。


 例外は母の兄だった叔父のみ。学生時代からの友人と聞くが、最近は仕事が忙しくて滅多に会うこともなくなったという。


(もしもグルだとしたら……一連の事件に関わっているとしたら。母さんを見殺しにしただけではなく他の人達までも。私はあいつを絶対に許さない)


 最初の一粒。それはやがて、滝のような土砂降りに変わっていた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 借り物の透明な傘を手に、閑静な住宅街の道を走る。


「……四十二イェン五十センです。はい、毎度ありが……」


「……帰りもお願いしますんで、少し待っててもらっ……」


 雨足の向こうから、運転手さんとアイシャの声が洩れてくる。


 やがて角を曲がると、それも聞こえなくなった。隣の区画に降りて、無関係を装いながら近づく。横付けして鉢合わせしたら言い訳できない。ひとまず様子を見ようと、ここへ来るまでに相談して直接乗り込むのは避けることにした。


(…あれが。ウゥヤさんの……)


 探偵さんに貰った調査資料の写真を取り出す。


 立派な門構えの庭付き一戸建て住宅。そこそこ広いが、首都郊外の高級住宅地だけあって家屋敷の豪華さとのアンバランスは否めない。加えて庭の芝生は荒れ放題、そのあたりも没落した名家との印象を色濃くする。


 予想に反して、明かりは点いていなかった。子供の留守番は何かと不用心。特にこういう暗い日は、今ほどの時分でも玄関照明を使う。ウェアラブルのAR表示では十六時四十七分。まだユンイェ君の母親が帰宅するには早い。


 ここからは慎重に。呼吸を整え、さも通りすがりの演技をしながら。歩き慣れない道を歩いて、少し迷ってしまった大学生の雰囲気を醸し出す。


 実際、そういう経験がなくはない。父の元を離れて今のマンションに引っ越したとき、近所の生活インフラを調べるために半日歩き回ったことも。近頃はAR技術も発達しているが、こういう日常レベルの情報は直接目で確かめないことには。大きなビジネスに繋がらないため、誰もコストを投入しないのだ。


 軒先を借りるようなつもりで寄ってゆく。ツォン風の門柱にかかる金属製の扉は開いていて、不審者の私が立ち入るにも困らなかった。呼び鈴を押そうか迷う仕種――事実、私は迷っているのだが。もしも家にいたら、このまま彼を連れ帰ろうか。同時に探偵さんの言葉も甦る。ユンイェ君の父親には生活力があり、間違いなくそこに引き取られるだろうと。訴訟の準備をするだけで、一度も顔を見せない親のところへ……


「…とにかく。会わないと始まらない」


 声に出して言うと、意を決して呼び鈴を押した。


 無反応。雨音に紛れて聞こえなかったか。念のため、もう一度押す。しかし誰も現れなかった。まだ習い事から帰っていないのか――あるいは不用心だから無視させられている?…馬鹿馬鹿しい。彼より強い大人は一割にも満たないでしょうに。


「郵便物が溜まっている様子は……なし」


 水道。マナ。その他インフラも正常。玄関の鍵が壊されていたり、形の違う足跡が幾つもあったりはしない。


 遠話回線のことは私の取り越し苦労だったか?


 いや。そうは思えない。残高を忘れて料金未納になったとしても、プロヴァイダの音声ガイダンスが流れるだけ。今この家では何かが起きている。予期せぬ来訪者の私が立ち去るのを、禍の主達は息を潜めてやり過ごそうとしている……


 火傷を隠しながら学校へ通い、毎日何事もなかったかのように帰ってくる。家の中のことをやり、母親の虐待に耐え。グラキエルでは憐れみを嫌って明るく笑う。


(……どうして彼が。悪い子は他にも大勢いるのに)


 涙が滲む。しかし泣いている暇などなかった。


 今のうちに連絡を入れたほうがいい。学校や警察署、児童福祉関係者にも。母親のことを含め、私が死んだときは事件として扱われるように。


 代わりに連絡してもらおうと、聞いたばかりの番号を打つ。アイシャさんは普通の携帯端末しか持っていない。ARキーに指を走らせ、呼び出そうとした、そのとき……


「…『当たらない』!」


 口走っていた。エレン語の言霊を。


 そして驚く。不完全ながらも効果を発揮したことに。


 後頭部の痛みに耐え、泥だらけの地面に膝を突く。傘は煽られてどこかへ飛んでしまった。薄く見上げる瞳を重い雨粒が叩く。


「な……!?」


 襲撃者は驚いたようだった。


 素人の私を仕留め損ねたこと。予想もしない方法で一撃を躱されたこと。


 少しずつ落ち着いてきた。これなら私でも戦える……!


「…『灼熱よ。在れ』!!」


 焔は出なかった。代わりに小さな雲が現れ、爆発的に広がって周囲の視界を阻む。殴られて屈んだ姿勢のまま、突風が過ぎるのを待つ。敵の男には、より辛辣な結果が与えられた。フェイスガードの隙間から熱湯の雨が侵入――火力が足りなかったことによる変化。黒い防護服らしきものを纏った男は、悲鳴を上げながら地面に倒れた。火傷の痛みは長引く。簡単に原因を取り除けない分、力学的なエネルギーより始末に悪い。


(…早く。一度、身を隠さ、ないと……!)


 早鐘の頭痛に耐えながら、手足を引き摺って歩く。


 呼び鈴を押したときは感じなかった気配が、家の中から幾つも放たれている。声の種類だけを辿っても、少なく見積もって四人。その中に襲撃者のものとは違う高めの声がひとつ。口を塞がれているのか、くぐもって不明瞭に鳴り響いた。


「離……せよ。くそ……っ!」


「ユンイェ君!?」


 霧が晴れる。私達の間に遮るものはなく。


 彼の視線が初めて私を捉えた。食い入るような丸い瞳は、恐らく私の素性を悟っている。大丈夫だと言ってやれない、自分の無力さに腹が立つ。


「思わぬ邪魔が入ったが。まあいい、撤収だ」


 軍が使うようなアサルトスーツ。二人がかりで私の両脇を固める。


 言霊は使えない。それを見越しての配置。前線の冒険者より慣れていた。私や『あいす☆とーねーど』のメンバーが束になっても敵う相手ではない。


「…一七〇五。未確認の少女を公務執行妨害により拘束」


 先程とは別の一人が言った。


 両手を後ろへ。見ればユンイェ君も同じようにされている。警察のような口を利くが、子供を相手に随分なやりよう。彼が何の罪を犯したというのか。


「…少年の全身に火傷を確認。こちらは古いものですが、夥しい刺創の痕も」


 隊長らしい中年の男が舌打ちする。


「背景を確認後、問題なければ所管の児相へ。念のため両親はマークしておけ」


「こちらの女はいかがしましょう?見たところエレン人のようですが……」


 顔を焼いた男が刺すように見つめてくる。本当は恐怖のあまり気絶してしまいそうだったが。怯んだら私の負け。全力で睨み返す。


「……工作員の疑いがある。吐かせてみろ」


「はっ」


 ぞくりと身震いがした。


 殺される。


 この連中は、人を死なせることなど何とも思っていない。


「裏へ回れ。車で離脱する」



 ☆★☆★☆★☆★☆



「急げ。軍の連中が来ると厄介だぞ」


「んんっ!ふぐっ!んむっ!」


「大人しくしろ!お前は悪いようにしない!」


 笑った。私は悪いようにする宣言。それでウゥヤさんが納得するものか。


「何なんだ一体……実は姉弟か何かなのか?」


「まさか。こっちのガキはツォン人だろ」


「分かんねえぞ。資産家の隠し子ってこともあるからな?」


「無駄口はいい。早く!」


 隊長が怒鳴る。あまり士気は高くないようだ。これならまだ付け入る隙があるかもしれない。ところがその直後、私の気力を根こそぎ奪うような台詞が聞こえてきた。


「二手に分かれる。A班は第三目標、B班は未確認の女を連行。第一と第二目標はロスト。日を改めて捜索する。以上」


 別々の車に分かれて、私達は荷物のように積み込まれた。


 ここで離れたら二度と会えない。そう考えた私の身体に異常な力が宿る。蹴りの一つも入れれば、脚の骨くらい折れるのではないか――そんな根拠のない自信を覚えて。また都合のいいタイミングで携帯遠話が鳴り、退却準備を進めていた男達の注意を惹く。ただ殺されるよりはマシかもしれない。理性を捨てて必死に暴れる。


 そこに横殴りの衝撃。車がぶつかってきたと理解したのは、ユンイェ君共々知らない人物の手でアスファルトの上に立たされてからだった。


 色白な長身のニケア人男性。ツォン人やハン人ではないと思ったのは勘。エレン人とは髪の色が違う。素手で拘束具を破壊すると、その人物は言葉少なに呟いた。


「クラリスに感謝するといい。あいつに言われなければ、俺はここへ来なかった」


 全損したタクシーからも、弱々しい声が聞こえてくる。


「…ったた……私にも感謝してくださいね。元々ランディさんは私の護衛なんですから」


「余計な仕事ばかり増やされるがな。最初に引き合わされたときは、ここまで面倒な奴と思わなかった……」


「……えへへ」


「褒めていない。金も無駄遣いするなと言ったろう」


 丸ごと車両を買い取ったらしい。そして運転うろ覚えのまま襲撃者達の車に突っ込んだ。安くとも二、三万はするから残金は後払いか。自分のお金ではないのに――いえ自分のお金ではないからこそ。随分と思い切った真似をする。


「アイシャさん……」


「言われたとおり、車からは降りませんでしたよ。運転手のおじさんには降りてもらいましたけど」


 屈託のない笑顔。呆れてものが言えません。


 雨はいつの間にか止んでいました。


 と、無意識に誰かの手を取っていたことに気づく。思ったより小さい、だがそれは確かな熱を持って私の掌を握り返してくる。


 褐色の濡れた瞳が私の顔を見上げていた。もう心配しなくていいと、言葉にできなかった想いを全部微笑みに替えて投げかける。


「イスカ……なの。本当に……?」


「ええ。何ならまた燃やされてみますか?」


 先程は水蒸気しか出なかったが、今度は思った以上の焔が出た。グラキエルでは慣れているが、やはりこちら側で見ると驚く。レオンさんのことを化物と言ったが、訳の分からないうちに私も魔法使いになってしまった。これは一体どういうことなのか。


「ウゥヤさんはどう思います?まあ便利なことは便利ですけれど。こんなものが世に広まったら、何が起こる、か…………」


 ぐらりと。大きく世界が傾いた。


「イスカ!?」


「拙いな。脳内出血を起こしている」


「イスカさん、しっかり!」


 遠くから声が聞こえる。手足は金縛りにでも遭ったよう。視界は真っ暗。自分が立っているのか倒れているのかも分からない。


 最初に殴られたやつ。今ここで足を掬われるとは……


「魔法で何とかならないんですか!?」


「被曝量の限界だ。こいつの場合、言霊を扱う技量だけが突出している。下手に使えば個体レベルでの深刻な変異を及ぼしかねん」


「理由分かんないよ!?イスカが死ぬかもしれないのか!?」


 何となく分かった。私達生物学の研究者が、実験動物のマウスやゼブラフィッシュにこれでもかというほどやってきたこと。


「イスカが化物になるかもしれないの……?」


「そこまでは言わない。必要最小限の応急手当てに止めるつもりだ……復興前の暗黒時代は知っているな。外見のみならず、運が悪いと人格にも異常が出る」


 是非やってほしい。死ぬわけにはゆかなかったが、それだけの業を背負ってきたから。リスクなしにリターンだけを得ようなんて。そろそろ私にも、帳尻を合わせるべきときが来たのかもしれない。


「イスカ……?」


 小さな手が握り返してくる。どうやら私の気持ちは伝わったらしい。


 それは本当に温かくて。雨上がりの冷たい風の中でも。


 意識が戻ったとき、私はその後のことを憶えていませんでした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「気がついた?フェアチャイルドさん」


「……………」


 ここは――訊ねようとして声が出なかった。考える傍から言葉も解けてゆく。


「市立病院の一般棟。昨夜、救急搬送されたの。憶えていないかしら?」


 寝た姿勢のまま頷く。ぼんやりとだが憶えているような。傍に初めて見た女の子と……知らない男性と、初等科くらいの……写真では見たことがある男の子がいて……


「………っ!」


「無理しないで。強い衝撃を受けたから記憶が混乱しているのよ」


 頸の回りが重苦しい。身体も強張っている。どんなに力を入れても動かない。まるで金縛りにでも遭ったような……それが最後の記憶。


 少しずつ思い出してきました。


 女の子はアイシャさん、私と同じグラキエルのプレイヤー。男性はランディさん、アイシャさんの護衛。男の子はチュ=ユンイェ君、ウゥヤさんの中の人。


 最初に後頭部を殴られ、雨の中をふらつきながら戦った。あのときの障害が今も続いている?そういえば力が入らないというよりは、身体の感覚自体がなくなっ……


「…診断は脳挫傷。それに伴う半身不随。声が出せないのは一時的な疲労によるものだから安心して」


 言われてみれば、指先は動くような気がする。


 息苦しさもない。事実を受け容れようと深呼吸する。理由が何であれ、今は声が出なくて本当によかった。


 落ち着いた頃を見計らって、まだレオンの話は続く。


 ランディさんの魔法により救われたこと。マナの過剰被爆による副作用がなかったのは不幸中の幸い。脳組織の壊死までは防げなかったものの、今度の経験で私の耐性は飛躍的に上がったのだとか。一定の時間が経てば魔法で再治療を試みられるらしい。


「……………!?」


「早ければ明日には退院できる。奇跡だ何だって、マスコミに騒がれる覚悟はしておいてね。いや……いっそステラ=キンブル共々、このまま死んだことにすれば」


 そこまでは超越していません。喋れないのをいいことに他人を勝手に殺すとか。相変わらずやりたい放題です。この数日に起こったことを考えれば、魔法で治すという話もあながち嘘ではないのでしょうが。


 そうなると続いて気になるのが、今は姿が見えない男の子のこと。


「……ユ…ェ…く……」


「大丈夫よ。今は私達が保護している。騒ぎになるといけないから家には帰したけれど、当面の安全は確保した。アカシャを使えば、やりようは幾らでもあるし」


 言霊の上位版みたいなものか。もっとも迷惑料代わりの特例措置らしく、いずれ身柄を引き取るなどの抜本的な対策を練らねばならないが。


「…さてと。伝えることは伝えたわね。これでも結構忙しいから、そろそろ失礼するわ」


 三脚の丸椅子を立つと、両腕を上げて大きく背伸びした。


 また名前も言わずに行くつもりらしい。しかし今度は、少なくとも二つのリアルネームを会話の端々から拾っている。ステラ=キンブルは恐らく偽名だろう。大事なのはもう片方、化物仲間のランディさんが何気なく口にした言葉。



 ――クラリスに感謝するといい。あいつに言われなければ、俺はここへ来なかった。



 それが本名だ。戸籍上は違うとしても、親から貰った本当の名前。


「そうそう。言い忘れていたけれど」


 廊下へ出る前に足を止めて振り返った。


 学校が終わったらアイシャさんとユンイェ君が来るらしい。マンションに近づくのは危ないため、私の着替えを買ってくるという。例によって莫大な予算を与えられ、アイシャさんはリアル着せ替え人形の予感に目を輝かせていたそうだ。明日には歩いて退院できることを彼女には教えていないのでしょうか。


「…まあ、付き合ってあげて。あの子も苦労してるのよ」


 呆れ半分に頼まれたとき。どこかで携帯遠話が鳴った。


 響き具合からして、発生源は枕元の引き出し。目で私に許可を取り発信者を確かめる。


 ディスプレイには名前が表示されていなかったが、レオン改めクラリスさんは、これ見よがしな溜息をついた。


「……さすが親子。せっかち病はお父さん譲りね」


 そういえばアイシャさんが言っていた。私は父に対する人質だと。迷惑料として私にはユンイェ君の無事と治療を。父が見返りに受け取ったものは……疎遠で連絡が取れなくなった親不孝娘の遠話番号。


「こんなに早く吹っ切れるとは思わなかったわ……やり手の経営者だけあって、覚悟を決めると強いわね」


 そろそろ三十秒経つが、遠話はしつこく鳴り続けている。


 父の私に対する執着がこれほどのものだったとは。その事実に今更ながら驚く。


 人質とはいえ、親子仲を心配してくれるような誘拐犯相手に命の心配はしなかったはず。いや実際は私が勝手に生死の境を彷徨ったわけだが。いずれ明日にならなければ、私は遠話に出られない。いや喋れたとしても、私から父に話すことは何も。


「一応報告しておくと」


 言い訳がましい癖を繰り返した。


「お父さん、無実だったわよ。フェリック社のCEOと繋がりがあったのは本当だけれど、やっていたのは擬似無重力VR環境の開発とインターフェースの調整だけ。ゲーム内で何をしているかは全く知らなかったの」


 私の名前を出した途端、あの居丈高な父が大人しく従ったらしい。本社で調査を進める間も、何かにつけ私の話を聞きたがったそうだ。長らく会っていないはずの父が、実は思ったより近くで私を見守っていたと聞かされたときには……



 ――話したい。そして確かめたい。

 ――あの頃と今とでは、互いの距離がどう違うのか。



 身動ぎする私の前で、遠話は唐突に切れた。


 次はないかもしれない。俯く私にクラリスさんは断言した。


 大丈夫。必ずかけてくる。


 こなければ、また人質にしてあげる、と……



 ☆★☆★☆★☆★☆



 trrrrr………rrrrr……rr……rrr………



「…Hello?」


(…………………)


 不自然な沈黙。躊躇うような息遣い。予備知識がなくとも分かる。小生意気な娘を相手に、どうしていいか迷っている意気地なしの父親からだと。


「用がないなら切りますよ」


 私は突き放すように言った。


「もし用があるのなら……覚悟を決めてからかけてください。もう赦しているとはいえ、いつまでも待てるわけではありませんけれど……」


 遠話の主は、聞き覚えのある声で呟いた。僅か一言――俺だ、と。


「俺では分かりません。お名前をどうぞ」


 そう伝えると一連の綴りを口にした。それは私アリス=フェアチャイルド、母エリン=フェアチャイルドの次くらいに馴染み深いもので。


(…無事、か?)


 散々待たせてから、どうにかそれだけ捻り出し。


「……はい」


(そうか……)


 父様もお変わりなく、などの社交辞令は言わない。そういう微妙な次元は何年も前に通り越してしまった。代わりに新しくできた共通の知人を話題にする。


「…クラリスさんとは、どういう経緯で知り合ったのです?」


 いきなり父が噎せた。何故そんなことを、とか何とか必死に捲くし立てて。


「別に。ただ接点が思い浮かばなかっただけです」


 詰問口調になるのを止められない。彼女のようなタイプが父の好みだったのか。そう考えたら無性に腹が立った。頑固で不器用な父が、娘に知らない女性のことを訊かれて困っている。その事実が何とも可笑しかった。


(あぁ……その、な。いきなり現れた。会社を出ようとしたら、そのまま拉致されて取引先の本社へ連行された。嘘じゃない)


「誰も嘘とは言っていません。それはフェリック社のことでしょうか?」


(あ、ああ。そうだ。よく知ってるな?大体あの女、まともな人間じゃないだろう)


「ええ。その点については同意します」


 だから疚しいことは何もない。そう言わんばかりの卑屈な態度。


 母さんが亡くなって十年以上。浮気というのは配偶者がいてこそ成立する。悪いことではないうえ、私に気兼ねする必要もないのに……


 もう少しだけ苛めてやろう。そう考えたとき、父の反撃が始まった。


(そういうアリスこそ、最近はどうなんだ。クラリス女史から聞いたぞ。夕方の遅い時間に、友達と連れ立って、初等科の男の子の家に押しかけたとか。お前のすることに間違いはないと思うが……一体どう説明するつもりだ?)


 真剣に心配している。少なくとも声音からはそう感じられた。私が寝ている間に余計なことを吹き込んだのか。あるいは断片的な情報を与え、こうなるように仕向けたのか。事実関係が間違っていないため、言い返すのは難しい。


 ですが、もう逃げません。私は全部伝える覚悟を決めました。


(…大体お前は、昔から危なっかしい子だったんだ。今更遅いだろうが、エリンの死に目に立ち会えなかったことは謝る。だから初等科の子供を青田買いするとか、あいつを悲しませるようなことだけは冗談でもやめてくれ)


「違いますよ。それより頼みがあります。その子を引き取っていただけませんか。私がひとりで世話をしますから、父様に面倒はかけません」


 母親に虐待されていたことを伝え、それで少しは落ち着きましたが。とはいえ最終的な結論は概ね予想したとおり。


(実験動物とは違うんだぞ!第一お前、子育ての経験なんか)


「分かっています。とても大変なことくらいは。まだ頭病みがするんですから怒鳴らないでください」


 もちろん嘘。ランディさんの魔法で完璧に治っています。


(……大丈夫なのか?何なら救急車を)


「もう治まりました。まぁ……そういう結果には、なるかもしれませんが」


 思わず本音が……いいえ違います。危ない趣味は持ち合わせておりません。


 クラリスさんのことでは苛め足りなかったので、もう少し慌てさせたかったのだと。そういうことにしておいてください。


(い、今、何て言った!?まさか本当に……)


「冗談ですよ。真に受けないでください」


 久しぶりに心の底から笑いました。


 最後にそうしたのはいつのことだったか。引っ越しの準備をしながら、この部屋には水差しの一つもなかったことを思い出す。


 顧みる余裕がなかった。他人のことも。自分のことも。


 ただ進むばかりで。そこに幾つの屍が転がっているか。


 その中に自分は含まれていなかったか。


 捨ててきた弱いもの。不毛な戦いを生き抜くため。


 忘れてきた醜いもの。不吉な死の影から逃れるために。


 だが、これからは違う。母の魂は、今も私の中で生きている。


 赤い花を買おう。沈む夕陽の名残みたいなやつを。


 落ち着いた素焼きの瓶に活ける。純朴な輝きが色褪せてしまわないように。


「…まだ、間に合うわよね?まだ終わりじゃない」


 誰にともなく呟きました。


 私の時間は、また始まったばかりなのだから。

プログラミング概論

(ミチノク出版刊 アキラ=アヤセ著 より抜粋)


 初頭の挨拶に代えて、まず本書の目的を明らかにしておく必要がある。

 本書はこれからプログラミングの基礎を学ぶ初心者のために執筆した。プログラミングは極めて論理的な仕事であるが、日常使われる言語で為されるものではない。加えて随所に専門用語が登場し、何かと不慣れな者の頭を悩ませる。

 そこで本書では、やや専門的と思われる語句の末尾に、説明の記載があるページの番号を付記することとした。これならば読んでいる途中で意味が分からなくなるようなこともないであろう。巻末の索引とあわせて、有効に活用してもらいたい。(中略)

 プログラミングはニケア語を用いて行われる。エレン語では動作が安定せず滅多に使われることはない。ツォン語で実験した研究者もいたが、こちらは全く反応しない結果が確認されている。(中略)

 プログラミングを行う環境は、大きくメインフレームとサブフレームに分類される。前者はヒトの身体で言えば脳、後者は感覚器官に喩えられる。対比マナ濃度13.6sec/h以上の環境下で所定のコードを綴り、以下にプログラムを入力する。メインフレームの稼働環境は人体に有毒であり、短時間でも必ずサブフレームを介して行う。(中略)

 直接メインフレームを扱う場合は、細心の注意を払わねばならない。作業者の健康を蝕むばかりか、予期せぬ遠隔地で被害が生じた例も報告されている。(中略)

 古くは言霊と呼ばれた現象であり、紀元前の遺跡から発掘された文書には数多くの記述が見られる。言葉を口にするだけで発生し、さながら魔法染みた光景であったという。余談ではあるが、ニケア人が先祖伝来の母語を捨てたのは、頻発する超常現象に困り果てたからではないかとも言われている。(以下略)

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