Player 09 Harmaa
旧知の築いた街を、俺は訪ねていた。
名はミスラ。同名の国家を総攬する大統領府が置かれた都。
舗装された道路と線路が縦横に走り、その合間は高層建築物で埋め尽くされている。郊外へ出れば樹木も見られるのだろうが、俺が今いる場所は概ね灰色。姿なき精霊達の声も弱々しく、熟練の耳を以てさえ容易には聞き取れない。
この土地に住む人間達は、精霊を信じていなかった。であればこそ大地を覆い、水は穢れ、熱が偏り、風の滞る澱みを造りもする。直接手を加えたのは彼女ではなかったが、つまらない行為に力を貸したものと思う。
「…『変わらざるもの』。我が双脚は凡てを揺らさず」
瀝青の道を駆け出した。今は夜、闇の精霊に伝えて姿を隠すまでもない。ただし音は昼より遠くまで響くゆえ、法術の神に助けを乞うたのである。
やがて一軒の家が見えてきた。この土地の倣いでは、一戸建て庭付き三階4LDKと云うらしい。森の丸太小屋に慣れた目にも裕福そうなことは分かる。この家へ忍び込み、三人家族のうち娘だけを攫うのが俺の目的だ。
ある男に頼まれたから。
俺はそいつに借りがある。非道な仕儀でも断る自由はない。
幸いなことに他の家族への言及はなかった。娘についても傷つけるなと。肉体のほうは必ず護るが、俺は不器用だから心のほうは知らんぞと言っておいた。それは向こうも同様なのか、皮肉めいた笑みを浮かべていたが。
易々と柵を乗り越えて侵入する。猫に見つかったが、あれらは犬と違って吠えない。無視しても大丈夫だろう。問題はここからだ。
言霊を使えないくせに、警備用の式だけは高度なものをかけている。存在そのものを察知する型の場合、言霊の上位に位置する法術や創術でも騙しきれるものではない。となると精霊術の出番。使える手がないか、しばし黙考する。
(熱源欺瞞……少ない戦力を多く見せる。熱量低下……隠れるには最適だが、仮死状態に陥ってしまう。光学迷彩は昼間しか使えない。となると……光源隠匿か)
方向性が決まった。できれば呼吸も止めたかったが、俺にその技術はない。そこまで厳重な警備を敷いていないことに期待する。
そう考えて一歩を踏み出したとき。いきなり警報が鳴った。これでは寝た子も起きる。一階の両親はおろか、近所まで起き出してきそうな音だ。
三階の窓を破り、娘を連れ出す。強行突破となったからには遠慮しない。重力低減、熱源欺瞞、音源欺瞞、光源隠匿、筋力増強、代謝加速――他にも依頼人の男から教わった、知る限りの奇跡を駆使する。
一分後、俺達は郊外の橋梁にいた。川を渡るのではなく、乗り物を高速で走らせるためのものだという。虚弱な肉体で乗り回し、衝突して双方とも死に至るのを一度ならず見た。プロトスの連中は、どうも昔から身の丈を超えた力が好きらしい。
右腕の中、竦める小鳥が激しく啼いた。
「ちょっと何!こんなことして警察に捕まらないと思ってるの!?」
まっとうな指摘である。だが俺に対しては、あまり意味がない。
不法入国者であり、そもそも無国籍。一応リトラ出身だが、それとて建国前に離れたゆえ正確と言えるのか。以来帰っておらず、俺は故郷の事情に疎すぎる。
「出ていろと言ったろう。君が指示に従わないから、騒ぎが大きくなってしまった」
「冗談!誰がVRしか知らない奴を信じるっての。おまけに男だよ?こんな感じで拉致監禁されたら……って、あぁ!?」
「……攫われているな。思いきり。この上もなく明らかに」
俺の素性は理解できたようだ。それなら話が早かろう。
「魔神の意により迎」
「尖り耳ぃ―――――っ!」
怯えて然るべきところ。だが宙吊りのまま俺の顔を指差すと、嬉しそうな奇声を上げた。襟首摑んだ手を放して咄嗟に耳を塞ぐ。
エルフが珍しいのだろう。リトラへ渡れば、こんな耳は五万といるのに。プロトスにとって魔神とは、忌まわしき畏怖の対象ではなかったか。
「っ痛いなぁ。急に離さないでよぅ……でもイケメンだ本物のエルフ!本当にマジもん、正真正銘のエルフ族?」
「……贋物ではない」
好奇の目は慣れていたが、この反応には戸惑いを覚える。
前にも似たような経験をした。あのときは記憶を失くし、危うく犬か猫みたいな名前をつけられそうになったが。同じ愚は犯すまい。今の俺は連続性を保っている。
「ハルマーと呼べ。本当の名は、誰も知らないだろう」
☆★☆★☆★☆★☆
「君がアスランか?」
「知らない人に君呼ばわりされる謂れはないんだけど?」
それが最初の接触だった。我ながら世辞にも上手とは言えない。
「…悪かった。気分を害したのなら謝る」
拍子抜けしたらしい。殺気立った表情が和らぐ。
「何と呼べばいい?ここでは大きなギルドの長と聞いた。そうだな……アスラン様」
「……普通にアスランでいいよ。どうやったら、そうなるわけ」
何に呆れているのか分からなかったが、とりあえず文句を言う気も失せたようだ。後ろに隠れた幼子の娘が、俺達の顔を不思議そうに見比べている。
正確に言えば、用があるのはこちらの娘だ。更に言えば、用があるのは俺ではなく依頼人。俺の名前が定まっていないところに目をつけ、神を倒すための尖兵に仕立て上げた男。ランディというらしいが、まあ恐らく偽名だろう。
「で?」
何かと思った。名前、と催促されて気がつく。
「……ネフラだ。こちらも様は要らない」
「馬鹿にしてるの?それとも天然?」
返事は求めず、木陰の涼みへ俺を誘った。この季節、内陸の原野は頗る暑い。
「単刀直入に言う。その娘を渡してもらえないだろうか」
聞いた瞬間、ケイトはアスランの裾にしがみついた。
懐いているらしい。ランディの話によれば、彼女はグラキエル世界に二人しかいないNPC。プレイヤーが憑依しなくとも、自分の意思で勝手に動く。これまでも段階的な進化を遂げてきたが、ついに本物のヒトと思われるものが出現したのだ。
術に疎い街の人間は、情報の坩堝が生む写実的な幻と考えている。
俺の生まれた時代には、呟きを無理から具現化する言霊という技術があった。災厄の時代を経て、計算式に形を変えた一部のみ永らえたようだが、そもそも行われていた使い方は違う。創世の礎アウラの記憶を強引に書き換え、様々な自然の法則を無視して望む結果を押しつける。あの頃に比べればプロトスもマシになった――マナの特性を多少は理解し、できるだけ影響を抑えるべく努めるようになったのだから。
グラキエルを創造した人物の意図は不明。しかしヒトらしきものを創ったことで、読めたことは幾つかある。目的が何にせよ、神を気取っているということ。そいつを締め上げるには、どうしても彼女――ケイトの協力が必要になる。
「俺と来てくれないか。不安なら彼女も一緒でいい」
レオンとケイトを会わせる。それが俺に与えられた任務だ。聞けばアスランも深みに嵌まっている。あまり手を広げるなと言われているが、この際やむを得ないだろう。
アスランの反応は、予想外のものだった。
「男の人なんだ。ラフィ様の新しい下僕は」
「……………?」
「頼まれたんでしょ。ケイトを連れてきてほしいって。私みたいな役立たずは、もう目障りだから要らないんだ」
皮肉笑いを浮かべながら俯く。
重症だった。自分では正気のつもりが洗脳されかかっている。ラフィニアの失敗は、心酔しきっていない相手に非道な指示を与えたことだろう。
結果としてアスランは、ケイトを殺さなかった。レオンの瞳孔が開くのを確かめ、エルネスタやハンスは瀕死の重傷を負わせたにもかかわらず。
俺がランディから聞いたのはここまで。物理的な現象のみであり、精神的な意味合いや利害関係の変化は含まれない。他の当事者にも訊いたが、異なる理由で話にならなかった。ハンスは頭に血が上り、エルネスタは口を閉ざしてしまっている。
そういえば気になる情報が一つあった。アスランが誰かと話すのを聞いたという。激しく焦っており、ハンス曰く「大失敗をやらかして社長に謝る平社員のようだった」と。俺には分かりにくい譬えだが、相当な慌てようだったと推察できる。
手を貸すべきかもしれない。そうすれば彼女は、独力で自我の綱を渡りきる。些細なことで足元を揺るがせ、取り返しのつかぬ過ちを犯した誰かとは違う。よく一人で頑張ったと、むしろ褒めてやるべきなのではあるまいか……?
「何があった。話してみろ」
気がつけば、余計なことを口走っていた。
「話せば楽になるかもしれない。誰にも話さなかったために、自滅した愚か者を俺は知っている」
身も蓋もなく自分のことだが。それはアスランの事情と関係がない。
「何ソレ。慰めてるつもりなの?」
「逆だ。俺は君に理不尽なことを要求している。付け加えるなら、俺はラフィニアとやらの下僕ではない」
ケイトが舟を漕いでいた。腕ずくで連れ去られることはないと安心したのだろう。同じ気分がアスランにも伝播する。肩の力を抜いて柔らかく笑った。やはりこいつは、このような優しい顔もできるのだ……
「…率直に訊こう。捨てられたのか?」
思いの外、素直に頷く。
「違う、って言いたいところだけど。これが反論の余地もないんだよねぇ……」
不躾な言い種にも、アスランは眉ひとつ動かさなかった。久々の無遠慮な遣り取りを楽しんでいるように感じられる。生きることに真剣なのだ。その正直さは時に呪いとなり、自分と周りの人間を運命の渦へ巻き込んでしまう。
(あいつは今、どうしているだろうか……?)
とある同胞の無事を定期的に確かめること。それのみを条件として、俺はランディの手駒となった。後悔はしていない。彼女の運命に巻き込まれたお蔭で、失くした出自を取り戻すことができたのだから……
アスランの話に耳を傾けつつ、遠い昔の記憶を思い出さずにはいられなかった。
☆★☆★☆★☆★☆
赤い条光が貫く。初めはエルネスタ、次にハンス氏の身体を。
声は聞かれなかった。出せないというのが本当だろう。喉から腰にかけて、深紅の熱線がタンパクを燃やす。白く硬化すれば、もはや本来の機能を果たすべくもない。
命乞いすら不可能だった。そのことは私にとって好都合でもある。
裏切りを責める怨嗟の声。または釈明を求める憐れみの声。友人を手にかける罪悪感。そういう嫌なものを認識したくない。どこまでも自分勝手な御都合主義。
それは分かってるんだけど、分かってるんだけど私は。着のみ着のまま逃げ出してしまった。同盟やギルド、仲間のみんな。秘密の部屋に隠してあるイケメンキャラ縫いぐるみコレクション。それら大切なものを全部捨てて。
ワヤドを離れる前、一度だけ足を止めた。寝惚けるケイトを抱き起こすために。本物の盟主とは思っていない。だから殺してもいいんだけど。えりっちさんが困るとか、そういう話は別にして。
何となく殺したくない。私の心には、それだけがあった。
「…ラフィ様。要するにこの子を、レオンと会わせなければいいんですよね?」
一縷の望みを込めて叫ぶ。
「会わせませんから。頑張って逃げ回りますから。見つかってもレオンのほうを殺しますから。この子は助けてもらえませんか……?」
返事がない。まだ回線は繋がってるのに。
「やっぱ無理ですよ。子供は殺せません。中身は大人か知りませんけど、ゲームだからって子供は殺せません……」
雨。
大きな滴が小さな身体を湿らせてゆく。
ケイトがくしゃみをした。余程寒いのか、小刻みに震えている。
いけない。あのくらいの子供は簡単に風邪を引いてしまう。早く暖を取れる場所へ。何か温かいものでも飲ませてやらないと……私は自分が濡れるのも構わず、蛙頭のフードを出して彼女に着せた。まるで滝。他に聞こえるものは何もない。
「……ラフィ様?」
小さな両手は、かなり冷たくなっている。
急がなければ。
でも。
このままでは死んでしまう。
でも。
でも。でも。
でも。
「ラフィ、様……」
☆★☆★☆★☆★☆
「…大体、分かった」
淡々と頷く。木漏れ日の熱に顔を顰めながら。
感慨は湧かなかった。未熟な俺は、どの口で偉そうに言い切った。
「君は間違っていない。少なくとも、この娘にとっては」
「………………………」
「ビットの件もだ。利用規約に改竄禁止とは書かれていない。改竄できること自体、元よりグラキエルの仕様だからか」
慰めは要らない。最初は、そのような意味のことを呟いていた。
本当は誰かに認められたかったのだろう。自分は正しいことをしている、あるいは仕方がなかった。他の者がアスランでも、同じようにしたはずだと。
俺の言葉を聞いて、少しずつ表情が緩み始めている。現金なことだ。情報を引き出すため、思ってもいない台詞を並べただけというのに。
「身の回りで変わったことはないか」
面食らわせてしまった。いきなり訊ねた俺も悪い。だがこの場合、度を越した呑気さは罪。自分がどれだけ危ない真似をしてきたのか、無自覚にも程がある。
「具体的には家族や友人。不審な死に方や失踪した者はいないか。誰かに見られているような感じがしたことはないか」
「不審、死?…それって殺……え、えぇ?」
「ラフィニアは監視者だ。表向き社の祭神だが、実体は違う。世界を意のままに操ろうと暗躍している」
この女は遊びだと思っていた。間違いではないが、他人の身体を借りて行う本物のデスゲーム。プレイヤーは負債を払わず、一切宿主に押しつける。これだけ虫のよい仕組みを作り上げれば、感性が鈍っても仕方ない。
「…あれって、そういう意味だったんだ……」
インカネイトにも魂はある、無謀な真似はしないでというクラリスの言葉。
世の中には『魔法』が実在すること。それは決して特別なものではないこと。現に南部諸国では、エレン語の言霊を発動する個体が増えていること。不用意に使った者はマナ中毒を起こしていること。インカネイトは実体を持つ生身の肉体であり、グラキエルの言霊使いは古代の真言法師と変わらないこと。
それらの情報を全て教えた。グラキエルを創造した者がいて、その技術を狙っているのがラフィニア。動機は独善的な支配を永続させるため。俺の知識は限られていたが、寿命の短いプロトスが監視者の横槍を嫌ってくれれば事足りる。
「前にレオンが言ってたよ。この身体は自分だけのものじゃないって」
「魂の有無は分からない。人格がなければ単なる入れ物だ」
精霊術を使う場合、依代は魂の一部を精霊に貸す。二割なら外見が一時的に変化する。四割なら身体の制御を失い、その代わり自然の猛威を味方にできる。
このとき精霊は、俺達のことをどう思っているのか。やはりプレイヤーから見たインカネイトのようなものだろうか。プロトス達は不可視の存在を信じなくなり、精霊を迷信の類と決めつけた。同じことが我々にも言える。このまま依代が減ってゆけば、いつしかヒトの存在も迷信になるのかもしれない。
☆★☆★☆★☆★☆
日が傾いてきた。薄暗くなるにつれて、ケイトが時折悲しそうな表情を見せる。理由を訊いても話そうとしない。これは一体、どうしたことなのか。
「…私が落ちるから。その間、この子は一人になっちゃうんだよ」
必然、無防備になる。それゆえ山奥の僻地。ケイトを隠し、自分は携帯用の調整槽でログアウトする。個人には与えられない限定品だが、こいつのは恐らく模造。ラフィニアが改竄プログラムを与えたのだろう。
「ケイトと一緒にいてあげて。食べたらすぐ戻るから」
「俺を信用するのか。勝手に連れ去るかもしれない」
虚言だ。どの程度気を許したか、それを試してみたわけだが。
「分からないけど。攫うつもりなら、夜を待つか昨日のうちにやってる」
アスランがログアウト。いよいよ本格的に暗くなる。本物――アウレアの里山では潜みやすくなるが、ここグラキエルでは違う。
狩人が増えるからだ。獣や混沌の脅威もある。本気で隠れようと思えば、穴を掘って土の中にでも埋まるしかない。それらの全てを退けるのは至難の業。
「……さて、と」
首のみ巡らせ、木陰で気配を伺う幼子を振り返った。びくりと肩を竦める様は、捕食者に怯える野兎か鼠のよう。
「取って食いはしない。そこは風が当たる、もう少しこちらへ来たらどうだ」
「………………………っ」
涙目で睨んでくる。面倒なことに、俺は子供の扱いが苦手だった。
「あまり離れるなよ。戻ったとき君がいないとアスランに殺されてしまう」
最小限のことを頼み、木の幹へ寄りかかった。さてこれからどうしたものかと、真剣に悩む。相手の望みを知らなければ、取引の持ちかけようもない。
一応ここまでは目論見どおり。アスランの歓心を買い、油断を誘ってケイトと引き離すことに成功した。問題はこの先――騙るも自由な身の上話を鵜呑みにすべき理由はない。こちらの出方を探るため、嘘をついたとも考えられる。
聞き出すなら今。ケイトがどこで生まれたのかを。
連合皇帝キング=スペイディアは、現在のインカネイト工場を知らなかった。彼はアスルタンの地下で生み出され、目立たない扮装をして夜光都市へ向かったという。央都は汚染されているから操業を続けるのは無理。同じ場所でケイトが創られた可能性は低い。
新しい工場には、グラキエルの創造者が必ずいる。
ラフィニアはそいつを殺すつもり。器のヒトガタは既に破壊されたと聞く。フェリック本社地下、予備の個体まで全部消し去ったとか。
唯一の望みは、本体の居場所が分からないこと。魂が失われる前に、何らかの形で接触を急ぎたい。インカネイトを製造できれば、レオンはとりあえずアウレアへ戻れる。存在自体を削除される可能性が消えるため、無暗に監視者を恐れずともよくなるのだ。
「……怖いのか?俺が」
「………………………」
「喋れないわけではないのだろう?」
「……………………っ」
「……見なければ分からないか」
首を横に振っていた。一応、聞こえるし声も出せるらしい。
「…分かった。そのままで構わないから聞いてくれ」
努めて穏やかに語りかける。時間は少ない。焦りが表れないよう、できるだけ慎重に言葉を選ぶ。
「俺達は、君の親を探している。ひとりの女を生まれ故郷に帰してやるためだ」
返事は待たず、話を先へ進める。
「その女は友達と喧嘩をした。仲直りしたいのだが、相手は話を聞かなくなった。理由を訊ねても無視される。代わりに彼女の周りでは、多くの者が怪我をしたり死んだりするようになった」
このあたりはランディからの伝聞。俺は直接レオンという女に会ったことがない。あるいはレオン本人なら、決裂の事情を知っているだろう。とりあえず今は、ケイトの同情心を煽ることが肝要である。
物音がして、振り返るとケイトも幹の反対側に寄りかかっていた。
「…ごめんなさいすれば、その友達も……」
「残念ながらできない。相手の女は癇癪持ちでな。普段は大人しいのだが、暴れ出すと手がつけられなくなる。このままでは俺の知り合いも殺されてしまう」
初めて聞くケイトの声は、見た目より活発だった。感情の起伏に乏しいのかと思ったが、そうではないらしい。
「どうすればいい?嫌いになったわけでもないから、このまま疎遠になりたくはない。かといって安易に近づくのも危険だ。正直、頭が痛くなる」
ランディも同じだろう。子供騙しの作り話ならともかく、これは紛れもない事実。相手の女を殺したいと考える男のことは、話が面倒になるため触れずにおく。
「君ならどうする?」
もう一度訊いてみた。やはり首を横に振る。
グラキエルを現実として生きるケイトには、インカネイトを捨て駒にする発想がない。その範囲で考えれば、確かに解決は無理だろう。
「でも諦めたら終わりだよ。直接会えなくても、手紙とかは続けないと」
「身に抓まされる話だな。俺は五百年投げ出している」
これも事実だ。喧嘩別れとは違うが、下手をすると更に酷いかもしれない。不可抗力とはいえ、素性を偽っていたのだ。
「ええ、そうなの?」
「ああ。今も怒っているか、殺したいほど憎まれているか……」
「自分は好きなんでしょ?駄目だよそういうのは。早めに何とかしないと」
「手遅れだな。だから間に合いそうな連中の、余計な世話を焼いている」
久しぶりに笑った。それを聞いてケイトも笑う。相変わらず樹木越しの背中合わせではあったが、心の距離は確実に短くなっていた。
ケイトにも同胞が一人いるという。連合のNPC皇帝スペイディアだ。顔も知らない兄に会いたくて、彼女は工場を脱け出した。新型の二人は、どちらかが拒絶しなければ互いの居場所が何となく分かる。その兄が親の意思により自由を奪われ、文字どおりの人形として日々過ごしていることを妹は知らない。
「ネフラは父様に会いたいんだよね?」
ケイトのほうから話を戻された。
「取引しようよ。ネフラは私を兄様のところへ連れてゆく。私はネフラに父様の居場所を教える。これでおあいこ。どう?」
こちらにとって悪くない条件だ。が、しかし。
「…人目を憚るのではなかったか?」
俺の老婆心を、ケイトはけらけらと笑った。
「関係ないよ。それはアスランの都合だもん」
その都合が戻ってきた。余程慌てたのか、調整槽の扉に額をぶつけて弱々しく呻いている。原因の半分程度は、出会って間もない俺への不信だろう。
「ごめーん遅くなった……って、え?」
「早かったね。もう少しゆっくりしてもよかったのに」
さらりと言い放つ。他人事とはいえ同情を禁じ得ない。
「…ちょっと面白くないんですけどー。いつの間に仲よくなったんですかー?」
「さてな。少なくとも、鬼の居ぬ間だ」
「そうそう。鬼の居ぬ間♪」
「私は鬼か?魔物か?元気になったのは嬉しいけど……また捨てられるなんて」
かくり、と両肩を落とす。それを見て、またケイトが笑う。
「ていうかさ、アスランの料理マズいよね。えりっちと違って」
「何ですとぉー!?このお子様がぁー!」
「二人とも落ち着け。一体何の話だ?」
詳しく聞いてみると、要はこういうことだった。
アスランだけ毎日美味しいものを食べて狡い。自分だって食べたいものはあるのに、アスランはケチだから作ってくれない。少し前まで一緒にいたえりっちとやらは料理が上手く、頼めば何でも好きなものを作ってくれたのに……と。
「アスランがいけないんだよ!自分はミスラのおうちで美味しいものお腹いっぱい食べてるくせに!」
「…あー。それ言われると弱いけど。うち御飯作るのママなんだよねぇ。ゲームとかもやらないし」
「俺も料理は。必要があれば焼くのと煮炊き程度はするが」
「…それはそれでダメダメな感じだけど。私だってカレーくらいは作れるよ?」
そのためには買い物が必要。しかしアスランは規約違反の噂を恐れて人里に入れない。となると食材の目利きは、ケイトか俺ということになる。
「てかここIHないし。やっぱカレーも無理」
問題を解決するには至らなかった。
とはいえ、方法に心当たりがないわけでもない。
「……火加減を調節できればよいのだな?」
「他にもあるよ。野菜を洗うシンクがないと駄目だし、こう暗いと作業しづらいかな。それと生ゴミの処理。あっ、ここでは土に還せばいいから大丈夫か……」
色々と注文が多い。しかし全て何とかなりそうだった。
この辺りでは中小の町や村が、大規模な網状構造を形成している。プレイヤーの経営する衛星都市も、ここからさほど遠くない。
「カレーとやらに必要な具材を教えてくれ」
淡々と告げた。何をしているのだろうと、我ながら疑問に思いつつ。
「…三十分で戻ろう。俺が買い出しに行ってくる」
☆★☆★☆★☆★☆
カレーの調理法は、途中までシチューと一緒だった。
これなら見たことがある。他人の世話になっていたとき、その家の主が羊の乳たっぷりのシチューをよく作っていたものだ。
見ているうちに昔の記憶が呼び覚まされ、途中から俺も手伝うことにした。包丁の扱いは、戦いにおけるダガー捌きで慣れていた。アスランが不器用だったとか、アスランの手際が悪かったとか。小麦粉を米粉と間違えたとか。別にそのような話ではない。
今は大鍋で具材に熱を通している。大切なのは火加減。適度に風を呼び込み、それでいて強くなり過ぎないように。傲慢あるいは奔放なところのある精霊達だが、付き合いの長いこともあり、やれ強火だ弱火だの小うるさい頼みも大人しく聞いてくれている。
水の精霊達には、野菜を洗うとき手伝ってもらった。土の精霊には竈作り。熱の精霊は赤外視。闇の精霊には野営地の隠蔽。異世界であっても、精霊との付き合い方は概ねアウレアと一緒らしい。
「……汲んできたよー」
ケイトが戻った。ひと掬い鍋に入れる。水と油の爆ぜる音が響く。
下拵えが済めば、ここから先は経験者の仕事。
後ろを振り返ると、アスランが地面に項垂れていた。顔は見えないが、この世の終わりでも来たような呻き声を洩らしている。
「どうした。腹でも痛いのか」
「そうじゃなくってね、うん。そういうことじゃ、なくて……」
香辛料の瓶を摑むと、有無を言わせぬ迫力で押しつけられた。
「味付けもやって。多分、変なことにはならないから」
言われるまま挑んでみる。少し甘かったが、初めてとしては悪くないかもしれない。
「…わぁ。いい匂ーい」
ケイトの評判は上々。遅れたこともあってか、三度お替わりを所望した。
「煮物は熟成すると美味くなるらしいぞ」
シチューの知識を言ってみた。水気が飛ぶのと、具材が発酵して旨味を増すからだ。
「じゃあ、そうする!明日が楽しみだね♪」
「そろそろ休むといい。お前が眠るまで、俺達はここにいよう」
熾火の傍では、アスランが難しい顔をしている。
☆★☆★☆★☆★☆
食事の後。ケイトを寝かしつけた俺達は、今後の予定について話し合った。
と云っても、俺が一方的に伝えただけ。ここまで関わった以上、アスランの本体も消されてしまう恐れがある。死にたくないなら今すぐ身を隠すべき。
「ひとまず安全を確保する。深夜、身ひとつで家を出てこい」
「…パパとママは?」
「難しい。俺の力では一人が限界だ。身ひとつと言ったが、ドリームシェアを持ってくるのは忘れるなよ」
結果はあのとおり。アスランのプレイヤーは俺を信じなかった。その疑り深さは褒められてよい。呑気に過ぎるため、結局台無しという感はあるが。
「行くぞ。ドリームシェア端末は持ってきたか」
「は?何言ってんの。あるわけないじゃん」
沈黙。
「……何だと?」
「だから、あるわけないって。必要なら経費で買ってよ。そっちこそテロリストみたいに誘拐したんだしさ。活動資金とか潤沢にないの?」
テロリストが聞けば憤死する。世の中そう甘くはできていない。
「嘘。料理しないって言ったよね。それならコンビニとかで弁当買うでしょ」
エルフは自給自足が基本。ランディに至っては食事を摂る必要がない。秘法を伝授された俺も十日程度なら持続可能である。
「依頼人から逸脱行為は戒められているのだが……」
また家に戻る時間はなかった。恐らく警察が網を張っていよう。その中にはラフィニアの代行分体や息のかかった者が必ずいる。閉館時刻を過ぎた近場の図書館で盗むことにした。それ自体は容易であり、説明すべきこともない。
ひと仕事終えて。道路の高架下へ戻ってきた。
「……逃げなかったのか」
手がかからなくて何より。しかし、これ以上無駄な時間を割く余裕はない。
「…ヤバいよマジもんの犯罪者だよ。でも本物のエルフでイケメンだよ……」
半分は何を言っているのか分からなかった。
移動の前に、邪魔な意識を刈り取っておく。
☆★☆★☆★☆★☆
「…着いたぞ」
荷物のように抱えたまま、額を三本の指で小突く。
「マインドリンクを起動だ。ログインはしなくていい」
「…んみゅ……もう食べられ、にゃい。でしゅ……」
「……………………」
もはや驚くまい。強めに気付けの処置を施す。
「痛ッ!何すんのよ」
「準備してくれ。あまり時間がない」
「分かった!分かったから急かさないで!」
苛立ちを抑え、コンクリートの壁に寄りかかった。
放棄された事務所。柱や基礎は頑丈らしい。外観が荒れるまで残っていることが、その間接的な証拠だ。彼女のために無駄骨を折っている。しかし危機感を共有しない者にとって、それは傲慢な押しつけと狂言じみた妄想に他ならない。
「…どうすれば信じる。俺は君を死なせないよう努力しているつもりだが?」
「疑うとは言ってないよ。ただ、いきなり殺されるとか言われてもね。ハッカーやテロリストなら、警察に護ってもらう手もあるでしょが」
ラフィニアは神。あれほどはっきり伝えたのに。ランディやレオンなどの紛い物とは違う。名前を持つ者は全て、監視者の一筆により抹消される。
「…それがさぱらんのよ。そんな力があるなら最強じゃん。レオンもあんたも、あんたの依頼主だっけ?敵は全部死ねーって書いちゃえば万事解決。そうならないってことは、あんたが嘘ついてるって考えるしかないっしょ」
「複雑な事情がある。依頼人はアカシャに載っていないし、俺の名前は不安定だ。レオンについては……一時的に名前が見えなくなる処置を施したそうだ」
「どうやって?知ってるのに書けないの?それって変だよ」
「君を攫った手際は参考にならないか?今の社会では充分に非常識なはずだが」
「残念ながらね。誘拐自体、非常識って説もあるけど?」
平行線だった。そろそろ潮時かもしれない。この女は諦めてグラキエルの探索に戻るか。決して悪い奴ではないのだが……
「そいえばさ、ケイトから聞いたよ。あんた五百年も彼女を待たせてるんだって?冗談かと思ったけど、エルフと知れば納得だよね~」
また胡乱なことを言い出した。今度は他人の事情に口を挟むか。
「…恋人ではない。プロトスの概念を当て嵌めるのも強引だ」
「またまたぁ。照れなくていいのに♪」
俺は様々な感情を込めて溜息をついた。文化が違えば常識も違う。常識が違えば会話の噛み合わないことも多くなる。今すぐ話を戻したいが、少しは付き合わないと収まりそうにない。また話したところで伝わるのか、という軟弱な懸念。
「どうして行かないの?生きてれば会えるのに」
さも簡単そうに言う。気づけば俺は声を荒げていた。
「…子供には分からないこともある」
白いニウェウスと黒いアトルム。同じエルフと言われながら、外見的な印象の差はプロトス同士の比ではない。加えて両者は、生物としても決定的な違いがあった。
神の複製ニウェウス、一方の人工種族アトルム。後者はプロトスの創術師が自らを改造して世に現れたもの。それゆえ不完全な変異体が生まれ、小人と獣人を除いた種族から忌み嫌われる原因ともなっている。リトラ社会には、複雑で根深い対立の構図があるのだ。
俺が故郷に戻らない理由は、これらのことに起因している。別に捨てたくて捨てたのではない。目が口ほどに叫んだのだろう。息を呑む気配が伝わってくる。失策を悟ったときは、もはや手遅れだった。
「…何ソレ。歳食ってれば何でも分かるの。長生きしたボケ老人は、どんなことでも若者より知ってる?へー、ふーん」
「…………」
「五百年も女を泣かせて平気とか、そんな奴信じられないよ」
アスランの声が冷たく響いた。それは自力で洗脳を解くと信じた俺への、容赦なき死刑宣告だった。
「ラフィ様!ここに敵がいます!捕まえたらお手柄ですよね!?だから私のこと赦し」
「よせ!君も殺され」
俺達は言い終えることができなかった。
現れたのだ。前触れもなく突然――荘厳な気魄を纏った銀糸の髪と凍てつく瞳。様々な言語で簡略化された術式を唱え、俺達を圧倒した。具体的に何が起きたのか、手足を失い動けなくなったことしか分からない。潰れた内臓からは盛んに血を噴いている。
「目標α、戦力の九〇パーセントを喪失。ただしスピリタスは使用可能。よって遠隔攻撃による射殺を推奨します」
的確な判断だ。この様になっても俺は戦う力を残している。精霊に身を任せ、自然の荒ぶる力そのものになれば。アスランも無事では済まないが、一矢報いることはできる。
運命の監視者ラフィニア、その代行分体。人格を持たず知性のみ行使する彼女らは、全能の間に佇む主の命令に従い、いかほど残虐な仕儀も平然とこなす。
(闇の精よ。我が像を失くせ。大地の精。隆起だ……)
爆音が掠める。頭の上を高熱が過ぎていった。舗装の剥げた床を転がりながら、次の手を考える。
「…座標修正。熱源探知……」
(熱の精よ。大地と親しく在れ!)
明後日の方向で爆音。俺を見失ったようだ。しかし、この優位も長くは続かない。
原理は不明だが、いずれ音だけで居場所を見抜かれるだろう。隆起と陥没を繰り返し、欺瞞を織り交ぜつつ慎重に近づいてゆく。
(アスランの位置は……あそこか)
監視者を挟んだ真向かい。巻き添えを避けるため一応遮っておく。
(光の精霊よ。『同化』する)
そして輝いた。頭の先から血の一滴に至るまで。太陽の如き火の玉とは違う。俺自身が『光』だった。目映い奔流に混じり、平板な苦悶の声が聞こえる。普段は明るいだけの光も、度を越せば焦熱に転じる。俺にそう教えたのはランディだ。
(方角を絞れ!敵のいる方角だけに……!)
(ソレハチガウ。ワレハヒカリナリ。キョウダイナチカラニモクッセヌモノ)
(!?)
(ジュウリョクニクッストイウモノモアルガ、ソハワガハイボクニアラズ。トオルベキクウカンガネジマゲラレテイルニスギナイ)
精霊の声が聞こえる。つまり俺は、まだ同化していないということ。
自分を消し去るつもりでやった。しかし未練が俺の覚悟を鈍らせた。
光が消えてゆく。神宿りからヒトに戻るのだ。こうなっては葬られるのみ。
だが死は訪れなかった。最後の一葉を詠む時間が流れても。ラフィニアの代行分体には嗜虐心すらない。瞼を抉じ開けて目にしたものは。
《…統制者の名に於いて。Rafinia1147と命名。然るにRafinia1147、発声機能喪失》
どこから来たものか、俺を庇うように黒髪の娘が立っていた。ラフィニアの分体と同じように言霊を使ったが、声には若干の抑揚があり、無感動な人形ではないと感じさせる。分体は早々に法術及び創術を諦め、記述式の上位言霊――真言法へ移ろうとした。
《Rafinia1147、四肢硬直》
首を小刻みに動かし始める。直感的に悟った。頭頂にマナを込め、その軌跡により詠唱するつもりだと。文字さえ描けば祈りを拒まれることはない。
《『変わりゆくもの』。彼女の熱を奪って。ミトコンドリア代謝酵素分解。クロロフィル、キサントフィル、他共生系シアノバクテリアの活動を阻害》
崩れ落ちた。仮死状態に陥ったのだろう。少女はゆっくりと頷き、それから緊張を緩めて自らの名を告げた。アトジマミカゼ、またの名をアウラ。
「アウラだと……!?」
創造主の名。この世界を創り給うた礎の女神。アトルムとニウェウスを問わず、我らエルフが主と崇めるもの。アウラをよく知るランディによれば、夢を貸し与えることにより魂と物質を維持しているという。
《畏まらないでください。あなたのことはエアから聞いていました》
畏まるも何も動けないではないか――心の中で反論するも状況は変わっていた。喋れないほどだったはずが。外傷はなく、見たところ血も出ていない。
《骨折と内臓破裂をなかったことに。これ以上やると私が眠くなってしまいます。だから今は、これだけで》
痛みはある。が、耐えられないほどではない。
代行分体の傍へ寄り、活動停止しているのを確認。極低温の冷気が漂ってくる。巻き込まれる危険を冒してまで、敵が死んだとの実感を得ようとは思わなかった。
《それが正解です。触れるとあなたの手も崩れてしまいます》
やはり恐ろしいことを言う。そのようなことは最初に教えてほしい。アスランの意識があったら、興味本位で食いつき殉死させられていただろう。傷を癒してくれたものの、それでは苦しんだ甲斐がない。
《訊かないのですか。エアのことを》
《あなたの身を、とても案じていたのに》
エルフには見えなかった。整ってこそいるが、どこにでもいそうな普通の娘。柳のような長身が半ば透けていることを除いては。
《最初の友達は、先程亡くなりました。二人目は千百八十九年前に。ですから私には、彼女しか友達がいません》
だから願いを叶えた?友達の知己を救うことによって?
《屈折していると思うかもしれません。ただ、あの子は今幸せですし。他にしてあげられることもありませんから》
…そうか。あいつは今、幸せなのか……
とりあえず俺の未練はなくなった。
端末で六面体を作り、中央にアスランを寝かせる。図書館から失敬した古い型のものだが、幸いグラキエルとの適合性はあるようだ。
接続空間『ビフレスト』を起動、続いて周りを囲むように断絶結界を構築。
事象の地平線を認識することはできないため、我々の目は鏡像である景色の歪みを感知するのみ。それとて其処に在ると意識しなければ、気づけないほど微かなもの。
あとはアスラン次第。目覚めると同時にログインするかどうか訊ねられ――断らない限りは、再びケイトの前に現れるだろう。
次は俺の番。疑似アカシャを呼び出し、コード001を選択する。
『マインドリンク』の術式は、ここへ来る前に依頼人から受け取っていた。接続空間を設計した人物の協力が得られたことによるもの。
他者を送り込むことはできないが、マナの濃縮など一定の要件を満たせば自分がログインすることはできる。今はアウラがいるため、その点に関しては問題ない。
《灰色を称する者。あなたにお願いがあります》
思わず耳を疑った。
その願いとは。自分の本体を目覚めさせないこと。
長年苦労を重ねた弟からすれば、姉に拒絶されたと思うだろう。
《私が目覚めたら、あの子は独りになってしまいます。ラフィニアと代行分体達は消えずに残るでしょう、が……》
どういうことだ?訊く前に声音が高まる。青い光を帯びて断ち切られた。もう時間はありませんが――そう前置きした言葉が、木霊のように残っている。
《私はここで、あなた達の肉体を護ります。代わりにクラリスさんを、セラフィナさんの生まれ変わりを助けてください。彼女は私達にとって特別な人なのです》
☆★☆★☆★☆★☆
《……くれぐれも、クラリスさんのことをよろしく……》
口ほどに告げる視線を背負い、俺は再びグラキエルへ降り立った。
『帝城アース』を離脱、眠れる深夜の森を全速力で駆け抜ける。
二人が今いるのは、夜光都市の外れ。協会の使者を攻撃し、追われるように同盟領から逃げ出した。第三勢力の支配地域を転々としたのは理解できる。連合の冒険者は他人に関心が薄く、そのことも理由の一つだったかもしれない。
食事をした野営地の片隅で、アスランは見つかった。
傍らにケイトの姿はない。念のため場所を変え、それから一人で戻ったのだろう。曇り空を見上げる横顔は、まるで人恋しさを隠すかのように。
そして。
「………やぁ」
目を逸らしながら俯く。
無視するなら逃げていた。さりとて、わだかまりはある。
アスランという女、実は態度で示すほど強くもない。
仮面の明るさ。見せかけの喜び。俺はただ、黙って頷いた。
「責めないんだ。私のせいで死にかけたのに?」
「ケイトが寝ている。起こしたくないからな」
「何それ。世間体を気にする父親みたい」
先刻の会話と同じだった。互いの声に力がないことを除いて。
やはり俺は、他人を怒らせることしかできないのかもしれない。
「……すまなかった」
「何で謝るかな。その……勝手に踏み込んだのは、私のほうなのに」
「気にしなくていい。もう終わったことだ……」
エアは今、幸せに生きている。
礎の女神が請け合ってくれた。それだけで充分。
アスランは俺の言葉を信じなかった。
「…本当に?」
どの面下げて会えばいい。
エアも。リーネも。セインや他の同胞達にも。
「ああ」
会えるものか。
五百年前。災いが大陸を襲うよりも昔。
俺の存在が大勢を殺した。生まれてくるはずの命を奪った。
たとえ赦されたとしても。
裁かれなかったとしても。
安堵する卑劣な姿を、彼らの前に晒したくないのだ……!
「そ。本人が納得してるなら、私が口出すことでもないけど」
素っ気なく呟いた。アスランとの会話は、これで終わり。
納得などできるはずがない。
だが今は、しなければならないことがある。
それはきっと、故郷の同胞達を護ることにも繋がってゆくのだろう。
☆★☆★☆★☆★☆
翌朝。不機嫌顔で黙り込むアスランの隣。御満悦のケイトは、残り物のカレーを頬張りながら満足そうに頷いた。
「北だよ。ここでは未開地とか呼ばれてるけど。寝坊の子が一杯いたし、きっと父様もまだいるんじゃないかな」
――復興の近現代史Ⅱ ~千年王国の変遷~
甦りつつある大国の闇は 未だ明らかにされていない
南北戦争検証チーム
唯一の大陸に名を残す国エルニア。かつては人間社会の九割を支配し、今なお世界の北半分を治めている。熾烈な覇権争いを演じたというセリム帝国も、元はと言えばエルニア王国から独立した勢力だ。そしてセリムからの移民が海を渡ってリトラ共和国を興し、また四百年後に帰還して南部諸国民の先祖となった。それなりに古いが、途方もなく過去の話というわけでもない。およそ三百年程前の事件である。
歴史に想いを馳せるとき、我々はエルニアを抜きにして語ることができない。神話の時代を除いた人類の歴史は二千年と少し。その約半分にわたってエルニアは存在してきたのだ。影響を受けなかった人々がいるとすれば、それは遠い我々の先祖がリトラ島へ入植する前に亡くなった、二つのエルフ族か獣人族くらいのものであろう。
さて一口にエルニアと言っても、その版図や影響力、民族構成及び宗教観には小さくない隔たりがある。繰り返しになるが、かつては人間社会の九割までがエルニアだった。従ってここでは、大災厄以降についてのみ論じてゆくこととする。
大災厄の発生当時、現在のエルニアは四つの国に分かれていた。東のエルニア、西のファロスとミランダ、その中央に他の三国と敵対していたレザリアである。この時代のエルニアは辺境の農業国でしかなかった。友好国のファロス及びミランダとは分断され、大陸南部は小国が乱立する混乱状態。日増しに強大化するレザリア帝国を前に、風前の灯火と化していたのである。そのような国際情勢の中で、未曽有の災いが大陸全土を襲った。
これが世にいう『大災厄』である。どこからともなく高密度の汚染マナが押し寄せ、その波に大陸中が呑み込まれた。急性中毒により総人口の七割が即死、生き残った人々も魔獣化した動植物に殺害されるか自らが魔獣化した。辛うじて難を逃れたのはリトラ共和国と小人族自治領、それからエルニアの王都エレンと近隣の一都市だけ。最大の勢力を誇ったレザリア帝国も含め、当時存在した国家は瞬く間に消えてしまったのである。
大災厄の原因は今なお判明していない。失われた技術による攻撃プログラム、研究機関や工事現場で発生した事故、未知の自然現象――様々な仮説が提唱された。しかしいずれも不動の地位を確立するには至らず、その都度確認されてきた事実が一つだけある。
大災厄の結果として、エルニアは破滅を免れたということだ。国民の大半が喪われ、存亡の危機まで追い詰められたことは間違いない。しかしレザリア帝国の終焉により、千年王国を脅かすものもなくなった。
この事実を以て、大災厄がエルニアの陰謀だったと考える者もいるのである。
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――神学概論(一部抜粋)
ソ=シンホン著 ヘイゼイ出版
私達が暮らす世界には、多くの神々が息づいている。広く一般に知られるだけで六柱、歴史書を紐解けば二十数柱にも達する。曖昧な書き方をしたのは、筆者の怠慢ではない。立場にもよるが、実在を疑われる神もいるからだ(中略)。
現代の私達は、神々を迷信の類と捉えている。研究者紛いの陰謀論者達の間では、今なお存在して各国政府に干渉しているなどという説もあるが、証拠と呼べるものが一切なく、まともな学説の体を成していない。
ならば史実はどうか。物的証拠が見当たらない以上、全ての神々を架空のものとして検証しなおす必要がある。伝えられる業績などは、教育的な効果を狙った昔話。民衆にとっての神々とは、社の主という感覚だろう。新年や折節につけ、身近な願いごとをするだけの便利屋と化している。
とはいえ一部には、神々が熱心な信仰を集めた時代もあった。紀元前七世紀から八世紀、エルニア王国が三つの勢力に分かれ、南のセリム王国と百年に及ぶ争いを繰り広げた頃である。領内に信者の多い神を奉り、それぞれ戦の正当性を主張するために利用した。
もっとも、これは極端な例である。多くの場合において、民衆は神と人間を地続きのものと認識した。先エルニア文明の勃興期には、優れた資質を持つ人間が神に『成る』というようなことも散見されたのである(中略)。
中でも異彩を放つのは、現在のリトラ共和国に暮らすアトルム族と魔神グランディスの関係であろう。アトルム族の神話は、驚くべき内容を含む。同じくエルフのニウェウス族の神話によれば、ニウェウスは下級神の子孫だという。一方のアトルム族は部分的に神の奇跡を起こし、神の子孫と呼ばれるエルフに『成った』。エルフ化の秘法を伝えた者として、アトルム族は魔神の王グランディスを崇めている。
歴史の分水嶺に現れ、技術をもたらす者としての存在感は決して小さくない。エレン人の少数派が信仰する一神教の、堕落した熾天使長に通ずるものがある。直接害を為したとの記録はないが、グランディスの伝承には必ず混乱が付き纏う。それゆえ豊穣の女神ラフィニアと対を為す、破壊と闘争の魔神として認識されるに至ったのである。




