26.使え!
野生動物が火を怖がると言うのは実は迷信に過ぎない。
もちろん山火事などの極度に大きな炎に対しては恐れ慄いて逃げ惑うだろう。
だが焚き火や松明に灯された火くらいだと怯えたりしない。
野生動物が怯えているのは、焚き火の傍にいる「人間」に対してなのだ。松明を掲げている人に対してなのだ。
人間自体を、人間の持つ武器を恐れているのだ。
ワイトの造った炎の壁は野生動物にとっては山火事と同様の効果を発揮するかもしれない。少し触れただけでも大怪我を負う可能性が高いからだ。
なのにそれを無視するかのように炎に向かって飛び込んできたのだ。
現にワイトの炎の壁を越えてきたスプル達は毛皮を焼かれている。一部には未だに火が燻っている個体さえ存在していた。
だがその目はしっかりと標的となる三人を見詰めている。
いや、ユウだけは気付いていた。気付いてしまった。そのスプル達の目が自分だけを睨んでいることに。
ユウは思わず悲鳴を上げそうになるが、喉が引き攣っていて声が出ない。
なぜ!? なぜ!? なぜ、この魔物達は私「だけ」を見ているの!?
一番弱そうに見えるから? 一番楽に倒せそうだから?
だからって、あの炎に突っ込んでまで私を狙うの!?
ワイトは炎の壁を消しながら、別の魔法を使おうとしている。
既に炎の壁の向こう側に残っているスプルは一匹もいない。十匹ほどの全てのスプルが炎を無視して飛び込んで来たのだ。
もう炎の壁を残していても意味がない。
なんだよ、この魔物達は!? なんで炎を恐れねえ!? 突っ込んだら燃えちまうって判ってんだろうが!
実際突っ込んで来た全部のスプルが火傷を負ってるじゃねえか。身体に火が付いたままの奴だっているだろうが。
自分の身を危険に晒して、いや生命を捨ててまで、人を襲おうとするなんてありえねえだろ。
こいつ等本当にただのスプルなのかよ?
ソンジュの前にいたスプル達も、背後の炎に飛び込んだ仲間に合わせたように飛び掛っていく。
ソンジュに向かって、背後を除く全ての方向から。
だがユウのバフ魔法を掛けられているソンジュはそれらを難なく捌き続ける。
だがさすがに三方向から連続で襲い掛かってくるスプルのせいで、その場から動けないようだ。
なんだ、こいつ等は!? 死も恐れずに襲ってくる? どういうことだ?
野生動物がそんな真似する訳ないだろう。私に敵わない、傷一つ負わせられない事も分かってる筈だ。
まさか……足止めか!? 私が後方に、ユウのいる方に行けないようにしているのか!?
……こいつ等の目的はユウの生命を奪う事なのか!?
炎に突っ込んできた十匹程の内の半数以上のスプルは、一匹毎にその角を向けてユウに向かって突進してくる。
合間には風の刃を飛ばすスプルもいるようだ。
ユウもナイフは抜いている。いくら何もしなくてもいいと言われていても、武器くらいは手にしていたほうが良いに決まっている。
ただ彼女に近接戦闘の経験は無い。当たり前だ。普通の日本人女性にそんな経験をしている者がいる筈がない。
ユウは無茶苦茶にナイフを振り回していた。
だがユウに襲い掛かるスプルの方も万全でなかったのが救いだろう。
炎の中を進んで来たのだ。身体のあちこちが焼かれており、毛皮に火が付いたままのものまでいるのだ。自然に動きは鈍くなる。
突進してくる速度も遅くなるし、風の刃も狙い通りには飛んでいないらしい。
ユウは自分に敏捷性強化の魔法を掛けている。ソンジュに魔法を掛けた際に、自分にも魔法を掛けておいたのだ。
何かあった時にソンジュやワイトの邪魔にならないように。素早く動けた方が良いだろうと。いざとなったら逃げられるようにと。
それらが重なったおかげでユウは致命傷を負わずに済んでいた。
「我命じる。風よ。刃と成り我が示す方に進め」
ワイトも自分に向かってくるスプルに向けて、今度は風の刃を飛ばしている。
ただし呪文を必要とするためか、その魔法の発動する間隔は長い。
さらに炎の壁を造るのに魔力を使い果たしているのだろう。その風の刃の魔法は威力も弱く、命中率も低いようだ。
なんとか当ててはいたが、一撃で屠る威力はないようだった。
そしてスプルは幾度傷付けられようとも、向かってくるのだ。
なんなんだよ、こいつ等は! あのユウって女だけが目当てなのか!?
俺の方には三、四匹しか向かって来ねえ。ユウに向かってる奴の半分に過ぎねえだろ。馬鹿にしてやがるのか? 俺なんかその程度で十分だって言いたいのか?
……炎の幕に力を使い過ぎたか。あんなに高く厚くする必要は無かったか?
いや、そのおかげで炎に突っ込んで来たスプル達は焼け焦げてるんだろ。無意味だった筈はねえ。
だがそのためか風の刃の威力が落ちてやがる。差し引きとんとんってとこか。
しかし……あの襲撃者を刺して廻ったのはユウって女じゃなかったのか?
幾らなんでもナイフの振り方が無茶苦茶だ。新兵でも、もう少しはマシだぞ。
いや、新人冒険者なら仕方がないのか? ならばあの襲撃者達はソンジュが一人で倒したってのか?
ユウも動きは素早いみてえだが、それすらも訓練された動きじゃねえ。
完全に素人だ。偶然避けられてるに過ぎねえだろ。
あのままだと疲れでいつか倒されちまうぞ!
ワイトの危惧した通りになった。
無理矢理にナイフを振り回していたために腕が疲れたのだろう。ユウの動きが止まってしまったのだ。
そこにスプルが突っ込んで来る。
その鋭い角がレザースカートとレッグアーマーの隙間、太腿の布の衣服しか無い部分に突き刺さった。
熟練の冒険者や兵士なら避けられただろう。いや、駆け出し冒険者や新兵だって身体を捩って致命的な怪我を避けれたかもしれない。
だがユウには野生動物との戦闘経験も、それどころか対峙した事もないのだ。
スプルの角はユウの左脚の太腿の中央を貫いていた。
「イヤァァァァァ! 痛い! 痛い! 痛い!」
ユウの悲鳴が辺りに響き渡る。
ユウは必死になってナイフを直下にいるスプルの頭に突き立てる。何度も何度もナイフを振り下ろす。
ユウの顔には涙が溢れていて、その表情も苦痛に歪みきっている。
いつの間にかスプルは息絶えたようだったが、ユウはそれにも気付かずにナイフを振り下ろし続けている。
死んだスプルがずるずると崩れ落ちていく。そのスプルの鋭い角が、刺さった太腿から引き抜かれていった。
大量の血が太腿から溢れて、生成りのズボンをその血で染め上げていく。
そしてユウも立っていられなくなったのだろう。その場に座り込んでしまう。
もう立ち上がるのも、動くことすら無理だ。
顔を苦痛に歪ませたまま、ユウは再び悲鳴を上げた。
「ウァァァ! 痛い! 痛いよ! イヤ! もうイヤ! お願い! 助けて!」
ワイトは自分に向かって来るスプルを無視して、ユウに向かっているスプルを牽制するように風の刃を飛ばす。
そのおかげか座ったまま動けないユウに襲い掛かるスプルはいないようだ。
だがワイトも怪我を負っていっている。なんとか避けてはいるが、自分を襲おうとしているスプルを無視しているのだから。
致命傷こそ受けてはいないが、革鎧は何箇所も切り裂かれている。スプルが放つ風の刃にやられたのだ。
飛び込んでくるスプルの角によって、革鎧が深く抉られた箇所では血も流れているようだ。
それでもワイトはユウを囲んでいるスプルに向けて、必死に風の刃を飛ばし続けていた。
ソンジュも駆け寄ろうとするが、スプルの群れに阻まれて碌に近付けない。
もちろん何匹かは倒している。それでもまだ二十匹に近い数のスプルは怯えもせず、疲れもせずに連携して襲ってくるのだ。
スプルはその角をソンジュに突き刺そうとする。反対側からは同時に風の刃を浴びせてくる。
風の刃の威力は革鎧を引き裂くほど強くはない。
だからそれらは無視してユウの方に駆け寄ろうとする。だがそのせいでソンジュも傷付いていく。
いくら革鎧を貫通しなくても、その衝撃は身体に響くのだ。
そしてソンジュは叫ぶ。
「ユウ、使え!」




