Stranger01 “Landy”
復興歴〇四一四年十月十日。午前零時七分。
俺は待っていた。あの女が目覚めるのを。寝室の壁に寄りかかり、何度目かも忘れてしまった大きな溜息を洩らしながら。
ベッドで眠る下着同然の姿。外見は若いくせ、無防備なところが目に余る。施錠は一つだけ、窓も別に強化ガラスではない。加えて一階にあるから、これでは物盗りに入ってくれと言っているようなもの。空き巣が殺人犯に変わったところで、こいつに勝てるはずもないのは分かっているが……
「……風邪を引くぞ」
床で丸まった毛布を摑み、適当に広げてやる。そのまま掛けようとするが、時間の壁に阻まれてできなかった。稼働中のマインドリンクは、極度の時間遅滞を生む。毛布が落ちるまで数日はあろう。腹を出して寝るのも長くはない。無用な心配だった。
仮想世界内で問題が起きたことは知っている。
日付が変わった頃、『グラキエル』の外部ページに臨時メンテナンスの告知が掲載された。理由はParadime-Shift Event――略してPSEと呼ばれているらしいが、要するにバージョンアップ部分の不具合によるものだそうだ。
元廃人の俺に言わせれば、ますます以て怪しい。こんなものは後手後手の対応に終始する人手不足な運営の口癖みたいな台詞。
想定外の事故が起きて、もっともらしい理由を後付けしたのだろう。それにしても今回のイベントは酷い、内部アナウンス後、メンテナンスが始まるより早くイベントエネミーに瞬殺された云々。BBSの荒れようが俺の推測を証明している。
それから十分ほど経ったが、未だ意識は戻らない。
この事実だけを見ても異常だ。普通のMMORPGなら、粘って居座ろうとしても無駄に終わる。管理者権限で強制的にログアウトさせられるからだ。無慈悲な神の裁断に例外はない。にもかかわらず、こうして眠り続けるのは……
(あいつの直感が当たったのか?)
グラキエルは実体。アウレア世界のどこかにある箱庭。
だとしても腑に落ちない。やたら写実的なくせ、情報処理量は地方銀行の本店並み。統制者の負担があまりに少なすぎる。
統制者とは、記憶に世界の全てを記すもの。主観に基づく紀伝体から素粒子の振動まで。現象を記録すると同時に実体化し、世界の礎を織り成す。俺の姉アウラが生み出した箱庭の上で、数千万の人々が暮らしているのだ。
人間も記憶事項に含まれる。最初から終わりまで、過去に存在した人間とこれから誕生する人間。この世界で生まれた者は全員記載されている。もっとも俺やラフィニアなど、一部に例外は存在していたが。
諸般の事情により、姉は新世界の神となった。
最初は実験だったと聞いている。いつの間にか抜き差しならない状況に追い込まれ、後戻りできなくなったと。子供だった俺は、詳しく知らない。その頃からラフィニアは、母や他の仲間達と冷戦状態にあったらしい。
俺ともう一人を残して、仲間は全員いなくなった。
死んだ者もいれば、姉と同じように統制者となった者もいる。限られた時空において全知全能たり得る統制者は、強大な戦力になるからだ。
俺とラフィニアは、それぞれ別の統制者に書き込まれた複製。
つまり贋物。だが俺は、記憶こそ人格と思っている。そして俺の原型は、手間暇かけて複雑な仕掛けを作った。無事に姉を目覚めさせたとき、俺の記憶は本体の側へ引き継がれる。よって区別する意味はないと、そのように考えていたが。
後追い現れたラフィニアは、元の世界へ戻れないと知ると、早々に任務を放棄した。未熟な俺に止めを刺さず、姉のアカシャを原型へ献上することもしなかった。
代わりに奇妙な実験を始める。決して報われない己が魂の餓えを満たすために。
セラフィナ=カスキ。ラフィニア唯一の心の拠りどころ。遺伝子レベルの複製に生前の記憶を植え付けることで、亡き親友を再現してみせようという歪な試みを。
あれから二千年が経つ。姉の存在を巡って、俺達は戦い続けてきた。
ラフィニアの望みは現状維持。俺の任務は姉を目覚めさせること。
それが今は、奇妙な共同戦線を結ばされている。目の前で眠り続ける女、クラリス=ヴェルファーシアの意思によって……
彼女は、ラフィニアが言うところの『佳作』だった。育ちによる人格の違いはあれ、補って余るほど記憶の定着がよかったという。
確かに憶えている。本人または俺や俺の母からしか知り得ないことまで。重い頭痛に悩まされており、時々固まって動けなくなる。平気を装っているが、注意深く観察すれば解る。到底普通の人間とは言えない。
王国歴〇五〇四年。クラリスが生まれた時代は、現在とも俺が造られた頃とも違う暦を刻んでいた。通じる言い方か知らないが、中世から近世といったところか。王や貴族が家産制の国を支配し、権威として宗教指導者が存在した時代。
簡単に言えば、そのようなところだ。クラリスは後者のほうである。一度死ぬ前の彼女は、最大級の勢力を誇るセラ大社の権宮司だった。今からおよそ七百年昔のこと。
未だ俺は、クラリスとの距離を測りきれずにいる。亡き母の親友か、時代から切り離された孤独な別人の女か。
本物のセラフィナなら、俺の原型にとっても恩人だ。歳が離れた姉のようなものだと思っている。あいつ自身が言うように、おむつを替えてもらったり食事や風呂の世話を受けることもあったろう。母親代わりとして認めるのも吝かではない。
「……変化なし、か」
喉が渇き、台所で水を流し込む。
三十分経過した。公式の掲示板には、百以上の屑スレが立てられては泡のように消えてゆく。どれも安否を知るには役立たないものばかり。都市伝説の域を出ず、投稿者本人の体験に基づく記述はなかった。
妄想、乙――今度は心の中だけで呟き、公式ページを離れて外に出る。そしてマインドリンクを動作環境とする他のタイトルを調べはじめた。
一見関わりないようなことでも、裏へ回ってみれば密接に繋がっていたという話がある。トップページを梯子するうち、俺は奇妙なことに気がついた。全てのタイトルにおいて、ほぼ同時刻よりログイン制限の措置が取られていたのである。
理由は様々だ。定期メンテナンス、イベント成績の集計、重大な設定ミスによる修正。悪意ある攻撃を受けたため、一時的に閉鎖するなどというものも。
自然を装っているが、逆にそれがおかしい。単一の理由ならともかく、別々の原因で同時に不具合が発生するなど。大抵プレイするタイトルは一つだ。多くても二つか三つ。時間と労力を分散するほど、ゲーム内での地位が下がってしまう。それを気にしない者は依存度が低く、タイトル数を増やすほど積極的ではない。
全てが同根。とりあえずそう仮定した。実際考えてみると、納得できる部分も多い。定期メンテナンスと銘打ったものさえ、終了時刻が明記されていないのだ。どのタイトルにもプレイヤー間の時差を指摘するコメントが現れている。我々以外にも何かがおかしいと気づく者が出るだろう。
(原因はアウレア。またはマインドリンクとの両方)
さもなくばラフィニア。運命の監視者と呼ばれるもの。
あの女が俺を殺さなかった理由は知っている。最後に連絡があったとき、俺はバルの研究成果を受け取った。疑似アカシャ――統制者の機能を限定的に盛り込み、覚醒したまま未来を予測できるようにする技術。前頭葉の一部を使用するため、主に感情の働きを阻害されるという副作用はあったが。
この力のお蔭で、俺は九死に一生を得てきた。
絶対に渡してはならない。助けを待つ姉のためにも。
我が身同然の研究成果を託してくれたバルのためにも。
友人がいない俺にとって、兄のようなものだったのだ。
☆★☆★☆★☆★☆
いつの間にか眠っていた。強張る頸を解し、ベッドの上に視線を飛ばす。
セラフィナもどきは先刻のまま。クラリスと呼ぶべきなのだろうが、ラフィニアの前では危険を伴う。奴にとっては復活した親友のセラフィナであり、記憶の器として使っただけの複製ではない。俺は戦慄と共に垣間見た。そう信じるがゆえの狂気を。彼女の前でのみ取り繕おうとする、歪な精神のありようを。
「……来たか」
低い姿勢のまま窓際へ移動する。
ヒトの気配があった。多くとも三、四人。訓練された兵士の動き。内側から窓を開けて一人だけ招き入れる。神経質そうな男はファング1と名乗った。最低でも分隊長クラス。コードネームが詐称なら、その限りではなかったが。
「ようこそ『蒼き飛竜』。かの神聖王国エルニアが、穢れた魔神の求めに応じてくれるとは光栄の至りだよ」
「戯言はいい。用件だけを話せ」
目出し帽の奥が鋭く光る。相手は俺を侮っていた。所詮は命知らずのハッカー風情に過ぎないだろう、と。
「お前達が破壊神と呼ぶところの存在だ。名は『グランディス』」
事実無根である。どうせラフィニアあたりの捏造だろう。俺を敬遠させ、味方となる者が現れないようにするため。『ランディ』は昔のハンドルネーム、中二病な造語の略称では断じてない。本名から意味だけを拾って翻訳したもの。
素性を明かさず済まされると思っているのか――疑いの視線からは、そんな考えが伝わってくる。簡単に信じる馬鹿は要らない。その意味で彼は合格だった。
「そういうことにしておけ。俺が誰だろうと、今からする話にはあまり関係がない」
王国の騎士は、何も言わず窓縁に腰掛けた。聞くだけ聞いてやるというサイン。そのことに満足して、俺はファング1の視線を追った。
「まずは、この女のことから話そう。結論から言うと、お前達は一度クラリスと出会っている。お前達がミスラに来ていることを、俺は彼女に教えられて知った」
情報源はクラリス、所在を突き止めたのが俺。ただしアカシャ改竄後のクラリスは『蒼き飛竜』に遭遇していない。俺だけが会えるよう、一周前の件を教えなかったのだ。
「…貴様が何を言っているのか分からん。俺はその女を初めて見た。職業柄、短時間でも接触した相手は確実に憶えている」
矜持が傷ついたのかもしれない。ゲーム内で止めを刺すときも、騎士の情けを口にしたという。工作員としては、ややロマンティストに過ぎるか。
「クラリス=ヴェルファーシア。生没年は王国暦〇四七八年から〇五〇四年。王都エレン生まれ。後のエル大社教統ラディウス=ヴェルファーシアの一人娘だ。十四歳で自由の女神セラの啓示を受け、聖地クラウベルへ亡命してセラ教に改宗したとされている。ラフィニアの傀儡たる神社庁と、セラ教団が纏めた胡散臭い伝記だがな」
啓示などあったはずがない。オリジナルのセラフィナは死んでいるし、そもそも彼女の出生自体ラフィニアの仕業だ。そちらも同様と考えるのが自然だろう。
「大陸全土の征服を目論んだセリム国主レティスⅡ世と対決し、行方不明のまま遺体も発見されなかった。二人分の血痕と従者一人が無惨な姿で見つかったにもかかわらず。それを当時の神社庁は奇跡と認定、聖人の列に加えた」
見つかるわけがない。そもそも彼女は死ななかったのだから。今にも解脱しようとしたクラリスの魂を肉体に戻したのもラフィニアである。時間の凍結により死を回避し、入念に準備してきた生体改造の術式を重ねあわせた。現人神として君臨させる計画もあったのではと疑っているが、そのあたりは定かではない。
当時の世界では、最低でもクラリスの他に二人。ラフィニアの干渉を受けたことが分かっている。自分達家族に縁のある転生者とまでは言わなかった。
「魔神とラフィニアが協力……?」
「俺の目的はアウラの解放。邪魔さえしなければ争う理由はない。黒炎の民を受け容れた時点で、エルニアの国是にも組み込まれたと記憶している」
黒炎の民。その単語を聞いた瞬間、ファング1の瞳が細められた。おもむろに目出し帽を取り去り、素顔を露わにする。砂色の髪に浅黒い膚。後者については火の精霊と密接な繋がりを持つ、部族固有の特徴だった。
「純血ではない。混沌の襲来に瀕して森を捨てたとき、同化したと言われている」
アウラの復活を信じ、神社庁と真言法を敵視した一派。特にラフィニアを忌み嫌い、信徒の暗殺などを行ってきたという。それが黒炎の民と呼ばれる部族。エルニアとの交流により平和路線に転向したが、基本的な価値観は変わっていない。ニケア人やエレン人の中にも理解者はおり、混血が進んだ今では思想的な立場を表す呼び名となっている。
「貴様の話は荒唐無稽だ。しかし我らが伝承を持ち出されては、単なる虚言と切り捨てるわけにもゆくまい」
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「…お前達が『神』と呼ぶ存在は、俺の知る限り二十人いる。アウラが甦りを望んだ七人のうち既に六人までが失敗した」
ラフィニアの仕業である。皆かつての記憶を取り戻す前に消されてしまった。普通の人間と区別がつきにくいため、いつどこで生まれるかも予測できない。俺はあの女相手に敗北を続け、その結果六人の仲間が謀殺された。
「待て。数が合わない。二十五柱ではなかったのか?」
「俺の知らない者がいるか、重複しているか。または最初から存在しないか」
俺とラフィニアは複製。本体を故郷に残している。姉の肉体はオリジナルの俺と二人の仲間が確保。元より片道切符、使い捨ての俺達に帰るべき場所はない。
「こいつも複製のひとりだ。原型はセラフィナ=カスキ。ここまで言えば分かるだろう」
己と他者の自由を等しく尊重せよ。責任なき自由は放埓に他ならない――そう唱えるセラ教は、大陸最大の宗教勢力である。ややこしい教義はなく、誰でも分かる単純さと融通無碍なところが信者を増やしてきた一番の理由だ。愛の守護者ルースア教と結び、南部諸国では支配的な地位を獲得している。
小人族に創意工夫を説くカスパル、エルフ族にアウラの信仰が残っているものの、他の者を祀る教団は今や風前の灯火。人間社会での趨勢は概ね決したと言ってよい。
南から復興を始めたのも、少なからずラフィニアの意図が働いている。自分の息がかかっていない他宗派の影響力を削ぐためだ。
かつてエルニア王国は、神社庁――ラフィニア教団と蜜月関係にありながら、黒炎の民と彼らのアウラ信仰を許した。そのことがラフィニアの逆鱗に触れ、一時は最貧の農業国まで転落。工業国として力を取り戻すのに七百年もの歳月を費やした。当時の国王と近衛騎士団長には、歴史家の間で賛否両論の評価が行われている。
「神にも姓があるのか。セラではなく……セラフィナ」
「同じ人間だ。それゆえ精神的には脆い」
アウラのために働くつもりがあるなら。そう前置きした上で、ファング1に同盟を申し入れた。国や組織ではなく、俺と彼個人の協力関係である。
「俺はラフィニアとクラリスの動きを教える。お前はフェリック社と南部諸国の動きを教える。自分の任務を優先していい」
互いに核心的な部分は避け、他人の秘密だけを教えあう。足がつくのを避けるため、俺の名前や『魔神』に類する単語を出してはならない。第三者への情報移転も禁止。自ら行動することにより利益を出してもらう。
ファング1は無言で右手を差し出した。それを仏頂面のまま握り返す。
向こうの顔にも同じ表情が浮かんでいる。ラフィニアを出し抜けたのは、これが三度目。生まれて二千年、その大半を奴の掌中で転がされてきた。
頼りない事実である。俺の精神は、薄暗い海底を彷徨う二枚貝のようなもの。
明るく月が照らそうとも、空を見上げるわけにはゆかない。水面から顔を出すことさえ。内なる希望を知られてはならない。
ようやく巡ってきた機会。
ラフィニア本体の居場所を見つけるまでは。
☆★☆★☆★☆★☆
クラリスとファング1は、グラキエル内で会わなかったことにされていた。
詳細は秘密。必要なところだけ説明する。
俺に対しても友好的な彼女は、現時点においてラフィニア唯一の弱点。無用な衝突を避けるため、ファング1にクラリスのインカネイト名を伝えておいた。彼らのほうはリアルでのコードネームをそのまま用いているという。ファング1から11まで。ミスラ入りしている調査員はこれで全部。俺の予想どおり典型的な分隊長だったわけだ。
本名は聞かずにおく。俺との関係を疑われない限り、彼らは安全。アカシャに支配されているクラリスとの会話も、極力避けるように忠告した。
「今後の意思疎通についてだが、そちらの情報はハン語の寓意文にしてくれ。紙の種類やインクの成分を不規則に変えると好ましい」
ラフィニアが話せない少数民族の言語だ。紙に綴った文字型の跡を解析するのは、アカシャの情報量を以てしても簡単ではない。それを俺は歩きながら読み、時間を置かず破り捨てる。ちなみに俺の発言は空気の振動としてしか記録されないため、相手が自分の反応に気をつけさえすれば気取られる心配はない。
「今は大丈夫なのか?こちらも普通に話しているが……」
「お前達がアパートの敷地に入ったときから断絶の結界を張っている。ここを出る際には荒事の演技をしてもらう」
窓の外では、彼の部下が不安そうに事象の地平線とこちらを見比べていた。吸い込まれたり吐き出されたりはしない。近づけば近づくほど距離が伸びる法術も重ねてあり、熱力学または古典力学的な手段で影響を与えるのは不可能である。
使わないに越したことはない。今はラフィニアの意識がマインドリンクに向いている。とはいえ白昼堂々使えば目立つ。
「…閉じ込められたわけか。さすが魔神は用心深い」
俺以上のマナを扱えるなら破ることも可能。ただし法術か創術に限られる。礎の女神こと統制者の設定は、これらの術によって行われているからだ。真言法や精霊術は、アカシャのルール内でのみ働く力。より高位の概念を上書きすることはできない。
ファング1が身振りで部下に命じ、ダガーの刃先を境界の表面に突き立てさせる。異質な感触を覚えたのだろう、気味悪そうに上体を退いた。
俺も一度だけ試してみたことがある。押さえられたり摑まれたりしているのでもないのに指先は届かない。何もない虚空を泳いでいるだけなのだが、それゆえ恐ろしく滑らかなものに触れているような奇妙な錯覚をしてしまう。
神妙に頷くと、ファング1は置土産を取り出した。
インカネイト名スミス氏のリアル情報である。真言法に長けた彼らは、既にフェリック社の防壁を掻い潜っていた。
ログアウトしないまま生き残っているインカネイトは二名。クラリスとリカルド郡在住のフランク=プールという男。検出できたのは、この二人だけだった。確実に同一人物とは言えないが、とりあえず当たってみる価値はあるだろう。
「俺達にとって時間の河を横切るのは危険だ。流れが速ければ中毒を起こし、遅ければ取り残されてしまう。せっかく手に入れた情報も古くなって役に立たなかったりな」
危険を冒すだけの見返りに乏しいということだ。ならば外で情報を集め、分析の精度を高めたほうがよい。ここも不老不死たる我々の活躍すべき場所。
「何か分かったら伝えよう。フェリック社の内偵を肩代わりしてもらえば、俺はラフィニアの監視とクラリスの取り込みに専念できる」
「こちらも同様だ。しばらくは外から洗ってみる。外注していないにもかかわらず、あの会社は開発部門がない。奇妙だと思わないか?」
俺も考えていたことである。マインドリンクにはブラックボックスが多かった。あるいは研究スタッフが他にいて、運営会社はダミーに過ぎないのでは、と。
茶番の後、ラフィニアから通信が入った。面白がっているように聞こえるが、油断はできない。会話に花を咲かせ過ぎたか。
(珍しいこともあるのですね?あなたの結界が破られるなんて)
「泳がせることにした。邪魔者は多いほうが敵もやりにくかろう?」
(らしいやり方だけれど……セラちゃんに危険が及んだときは、責任を取ってもらいますよ?)
この数日後、クラリスとラフィニアは袂を別った。
ドリームシェア開発者の一人ジェイコブ=マクファーレンを脅迫し、フェリック社の中枢ブロックへ侵入したときのことである。ラフィニアは俺達の制止を聞かず、地下に隠されていた断絶結界の中身を独断で除却した。フェリック社のCEOは何者かに入れ換わられており、その中身が恐らく本物だったのだろうと推察される。
ラフィニアはそいつと俺達を接触させたくなかったのだ。友を想うマクファーレン氏に釣られて敵対したが、贋CEOとも一度話をするべきだった。ラフィニアの敵ということは、俺にとって味方になるかもしれないからだ。
前の周期の俺も、どうやら同じことを考えたらしい。
「…サウロン……?」
改竄時点の通過により、再編前の記憶が甦る。
そいつが黒幕。神をも恐れぬ挑戦者の名前だった。
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クラリスが関係者の洗い出しを進める間、俺は神社庁の跡地に来ていた。
大陸を横断して東の海、小さな孤島で権威を振るった大災厄前の国際機関。大陸北部を治めるエルニア王国と、南部に成立したセリム王国の争いを仲裁するために設立された。秩序を重んじるエル教と自由を至高の価値と見做すセラ教。両派の争いが発端となり、概ね大陸全土を支配する国家が分裂したと言われている。
その見方は半分だけ正しい。実際のところラフィニアが夢枕に立ったのだ。王弟レティスⅠ世を唆し、またエル教の過激派を煽動してセラ教徒を迫害させた。そうして危機感と憎悪を刺激し、ついには女神セラ――セラフィナ=カスキを崇め奉る強大な帝国を築き上げた。それが五つの国に再建され、ミスラ以外のSIA加盟国となっている。
あいつが何をしていても、もはや驚くまいと思っていた。しかし世界というやつは常に我々の予想を裏切る。いや上を行くと表したほうが、なお適切だろうか。
誰かが思いつくことは、いつか他の人間が必ずやる。吐き気を催すほど残酷で、慈悲の欠片もない所業だとしても。かつて聖地と呼ばれた礼拝堂の地下に、俺はこの世で最も忌まわしいと考えられる蛮行の跡を発見した。
「…これは……」
枯れていても分かる。恐らくは血の臭い。ここで大勢の者が殺されたのだ。
一見して石造り、実は特殊コンクリート製の迷宮。リカルド郡と同じ、都市の動力源とするためのマナ精錬所があった場所。傀儡たる神社庁が災厄で滅びた後、ここに生き残りの手先を集めて何をさせたのか。今となっては憶測の域を出ないが、それでも僅かな残滓を辿れば見えていないものが見えてくる。
(これは……初期VR技術用のヘッドマウントディスプレイ?)
砕かれて粉々になったプラスチック片。ところどころに比較的大きな破片がある。現場を丸ごと保存し、疑似アカシャで環境データの時間を巻き戻してやれば……
…できた。これが恐らく、ここで二十二年前に発生した事件の概要。
意外と新しい。ラフィニアの痕跡として、かくも杜撰に残されているものは稀。さほど期待せず関わりの深い場所を調べていたが、思わぬ収穫と言えるかもしれない。フェリック社の創業から見ておよそ一年前。これはもしかするともしかするのか……?
詳しく分析すべきだ。認知症に似た健忘の後、俺はそう考えた。
人間にコンピュータ並みの演算能力を与える疑似アカシャは、日常の生活が支障を来すレベルまで大脳皮質を圧迫する。短ければ数秒、長ければ数日。過負荷を生じた俺の神経は、呼吸や循環などの不随意系を除く一切の活動を停止してしまう。
ここに長居するのは危険だ。俺が知ったという情報をラフィニアに与えたくない。あと一つか二つ――最も重要と思われる現場の環境データを保存し、多少なりとも落ち着いた状況で巻き戻し分析を行う。できればクラリスの傍で眠るふりをしながら行うのが望ましい。さすがラフィニアも、あいつの前では傍若無人を自粛する。やたら構ってきて五月蝿いのは、時間の必要経費と割り切るしかなかったが。
黒く壁面が変化した部屋と、その隣にある異臭が酷くて耐えられない部屋。それぞれ十数分かけて環境データを保存し、ぼやける意識を不安と焦りで叱咤しながら。あの女の代行分体が俺を見据えていないか、全身の感覚を研ぎ澄ませようとしたとき。
「ぅ……く………っ!?」
脳髄を刺すような刺激が走った。一瞬呼吸が止まり、また別の理由で苦しくなる。何かの危険を知らせるシグナルだったことを思い出したのだ。
厄介なことに、この仕掛けはクラリスがラフィニアに作らせたもの。ある少女が脅威を感じたとき、アウラのアカシャ経由で送られてくる。
あの娘を助けることには異論がない。問題はラフィニアが俺を呼び戻すために嘘のシグナルを飛ばした惧れ。さりとて無視すればクラリスの信用が失われる。ラフィニアを警戒しろと言っても相手にされなくなるだろう。
誤算だった。よもや『ナイツ』が動き出すとは。
連中の創設には俺も関わっている――というより俺自身が発案者だ。故郷に残った仲間セレスのアカシャに記載される俺は、対立するアカシャの干渉を受けない。されば名前がない人間を育てたらどうなるか?それを実戦部隊として組織したら?
アトルムに汚染マナ浄化の技術を伝える傍ら、俺はリトラ共和国で奇跡の秘儀を細々と伝える神官達を探した。生後間もない孤児を集めさせ、適性のある者は『プリースツ』に。それ以外の者は『ナイツ』へ。結果は成功、数百年の長きに亘ってラフィニアの行動を阻害し続けている。たとえ蚊ほどの煩わしさに過ぎないとしても。
アイシャに関心を示したのは、情報不足が原因だろう。ラフィニアの手掛かりを得るために藁をも摑む思いなのだ。このあたりで一度、軌道を修正してやらねばなるまい。
☆★☆★☆★☆★☆
アイシャを見つけたのは、駅前の狭苦しい駐輪場だった。
荒れそうな天気である。元廃人の俺としては、雨に濡れるなどの面倒は避けたい。風邪を引くとかそういう話ではなく。単純に鬱、それだけのこと。
頭を押さえて蹲る傍らに、前籠とハンドルの捻じ曲がったママチャリが転げている。クラリスの指示でアパートを調べたとき、確かに停めてあるのを見た。自転車の空似でなければアイシャのもので間違いない。
「……お前達。器物損壊という言葉を知っているか?」
闇色の傘を広げながら、俺はアイシャを取り囲む連中に訊ねた。
「知っているのかと訊いている。最近の『ナイツ』は、コンプライアンスも徹底できない野蛮な無法者の巣と化したのか?」
俺が『オリジネイター』だと知る者はいない。最初の一人を見出したのは四百年前。エルフはいなかったから、二十世代かそのくらいは過ぎた計算になる。
最初の一滴がアスファルトに当たった。長い余韻が響く。こうなれば次は早い。雨粒が群れとなり、一斉にアイシャ達を襲った。
「退け。その娘は何も知らん」
「…トゥエンティーズより各プリーストへ、新たな聖遺物発見。至急掩護を頼む」
間延びした声を聞いて、ようやく俺は気がついた。向こうからしてみれば意思疎通を断念するほど早口。急ぎ駆けつけるため多量のマナを被曝したせい。
名前がないことを除けば、『ナイツ』の戦闘能力は常識的だ。心身共に優れる者を厳しく鍛えただけ。俺やクラリスのような細胞記憶レベルの改造は施されていない。一時的な強化を行う『プリースツ』一人で『ナイツ』十人に相当する。ならば常に頑健な俺は、安定している分だけ更に上をゆく。スピードの優位を捨ててまで応援が来るのを待つ道理もない。隙間を駆け抜けてアイシャを攫った。修正は次の機会としよう。
「トゥエンティーズより各員へ!未確認が第二目標を拉致して逃走!応援求む!」
☆★☆★☆★☆★☆
《アウラよ希う。移動する熱源を視覚化。汝の記憶に名のある単位を除く》
真言法は使いたくなかったが、贅沢を言える状況ではない。数はおよそ二十。ここに半分、残りは他の場所へ向かった計算となる。考えられるのはクラリス。グラキエル内で派手に動いたことが原因だろう。
(何よまだ暗いじゃない……朝まで寝ないと美容に悪いのよ……?)
文字どおり落雷させてやった。出力を下げたがレアくらいには焼けたはず。
「昼間から酒飲んで寝るとは、いい御身分だな?」
(……一六三七時。秋にしても日照が少ないのは、上空に雨雲が近づいているから。天気予報では十ミリ以上の雷雨。お出かけの際は傘を忘れずに)
「満点と言いたいところだが九十点だな。雷はない」
(いいえ、これでいいのよ。もう落ちたもの。状況は?)
「動きが変わった。実戦部隊と思われるものを出している」
やがて反応がなくなった。向こうも戦闘に入ったらしい。とりあえず撒いたが、再び追いつかれるのは時間の問題。今は不本意ながら両方とも手が塞がっている。この大荷物をどこかで降ろし、古風な言い方をすると拳で語り合わねばなるまいか。
「あ……えっと。ランディ、さん?」
「喋るな。頭を殴られたのだろう」
「や。そのぉ………実は、ちょっと違いまして」
慌てて勝手に転んだとか。言われてみれば、万遍なく泥がついている。『ナイツ』の連中も、ターゲットがここまで鈍臭いとは思わなかったろう。
「……何考えてるか分かりま……くしょんっ!」
「御名答だ。渡した金は、まだあるな?適当な店で買え」
「浪費は罪です。一度戻りましょう」
案の定、アパートは囲まれていた。袋の鼠にする気らしく、感づいても動く気配を見せなかった。この天候で他の服は生乾き。やむを得ず学校の制服に着替えさせた。
とりあえずクラリスと合流するべくアイシャを抱えて脱出。囮となって二人を逃がしたはいいが、途中で傘を落としてしまい結局ずぶ濡れ。手が離せないクラリスの代役で再度お守りに向かうと、アイシャが赤の他人を護るためタクシー一台を潰す大活躍。もう少し早く着けば、その必要はなかったのだろう。詳しいことは直接本人から聞くといい。
こちらも『ナイツ』の仕業、狙いは赤の他人だった。グラキエルには真言法のトレーニング機能もあるらしく、一人は初級の術を習得していた。素質を示したゆえ危険に巻き込まれたのは、皮肉としか言いようもなかったが。
祭りが終わると、俺はクラリスの部屋に招かれた。巻き込まれた者達の今後について、ひとまず見通しがついたからである。
気を張って強く見せようとしているが、傍目にも怯えていると分かった。アカシャを独占する者に逆らうことの意味を、彼女はよく理解している。数奇な運命により余分な人生を過ごした。それでも死なずに済む限りは死にたくないと。最後の慈悲をかけようとした俺に、ラフィニアと戦い生きるための力を貸してほしいと頼んできた。
リビングでシャワーの音を聞きながら、俺は深い悩みに囚われた。
合理的に考えれば、見捨てて次の機会を待つべき。貴重な戦力だが、俺自身やられてしまっては元も子もない。アカシャに記載された者では、どれだけ強くともラフィニアに対する決定力とは成り得ないのだ。
彼女のデータを取り、『プリースツ』の一員として再構築。統制者の資質を持つセラフィナのコピーなら、十人いればラフィニアを圧倒できる。時間はかかるかもしれないが、それは問題ではない。勝利か死か、結論は二者択一。
「ねえランディ。ちゃんといる?」
バスルームからクラリスの声が飛んできた。
「逃げたりしてない?何なら久しぶりに」
言おうとしていることが分かった。だがこいつはクラリスであり、セラフィナ=カスキそのものではない。ゆえに、そのような事実はなかったことになる。
「……戯言をほざくな。済んだのなら、さっさと上がれ」
疑似アカシャは感情の起伏を乏しくする。裏を返せば冷静な判断力を維持するのに役立つ。このときの俺は、それでも動揺していた。言葉にされたら、いかなる願いも叶えただろう。そう約束したからとか無粋な意味では断じてなく。
だがクラリスは言わなかった。軽い食事と酒に付き合わせただけ。
いろいろ考えたが、それらの可能性を全部打ち消す。セラフィナは第二の母であり姉。その事実が枷となることはあっても、互いの距離を縮める材料にはならない。
「とりあえず向こうで。連絡はこちらからする」
ラフィニアは、このことを予見していたのか。単なる複製ならクラリスに事情を伝える必要はなかったはず。嘘の記憶を刷り込む手もあったろう。過去を明るみに出すことで、より不都合な未来が現れるのを防ごうとしたのではあるまいか……?
なら思惑を崩してやればよい。疑似アカシャで確かめるまでもなく、ラフィニアをこちらの術中に誘い込めるのは明らか。
しかし、それだけの理由で。監視者を倒すためなら何をしても許されるのか。それは独善的な思考だ。消えかかった心の奥、魂の熾火が今なお燻っている。
「……了解。気をつけて行ってこい」
それだけを捻り出す。仰向けのクラリスは、天井を見つめたまま明るく微笑んだ。
「うん。では、行ってきます」
死の運命を逃れるため。空間そのものを隔離すれば、アカシャといえど干渉はできなくなる。その間にグラキエル内でフェリック社CEOの贋物を造った人物を探す。インカネイトの製造技術を盗むことができれば、アウレアへ戻ってこられるかもしれない。
「…『変わらざるもの』。彼我の境界を隔てよ……」
蛍光灯の下に球状の歪みが出現した。光を通さないため、それ自体は見えない。認識を拒むことにより本来の形を想像させる。
「『変わりゆくもの』。ヒッグス場へ指向性の干渉を」
右手の指先に向かって、クラリスを入れた結界がゆるりと動き出した。長い糸で結ばれた風船のように、俺の周囲を一定間隔で追随する。浮いているように見えるが、実際は違う。俺の指と結界の間から、物体を動きにくくする場の粒子を減らしたのだ。云わば障害物のなくなった隙間を転がっているだけ。
場の偏りは、時間が経てば自然と元に戻る。それはこのことに限った話ではない。何かが消えれば、誰かがいなくなれば、必ず新しいものが現れて後釜を占める。自然現象も人間の社会も、本質的には変わらない。
まずクラリスが退場。次はラフィニア、それとも俺か。いや、もしかするとサウロンなる人物。遅れ馳せながら、奴は我々と同じステージに到達した。素性が分からないゆえの不気味さを感じるが、あの贋CEOは『女神を弑し奉る尖兵』を求めていたという。この女神がラフィニアを指すなら、俺にとっての味方にもなり得るか……?
(お前は怒るかもしれんな。プール氏やマクファーレン氏に対する裏切りだと)
だが、必要なことだ。インカネイト技術は相手にとって最強の切り札。それを分けてもらうからには、こちらも相応の覚悟を求められる。ほとんど一蓮托生、敗れたときは地獄まで連れ添うくらいの悲壮な決意が。
割り切れる奴なら、あの女と事を構える危険は冒さなかった。過保護と笑われても、これは俺の仕事。夜明けまでは時間がある。今なら風船も目立たない。
窓を開けると、傘も持たずに暁闇へ踏み出していった。
☆★☆★☆★☆★☆
「お帰り。お待ちしていたよ」
廃ビルに戻った俺を、生温い声が出迎えた。
レイ=アルフォードの姿をしたもの。フェリック社の贋CEO。あるいは最初から人形を操り、素性を隠して南部社会にマインドリンクを広めた男。
クラリスの不在に気づき、奴は小さく首を傾げた。とはいえ不思議ではないらしく、何度か頷いてコンクリートの床に座る。戦うつもりはないとの合図だろう。
「丁度よかった。俺も貴様に用がある」
「それは奇遇だね。あの元気なお嬢さんが消えたことと関係しているのかな?」
こういう手合いは先にカードを見せると調子づく。こちらが欲しいのは、言うまでもなくインカネイト技術。グラキエルのインカネイト、仮にG型としておこう。そこからアウレアのインカネイト、こちらはA型としておく――を製造してログインするためには、どのような課題をクリアすればよいのか。一方、向こうが俺達に求めるものは。
言葉を選ぶ俺を見て、アルフォードもどきは大きく肩を竦めた。
「やめよう。無意味な腹の探り合いは」
「…………………?」
「やめようと言ったのだよ。きっと我々には、あまり時間が残されていないだろうからね」
厳密に言えば、そのようなことはない。断絶の結界に隠れていれば、とりあえずクラリスは無事だ。グラキエルを追い出されたとしても意思表示ができなくなるだけであり、アウレア側で働く人員が俺一人なのは同じである。
「困ったときに手を差し伸べてくる相手は警戒しろと教わった。藁にも縋る気持ちは、ヒトの目を曇らせるものだ」
「というと君は……いや失礼。あなたは、困っておられるのかね。千年以上の長きに亘り、運命の監視者と戦い続け、真実を知る人々の希望となり果せた最強の勇者。ダークエルフの設計者にして文明の導き手と呼ばれるもの。破壊と闘争の魔神グランディス?」
「…戯言はいい。さっさと用件を言え」
長口上に嫌気しつつ、油断を戒め視線は外さない。
向こうから接触してきた以上、俺も何らかのカードを持っているはず。しかし、それがどんなカードなのか分からない。見極めるまでは慎重にゆく。
そのときアルフォードもどきの左腕が、指先から手首にかけて滑り落ちた。
「……おっと。もうそんな時間か」
苦痛の色も刹那。だが再び浮かべた笑みは硬い。
「見ての、とおりだよ。私の身体は、もはや形を保てないところまで来ている。不自然な肉体の宿業だね」
一度故郷の文明レベルへ到達し、ラフィニアに滅ぼされ、また息を吹き返したのが十数年前。二千年以上生きて、少しは医術らしいものを学んだ。
その知識によると恐らく癌。傷口から腐臭を発し、断面から黒い血が流れている。いずれ通常の疾患によるものではあるまい。フェリック本社でクラリスと対峙してから半日と経っていないのだ。一定時間を過ぎると自滅する仕組みなのだろう。
「監視者を中枢ブロックへ入れたお蔭で、アウレア唯一の調整槽が失われてしまった。あなたには、その再建をお願いしたい」
アルフォードもどきは自らを『魔王』と名乗った。クラリスと同じく断絶の結界に入れて本体を隠してあるため、今や意味のない名前とか。かつて神社庁跡地に暮らしたラフィニアの配下であり、そのときの仲間を奪われて復讐を誓ったという。
今の肉体が使えなくなる前に、調整槽を少なくとも五つ揃えたいとのこと。そのために俺がしなければならないのは資材集め、それからもう一つは……
「時間を稼いでほしい。派手な動きを見せればラフィニアに見つかる。インカネイトを送り込む拠点も、今後は破壊される前提で考えるべきだろう」
まだやるとは答えていない。だが渡りに船と感じたのも事実。断るに断れない、こちらの事情を察していると思われた。
「貴様の要求を聞いて、俺に何の得がある?」
「…ラフィニアを倒したいのではなかったのか?」
「違うな」
アウラ覚醒の邪魔をしなければ、戦う必要のある相手ではない。消極的に反対する姿勢と、クラリスに関して見せる異常な執着から、警戒すべきと考えているだけ。
思えばあの女も、俺と同じで特定の目的を果たすために生み出された。オリジナルの記憶を保ちながら、絶対に故郷の土を踏むことはできないのだ。捉えようによっては、クラリス以上に哀れな奴と言えなくもない。
アウラが目覚めてこの世界を去るとしても、俺の記憶はセレスのアカシャを通して本体へフィードバックされる。二千年以上を過ごしてアウレアに里心がついたこともあるが、故郷へ戻れないことに関して俺の覚悟は完了していた。
「……まあいい。貴様の頼みを聞いてやろう。ラフィニアを足止めすればよいのだな」
わざと恩着せがましく言ってやった。
「その代わり、料金はいただくぞ。世界で最も危険な仕事だ。相応の代価は心得ているのだろうな?」
これまでに摑んだラフィニアの全情報。あの女と代行分体に戦いを挑み、できるだけ数を減らして監視の目を緩めさせる。
クラリス本体の居場所は教えない。彼女に危害を加えたときは地の果てまで探し、必ずサウロンの本体を見つけ出して苦しめながら殺す。
「フゥン……?」
俺の顔を斜めに見下ろしながら、そいつは安穏と嘯いた。
「まぁいいさ。私が復讐したいのはラフィニアだけだ。何の担保もなく統制者に逆らう愚か者に然したる興味はない」
それから俺は、ラフィニアの代行分体狩りを始めた。
一人ひとりについては、さほど大した戦力でもない。電撃的に進めるため、世界各地の『プリースツ』と『ナイツ』に指令を飛ばした。雌伏の時代は終わり、今こそ反撃の狼煙を上げる――少しも計算ずくではなかったが、そのことは億尾にも出さず。
アウラを信仰する者達の中には、噂を聞きつけ参加してくれた者もいた。黒炎の民とニウェウス及びアトルムの両エルフ族。アウラの信奉者ではなかったが、アトルム族と親交の深いドワーフやホビットら小人族の戦士達。
彼らの助力を得て、ひと月もする頃には大陸中の代行分体が一掃された。それなりの犠牲も出たが、何故もっと早く思い切らなかったのかと。全てが思惑どおり進んだため、そんな油断めいた後悔すらしてしまうくらいに。
「……圧倒的ではないか。我々は」
長きに亘る努力の成果。そう考えられるほど、俺は自信家でもナルシストでもない。
ただ感謝した。神とは名ばかりの人間が抱える、やや特殊な家庭の事情。文字どおり命を懸けて付き合ってくれた偉大なる戦士達に。
「もう少しだ。あと一歩で何もかもが終わる」
『魔王』との契約は、既に成し遂げた。
見返りはインカネイト技術の全て。クラリスのアウレア復帰へ万全の便宜を図ること。
しかし、それも今や無駄になりつつある。ここでラフィニアを倒せば、彼女に理不尽な死を与える者は誰もいなくなるのだから。
☆★☆★☆★☆★☆
「パッケージ№022。F22ラプター構築。操縦適性をダウンロード。出撃前点検省略、オールグリーン」
そして俺は、音速の壁を突き破った。全身の血液が背中に移動しようとする。実際にそうなれば俺は死ぬ。ブラックアウトして意識を失い、そのまま海面に激突するのだ。
幸い気力体力には自信がある。前者は自前だが、後者は生体強化によるもの。燃料が尽きる前に水平線を超えられるだろう。それほどまでに、このアウレアは狭い。
(…強いわけではなかった。このような形で確かめさせられるとはな)
夢の領域を展開できるかどうかは、その者の精神性に依存する。できたとして空間的な広がりは心の強さ、換言すれば図太さによって決まる。姉の自分を押し出す力は、母方の故郷たる島国の領海程度しかなかったのだろう。
無韻の衝撃が走る。その瞬間は唐突に訪れた。
落ち着いてハッチ解放、コクピット内の空気を追い出す。事前に圏外用の防護服を着用しているから問題ない。脱出装置を起動して外へ。海嘯や緑の植生はどこにもなく、乾いた地面と暗黒の天穹が明瞭な境界で接している。初めての無重量状態に戸惑いつつ、エンジン停止した戦闘機が墜落するのを見送った。
(このような星屑にも、まだ重力の欠片があるらしい)
アウレアの全貌を知るため、慎重に推進剤を噴かす。振り返れば元いた世界が遠ざかり、やがて全体が明らかとなった。壊れた陶器の破片を思わせる土塊の上、ドーム状の領域が薄蒼く輝いている。まるで掘り出されたばかりの原石。あれは故郷の言葉で何と云ったか?そう、思い出した――『サファイア』。
見るのは初めてだが、あれが何なのか俺には分かっている。
夢の領域を作るには、硬い地面があればよい。凍てつく氷の惑星でも、硫酸の雨が降る焦熱地獄でも。巨大ガス惑星や恒星では駄目だ。あれらはヒトの生存環境から遠すぎる。書き換えた統制者の負担が大きく、目的を果たすまで長持ちしない。
大は小を兼ねるとの思惑で、母はスーパーアースを選んだのだろう。読んで字の如く巨大な地球だ。地表面積が広い代わり重力も数倍となるが、夢の領域では統制者のイメージが優先されるから問題ない。アウレアの重力加速度は一G、大気組成は窒素七十八パーセント酸素二十一パーセントその他一パーセント。平均気圧一○一三hpa、年間平均気温一一.三℃。我々の故郷と合っている。長年温めてきた仮説は事実と証明された。
「……………………」
暫し感慨に耽る。アウレア創造の基礎となったアカシャ技術とはいかなるものか。異星人から与えられたというが、それはラフィニアが言っているだけ。母やバルからはそのような話を聞いたことがない。とはいえ創術と法術の神が実在するのは認めざるを得ず、俺達は『プレゼンター』と総称している。これもラフィニアの命名だが、『何かを贈る者』と『そこに在るもの』とをかけているらしい。
「…あの女が言うようなものだとして。技術を与える目的は何だ?丁寧にも第一発見者の母国語へ翻訳さえする。交流目当ての異星人なら、今まで接触がないのはおかしい。資源が狙いなら、我々の存在を確かめる必要もなかろう」
思考を外言化する。答えが出ないことを考えるときの、オリジナルとも共通する古い癖だった。
「教えてあげましょうか。プレゼンターの目的を?」
「……本体か。ホログラフ以外で対面するのは久しぶりだな」
星の残骸を背に、生身のラフィニアが浮いていた。やはりと言うべきか、不特定多数の接触を避ける上で、ここよりも好都合な場所はない。
「ようやく来ましたね。もう少し早いかと思っていました」
俺の記憶が正しければ、およそ四百年になる。手駒として組織した私掠船団を潰し、俺だけを連れ去り何処とも知れぬ暗がりへ押し込めた。その後クラリスが現れるまで、擬似アカシャの技術を渡せと脅され続ける日々を送ったのだ……
「悪い友達から解放してあげたのですよ?下品が伝染らないように。感謝してほしいとは言いませんけれど、あなたも少しは反省してくださいな」
「黙れ。あの連中に罪はなかった。他者の運命を弄ぶ、人形遊びに夢中の女よりはな。セリムの太子を狂わせ、エルニアの英雄公爵と潰し合わせたのも貴様だろう」
太子はバルこと西都原昌男、英雄公爵は胡座満二尉の転生体。研究所のスタッフと現地政府の武官である。バルは記憶を取り戻してすぐ化物に変えられた。胡座二尉は出自を忘れたまま戦死。その後の七百年は、二人の仇を討つためにあったと言える。
そして今。こいつは更なる暴走を始めた。旧友の遺伝的複製にメモリークローン処理を施し、思うようにならなくなると始末を試みた。今のところ失敗しているが、殺される側としては迷惑な話。愛玩動物以下の扱いである。
「どうした。何を取り澄ましている?ここにセラフィナはいないぞ」
ラフィニアは反論しなかった。元同僚の転生を妨害し続けて連戦全勝、ここへ来てクラリスの離反により初めて負けた。そのことが面白くないのだろう。
「思う存分、取り乱せばよかろう。クラリスではなくセラだ、自分は間違っていない、そんな酷いことを言う悪い子はお仕置きだ、とな」
「…………………………」
「違う。最初からいないのだ。この領域内にセラフィナなど」
ラフィニアの視線が殺気を帯びる。
「…遺伝情報と発生環境の再現率は九十九.七パーセント。ラディウス=ヴェルファーシアの因子は全く残しておりません。母胎のmRNAを含む細胞記憶に至るまで、オリジナルとほぼ同じはずです」
父親の発生学的影響は、子に引き継がれた遺伝子のみ。受精して着床すれば、その後は母胎の環境が大きくものを云う。
クラリス=ヴェルファーシアは、セラフィナ=カスキの遺伝情報を完璧に再現した個体。各転写酵素の触媒反応と内分泌系さえ調節している。オリジナルに近づけるため、微細な夾雑も許せなかったのだ。恐るべき執念と言うより他ない。
だが、結果は失敗に終わった。生まれた子供はラフィニアの思いどおりにならなかった。概ね善良であり、優れた能力を示してはいる。されど性格的には全くの別人。だらしがなくいい加減、軽率、頑固、情に流されやすい。我儘、そのくせ甘えたがり。
「忘れたようだから教えてやる。あいつの名前はクラリス。どれだけ似せても同じ人間は育たない。お前のしていることは、単なる人格の否定だ」
俺のいた場所を何かが通り過ぎてゆく。小さなものだが、かなり速い。咄嗟に推進剤を噴かさなければ危なかった。
バルがくれた擬似アカシャ『バイオカルキュレータ』は、数日後までの先読みを可能にする。右へ避けるか左に避けるか、上下あるいは叩き落とすか――左を選んだのは俺自身。判断が遅ければ死ぬこともある。今度は最小限に躱し、再び飛来したものを右手指で摑んだ。
鋏。冷たい鉄の感触が、ノーマルスーツ越しに蝕む。
――『№0547構築、0.7pieces/s マニュアル照準、目標半径一.〇メートル』
指先が俺を追う。一秒と外れない。向こうの狙いは推進剤の枯渇だ。致命傷ではないが、当たれば気密が失われる。
パターン1。創術により推進剤を補充しながら反撃を狙う。二十六時間三十七分十四秒後に判断を誤り死亡。回避可能だが効率は悪い。
パターン2。装甲材を構築して格闘。パターン1より早くミスを生じた。侵蝕性の散弾に切り替えられ、ノーマルスーツの応急処置が間に合わす死亡。
パターン3は逃亡。演算限界までの生存を確認したが、これは論外である。ラフィニアの本体を捉えた好機、みすみす無駄にはできない。
活動レベルの低下を振り払い、他のパターンを考える。意識さえあれば、可能性に限りはない。無数の未来が生まれては消え、その中の一つに俺は興味を惹かれた。しかし、まさか――これを実用する機会が訪れようとは。分かりやすいゆえ六番としているが、原型完成は後のほう。退屈凌ぎの手慰みとして千年の時を費やしたもの。
「№006構築。オートパイロットにより起動。牽制射撃七秒実施」
「…………っ!?」
聞こえない轟音と共に一二〇mm徹甲弾がばら撒かれる。いきなりの攻防逆転、さしものラフィニアも慌てた。巨躯に阻まれ、鋏の集団は俺の元へ届かない。攻撃が途絶えた隙を突いて操縦席へ。十数メートルの距離が恐ろしく遠かった。
薄緑色の単眼巨人。鋼鉄の身体は、生半可な攻撃をものともしない。
「人型の巨大ロボット。男の子の夢ですね」
「……機動兵器と言ってもらおう。ニッポンのジオニックトヨタ。性能は高いぞ」
最後の一投をハッチ閉鎖により防ぐと、直ちに攻撃へ移行した。
格上相手に遠慮は無用。巨人の力を最大限に発揮させる。C型と異なり、F型には対核装備がない。通常兵器に留まるが、火力的には充分だ。言霊の網を掻い潜り、当てることができれば一撃で消し炭と化す。
F型の特長は、重力下でも宇宙でも扱える汎用性。制御ソフトを交換すれば、全く異なる二つの環境に適応する。無論、武装の種類も多い。再現に手間取ったが、それだけの価値はあったと言えよう。
一二〇mmで牽制、二四〇mmバズーカ砲やハンドグレネードが追撃。口は創術と法術によりラフィニアの防御術式を無効化。代行分体は使われなかった。宇宙で戦わせるには、生命維持の仕組みが要る。何もかも本体と同じようにできるのではない。
「ビット全機展開。攻撃型モード8、防御型待機」
自動照準による荷電粒子ビーム攻撃。鉱床の欠片を含むものか、場所によっては赤や緑の光条が見える。だが初速の差は埋まらず、認識した時点で手遅れ。こちらも自動操縦に切り替え、防御術式に専念する。
「そのお人形さんは実戦経験がないと見ました。私のビットはグラキエルで一度、セラとの戦闘を経験しています」
ラフィニアが勝ち誇るように笑った。
「…そして数えきれないほどの偵察任務も」
速いだけではなく、思わぬ方向から接近。死角は反応が遅れる。加えて向こうのビットは、術式とリンクしていた。防御解除のタイミングと合わせ攻撃してくる。一方こちらの機体はランダム機動を繰り返すのみ。俺のほうが合わせざるを得ない。
自動操縦のプログラムに差がある。俺の攻撃は単なる花火。奴の言うとおり、実戦に基づく改良が足りない。立て続けに直撃を貰い、両腕両脚を失った。
化物か。この女は。
たおやかに微笑みながら敵を殺す。何の気負いもなく、食器を片付けるように。
隙がない。ただ一つを除いては。
「退がれクラリス!今は危険だと言ったろう!」
「!?」
ラフィニアの注意が逸れた。乗じて脱出、機体を特攻させる。武器はないゆえ単純な体当たり。母の祖国ではパイロットを載せた航空機が行ったという。容易く墜とされるだろうが、元々それが狙い。撃墜の爆発が俺の姿を隠してくれるはず。
やはり勝てなかった。俺一人の力では。クラリスが現れたというのも嘘。異常とすら呼べる執着心を利用したまで。早急に繋ぎを取り、善後策を練らなくては……
「逃げられると思ったのですか?」
アウレアへ向けて泳ぐ俺の前に、ラフィニアが立ち塞がる。
「観念しなさい。遊びはもう、終わりです」
006だけで済むはずがなかった。生身の手足もビットに撃ち貫かれる。
「がっ……!」
「捕まえましたよ。これであなたは私のものです」
二千年前にも聞いた台詞。あのときは理解できず、怯えるばかりだった。
ラフィニアの目的は俺ではない。バルから受け継いだ擬似アカシャの技術。俺を殺した後で他の保持者が現れ、不意討ちされるのを恐れている。先読みの優位をなくせば、力に優る自分が必ず勝つというわけだ。
「真言法で俺は解析できない。どうするつもりだ」
「時間をかければ、できますよ?身動きできないように拘束して、夢も見ないように眠らせて、量子レベルからあなたの脳を観測すれば」
「狂気の沙汰だ。評価は自分でやるしかない。一体何年かかると思っている」
「そうね……百年くらいかしら。でも時間なら無限にありますし♪」
「それまで持つかな。クラリスはお前の寝首を狙っているぞ」
奴が指を躍らせると、頸から下の感覚が消えた。
「余計な部分は除きましょう。ノイズが含まれてもいけません」
触覚に続いて視覚、聴覚、嗅覚、味覚。
心臓と脳だけになっても気づかないだろう。それで擬似アカシャが正常に機能するとは限らないが。擬似アカシャの根幹は、大脳パーテイション技術にある。使用者が生身のまま覚醒していられるのは、機能制限した――夢を物質化できないなど――アカシャを大脳の一部に分散しているからだ。睡眠や循環、呼吸を含む生命維持に必要な不随意活動は、主に小脳が司る。感情の欠落と物忘れは増えるが、何事も微細に記録すれば問題ない。
ラフィニアの実験は失敗する。奴はそれをノイズと呼んだが、内分泌系を壊しては正常なデータ採取など不可能。西都原昌男のパートナー白石真琴が、神経生物学の研究者だったことを失念した結果である。
そして俺は――自分が持つ全てを、事前にある人物へ引き渡していた。更に機能を制限した擬似アカシャと共に。感情欠落や物忘れが軽くなっている。元が淡白ゆえ影響は少ないだろう。
「……っ」
脳髄を小虫が這いまわる感触。
ラフィニアによる解析が始まったのだ。
思わず苦笑を浮かべる。生体脳ハッキングにワームとは。さすがに駄洒落が過ぎよう。あの女も旧文明の影響を免れないものとみえる。
(お前達は、生き残れ……)
隅々まで侵されながら、俺は八百万の神に祈りを捧げた。
―――(仮称)アドヴァイス現象に係る会議要旨復命
日時 平成三十九年八月二十九日 二三〇〇時 自 翌○三四七時 迄
場所 ILC研究所管理棟 一〇一会議室
出席 ILC研究所/田之倉玲理事長、ハムザ=オズディル振動粒子研究室長、セラフィナ=カスキ主任研究員
アメリカ合衆国/エリオット=ロウ技術大佐、セフェリノ=コト陸軍少佐
ヨーロッパ連合/カリスト=ミラノ技術大佐、リネーア=フランソン陸軍中尉
日本国/胡座満二等陸尉
復命者 技術研究本部 胡座満二等陸尉
国際リニアコライダー研究所(以下、ILC研究所)田之倉玲理事長より、参加国に対し「アドヴァイス現象」と仮称する現象について報告があったもの。概要は以下のとおり、時系列の箇条書きに記す。
・十四日 一四〇〇時 高エネルギー加速粒子衝突実験。責任者はカスキ博士
・同 一四二一時 励起クォーク粒子の加速開始
・同 一四三六時 加速粒子同士の衝突、計測機器に不具合発生。カスキ博士失神、実験中止
・十五日 〇九一二時 カスキ博士覚醒
・二十八日一〇四三時 カスキ博士よりオズディル室長へ、後に「アドヴァイス現象」と仮称する現象について報告
・二十八日一六〇五時 オズディル室長より田之倉理事長へ報告
実験棟から半径約十キロメートル圏内にて、メッセージと推察される拡張現実様の表示を確認。ウェアラブル端末の使用等を必要としない未知の技術である。全般にフィンランド語が使用されており、悪意ある攻撃の恐れを否定しない。
なお、本現象は地元住民により目撃されているが、日本人に馴染みの薄い言語であるため、流言飛語はあるものの、現時点では平穏な状況を示している。フィンランド語が用いられている事実は、同言語を母語とするカスキ主任研究員及びルースア主任研究員が確認した。文面は別紙一覧のとおり。
アメリカ、EU両政府の駐在武官より、管理棟周囲十キロメートルに係る進入禁止措置の提案があった。地元県警察の所管につき回答保留。幕僚幹部に報告、NSCとの協議を進達するものである。
☆★☆★☆★☆★☆
日時 平成三十九年九月四日 午前九時から午前九時五十一分まで
場所 ILC研究所管理棟 一〇一会議室
出席 ILC研究所/田之倉玲理事長、ハムザ=オズディル振動粒子研究室長、ヴァルマ=ルースア主任研究員
アメリカ合衆国/エリオット=ロウ技術大佐、ディアナ=フランソン陸軍中尉
ヨーロッパ連合/カリスト=ミラノ技術大佐、リネーア=フランソン陸軍中尉
日本国/胡座満
復命者 外事部外国課特種係長 胡座満
アメリカ代表より、本現象をAE(Advice-Effect)と隠語することの提案。全会一致において承認。オズディル室長及びルースア主任研究員より、前回協議以降に発生または判明した事項についての説明。第一発見者のカスキ主任研究員は、原因不明の高熱により意識不明につき欠席。容体は安定しており、生命に別状はないとのこと。
以下、特筆すべき三点について記述する。
進入禁止措置と関わりなく、拡張現実様表示の出現範囲が縮小した。悪意ある攻撃ならば拡散するものと考えられるが、現状は逆の様相を呈している。作成者の意図は自己顕示欲を満たすことではないと推察する。
暗黒物質及び暗黒エネルギーに関する未知の見解が示された。専門家の検証を待たねばならないが、荒唐無稽ではないとのこと。実験を示唆する内容もあり、安全性を確認しながら慎重に進めている。
拡張現実様表示に用いられているフィンランド語は、日本語と同様に使用地域が極めて狭い。EU駐在武官フランソン陸軍中尉はフィンランド国籍であり、同国政府へ調査を依頼したが、容疑者を絞り込めたとの報告は得られなかった。なおフィンランド語は西洋ファンタジー愛好家にも習得者が多く、以後はこの範囲まで調査対象を拡大する。
詳細は別紙のとおり。次回協議の日程を確認して終了。
☆★☆★☆★☆★☆
日時 平成三十九年九月十一日 午前九時から午前十一時三十二分まで
場所 ILC研究所管理棟 一〇一会議室
出席 ILC研究所/ハムザ=オズディル振動粒子研究室長、セラフィナ=カスキ主任研究員、ヴァルマ=ルースア主任研究員
アメリカ合衆国/エリオット=ロウ技術大佐、セフェリノ=コト陸軍少佐
ヨーロッパ連合/カリスト=ミラノ技術大佐、リネーア=フランソン陸軍中尉
日本国/胡座満
復命者 外事部外国課特種係長 胡座満
カスキ主任研究員が職場復帰。精神鑑定の結果異常なし。カスキ主任研究員の快復に先立ち、拡張現実様表示において以下のとおり警告が為された。
・統制者適性レベル2です。従事者の安全を確保し、かつ継続的な運用のためにはレベル3以上を推奨します。$ŐδΠɰ£(対応語彙の不存在による誤植と推察)の起動フェイズを中断する場合は「いいえ」を選択してください。
見舞いのため訪れたルースア主任研究員が拡張現実様表示に気づき、「いいえ」を選択したところカスキ主任研究員の意識が戻ったとのことである。
統制者が何を指すのかは不明。文字化け部位も同様だが、附随する表現より何らかの機器または電子プログラムの類と推察される。
またカスキ主任研究員より、意識不明の間は大量の情報が自分の意識に送り込まれたとの証言があった。実験成功を祝福する文面と次の課題を示す内容であり、自分の専門領域とは異なるため理解できないものもあった。しかし一字一句に至るまで暗記しており、思い出すときはメモを読むような感覚がするとのこと。
連携を密にするため、各政府代表を研究所内に常駐させることとして終了。
(疑似アカシャのノイズ発生により閲覧中止)




