16.見知らぬ天井?
日が昇る。朝になったのだ。
昨日と変わらずに空は澄み渡り、雲も薄くたなびく程度だ。
ソンジュは起き上がると窓辺に立つ。窓の外から朝の清々しい空気が入ってきているようだ。
見渡す先には街が広がっており、目の前の大通りでは幾人かの者達が忙しげに歩いている。既に明るくなる前から起き出して働いているのだろう。
そしてソンジュは室内を振り返る。
ユウはまだ寝ているようだ。その頬には涙の跡が窺える。元の世界の夢でも見ていたのだろうか。
少し躊躇いながらもソンジュはユウを起こす。
「おはよう、ユウ。もう朝だぞ」
「……うん……おはよう……あれ? ここどこ? 見知らぬ天井?」
「寝惚けているのかな? 私が誰だか、ここがどこだか、分かるかい?」
「……ソンジュ。あ! おはよう! そっか、ここって宿の部屋だよね」
「そうだ。大丈夫そうだな。ちゃんと理解できているようだな」
あー、残念。寝て起きたら元の世界だった、なんて事は無かったようね。
やっぱり元の世界に戻る方法を探す必要があるみたい。それとも何かを為さないと還れないのかな?
一晩寝たらすっきりしたみたい。うん、大丈夫。私はこの世界でもやっていける筈だ。そう、私は独りじゃないんだから。
ソンジュに連れられて共用のトイレに向かう。
トイレは一部屋だけで一畳ほどの空間しか無いらしい。
当然中には便器は一つしかない。用足し後に拭くためであろう葉っぱが数枚置かれている。
後は手洗い用と思われる桶が一つだけ置かれて、中には水が満たされている。
……この世界じゃ仕方ないんだろうけど……やっぱり辛いものがあるわね。
鏡も無いみたいだし、お化粧どころか顔を洗うことも出来そうにないわ。
バッグの中には歯ブラシや歯磨き粉だって入っているんだけどね。昼食後に歯を磨けるようにって。中華やニンニク入りの料理を食べた時のために。
たぶん毎日歯を磨く習慣なんて無いんだろうなあ。
「ねえ、ソンジュ。朝にもお湯を頼めるのかな?」
「うん? それはもちろん頼めるが……必要かな?」
「ええと、その。元の世界では朝起きたら顔を洗うのが習慣なの。あ、もちろん旅の最中にそんな事を求めたりしないわよ。でも宿なら可能かなって……」
やはりユウにも贅沢な事だと分かっているのだろう。発した言葉も最後の方は少し声が小さくなってきている。
ソンジュは少し呆れたような顔をする。昨晩に顔や手足は拭いただろうと考えているらしい。
「そうだな。私が貰ってこよう。ユウは先に部屋に戻っていてくれるかな?」
「分かったわ。迷惑掛けてごめんね」
「構わないよ。ユウは相棒だからね。出来る限りの事はするよ」
「私は何も返せないんだけど……」
「言っただろう、パーティーだと。仲間内で貸し借りを気にする必要は無いさ」
ソンジュはそう言うと受付に向かって歩いていく。ユウはソンジュの言う通りに部屋に戻っていった。
それからしばらく待つと、お湯の満たされた桶と空の桶の二つを持ったソンジュが戻ってくる。
宿の部屋の中に排水溝がある訳がない。汚した水を受ける桶が必要になると考えたのだろう。
ユウは持ってきて貰ったお湯で顔を洗い歯を磨く。さすがに歯磨き粉を使うのは駄目だと思ったのだろう。歯ブラシには何も付けずに口に入れていた。
それからコンパクトを取り出しその鏡で自分の顔を確認する。
さすがに化粧をする気は無い。そもそもバッグの中には化粧直し用のコンパクトや口紅くらいしか入っていない。
さすがに化粧水や乳液も付けずに、ファンデーションなんかを塗る気はユウにもないらしい。
本当は昨夜も歯を磨きたかったんだけどね。さすがに日が沈んでから、二回目のお湯を頼める筈もないし我慢したわ。
今だってソンジュは棒を口に入れて何をしてるのかと思ってるんだろうなあ。それも見たこともない「プラスチック製」の棒を。
下着は乾燥してたわね。たぶん日本より乾燥してるんだ。春先の今でも日本の冬より乾燥してるのって、どういう気候区分なんだろう?
私は乾燥肌じゃなかったのが幸いね。
ソンジュはそんなユウの様子を驚きながらも面白そうに見ていた。
「その鏡は凄いな! そんなにはっきり写る鏡なんて初めて見たよ」
「元の世界では最小サイズの鏡なんだけどね」
「最小!? もっと大きな鏡もあるのか?」
「えーと、全身が写る鏡が私の部屋にはあるんだけど……」
「全身!? 本当にユウの世界は驚きだな!」
やっぱりこの世界だとこんな鏡ですら貴重品なのね。
ソンジュも鏡って事は分かってるみたいだから存在はしているんだろうけど。
窓から察するに平面状のガラスは無いみたいだから、たぶん金属なんかを磨いて写るようにした鏡なんだろうなあ。
「旅の道中は水なんかどうしてるの?」
「昨日も言ったと思うが宿で売ってもらうよ。この湯を貰う時に告げてある。たぶん湯冷ましが用意されている筈さ」
二人は身支度を整えて部屋を後にする。
受付でコンシェルジェの男性に挨拶をする。
既に湯冷ましが満たされた桶と、それを汲むためのコップが受付の男性の手元に用意されていた。ソンジュはコップを用いて竹筒に湯冷ましを入れていく。
不意にソンジュの袖が引かれた。ユウが引っ張っている。
ユウは何も言わなかったが、ソンジュはその表情から言いたい事を察したのだろう。桶とコップをユウに渡した後で覆い被さるような姿勢をとる。
まるで受付の男性からユウを隠すように。ユウの行う事を見せないように。
ユウは背嚢に入れたバッグからペットボトルを取り出して湯冷ましを注ぐ。
その透き通るように透明なペットボトルを見たソンジュは小声で言った。
「街を出た後で良いが……その水筒についても聞かせて欲しいな」
「……うん」
最後にソンジュは受付の男性に告げる。
「良い宿だ。安心して休めたよ。あのギルドの職員が言った通りだった。私も他の冒険者にこの街に来たら泊まるように勧めるよ」
「ありがとうございます。その言葉がなによりです」
「料金はこれで足りるかな?」
そう言いながらソンジュは受付の男性に代金を差し出す。もちろん幾らか割り増しをしてだ。
受付の男性も何も言わずに受け取る。当然サービスへの感謝が含まれているのだろう。だが、それ以上に口止めの意味があることも分かっているのだ。
たぶん彼女達は二度と訪れる事は無いだろう。この宿に、いやこの街にも。
それでも受付の男性は二人に向かって、にこやかに告げる。
「またのお越しを心からお待ちしていますよ」
ソンジュはその言葉に軽く微笑む。ユウも分かっているのだろう、少し苦笑じみた笑みを浮かべる。
そして二人は宿を後にした。
「まず朝食を取って、それから換金屋に向かおうと考えているのだが」
「裏のって言ってたよね。ソンジュもこの街は初めてなんでしょ。そんなに簡単に見つかるの?」
「まあね。なんとなく臭いで分かるのさ」
「換金屋ってそんなに幾つもあるの?」
「そうだな。大雑把に分けると三つってところだね。まず一つは高級品、家一軒の対価が用意できる店だな。そういった店はバックに領主や貴族がいるんだ。だからすぐに大金が用意できる」
「その店だと不味いの?」
「バックに筒抜けだからね。もしあの紙片を見せれば、即座に貴族やらに通報されるさ。そして招待と言う名目での拉致監禁になるだろうね」
「……うん、それは駄目ね」
やっぱり封建制の世界なのね。貴族が絶大な権力を持ってるんだ。
目を付けられたりしたら問題になりそうだもの。その店での換金は無しね。
「もう一つは少しグレイな感じかな。盗品も扱ったりするんだよ。とは言え、特定のバックがある訳でもない。せいぜい家族が半季過ごせる程度の額までしか用意できないだろう」
「千円札……ううん、あの紙片の価値が分かっても対価が払えないって事?」
「その通りだよ。普通の冒険者が通う店と言っても良いだろうね」
ちょっとその店は覗いてみたいわね。興味があるもの。
でも私が持っている物の換金には向かないみたい。この街では縁が無かったと諦めるしかなさそうね。
「最後の一つだが裏や闇の組織がバックにいる。資金はそこから出ているんだ。最初の一つと同じ程度の額なら出せるだろう。まあ買い叩かれる事も多いのだが、貴族や王族など表には伝わらないだろうね」
「え!? でもそれってその組織に付け狙われる事にならない?」
「大概の裏組織は他の街とは繋がりが無いよ。だから別の街に入ってしまえば問題はないさ。隣街までの道中に襲ってくるかもしれないが、まあ私なら返り討ちも容易いだろう」
「……本当にソンジュって自信家よね」
「単に事実を述べているに過ぎないんだが……」
なるほどね。現代地球産の物を安全に売れる相手ってその店しかないようね。
仮に買い取った千円札を貴族なんかに売り渡すにしても、その入手先を教える訳ないもの。私達と直接交渉なんてされたら無意味になっちゃうからね。




