67.癖みたいなものだから
ソンジュは浴槽から掬った湯を身体に掛けている。その姿も片膝ついた体勢で様になっている。
ユウもそれに倣って同じように浴槽の湯を身体に掛ける。そして小さな驚きの声を上げる。
「どうした、ユウ? 何をそんなに驚いているんだい?」
「いえ、その……このお湯って……ぬるくない?」
「そうかな? どこの浴場でもこんなものじゃないかな? どちらかと言うと熱い方だと思うのだが」
あああああ! そうよ! 忘れていたわ! 四十度を越えるような熱いお湯を好むのって日本人くらいじゃない!
彼が教えてくれたでしょ。日本人以外だと四十度のお湯ですら熱湯風呂のように感じるって。逆に日本人なら四十度だとぬるいって思うでしょうけど。
日本以外では温水プールと同じくらいの温度で、熱くても体温と同じ程度のお湯だって言ってたじゃない。
ええと、このお湯って体温くらいかな。三十六、七度ってところでしょ。ぬるいお湯に長時間浸かるって事なのかな?
それから脱衣室の受け付けに荷物を預けた時に手渡された品々は、手拭いと貝殻に満たされた「何か」ね。
固めのクリームのようなこれは石鹸かな。軟石鹸と呼ばれる物でしょ?
だけどあまり強い臭いはしないわね。たぶん動物性油脂ではなく植物性油脂を原料に鹸化しているんだろうな。この温帯の地だとオリーブオイルかな?
さすがに高級な浴場だけはあるわね。この石鹸って高価じゃないの? 手作業で植物の実から油を絞るんだろうから。
たぶん安いところだと獣脂で作った石鹸なんだろうな。臭いもきつくて、身体を洗っているのか汚しているのか分からないような。
貝殻に詰められた軟石鹸を半分ほど手拭いで掬って、身体に擦りつける。
現代日本の石鹸やボディソープのように泡立ったりはしない。それでも宿で拭っただけでは落ちない汚れを洗い流してくれているようだ。
ユウは身体を拭いながらホッと溜息を吐く。
やっぱりどんな石鹸であっても身体を洗うのって気持ちいいわね。
確か石鹸やソープを使わない入浴方法もあるって聞いたけれど、それは毎日湯船に浸かれる人だから有効なんでしょ。
お湯で濡らした手拭いで身体を拭くだけじゃ日本人には物足りないわよ。
ユウは石鹸で洗った身体を浴槽の湯で流していく。残りの軟石鹸で髪を洗う。
ああ、この時ほど髪を長く伸ばしていなかったのを感謝した事もないわ。長い髪には憧れていたんだけど、うん、やっぱりこれからも伸ばさないようにしよう。
コンディショナーもないから髪がゴワゴワしそうだけど、後でそんな事になっても構わないわ。髪が洗えるだけでこんなに幸せな気分になるなんてね。
ソンジュやワイトの話だと次に浴場がある街は王都だったかな? また数日は我慢しないとダメなのよね。
よーし、浴場のためだけにも王都を目指して頑張ろう。……何か目的が変わっているような気もするけれど気にしないわ。
横ではソンジュも同じように身体や髪を洗っている。
床には排水口なんて存在していない。代わりにいくつかの溝が掘られているようだ。そこから身体に掛けた湯は、端にある大きな溝に流れていく。
その先の壁際には小さな穴が穿たれて、そこから外に排出されているようだ。下水の処理もしっかりしているらしい。
身体や髪を洗い終えた二人は湯をかぶって石鹸を洗い流す。そして浴槽に浸かっていく。
ぬるいお湯だったが肩まで浸かったユウの口からは思わず声が漏れる。
「はあぁぁぁ……」
ユウのあまりに気持ち良さそうに上げられた声に、一緒に浴槽に浸かっていたソンジュが問い掛ける。
「どうしたのかな? そんなに気持ち良さそうな声を上げて」
「ああ……うん……気にしないで……これは私の世界の……私の国の人間の……癖みたいなものだから」
ユウはすこし間延びしたような声でソンジュに答えている。それほどリラックスしているのだろう。
蕩けきったような表情のユウにソンジュも呆れているようだった。
だけど湯に浸かって気持ち良さそうな声を上げるのは、日本人なら仕方がないのだ。魂に刻み込まれている習性なのだ。
その後もユウは数分ほど目を閉じてお湯を堪能している。それから両手を頭の上で逆手に組んで大きく伸びをする。
ふう。今の季節が春先で良かったわ。もし冬だったら、このぬるいお湯の湯船から出られなくなりそうだったもの。
でも改めて見てみると、浴槽もそんなに大きくないわね。六畳くらい?
今みたいにソンジュと私の二人だけなら問題ないけれど、人数が増えると狭く感じんるんじゃないのかな。
ああ、この浴場は高額だったわね。そんなに混んだりはしないんだろうな。
そして改めてソンジュの方に目を向ける。
ソンジュは手拭いを浴槽の縁に掛けているが、ユウは手拭いを畳んで頭の上に乗せている。まるで温泉や銭湯で見掛けるおじさんのようだ。
その行為自体は手拭いの置き場に困るからだとか、のぼせ防止だとかの理由はあるのだが。ただこのぬるいお湯でのぼせるとは思えない。
ユウにとってはぬるく感じるお湯でも、そんなに風呂に慣れていないソンジュには厳しいのだろう。肌がほんのりと赤くなっているようだ。
もちろんソンジュもユウもバスタオルを身体に巻いて隠したりはしていない。完全に全裸の状態だ。
ソンジュの傷一つない肌が火照って少し赤みがかっており、同性のユウでも思わず触れたくなってしまう。ユウは伸ばしそうになる手を必死で押し留めていた
「そんなに見詰められると少し恥ずかしいのだがな」
「あ、ごめん。やっぱりソンジュって綺麗だなって思って」
「ふう、やはりユウは誤解しているようだね。私がよく男に言い寄られているとでも考えているのだろう?」
「え!? 違うの?」
「ユウの世界ではどうか分からないよ。でも少なくともこの世界では、この身長の私は敬遠されているからね」
「えええ!」
うーん、確かに現代日本でも背が高い女性が敬遠されることもあるわよ。だけど産まれた子供が大きくなれるかもって逆にモテたりもするそうだけど。
小学生や中学生の男の子なら見栄やプライドなんかで避けたりしそうだけど、大人になってまでそんな考えの男性はいないでしょ?
それにお父さんだったかお母さんだったかに聞いたわよ。エルって呼ばれている大きな女の子の恋物語のアニメがあったって。
ワイトとならそんなに身長も変わらないんだもの。二人が並んでいるとお似合いのようにも見えるんだけど。
もっともワイトはあの軽い性格が問題なのかもね。
さすがにしばらくするとソンジュは浴槽から出てくる。ユウは変わらずに肩まで浸かったままだ。
「ユウは熱くはないのかい? ああ、そういえばぬるいと言ってたな。ユウのところだともっと熱いのかな?」
「ええと四十二、三度……じゃ分からないかな。お風呂はもっと熱いお湯が一般的なのよね」
「これより熱かったら茹でられているのと変わらないのではないのかい? ほんとに信じ難いな、ユウの世界と言うのは」
「あ、これは私の住んでる国だけよ。私の世界でも他の国の人だと耐えられないと思うわ」
「ふむ。そろそろ私は上がろうと思うのだがユウはどうする?」
「ごめん、私はもう少し堪能したいの。脱衣室で待ってってくれる?」
「分かったよ。だけどなるべく早く出てきて欲しいな」
そう言ってソンジュは浴室から出て行く。もちろん手拭いで身体を隠したりはせずに堂々と歩き去る。
ユウは一旦浴槽から出ると、今度は石鹸を付けずに手拭いで身体を拭っていく。ゆっくり湯に浸かって垢を浮かせて、それをこそぎ落としているのだ。
一週間近く風呂に入っていなかったのだ。本当は何度でも洗いたいのだ。
そして拭い終えて身体に湯を掛けると、再び浴槽に浸かりこんでいる。そのまま眠りそうになるのを我慢しながら、身体の各所の筋を伸ばしたりしていた。
四半刻くらい経った頃だろうか。ユウが浴室から出てくる。
それまで湯に浸かっていた時間も加えると、ユウは半刻くらいは浴室内で過ごしたのだろう。
ユウは脱衣室で預けていた荷物を引き取って、素早く着替えていく。もちろんソンジュが他の者からの目隠しの壁代わりになっている。
そして二人揃って浴場を出て行った。
外に出るとせっかく風呂に入ったと言うのに、女性用の入り口横の地面にワイトが座り込んでいる。
「遅えよ……なんで半刻も掛かるんだよ」
「いいじゃない。ワイトもゆっくり浸かっていれば良かったんじゃないの?」
「いや、今度ばかりは私もワイトを支持したいな。さすがに浴場に四半刻以上掛けるのは考えられないからな」
「えええ! お風呂で一時間、半刻くらい費やすのって普通! ……じゃないのよね、この世界だと。ごめんね、ワイト。待たせちゃって」
「まあ、いいさ。ユウの気も晴れたみてえだしよ。とりあえず宿に向かおうぜ。まだこの時間なら部屋は空いていると思うんだが」
「あ、ごめんなさい。先に宿で部屋を予約しておいた方が良かったわね」
「まあ仕方ねえよな。風呂でこんなに時間食うとは思わなかったからよ」
そして三人は浴場を後にして、ワイトの行きつけの宿に向かう。
後ろ髪を引かれるように浴場の方を何度も振り返るユウを、ソンジュもワイトも無視しながら。




