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私の中のリアル  作者: 五月雨
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Reincarnater01  “The third”

 溢れる陽光の下、私は唐突に覚醒した。


 泥水の濁りに一瞬躊躇い、だが激しい渇きを覚えて素早く飲み干す。


 きっと腹を壊すだろう。命を長らえるために不潔なものを啜った代償として。細かい砂粒が喉に障り、これでもかと何度も噎せる。食糧はなかったが、水だけは豊富にあった。このところ続いた長雨のお蔭。空腹はさほどでもない。怪我は……あるものの、とりあえず手足は動く。奴が戻ってくる前に、今すぐここを離れなければ。


 周りに誰もいないことを確かめ、瓦礫の隙間から這い出る。あの化物を相手に、目視などが役立つのかは疑問だ。それでも確かめずにはおれない。惨めな家畜にも意地がある。目的を果たすまでは死ぬわけにゆかなかったから。


 私は三番。奇異に聞こえるだろうが、そういう名前だ。昨夜は違ったのに、今ここでそうなった。そうなってしまった。


 あのようなことが起きるなど、今なお信じられない気がする。あれは夢だったのではないか。いや夢であってほしいと。叶うはずもない愚鈍な願いを。


 だが現実だ。私は外におり、誰にも襲われず太陽の光を浴びている。


「……………………」


 紺碧の空が、抜けるように高かった。


 事情を説明するには、八日前の黄昏時まで遡らねばなるまい。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「あの……よろしいですか?」


「ん?」


 誰かに呼び止められて、私はつと足を止めた。


「勘違いだとは、思うんですけど……でも」


 恐る恐る、といった具合に話しかけてくる。これには苦笑を禁じ得ない。私はそれほど厳しかったろうか?作り声を覚える歳の少女に怯えられてしまうほど。


「どれ。見せてみなさい」


 如才なく笑みを浮かべ、娘の手から額環を受け取る。


「そこの、(3952,-851,652)のあたりです」


 そして私は、言葉を失った。興奮のあまり、身体の震えを抑えられない。


 蒼い輝きを放つ小さな星。そうだ、これこそが――心の中で確信する。これぞ長年捜し求めた、我らが約束の大地に違いあるまい……


 額環を外すと、私は気弱そうな娘に云った。


「このことは、まだ誰にも話していないね?」


「はい。…七四九一二番です」


 息遣いと大きな動作で頷く。


 念のため確認しなければ。このことを他の教誨師達にも伝え、あれが本当に約束の地なのかを。先程は興奮してしまったが、今は少し落ち着いている。数百年埋もれていたものを、そう簡単に見つけられるとは思えなかった。


「今日は休みたまえ。他の誰かに教えたりしてはいけないよ?」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 夕餉前の気怠い時刻。同胞達が一息つく間も、我々教誨師には仕事がある。


 最も重要なのは、主より恵みを授かることだ。今日一日の役目を果たし、また明日からも御神のために働くことを誓って尊い糧を得る。それは一番から十二番の番号を引き継ぐ、特別な下僕にのみ与えられた義務。他の者達と違って、教誨師は生まれたときから番号を持たない。前の者が死ぬまでは、概ね『次の何番』などと呼ばれる。


 私は次の三番だった。今年で二十八歳、今の三番――私の母が四十三歳だから、跡を継ぐ頃には同じくらいの年齢になっていることだろう。


「どうしたの?次の三番。何か珍しいことでもあった?」


 忙しいにもかかわらず、母は手を止めて私を振り返った。ここは一条の光も差さぬ聖域の中。姿は見えなかったが、それでも微笑んでいるのが分かる。後継者を確保できたことも忘れ、孫の誕生を手放しで喜んでくれた人。子を生した一四七九二番との仲もよく、私は生まれてから一度も怒った声を聞いたことがない。


 逡巡する私を見て、母は面白そうに笑った。


「本当にどうしたの?何かいいことでもあったのかしら?」


「はい。いえ……まだ、確かではありませんが」


 悪いことがあった、とは訊かない。昔からの前向きな性格だ。


 事の次第を語ってゆく。このときばかりは、持っている額環を取り落とした。何事があったのかと、他の教誨師や『次』の者達も集まってくる。


「どうしたのじゃ。血相を変えて」


「そうですよ、あなたらしくない。さ、急ぎましょう。皆が恵みを待っております」


 四番と二番だ。万が一を防ぐため、教誨師は原則女性である。だが先代は女児に恵まれず、二番は私と同じ男性だった。


 母に話したことを、改めて全員に説明する。


 喜ぶ者。疑う者。誰しも驚きを禁じ得なかった。私とてそうである。まさか自分の生きる時代に、貴い使命を果たす瞬間が訪れようとは思わなかったから。


 儀式そっちのけで相談する。神の国は光に満ちた世界であり、もし見つけたら神々の末席に迎えられるという。では、それはいつなのか?どのような形で行われるのか?主からの啓示は来るのか?議論の種は尽きない。


「そうさな……こうしておっても始まらん。まずは今宵の恵みをいただいて、それから話すことにしようかの?」


 四番の声で、とりあえずその場は散会。神から食糧を授かり、それを分け隔てなく全員に配る。他に楽しみがないため、まず余ることはなかった。


 声を聞く限り、まだ七四九一二番は受け取っていないらしい。第三象限調査班の少年が遅れるのはいつものことだが、健啖な彼女にしては珍しかった。私と同じで、やはりあの発見がもたらす変化に不安を覚えているのだろうか。


「…三二八五一番です。今宵も主の恵みに感謝を」


 考えごとをしているうちに、件の少年がやってきた。残り二食のうち一食を渡そうとすると、理由も言わず固辞。代わりに睡眠導入剤が欲しいという。確か在庫の中にあったと思うが……食事を抜くのは感心しない。食糧の包みを無理矢理押しつけると、儀式の間へ向かいながら少年に言いつけた。


「それを食べてからだ。食べたのを確認したら、君に薬をあげよう」


 渋々といった様子で了解する。反抗的ではないが、このような態度は珍しい。


 その後、七四九一二番も現れて同じようなことを言った。似たような言葉を繰り返し、食糧の包みを押しつける。


 もっとも彼女の場合、眠剤ではなく懺悔だった。詳細には触れず、ただ人違いをして深く心を傷つけた、と。


 この聖域内では、姿形により他人を見分けられない。魔物の侵入を防ぐため、暗闇に覆われているからだ。声や息遣いで区別するしかなく、成長著しい子供達にはよくあること。毎日のように親が子を取り違え、後で物笑いの種になる。


 それでも真剣なのだ。大人になるかならないかの子供達は。


 微笑ましいと思う。愛しくすら感じる。もしかしたら羨ましかったのかもしれない。元より相手を決められていた私には、全く縁のない話だったが。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 そして七日後。私達大人は、未だ答えを出せずにいた。結論から言うと、主の求めていた星ではなかったのである。落胆もあったが、更に深刻な問題が生じた。


 あれの存在を、主に報告すべきか。


 一番と三番を含む主流派は、包み隠さず全てを報告すべきという考え。恵みを受けて生き延びる我らに、最初から選択肢の余地などない。元より下僕であるがゆえ、御心に適うことこそ至上の喜びであるのだから。


 しかし二番を急先鋒とする反対派の意見は違った。神の求めている星ではなく、かつ豊かな土地であるのなら自分達のものにしてもよいのではないか。他の星へ転生するための秘法は、授けられた奥儀の中に含まれている。改めて伺いを立てずとも、新天地への転生は可能。その上で新たな設備を賜り、貴い役目を果たしてゆけば問題ない。


 双方が理に適っていた。私自身、どうしてよいか分からないと思う。


 神への忠誠心に差はあるまい。ただし、ひとつだけ気になることがあった。このような議論を続けること自体、不敬に当たるのではないかと。最初は小さかった不安の芽――やがて水が滲むように、じわりと大きくなっていった。


「…ですから。この七百年、主は何も仰らないのですよ。これが意味するところを、解らないあなたではないでしょう」


「分かりませんね。それこそ冒涜に聞こえます。全知全能たる主は、いつどこにおられても立ちどころに世界の全てを認識することができるのです」


「ならば報告する必要さえないのでは?我々がこうしていることも、主はお見通しということに……」


 議論は恐ろしい方向へ傾きつつある。


(このままでは駄目だ)


 流れを変えなければ。切欠となるものがないか、暗闇の中に視線を彷徨わせる。


 果たしてそれは、部屋の外にあった。教誨師と見習いが十二人ずつ、これ以外の気配が近くにいる。ここと廊下の間を隔てる扉のあたり。何とはなしに違和感を覚えて、とりあえず確かめに行ってみると……


「きゃっ!?」


 少女の悲鳴が上がった。こちらも驚いて仰け反る。甲高い声の主は、何度も躓きながら慌てて走り去った。聖域の闇は深い。ともすれば危険な行為である。大きな瓦礫は除いてあるが、転べば怪我をするだろう。


 だが他の教誨師達は、別の心配をしたようだった。


「何だね今のは?…まさか」


「聞いていたのか!?」


「拙いことになったやもしれぬ。ここであらぬ噂を広められては」


「うむ。我々だけなら、まだ落ち着いて話ができる。だが不特定多数となると……」


 二番と七番を含む数名が立ち上がる。そして頷きを交わすと、争うように廊下へ飛び出していった。母と一番が即座に、やや遅れて私。すぐさま続こうとしたが、床のひび割れに躓く。痛みを堪えながら進む背中に、狼狽えた四番の声が追ってくる。


「…皆の衆、止めるのじゃ。同胞を殺めたとあっては、転生どころの話ではない……」


 途中、広間にも立ち寄った。あのときは判らなかったが、聞き耳を立てていたのは恐らく七四九一二番。大発見をしたにもかかわらず何の変化もないため、不安になって様子を窺いに来たのだろう。今思えば、彼女を疎かにしたのは失敗だったか。


 そこで、ふと気がつく。あの少年は無関係なのだろうか。二人揃って食欲を失くし、心の不調を訴えた。誰にも話さぬよう念を押したゆえ、私に言えるはずもない。


 七四九一二番は、三二八五一番のところへ行ったのだ。


 そして、あの少年は寝間にはいない。この聖域のどこかに、彼だけの秘密の場所を持っている。お勤めの間を除けば、最も長い時を過ごしているだろう。そこに何があるのか、何をしているのか。証拠や確信はないけれども。


「…何かあったの?急に慌ただしく……」


「一四七九二番。三番の孫は、もう休んだのかい?」


「ええ……しばらく泣いていましたが。授乳の後、すぐに」


「そうか。いや、心配は無用だ。君達は、ここで静かにしていなさい」


 我が子とその母親に別れを告げ、二番達の捜索を再開した。


 実際、不毛である。聖域はかつて、主を含む七柱の神々を共同で祀る社だったという。荘厳な威容は、今なお迷宮として我々の行く手を阻む。二番達より先に七四九一二番を見つける。惨劇を防げるかは、その一事にかかっている。


 五分ほどで居住区を調べ終わり、どこにも彼女らはいなかった。


 知らぬ間に結末を迎えた恐れはあろう。だとしても確認はしなければ。主の慈悲を乞うために。時の経つほど、悪い想像だけが膨らむ。


 より深い闇に沈む階段の前、一番や四番など他の教誨師達も集まってくる。その中に母の声はない。二番達を追いかけ、既に奥へ向かってしまったか。状態が分からないため、先へ進むには大きな危険が伴う。高齢ゆえ残る四番から全員へ、いつもと少し形の違う額環を手渡された。禁誦のひとつであり、主の許しなくば使用を認められない。この非常時にあたり、神罰をも覚悟し無断で持ち出したという。


「慈悲深き御神のこと。きっとお分かりくださるはず。我ら下僕が咎人となるのを、主はお望みになりますまい……」


 そう言いながら、長老も迷っているように感じられた。着用を促す声には、常日頃の柔らかさや温もりが欠けている。


「ささ皆の衆、急がれよ」


 言われるまま従うと、初めて世界が『見えた』。


 まず目についたのは、凹凸に満ちた床や壁そして天井。ヒトの目では捉えきれぬ微かな光が、この深淵にも届いているらしい。続いて異形の小さな生き物、醜悪な外観に多くの者が悲鳴を上げた。自分達はこんな薄気味悪いものに囲まれて暮らしていたのか、と。


 それから最後に……同胞達の姿。緊急時にもかかわらず、私達はしばし互いの顔を見つめ合った。目を、鼻を、口を――想像していたとおりだったが、されど個々の形は違う。抽象的な概念に過ぎなかったものが、実体を伴って現れた感覚。必ずしも整ってはいなかったが、私は彼らを――何物にも代えられぬ家族を、とても美しいと思った。


「我らに主の御加護があらんことを……」


 文字どおり四番に見送られ、暗闇の中へ踏み込んでゆく。


 後から知ったことだが、この額環が持つ力は『増光』と呼ばれるもの。今宵歩きやすかったのは、奇しくも月が出ていたため。魔物の目となり我らを探る、邪神リネーアがしろしめす夜。それらを司るは、主に楯突く魔神の王にして簒奪者グランディス。聖なる御神威の成就を嫉み、羨むあまり背教者達に滅びの道を唆した愚か者……


 異質だった。今ある状況も。魔神の王が抱き続けた執念も。永遠の聖域は失われつつある。新たな『星』の発見から七日、世界は大きく変わってしまった。


(最後の試練かもしれない)


 根拠はなかったが。期待と不安を抱えながら階段を下りていった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 中程まで下った頃。暗闇に目を凝らしつつ、額の汗を拭う。


 さすがに厳しくなってくる。躓く者も多いし、何人かは硝子の破片で手足を切った。放っておくのは不安だが、さりとて個別に帰らせるのも心許ない。ここで迷子になったら最後、まず一生居住区に戻ることはできないからだ。


 二番達は見つからない。同じく七四九一二番と三二八五一番も。急いだはずなのに、一体彼らはどれだけの強行軍で突き進んだのか。


 余程慌てていたとみえる。口では主が視ておられないと言いながら、本当は震え上がらんばかりに怯えていた。それだけに無茶をしかねないのだが、まだ間に合うと信じたい。『星』を手に入れたいと願ったのも、今の暮らしを憂えばこそ。二番と行動を共にした者達も、我々と同じように同胞を愛している。


「……駄目ね。これ以上下りるのは、全滅の危険を伴う」


 一番が言った。まだ顔を憶えていないが、何人か他の者達もそれに頷く。


「三番が戻らないのは気になるけれど……」


 視線が彷徨う。彼女もまた、私の顔を憶えていないのだ。声と名前は一致させても、外見から個人を特定する習慣が私達にはない。


「…もう少し。進んでもよろしいでしょうか?」


 まず口に出し、それから挙手をして踏み出した。


「母は、健脚です。それにあの性格、まず諦めたりしないでしょう。今頃は二番に追いつき、お説教しているところかもしれません。あと一層で構いませんから、もう少し捜していただけませんでしょうか」


「………………」


 何人かが渋い顔を浮かべ、慌てて他所を向く。


 経験のなかったことだ。完全な闇の中では、他人に表情を読まれない。


 神々の世界では、全てが光に満ちているという。すなわち声音だけ取り繕っても分かるということ。これもまた試練なのか――話す者にとっても、聞く者にとっても。無音の溜息を洩らしそうになり、慌てて止める。その、とき。


 爆音が響いた。かなり大きい。それも近く。


「何?」


「分からない。この先から聞こえたと思うけど……」


「奇蹟だ。二番のやつ、そこまで堕ちたか!」


 さすがに戻るとは言わない。


 ようやく見つけたのだ。このまま駆け抜けて、二番達を説得し争いの芽を摘む。


 だが……そのためには。まず戦いに勝たねばならない。力で押さえつけられない限り、ああなってしまった人間が話を聞くことはない。


「八番と十番は私と一緒に。五番と十二番は静かに近づいて。次の六番は伏兵を警戒。次の三番と次の五番は……そうね。怪我人の救助をお願い」


 一番の指示を受け、それぞれの役割を果たすために散った。私達を後ろに下げたのは、万一の事態を考えてのこと。一番の認識では、母が既に死んだものとされている。それは取りも直さず、今の爆発で教誨師の誰かに殺されたという憶測を含む。


「……いたぞ。あっちだ!」


 行く先から届いた微かな声に耳を澄ます。


 あれは十一番のものだ。温和な彼にしては、珍しく慌てている。彼は二番と行動していた。子供達のどちらか一方、あるいは両方を見つけたのに違いあるまい。


「どうせ行き止まりだ。慌てることはない」


 こちらは二番。高を括った視線の先には……女の子と男の子が一人ずつ。恐らく七四九一二番と三二八五一番だ。色の薄い少年が背筋を伸ばし、金髪の少女を庇っている。二人は直ちに振り返ると、奥に向かって駆け出した。


(何故、色が分かったのだろう)


 ふと疑問が浮かんだ。そして、すぐに思い至る。増光の額環では、光の波長まで見分けることができない。すなわち、これは本物の光。邪神リネーアの誘惑が、七四九一二番と三二八五一番の姿を月影の下に晒したのだ。


 手遅れながら、ようやく二番達も状況を察した。逃げるつもりなのだろう。魔物達が徘徊する聖域の外へ。このまま殺されるくらいならと思ったらしい。子供達の足を止めるべく、形振り構わず爆炎の奇蹟を連発する。そこに女が飛びかかり、二番の動きを封じた。利き手が自由にならなければ、熟練の教誨師も大したことはできない。


 だが二番は、更なる暴挙に及んだ。懐から刃物を取り出し、女の脇腹に捩じ込んだのである。微かな悲鳴を残すと、女は男の腕から滑り落ちた。か細く儚げなそれは、死の間際だったとしても母の声とは似つかない。


「は、はは……やった。は……」


「…貴様……っ!」


 怒気も顕わに一番が唸る。


 しかし瓦礫の山に阻まれ近づけなかった。一番と二番、八番と七番、十番と十一番がそれぞれ睨み合う。相手の負傷者は四名。無理に急いだ分だけ多かったのだろう。頭数を言えば、こちらのほうが上だ。


 子供達の姿は、いつの間にか消えている。術で焼かれるのと魔物に食われるのと、どちらがマシと言えるのか?いずれ話し合う雰囲気ではなくなっていた。初めて見る殺人――その血気に中てられ、誰しも正常な判断力を失っている。私も冷静ではいられなかった。ようやく知る母の顔が、斯くも無惨な未練に侵されていようとは……


 そこから先は定かではない。誰が誰を殺し、誰が誰に殺されたのか。我に返ったとき、私は七番の首を絞めていた。小柄な彼女では、私の手を振り解けない。不吉な影と重なるように、少しずつ顔色が濁ってゆく。


(三番を殺したのは、彼女ではない)


 遅かった。屍の山に新たな一つが加わる。


 敵意と憎しみ。終わるとも知れぬ……何か。とても辛く険しいもの。


 何なのだ?これは。一体、何が起きている?


 どうしてこうなった?分からない。分かるはずもない。祈りの言葉を紡ぐ。


「…主よ、お救いください……」


 そして、それは唐突に訪れた。


 純白なるもの。輝きを持たない、ヒトの形をした明暗の狭間。


 空ろな眼差しは、畏怖よりも嫌悪を感じさせる。


《炎よ、在れ》


 清明かつ無垢。瞬時に数人が焼かれる。言葉を間違えたかもしれない。丸ごと燃やされたのだ。その中に一番の姿を見つけ、やっと思い違いに気がつく。


 無意識に身体が動いた。薄く焼け爛れた手足を引き摺って。後ろからは断末魔。光や熱はない。何かを切り裂くような音だけが聞こえてくる。


 あれが主なのか。数百年も崇めてきた神?救済への感謝も、信仰を忘れてもいない。確かに我らは罪を犯した。だが、これではあまりにも……


 後ろを振り返ると、様子が大きく変わっていた。最初の白から刺激的な赤へ。学びたての知識によれば、それは血の色と同じだったかに思う。


「た……、…」


 十一番の指が、救いを求めて虚空を泳ぐ。


 どうすればよい。理解を超えるものに遭ったときは。超えるのみならず、そのための努力さえ拒まれたら?あなたを敬っている。あなたの言葉を信じてきた。二つなき心に誓って。そのような意思も、話ができなければ伝わらない。


(……三番の孫……)


 私の中で何かが崩れた。すぐ代わりのものが形成され、隅々まで全身を満たしてゆく。


(……一四七九二番……!)


 未だ知らぬ男児と女の顔を夢想する。


 それは温かく、とても心地よい何かだった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 私の子とその母親――三番の孫と一四七九二番は、教誨師に連なる者として特別な寝間を与えられている。万が一にも、血の混入を防ぐためだ。一四七九二番が他の誰かと子を生せば、『三番』の血統が分からなくなってしまう。私は彼女を信じているが、一般の寝所ではそのようなことが日常的に行われると聞く。


 深夜の居住区は、いつもと変わらず静かだった。地下の惨劇も、ここまでは届かなかったらしい。疲れた寝息と密やかな声が佇んでいる。


 寝所の前を通り過ぎ、私は自分の寝間へと向かった。さすがに戻っているだろう、夜半を過ぎても広間に残るのは愚かなこと。早く一四七九二番の声を聞きたい。彼女の肩に手を置いて、大丈夫だと安心させてやらねば……


「…次の三番?」


「ああ、私だ。今帰ったよ」


 軽く抱擁を交わす。


「何があったのです?他の皆さんは」


「死んだ。詳しくは言えないが、主の怒りに触れたらしい」


「…………っ!」


 我が子に手を伸ばしかけてやめる。人殺しの穢れを与えるわけにはゆかない。


「私も罪を犯した。やがて粛清されるだろう。だが心配は要らない。お前達は大丈夫だ。これまでどおり、主の情けに縋って生きるのだよ」


「…………………」


 一四七九二番は賢明だ。彼女は選択を間違えたりしない。三番の孫を次の三番として……いや、新たな三番として立派に育ててくれるだろう。


「何もかも主に伝える。さすれば残った者達は救われよう。四番は高齢だが、公平なお方だ。困ったときは」


「………嫌です」


 遮る言葉が濡れていた。


「どうしてあなたを喪わなければならないのですか。三番は何もしていないのに殺されたのでしょう!?あなたが何の罪を犯したと……っ」


「七番を手にかけた。三番は子供らを救おうとして二番にやられた。昨夜のうちから、禁忌の刃を密かに持ち出していたらしい」


 そして現れた存在。あらゆるものが白から赤へと変わってゆく。


 その過程は、未だ終わりを迎えていなかった。


 爆音と、それに続く悲鳴。他の同胞達が休む広間のほうから聞こえてくる。


「な、何?」


「逃げなさい!今すぐ逃げるんだ」


「逃げるって……どこへ?」


 子供達の後を追う?…無理だ。水も食糧もないのに。我々は与えられるだけだった。幼い乳飲み子を連れて、魔物が徘徊する荒野を生きてゆけない。しかし。


「どこへでもだ!その子を護れるなら、どこへでも!」


 彼女は息を呑んだ。黙って頷くと、私の言葉に従う。


 確実な死より不確実な生を――口だけの私は、なお絶望に囚われていた。一四七九二番が我が子を抱え走り去っても。不遜な考えが頭を過る。そんなはずはと思いつつ、もはや信じることはできない。恐るべき可能性を否定することができない。


 神が現れた四百年前から。私達は全員、使い捨ての道具に過ぎなかったのだと。


「……………ぁっ!?」


 激しい頭痛に見舞われる。動けない。何も考えることができない。


 頭の奥を抉られるような。これは何?これは一体何な……


 目の前に、忽然と白い影が現れた。


 それは先程のものより小さい。若干違う印象を覚えたが、色味の薄いところは同じだった。淡く輝いており、何より現実離れして美しい。


 ようやく我に返った。頭痛を堪えながら、心の中で叫ぶ。


 もう騙されない。絶対に騙されない。裏切ったのは我々だが、神は元から約束を守る気などなかったではないか!


 殺してやる。殺してやる。できるのかも解らないが。刺し違えてでも必ず。


「…アウラヨコイネガウ。ワガソンザイヲヒカリニカエテ。ワガマエニタチフサガルイムベキテキヲウテ!」



 ――どうしてあなたを喪わなければならないのですか。



 禁誦を放つ瞬間、私は激しく後悔した。


 死ぬべきではなかったのだ。愛する者達を残して。


 何があろうとも。私の手で二人を護る。そう固く誓ったはずなのに。


 この程度で神を斃せるはずがない。斃せるようなら、それは贋物ということ――いや贋物でも構わなかった。それで一四七九二番と我が子が助かるのなら。


(どういうことだ?)


 光に身を換えながら、されど心の中で首を傾げる。


 白い女は、必死に何かを叫んでいた。端正な貌を悲哀に染めて。最初の現れたのとは違うのだろうか。それとも巧妙な演技かもしれない。


 結局、私は生きていた。左脚の指を三本、他は何も変わらなかった。


(どういうことだ……?)


 天井が破壊され、寝間に明るい光が差し込んでいる。気絶したまま夜を明かしたのだろう。白い女は消えており、去るところを見た記憶もない。術が完全に動いていれば、一片も残さず滅ぶことはあろう。だが私は、現にこうして生きている。


(……どういうことだ)


 疑問を唱えることに疲れてしまった。激しい渇きを覚え、床に溜まった泥水を噎せながら啜る。これも初めての経験。後で腹を壊すかもしれない。


 廊下の様子を慎重に伺う。ひとまず一般の寝所へ向かった。そこは赤一色であり、思わず吐きそうになる。しかし胃の中は空だった。入って確かめることはせず、昨夜進んだ道とは逆方向を探る。あの惨劇が起こった場所を歩く気にはなれなかった。


 三十分後、私は青空の下に出ていた。


 あまりの美しさに息を呑む。これと似た景色を、事の発端となる惑星で見たことがあった。恐らくあれは植物というもの。土の匂いも違う。吹きつける風の優しく柔らかいことか。未だ慣れぬ双眸に、鮮やかな緑が眩しい。


「……………………」


 この程度だったのだ。我々と世界を隔てる壁は。


 あれだけ怯えた魔物の姿はどこにもない。全ては、我々の目を見えないままにしておくための嘘だった。明るいうちは活発になり、日が暮れると大人しくなるという話も。真相は逆だったのではないかとすら思う。魔神は架空の存在であり、あるいは真の尊き存在であり――神と崇めてきた聖域の主、こそ、が……?


(魔物がいないのなら、二人が無事でいる可能性は高い)


 思索をやめ、一番大切なことを思い出す。


 手当てもそこそこに、左脚を引きずりながら捜した。が、なかなか見つからない。警戒して隠れているのか。夜通し歩いたため眠っているかのどちらかだろう。


 低木に赤い小さな実を見つけて、それを口に含んだ。舌が痺れたりはしない。できるだけ多めに取っておく。問題ないようなら、一四七九二番に食べさせるのだ。彼女には栄養を取ってもらわねば。私が毒見をしたと知ったら、やはり怒るだろうが。


(おや……?)


 慣れた臭いを嗅ぎ、不意に立ち止まった。


 近い。微かでも解る。恐らく半日と経たないだろう。


 百歩進んだ藪の中、それは残されていた。羽虫という小さな生き物が飛び交っている。手で払いながら寄り、覗き込んだ私は愕然と両膝をついた。


 首と胴が離れた女の遺体。身を挺して護るように抱えた小さな子供。


(…………………!)


 奇跡は起こらなかった。


 初めて見る我が子の顔は、このとき既に息絶えていたのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 執念だった。茫失と狂騒の狭間。浮かぶ答えが毎回違う。


 一緒に逃げていたら――とは詮無き後悔。それこそ纏めて始末されただけ。せめて今は、次のことを考えられる悪運に感謝しよう。私にはまだ確かめねばならないことがある。七四九一二番という少女が見つけた、凍れる時の中に閉じ込められている惑星だ。


 端末を壊されたため正確な座標は分からないが、位置は大体憶えている。必要な機材が揃えば、再び調べにゆくことは可能だろう。


 作り方は知っていた。しかし、それには時間と手間がかかる。一月や二月では足りない。今の私は、明日の糧にも事欠く有様なのだ。


(生活を安定させる必要があるな……)


 獣や魚の肉は無理だった。口に入れようとすると地獄の光景が蘇る。木の実や草の根だけでは限界があろう。この土地は狭く、周りを大量の水――海に囲まれていたからだ。


 日没後。北の方角を観察すると、やがて無数の輝きが灯る。ずっと少ないが、南のほうも同じ。東と西は変わらない。暗闇に包まれている。


 最初は何かと思った。が、すぐ理解する。あれは人里の明かり。件の惑星を調べていて見たことがある。どうやら廃墟ではないらしい。生きた人間の街。


 昼間のうちに筏を造る。この島から脱出するのだ。これまで漠然と考えてきたが、生きて神に復讐するため。とはいえ、全ての神が討つべき相手ではない。未だ不確かではあるが、人間の利益になる神も恐らく存在するのだ。


 例えば太陽。危険な場所や獣の接近がすぐ分かるし、温かい光を浴びれば少ない食事量で長持ちする。月読神リネーアが邪悪ではないのなら、姉神である太陽神ディアナも忌むべき存在ではないのだろう。どちらかと言えば、むしろ逆だ。あるいは他の神々も同じかもしれない。尊い存在なればこそ、不当に貶められていたのではあるまいか……?


 頭病みは日増しに酷くなっている。主のことを考えたときほど痛みが増すようだ。これが何を意味するのか、今のところは分からない。苦しみから醒めてみると、直前まで何を考えていたのか忘れていることがほとんどだった。


 日持ちする果実を多めに集めておく。これで準備は整った。また同じ場所で人里の明かりを眺めた後、どちらへ向かうべきか夜通し考えてみる。


 結論は、より大きなほう。大勢いれば見知らぬ人間が増えても目立たないはず。そのような考えは、近代的な法治社会を知らぬ私の浅慮に過ぎなかったわけなのだが……


「ところであんた、名前は。住所はどこ?」


 水揚げされて落ち着くなり、拾ってくれた商船の主は私に向かってそう訊いた。


「名前?住所……?」


「ないわけじゃないんだろ。あのままじゃ溺れ死ぬと思ったから、さっきは助けたけどさ。世の中には入国管理ってもんがあるんだよ。身元の怪しい奴を放置したら、俺も不法入国の幇助になっちまう」


 幸い言葉は通じた。一般的なものではないと知ったのは後のことだが。我々の言葉はエルフ語、あるいはニウェウス語と呼ばれているという。しがない船乗りに見えて、案外博学な男だったのかもしれない。


「言えないんなら、このまま入国管理事務所に連れてくよ。どうせリトラあたりが本国だろうが……わざわざ海を渡ってくるとは。あの国も余程ヤバいんだねえ」


 同情するように言った。


 リトラという国のことは知らない。そもそも国という概念を知らない。訊ねてみると、話好きの男は何度か行ったことがあるというリトラ共和国について教えてくれた。


 大災厄よりも昔の数百年前、五つの種族が共同で建国したこと。


 大災厄で交易が廃れ、今は二つのエルフ族が支配していること。


 極めて犯罪が多く、他では見られない人身売買などが行われていること。


 世界を復興させた立役者だが、経済は貧弱で、国際社会における地位は低いこと。


「……なるほど」


 男は私のことを、逃亡奴隷だと思ったようだ。エルフ語ができるのだから、エルフの家で使われていた高級品と。エルフ族は神の子孫を自称する者達。大災厄とは高濃度の汚染マナが世界中を席捲した、原因不明の災害だという。


「そんなことも知らないのか?まいったな……」


 首を傾げる男を余所に、私は頭を働かせた。


 聖域に隠れなければならない事情は、どうやら本当にあったらしい。しかし彼の口ぶりからすると、災禍が収まったのは遅くとも百年前。嘘を言ってあの場所に閉じ込めておこうとする、何らかの悪意があったのは間違いなかろう。


 神の子孫を名乗るエルフ族は、同胞を皆殺しにした存在の手先なのか。同じ言葉を使うのなら、我々と同じく騙されているとも。いずれにせよ確証はない。このままリトラへ移送されるのは危険だ。


 逃げれば迷惑がかかる。助けたこと自体を忘れてもらうのがよかろう。だが、どうしたら?都合よくヒトの記憶を変えられる奇蹟など聞き覚えがない。


「…私は、リトラとやらの生まれでは……」


「言われてみれば、その髪と目はエレン人だよな。顔の造りも何となく違う。どこかの元貴族さんかい?今時、純血なんて珍しい」


 お人好しの男は、私の言葉を額面どおり受け取った。


「じゃあ方法を変えよう。今度はお前さんが知っていることを教えてくれ。ここまで来ると、経歴がどうのより記憶喪失に近い気がする」


 自分がどこから来た何者なのか。言われてみれば判然としない。


 『聖域』と呼んでいただけで、それが世界全体のどこに位置するのかは知らない。次の三番というのも記号だ。いや……今は母が亡くなったから三番か。とはいえ、数字は名前と違う。何の意味もないことは明白である。


 記憶はあるが、自分を説明できない。その認識は恐ろしかった。こうなると分かっていて、家畜同然の扱いをしたのか――誰が何のために?


 私が知っているのは、あの暗く狭い穴蔵の中だけだった。


「……まあ、休めや」


 なおも黙っていると、男は甲板へ戻っていった。とりあえず今は、落ち着いて考える時間が欲しい。それから間もなく。私は再び彼の助けを乞う羽目に陥った。


「……………………っ」


「あんた。船乗りは無理だな?」


 揺れ傾ぐ木の床も、初めての経験だったのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 夕刻。船は港に帰り着いた。


 エルニア王国にある交易都市で、ミルズというのがその名前らしい。遠目に見た明かりの数が示すとおり、最も活気がある街のひとつだという。私が隠れ潜む船底の奥まで、人々のざわめきや何か重いものを動かすような鈍い音が聞こえてくる。


 興味をそそられたが、顔を出して覗くことはできない。見つかってしまえば、入国管理事務所とやらに引き渡されてしまうからだ。


「船内にいる限りは遭難者のままだ。俺の一存でどうにかできる」


 身元が分かるまでは面倒をみると言ってくれた。無論、相応の仕事はある。最初に与えられた役目は、船内の掃除だった。しかし、これにもひと苦労する。私は掃除というものをしたことがない。暗闇の中で劣悪な衛生環境に慣らされてきたせいだ。汚れが残っていたとしても、私の感覚では充分なものに見えてしまう。


 船底の積荷整理は挫折。前にも述べたが、母の身体能力は私に遺伝しなかった。


 国際共通語のエレン語ができないため、他の船員と意思疎通を図れないことも労働を阻んだ。まずは言葉を覚えるべきと、船長は何やら板状のものを渡してくれた。軽い人工素材を組み合わせており、片面は水を張ったような黒。他の部分と違って柔軟性に乏しく、落とせば壊れてしまうのではと思い慎重に受け取る。


「タブレットだ。辞書ソフトと……幼児教育用のアプリが入っている」


 その甲斐あって、半月後には片言のエレン語を話せるようになっていた。これには船長も驚いたが、裏には私の生い立ちと切り離せない種がある。聖域で使われていた額環は、制御言語にエレン語を採用していた。文字の羅列のみであるため話しかけられても分からなかったが、こうして字幕を見ながら声に出してもらえば理解できる。明らかに不足または偏っていた語彙も、辞書の熟読により解消した。


 やがて三十日が経過した頃。船長は私に意外な提案を持ちかけてきた。


「上陸……?」


「そうだ。ここに閉じ籠もってるばかりじゃ、息が詰まるだろ?」


 外の世界を見たほうが、言葉の適応は早いのだという。元より記憶喪失ではないのだから、身寄りが見つかるはずもない。ずっと世話になることもできないため、考えるまでもなく了承した。問題は、上陸先に選ばれた国である。


「リトラ……というと、あの?」


「港を離れなけりゃ、そう危険なことはねえ。あまり心配すんなや」


 船長がリトラを選んだ理由は、すぐに分かった。彼の国には、近代的な戸籍などない。その前に市民社会が消滅し、住民台帳は奴隷目録に変わった。二つのエルフ族は部族社会であり、戸籍を要するほどの数がいないという。


 土の埠頭と木の桟橋が見えてくると、私はいつものように船底へ隠れようとした。


「大丈夫だ。ここでは普通にしていいと言ったろ。入国審査がザルだからな」


 そう言われても、素直に安心できるものではない。船長は私の素性を知らぬ。現れた役人を見て、私は更に警戒を強くした。明らかな外見的特徴を持つ種族――白い膚と黒い膚の二種類だったが、どちらも先の尖った耳をしている。片や神の子孫、片や神の奇跡を後追い成し遂げたと主張する、ニウェウス族とアトルム族だった。


「毎度精が出るな、ブルーノ。また寺院に納める食糧でも運んできたのか」


「セイン様。ここでそういう話はナシにしましょうよ。金蔓を持ってると知れちゃ、命が幾つあっても足りません」


「リエント産の作物は森でも評判がいい。少し分けてくれるか」


「今度、お持ちしやしょう。エア様にもよろしく」


 後日知ったのだが、事実上リトラには入国審査がなかった。その理由も信じ難いもので、自国民以上に秩序を乱す者がいないからだという。結局セインという白い膚のエルフに見咎められることなく、私は四十七日ぶりに固い土の地面を踏んだ。


「……何度か?」


「この国に出入りしてると知れたら、それだけで黒い噂が立つんだよ」


 機嫌悪く突き放すと、船長は積荷を満載した馬車に乗り込んだ。他にも五台、主立った部下と数名の屈強な男達がついてくる。港を離れて市街地へ――とは言っても、歴史を感じさせる建造物の数々に比して人影はまばら。道端に薄汚い格好で蹲ったまま、時折こちらへ昏い視線を飛ばしてくる。


「絶対話しかけるなよ。目を合わせるのも駄目だ」


 この場は従っておいた。そうしたほうがよいと思えて。


 少なからず関心はある。船長達は活力に満ち、一方でこの者達は寝静まったように動かない。その差はどこから来るのか。恐らく飢えているのだろうが、今更取り返しのつかないほどそうなってしまった理由が分からない。


(後で船長に訊いてみよう)


 当時の私は、安直に考えたものである。


 聖域の中と違って、外の世界では次に起こることの先が読めない。彼と落ち着いて話す機会は、生涯二度と訪れなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…いつも助かります。わざわざ遠いところを運んでいただいて……」


「いやいや。こちらも商売ですからな。ホビット細工は他で手に入らない逸品。時間と手間をかける価値はありますよ」


「小人族は今、閉鎖的になっておると聞きます。我が国のアトルム族とだけは、昔ながらの付き合いを続けているらしいが……」


「ドワーフも似たようなもんですかね?」


「ほとんど出てきませぬな。西の草原地帯で交易をするのが関の山でしょう」


 船長と客――寺院の宮司との会話を、聞くとはなしに聞いていた。タブレットから得た知識のうち、再確認できたものが幾つかある。


 ドワーフとホビット。どちらも黒い膚をした小人。前者は逞しく、後者は器用な指先を持つ。違う種族だが共同の社会を築いており、ゆえに小人族と総称される。ドワーフが鉱山労働や農作業に従事し、集めた原材料をホビット族が加工。完成した製品はドワーフの武装商人が村の外へ持ち出し、アトルム族との物々交換に供される仕組みだ。


「……エルフ族は、どうなのでしょうか」


「ほぉ。こちらの新入りさんは、神話に興味がおありかね?」


 エルフは経済観念が薄いため、これらの産品が人間社会に流出するのは稀。概して彼らは、頑なに貨幣の使用を拒む。聡明な種族であり、貨幣の利点を理解できないのではない。蓄財による堕落や共同体への不義を戒めているのだとか。


 氏族の危機には、全員が武器を取って戦う。それぞれ集落の名に戴く始祖を崇め、血の連帯に基づく強固な社会を築いている。血が濃ければ濃いほど、互いの結びつきは巌のように固くなるという。


 その中心に神。アーダム、カイン、アベル、サラサ――どれも初めて聞く名だが、安心するのはまだ早い。これらはニウェウスの祖先である。アトルムの祖先は所謂『為り神』、古代の人間が部分的に進化の階梯を登ったもの。私達への扱いからして、聖域の主が自分の足元に迫るだけの技術を与えるとは思えない。すなわちアトルムの祖先は、我々を騙していた存在とは少なくとも関わりないということになる。


「四柱の始祖神とは、いかなる存在なのでしょうか?」


「…儂はミラノの信徒でな。七大神とそれを取り巻く神々の伝説しか知らぬのじゃよ」


 見れば船長が渋い顔をしている。口には出さなかったが、顧客の機嫌を損ねないでほしいというところ。取り越し苦労だったらしく、老人は構わず話を続けた。


 最終戦争の折、ニウェウスの始祖神達はどちらの側にも与しなかったという。中立を守って生き残ると、互いに交わり多くの子を生した。木の股から生まれたとの話もあるが、さすがにそれは伝説だろう、とも。提唱者がニウェウスの長老であり、また最初から大人として生まれたと語っているため、誰も表立っては否定できずにいるらしい。


「争いとは、誰と誰の?やはりセラとエルやディアナの勢力でしょうか」


「お前さん、その話を誰に教わった?」


 宮司の目が細められる。


 正直に答えるのは躊躇われた。少し無防備に喋りすぎたかもしれない。


「誰、とは別に……親から聞かされたような気が、します」


 無論、出所は聖域の主。なお洗脳が解けていないことに、我ながら驚く。


 荷下ろしを監督するとして、船長は礼拝堂を離れていった。誰もいないのを確かめると、宮司は私に声を潜めて忠告した。


「…口外せぬがよかろう。その認識は一般的ではない」


 最も勢いがあるのは豊穣神ラフィニア。次いで自由の女神セラ、愛の女神ルースアと続く。知神ミラノや義神エル、戦女神ディアナは、セラの従属神に貶められている。


 戦った相手も違う――別の理を司る魔神。グランディスを筆頭にフイユ、カスパル、メティス、バルフェルド、シェリィ、アルボ。こちらも対を成す七柱。グランディスとフイユが特別な存在であり、息子と母の関係にある。このあたりは私が知らされていたものと同じ。セラは魔神を倒し、その後反逆したエル達をも封印した。


 では何が違う?一番大きいのはラフィニアの位置づけ。神々の調停者に過ぎなかったものが、王たるセラの朋友に押し上げられている。一方ルースアは追い落とされ、ラフィニアの一部業績が誤って別神格にされたとさえ。ラフィニアの教団が存在しないのをいいことに、信者倍増を狙ったルースア教団が噂を流したとも言われるが結果は逆。ルースアの神格がラフィニアに吸収されつつあるらしい……


 ルースアの神格は『愛』。恋や性欲、果ては物への執着に至るまでを守護する。セラに対する友情を超えた思慕など、何らかの逸話が伝わっている。


 ラフィニアは謎だ。神格を表すものは一切なく、ただ重要な局面に現れて調停したり不利な側に肩入れしたりする。事が終われば姿を消し、勝っても負けても立場が変化した様子はない。誰かに味方あるいは敵対すれば、普通は感謝されるか恨みを買う。取るに足らない話だとしても、それが全く見られないのだ。ラフィニアなどという神は、まるで最初から存在しなかったかのように。


「豊穣神ラフィニアとは何者か?最後は必ず、その疑問に辿り着く」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 老人は語った。


「このような噂を聞いたことがあるか?」


 礎の女神と監視者の話。


 前者はエルフ族の伝説、後者は人間の支配階級で実しやかに囁かれている。


 世界は幼き女神が見る夢であり、ニウェウス達はその子守であること。遠い昔、彼らの祖たる四柱神に命じられた。然るべき時が訪れるまで、健やかな眠りを保つように。機が熟せば礎から解き放たれ、目覚めて故郷の世界へ還るのだという。


「目覚める……?」


 礎の女神の話は、少なからず私の興味を惹いた。


 監視者については聞くまでもない。憎悪が高まり――激しい頭痛。次の瞬間には、何に怒ったのかすら忘れている。肩で息をしながら話の先を促す。


「……お前さんは、一体……?」


「続けて、ください。私は大丈夫です……」


 とはいえ、もはや話を聞ける状態ではなくなっていた。


 頭が割れるように痛い。考えれば考えるほど。疑えば疑うほど。監視者のことを、礎の女神のことを、もっと聞かねばならないのに。我が愛する者達を死へ追いやったのは誰か?同胞全ての運命を戯れに弄んだのは誰か?


 もがき苦しんだ。従来の比ではない。二の腕に爪を立て、喉を掻き毟り。ひたすら制止を振り払い、指先に赤いものが溜まるまで長くはかからなかった。


 やがて苦しみから解放される。始まったときと同じ、それも突然のことだった。


「…私は……」


 上体を起こし、掠れた声で言い放つ。


「……我が名は、三番。聖域の主、慈悲深き豊穣神……至尊にして不可侵、その手足となりて働くもの。叡慮を忖度し、大御心に適わんとす……」


 唇と喉が勝手に言葉を紡いだ。恐怖と緊張が綯い交ぜになった息を呑む。それは老人のものだったか、それとも私のものだったか……


 意思は認識の外へ。身体が思うようにならない。いや――頭がおかしくなっているのか。思ったとおり考えない。それでいて考えたとおり動く。徐に手を伸ばすと、私は老人の首を締め上げていた。長く持たない、ほんの数十秒で脱力する。


 心は凪いでいた。七番を殺めたときと違って。


 この老人は敵だ。聖域の主を敬おうとせぬ愚か者。


 恐れる必要はない。然るべき罰を与えただけなのだから。


「……う………」


 微かな呻きを聞いて、視界を足元へ戻す。何かが蠢き、私の足に触れようとする。唾棄すべきはずが、どうしたことか振り払えない。


 老人は生きていた。枯れ枝のような指が、素足の皮膚を這いまわる。


 死にぞこないの無念と捨て置いたが、強烈な執念を感じる。声を出せぬゆえの代替?となれば息絶えるまで続く。呪詛。調伏。言霊……奇蹟。


(……っ!)


 謀られた――そのように考えたのは私自身か。


 慌てて指を払い除ける。残念ながら遅い。老人の顔が激しく歪む。笑ったのだ。音もなく凄絶に。同じ表情をする知らない女と、ほんの一瞬重なる。


 少し噎せて、老人は事切れた。苦悶と達成感の狭間に揺れながら。不快な気分に襲われ、一体何をしようとしていたのか考える。自分は何のために彼を……罰?手、にか、け……?殺さ、ナ、け、れ、バならなかったのか………?


(神だ。尊き主を疑われて)


 いや違う。疑っていたのは私。老人は聖域のことなど知らない。新たな大地のことも、あの忌まわしい事件のことも。



 ……新たな大地?あの忌まわしい事件?一体何のことだ?



 何かがおかしい。どこか大切な部分が抜けている。


 そういえばここは?――リトラ共和国だ。どうしてここへやって来た?――言葉を覚えるには実地が一番だと船長が言ったから。船長とは誰?――漂流する私を拾ってくれた。何故漂流していた?――島を出なければならないと思ったから。島を出ようと思ったのは?――外に出て食糧がなくなったから。


「………………っ!」


 またあの頭痛が来る。無意識のうちに身構えた。


 それでも思索をやめない。何か大きなこと、恐ろしく重要な何かを忘れているような気がする。何としてもそれを、暗く冷たい記憶を取り戻さなければ……



 どうして外にいる?――聖域にはいられなくなったから。



 大きく息を吸い、そして吐く。聖域とは、豊穣の女神に守護された最も安全な場所だ。魔物の目から逃れるため、常時暗闇に包まれている。旧き信仰の残滓であり、偉大な主と神々の王や無数の雑神も祀った社。私達はそこで養われ、神の故郷を見つけるため探索の日々に明け暮れていた……先祖代々、およそ七百年も。



 何故、聖域にいられない?



 頭痛は起きなかった。となれば考察を邪魔するものは存在せず。


 聖域を出たとき、私は一体何を見た?最初は光、そして青空。緑成す草原。土の匂い、柔らかな風。どれも初めて触れるものばかり。毒見をしようと、未知の赤い果物を口に含んだ。酸味がきつくて不味かったが、食べられないというほどでもない。


 ……誰のために?そこで気がつく。毒見というものは、必ず護るべき相手がいる。


 一四七九二番と三番、そして我が子三番の孫だ。母には叱られるだろう。未来ある若者の役目ではない、と。相変わらずの子煩悩、だが孫のためなら赦してくれるか。いやそもそも彼女は、生きて青空を目にすることが叶わなかっ……



 突然現れた主が、同胞の全員を皆殺しにしたから。



(…………………!)


 心臓が高鳴る。どくんと一つ、大きく跳ね上がるように。


 頽れる母の姿。その表情は無念に彩られ、また希望と絶望を宿している。あのとき彼女は、ここから脱け出そうとした少年少女の盾となり四十三年の生涯を閉じた。


 直接の仇――二番を討つことはできなかった。早くに母親を亡くした七番、まだ十九歳の彼女を絞殺した感触は憶えている。その穢れを与えたくないがゆえ、無事戻った私は我が子を胸に抱くことはしなかった。


「…っ……はぁ………く…っはぁ………」


 終わりではあるまい。乱れた呼吸を必死に調える。つまり毒見は、一四七九二番と我が子のために行ったことだ。


 二人は今、どこにいる?よもや捨ててきたなどという馬鹿な話はあるまい。船長に拾われた時点で、私は既に一人だった。その事実が意味するもの、と、は。


「あぁあああぁぅおぉぁああああああっ!」


 激しく反吐を撒き散らす。


 思い出した。何もかも。


 死んだのだ。二人は、この世に存在しない。


 首を刎ねられて。喉に母の血を詰まらせて。


 ならば私は。私は、私は。私は。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「どうしたの、お爺?大きな音がしたけど……」


「!?」


 幼い声が聞こえ、奥のほうへ視線を飛ばす。


 黒髪の女児。背丈からして五、六歳か。姿形から読むのに慣れない。とはいえ間違ってもいないだろう。床に倒れた老人を見ると甲高く悲鳴を上げた。


 足音が更に二つ、廊下の向こうから駆けつける。


「どうした!?」


 同じくらいの男児。それから十歳ほどの少年。黒髪と金髪、見た目は離れているが兄弟なのだろうか。思うに血は繋がっていまい。三人の孤児が同じ相手に拾われただけ。そして私は、この光景が意味するところを認識した。


「…てン……めぇッ!」


 言い訳を思いつくより先に、年嵩の少年が叫ぶ。


「セフェリノ!あいつを切り刻め!生かして帰すな!」


 断裂が刻まれる。首の皮一枚、もう少し遅ければ頭と胴体に分かれていた。兄貴分に触発されたのか、黒髪のほうも厭に落ち着いた声で呟く。


「……ザフィル。震わざるべし」


「ま、待ってくれ。これには……!?」


 どのような理由がある。私が三人の養い親を殺したのは事実。


 いずれ声を出せなくなった。のみならず、私の周囲から全ての音が消えた。何のために?祈りを妨げ、奇蹟を封じるため。五歳児の冷静な反応に背筋が寒くなる。


 だが、この場合は不完全と言えた。真言は文字を綴りさえすればよい。


 『アウラヨコイネガウ。ナンビトモワレヲミウシノウナリ』――奇蹟の効果は、願ってすぐに表れた。小さな襲撃者達は、敵の姿を捜して右へ左へ。とはいえ、闇雲に攻撃されては敵わない。気取られぬよう、できるだけ静かに移動する。


(…あの子達は、一体……?)


 三人のうち二人は、奇蹟のようなものを使った。聖域の言葉であり、外界で言うところのニウェウス語。よって内容が詳しく分かる。子供達はセフェリノとザフィルに願をかけた。聖域の主が敵と見做す存在に。とにかく今は、整理して考える時間が欲しい。


 申し訳ないことをしたと思う。さりとて今、殺されるわけにはゆかない。ようやく自分を取り戻したのだ。何をすべきかも理解している。恐らく、あの老人は味方。生きていれば味方だった。親の仇を捜して回る勇敢な子供達も。


 盗み聞きしつつ逃げていると、やがておかしなことに気がついた。


 あの子達には、名前がない。数字と単語を結びつけ、それで個人を識別する。少年達はトレイニー、少女のほうはスクワイア。そういう名前かと思ったが、我々聖域の民とは違うらしい。日によって番号を変え、固定を避けているのだ。家族同然に親しい相手を、何度も取り違えている。記憶力が悪くとも、さすがにこれはおかしい。


「…大丈夫か」


「う、うん……私は。それより」


「見かけない奴だった。僕達のことを気づかれたかもしれない」


「拙いな。プリーストもナイトも出払ってるのに……」


 大人のことか。どうやら今はいないらしい。いずれにせよ長居は禁物。船長の元へ戻れば迷惑がかかる。捕まる前に、早くこの国を出なければ。


 タブレット端末で見た海図によれば、洞窟を歩いて大陸側へ抜けられるという。問題は向こうの山岳地帯に住む小人族だが、交流あるアトルム族を殺めたわけではない。通れそうにないなら、北か南に迂回して海沿いを進む道もあろう。


 四日後。私は巨大な山脈の麓に立っていた。


 かつて獣人族がいたという西の草原地帯は、主を喪って深い緑に沈んでいる。不眠不休で歩き続け、どうにかここまで辿り着いた。今のところ追手はない。前に船長から聞いたとおり、この国では万事が自己救済なのだろう。


 どちらの道を選ぶべきか?少し考えた末、海辺の道を歩くことに決めた。やはり異種族が紛れているのは目立つ。ヒトが少ない田舎とて同じだが、それでも姿形が似ている分だけマシ。読みは当たり、貧しい村人達は私を快く迎えてくれた。


 無論、裏はある。奴隷のように働けば、都会で働くための身元を保証してくれるという。摘発される前に金を貯め、ある筋から戸籍を買えとのこと。


 半年後、その筋の連絡先と僅かな路銀を受け取って村を出た。


 向かう先はセリム。同国の首都であり、人口二百五十万人が住む大陸最大の都市だ。自由の女神セラを崇める教団の本拠地でもある。経済にも優れ、日々の糧を得るための仕事にも事欠かない。言われたとおり金を貯め、法外な値段を支払って正規の戸籍を手に入れた。元より違法なことをしているのだから、それは言っても仕方がない。


 連中は驚いていた。普通は二年かかるところ、一年で金を揃えてみせた。これには秘密がある。真言で認識されないようにし、金目の物を盗んだのだ。金蔓があるのではとしつこく探るブローカーを撒き、ひとまず隣国キルケへ。ここも大きな街があり、貿易港だけに様々な情報が入ってくる。例えば仕事の話。真言法の使い手――今はプログラマというらしいが、引く手数多の人気らしいこと。


 盗みをやめ、ようやく堅気の仕事に就いた。その合間、同胞の少女が見つけた惑星の調査に取り掛かる。作業は順調に進み、どこでも望む座標へ視線を送り込めるようになった。プログラマの仕事で得た知識も役に立ったろうか。


 苦労したのは、ほぼ全ての場所が時間的に凍結していたことだった。山や海、動植物からヒトに至るまで。存在しているにもかかわらず微動だにしない。


 これを解かすのは骨が折れる。というより最初は方法が分からなかった。


 それでも繰り返し覗くうち、やがてあることに気がついた。私の見た場所を中心に、少しずつ風が吹きはじめたのだ。ヒトの魂はマナを呼び込むのかもしれない。だとすれば、更に大勢の魂を呼び込むことによって……


 幸か不幸か、聖域の主からは転生の秘法を授かっていた。もっとも、これには罠があったらしい。完璧なように見えて、最後の最後に我らを裏切る。再構築された肉体に、記憶や直前の思考を転写する仕掛けがなかったのだ。要するに全くの別人として、我々は新世界へ向かうこととなる。本体は破壊されてしまうため、それでは単に死んだのと同じ。


 だが、いつかできるようになるはずだ。今は視線しか送れなくとも、記憶や思考を書き込むことさえ。それが成功した暁には――


「私は、全てを盗む。奴が守り育ててきた、何もかもを奪うのだ」


 新たな世界へ、できるだけ多くのヒトを移民させる。それにはMMORPGという体裁が最適。遊びとしてならば、徒に警戒を煽ることもないだろう。


 そして金。できるだけ多くの金を稼ぐのだ。この世界では貧しき者を相手にしない。社会的地位も必要。身なりを整え、会社を設立して成長させる。全てはそこから――それなりの格好でそれなりの話し方をし、いよいよ目的のものを売りつける。革新的な商品として、驚きと共に受け入れられるに違いない。


 マインドリンク。またの名をドリームシェア。


 それが魂と夢を繋ぐ方舟の名前だった。

――月刊エニグマ 新春特大号

 上流階級の噂 ~時の大統領も怯える『運命の監視者』とは~



 世の中には、触れてはならないモノがある。


 君子危うきに近寄らず、とはツォン人社会の古い言い伝え。賢明なる読者諸氏には経験がないかもしれないが、筆者は就寝中に携帯遠話を覗かれ、何度も冷や汗をかいたことがある。さりとてオトコの性は如何ともし難いもの。サビしい老後を迎えたくなかったら、やはりホドホドに留めておくのが家庭円満の秘訣だろう。


 今から話題にするのも、そういう類のモノとみていい。いや下手をすると、もっと怖いかもしれない。何せ巷の噂によれば、飛ぶ鳥を落とす勢いのミスラ共和国大統領すら、その影を見れば裸足で逃げだすというのだから。


 姿形は分からない。それどころか名前や性別さえも。エルニアも含めた伝統的な支配階級には、ただ一言だけ伝わっている。『運命の監視者』には逆らうな、と――


 少し歴史を紐解いてみよう。大災厄前の記録は少ないが、今なお口承として受け継がれてきた語り部達の記憶がある。世界は『監視者』と呼ばれる何者かに支配されており、各国の要人すら粛正する力を持つというのだ。


 最初に現れたのは、北部と南部が二つの国に分かれたときだと言われている。紀元前四世紀、エルニアの宗教弾圧をきっかけにセリム王国が独立。元はと言えば、それが今の我々が暮らす南部諸国の始まりと言えなくもない。


 言葉を濁したのには、もちろん理由がある。その百年後セリムが大陸統一に乗り出したとき、覇王と呼ばれた伝説的な君主が不可解な死を遂げた。エルニアのほうでは英雄騎士が倒したことになっているが、どちらにしても異常な話。病気と老衰で死にかけていたセリム王が若返り、戦場で化物に変えられたというのである。その後セリムはバラバラになり、元の形に戻ることはなかった。


 ここで言いたいのは、監視者は誰の味方でもないということ。どんなに些細なことでも、自分が気に入らなければ殺してしまって構わないと思っている。


 一番怖いのはコレ。知らぬ者はいない大災厄――獣人族を根絶やしにし、全人類を滅亡の危機に陥れた元凶。あれも監視者の仕業という極めつけの陰謀論だ。


 とはいえ、これとて全く根拠のない話ではない。まず読者諸氏は、大災厄の原因が何だったのかを知っているだろうか?…そう、未浄化の天然マナが世界中に撒き散らされ、身体の奇形化を伴う病気によって旧文明は滅びたのである。


 ここで気になるのは、奇形化を引き起こしたという正体不明の病気。


 今の世の中でも、高濃度のマナを浴び続けると病気になることは知られている。しかし、突然変異を起こすとは聞いたことがない。そのあたり複数の大学関係者にも取材したが、やはり分からないとのことだった。


 偶然だろうか。奇形化する病気と怪物になった覇王。天災と言われればそれまでだが、後者の説明はつかない。七百年前のコトとはいえ、法螺話と決めつけるのも具合が悪かろう。大災厄のメカニズムについても未だ解明されないまま。言い換えれば、いつまた起こるか分からないということでもある。


 これが自然現象ではないとしたら。文明の力で世界を支配しているかのように見える我々は、神の気紛れにより何となく生かされているだけなのかもしれない。

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