90.後で試してみるわ
「ユウ、今日の出立は取り止めることにしたよ」
「え!? どうして?」
「そこからでも窓から空の様子は見えるだろう?」
ユウは見回した部屋の内部が明るくないことに気が付く。日が昇っている時間にしては薄暗い。
そしてユウはソンジュに言われた通りに窓の方に目を向ける。
空は曇っているようだし、その雲の流れも速い。
ユウはベッドから起き上がって窓の方に近付いていく。
窓から見下ろすと人の動きは見えない。だが土埃が舞い上がっている。
他の建物からはガタガタと窓が鳴っている音も聞こえてくるようだ。
地上付近でこれだけの風が吹いているなら上空はどれほどなのだろう。
「えーと、大雨でも降りそうなの?」
「ああ。いや、嵐になるかもしれないな」
そっか。春先だもんね。
寒気団と暖気団の入れ替わりで天候が不安定になりやすいって、確か中学で習った記憶があるわ。
うん、私偉い。よく覚えてたわ。もっともどちらかと言うとサークル仲間の薀蓄のおかげかもしれないけれど。
「前に雨くらいだとそのまま進むって言ってなかった?」
「この間の雨くらいならね。確実に嵐になりそうだと商人なんかも街を出ようとは考えない筈さ。前の街と違ってちゃんとした理由があるのだからな。となると、いつものように少し先行して商人達を見張り代わりに使うと言う訳にはいかないだろうな」
「……私を殺そうとしている相手って天候まで自在に操れるのかな?」
「それはないと思うよ。それなら今までも霧を発生させて目晦ましだって出来ただろう?」
言われてみればそうよね。それこそ私に向けて雷の一つでも落とせば済む話なんだもの。
やっぱり全知全能の神様が「敵」じゃないようね。
「じゃあワイトにも連絡しておかないとね」
「奴には既に言ってあるよ。今頃は宿の受け付けに、もう一泊する事を伝えているんじゃないかな」
「なら今の内に着替えておくわね」
そう言ってユウは干している下着や衣類を身に着け始める。
街を出ないのなら鎧の類までは着る必要は無いのだろう。それでもポンチョだけを寝巻き代わりに裸身に纏った姿でワイトの前に立つつもりはない。
ユウの着替えが終わった頃にワイトが戻ってきた。
なにやら食料のようなものを片手に抱えているようだ。そして湯気の立ち込めている桶も、もう一方の手に抱えている。
「よう。ユウも起きたようだな。ソンジュに聞いていると思うが、今日は天気が荒れそうなんでな。宿に閉じ篭ることになりそうだぜ」
「そのお前の抱えているものは何だ?」
「ああ、これか。宿の受け付けなんかも早朝の時点で、今日は荒れそうだと感じたようでな。泊り客のために朝食代わりになる物を買いに行ったらしいぜ。まあ手間賃の分ちと割高になるがよ。それでも天気がいつ崩れるか分からねえし、料理屋も開いてねえだろうしで譲ってもらったのさ」
「ほう。なかなか気の効いた宿じゃないか。昼食は昨夜仕入れておいた分があるから、なんとかなるだろう」
やっぱり下級とは言え貴族や裕福な商人が泊まるような宿なのね。
悪天候時のその手の気配りはしっかりしてるんだ。
ワイトが抱えてるのって白パンの詰まった籠のようね。桶の方はスープ? ううん、違うわ。ただのお湯みたい。
まあ現代日本のビジネスホテルみたいに食事が出る訳ないしね。
全泊り客に料理を作れるようなキッチンもないでしょ? せいぜいお湯を沸かせる程度だと思うわ。
表通りのホテルなんかは高級料理を出すのかもしれないけれどね。
三人はワイトの持ってきた食料で朝食を取り始める。
と言っても白パンを白湯で流し込むだけなのだが。
料理屋で取る食事とは比べ物にならないが、ワイトもソンジュも気にはしていないようだ。
冒険者のソンジュにとっては野営などではもっと質素な食事をしているし、ワイトも軍属だった頃は派遣先で似たような食事をしていた事もあるのだ。
ユウだけが食べ慣れないようだ。
現代日本人だったユウは白パン、小麦のパンを白湯のみで食べることに困惑しているのだ。
コーヒーか紅茶が欲しいなと考えながら食している。そんなものがある可能性が低い事を知りながら。
食事を終えたソンジュが鎧戸を閉じるために窓に近付いていく。
他の建物から扉だけではなく建物自体がギシギシと音を立てているのが聞こえてくる。どうやら風が強くなってきたようだ。
窓から見下ろすと道には人通りが全くない。
空も薄暗いままだし雲の流れも早くなっている。まだなんとか雨までは降っていないようだが。
「ふむ。雨が降るまでには時間がありそうだな。私はギルドに行って明日の状況を確認しておこう。まあ先日のように依頼が全くない筈もないとは思うが一応な」
「なら俺達も一緒に……」
「いや、纏まって行く必要はないだろう。そもそも冒険者資格を持っているのは私だけだ。掲示板の傍で待たせるのも申し訳ないからな」
「でも二手に別れたりしたら不味いんじゃない?」
「街中では襲ってこないさ。人を操ることは出来ないようだしな。この嵐だと盗賊だって行動を控えるだろう? 私も確認を終えたらすぐ戻るつもりだしな」
そう言いながらソンジュは、ポンチョを腰のポーチから取り出して被ろうとしている。
いくらそんなに離れていない場所にギルドがあるとは言え、往復と確認の時間で半刻くらいは掛かる。その短い時間に雨に降られないとは思うが、備えはしておくべきなのだろう。
「なら俺がユウの護衛として一緒にいれば良いんだな?」
「ユウ、いつでも麻痺を行なえるようにしておくんだぞ」
「分かってるわ。大丈夫よ」
「ちょっ! 待てよ! ……まさか俺が一緒にいるから危険だとでも?」
「ユウは首から下だけを麻痺させることは可能かい? 魔法士なんて口が動けば十分だからな」
「そうね、出来るとは思うんだけど。うん、後で試してみるわ」
「だから待てって! 魔法士ってどう言う意味だ! いったい誰に何を試すつもりなんだよ!?」
もちろんソンジュとユウは、ワイトをからかっているだけの筈だ。……たぶん、きっと、おそらくは。
だが二人の目をよく見ると、ただの冗談だとも思えない。だからワイトは必死に抗弁している。
ソンジュは部屋を出て行く。ワイトをユウの傍に残したままで。
どうこう言いつつも、ワイトを信用しているのだろう。
ソンジュが部屋を出て少しすると雨音が聞こえ始めた。どうやら予想以上に早く雨が降り出したようだ。
たぶんギリギリでソンジュはギルドに辿り着いている頃だろう。
その雨音もすぐに激しくなっていく。気が付けば土砂降りと言っても良いくらいの音が聞こえてくる。
強風も相まって宿の外壁に雨を叩きつけているような音だ。
室内もいっそう暗くなっているようだ。
ワイトが燭台に蝋燭を幾つか立てて火を灯している。さすがに魔法を使って火を点けている訳ではないようだが。
確かにこれだと街道を歩むなんて出来ないわね、とユウは考えていた。
「こりゃ酷えな。落ち着くまでソンジュも戻って来れねえんじゃねえか?」
「……つまりワイトとしばらく二人きりになるってことね。こんなに激しい雨音だと、私が悲鳴を上げても誰にも聞こえないだろうからね。さてと。それじゃ首から下だけ麻痺させられるかどうか試してみようかな?」
「だから少しは俺を信用しろって! 俺だって手を出す相手は選ぶよ!」
「それって私には魅力を感じないってこと?」
「違えよ! 戻ってきたソンジュに殺されるような真似をする訳ねえだろ!」
「ふふふ、冗談よ。でもソンジュに義理立てて私に手を出さないのかあ」
「……なんだ、その笑みは。ああ、そうだよ。俺はソンジュに惚れてんだよ。下手な真似して嫌われたくねえんだよ。それに護ると誓った相手を自ら害する気なんてねえさ」
「どうしてそれをソンジュに向かって言わないの?」
「はあ? 見ていて分かんねえのかよ! ソンジュは俺なんかに見向きもしてねえだろうが!」
「え!? 気付いてないの!?」
「何にだよ?」
うわあ。鈍感系って本当にいるんだ。私にだって分かるのに。
ソンジュは自分の気持ちを認めようとしていないし、ワイトは表面だけを見ていてソンジュの変化に気付いていないみたいだし。
ああ、これは進展しないわね。って言うか、二人共世話が焼けるわね。
私がどうにかしないといけないの?




