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王弟と先進地帯。悪魔の子らと神の寵児。

 千年王国歴千十四年十月十一日。同じく戦乙女歴十四年十月十一日。

 王弟ギーゼルヘルが三百名の騎士たちと共に立憲君主制度を保つネーデルランドに亡命したのはザクセンの支配拠点王弟の館が落とされて三日後のことだった。そして攻囲を受けるブルグント城にもその一報が伝わっているであろうことは確実だった。その噂は大いにブルグント城の士気を下げたはずだった。ザクセンの悪魔と契約者たちによる陥落。その一報はネーデルランドにも衝撃を持って迎えられた。この一朝の有事でネーデルランドにおいてもついに悪魔の領域と国境を接することになってしまったのだ。ネーデルランド王国。現在の君主ジークフリードの父、ジゲムント王の代に立憲君主制となっている。神の千年王国の崩壊はニーベルンゲンに深い爪痕を残したが、このネーデルランドは千年王国の崩壊とは無縁の繁栄を誇っていた。立憲君主制となって三十年を数えるネーデルランドは、羊毛を用いた毛織物を主産品とした産業革命と三圃制から輪作に移る農業革命と神の遺物の解析の実施による魔道革命が起こりつつあった。王弟ギーゼルヘルはこの地で不覚人との不名誉な称号を賜りながら胸に心痛を抱える身を抑え必死の政治運動を行っていた。ジークフリード王は当代最高の聖騎士であり、悪魔に対する最も強硬な交戦派だ。彼は神の寵児であり、最後の奇跡を受け継ぐものだ。噂によると彼は最初の契約者のように、王弟ギーゼルヘルにとり憎むべきヴァレンシュタインと同じように死なず、老いぬという。伝承学者に言わせると当代最高の聖騎士ジークフリードの誕生は神が用意した最後の奇跡だと言う。王弟ギーゼルヘルの見るところジークフリード王は国民に愛されていた。だが、国民を代弁する立憲君主制の議会の過半数を超える共和主義者たちが平和を望んでいた。彼らは悪魔とも異教徒と同じく協定が成り立つのだと考えていた。今や鎧を脱ぎ去りキュロットに身を包んだ王弟ギーゼルヘルにとってその考えは極めて異質なものだったが、彼は我慢して共和主義者エラスムスに接近した。議事堂の一室でテーブルを囲む相手、スーツで身を包んだ壮年の紳士エラスムスが最初に発した言葉は王弟の胸をえぐった。

「神槍ロムルスを失うとは。呆れて物も言えぬ。ニーベルンゲンの人間はまるで分かっていない。ひどい失態ですぞ」

 王弟ギーゼルヘルはここ数時間の内に何度となく浴びせられるその非難の度にヴァレンシュタインの挑発するような言葉が胸に湧きあがりむかむかする。だが、彼は国のために耐えた。

「エラスムス。あなたがた反戦派にとってはどうでもよいことでしょう」

 当てこすりが表に出る。共和党左翼の代表にして枢密院議長のエラスムスが嫌な顔をする。王弟ギーゼルヘルを見る目が明らかに偏見に満ちた。不覚人。その眼が王弟に向かってそう言っていた。

「あなたはまるで分かっておらんのだ。悪魔たちはあなたたちニーベルンゲン国の人間が思おうよりずっと狡猾で知と魔術に長けている。神の遺物をやつらに渡してはならぬのだ。なぜならその度に我々人が受け継ぐはずだった奇跡が悪魔の下で魔術として解明されてしまうのだからな」

 エラスムスは反戦派だったが、同時に軍事革命を推し進める魔道学者であり、近代魔道産業の旗手でもある。彼も王弟ギーゼルヘルの苦悩が分かっていないはずが無いのだが、彼自身のより深い苦悩をぶつける先が、たまたまこの亡命者の不覚人に当たってしまっただけだった。

「とにかく、私は、ジークフリード閣下に出陣の要請を願いに来たのだ。あなたたちが反対さえなされなければ…」

 王弟ギーゼルヘルの言葉にエラスムスが戸惑う。彼は心底から呆れていた。エラスムスはこの不覚人の目を覚まさせる方法が無いことを悟らざるを得なかった。

「あなたは我がネーデルランドに何の見返りを与えることが出来ると言うのだ。今、ザクセンを失ったあなたに何ができると言うのだ。神槍ロムルスを失ったあなたに何が提供できる。我々が悪魔に対して手をこまねいているなどと考えるな。我々は」

 エラスムスが言葉を切った。それ以上は機密に当たることだった。この不覚人は秘密を共有するに足らない人間だとエラスムスは見切った。この不覚人にこれ以上の情報を与えれば王弟ギーゼルヘルは何の気なしに口から漏らしかねない。

「エラスムス。ただ、我々はすがることしかできません。同じ神を抱く一人の人間として私はあなたがたに助けを求めるのです」

 もうエラスムスの頭の方がついていけなかった。

「貴殿は何時の時代の人間だ」

 そう呟いた瞬間、エラスムスはふとジークフリード王のことを思い浮かべていた。頭痛が余計にひどくなった。この不覚人を王に合わせることだけは避けねばならなかった。あの当代最高の聖騎士にして我らが君主には未だにどこか稚気がある。子供じみた英雄に憧れる欠点があった。王弟ギーゼルヘルにはもはや力も知恵も政治力も無い。だが、ジークフリード王にはそれがあった。王は約束を反故にしかねない。エラスムスはもしもの時のために最新鋭の対悪魔マスケット部隊、十個大隊に訓練を行わせることを決定させており、そのことはジークフリード王も知っていた。何せ、当代最高の聖騎士たるジークフリード王一人に対してネーデルランド軍の総軍、十個大隊が訓練を行っているのである。あの王のことを考えるとエラスムスはひどく誇らしく、同時にひどく憂鬱になる。彼は魔道学者だった。いつかはあの王の奇跡の秘密にも手を付けねばならないだろう。それは、ひどく背徳的で、背教的なことに感じられた。エラスムスはほとんど信仰心を失った今でさえそう思うのだ。

「王弟ギーゼルヘル。私は今の時点、悪魔と契約者たちに向かって宣戦するのは反対だ。悪魔と対峙すれば、奇跡に恵まれなかった人間の一分は容易く背約するだろう。彼らに自由を与えなければならない。さもなければ悪魔たちとの戦いは自壊するだろう」

 共和主義者エラスムスの考えが変わりそうもないと見て取った王弟ギーゼルヘルはその細面の美しい顔にひびを入れながら、思わず一言だけ漏らしていた。

「悠長なことを。このままではブルグント城が陥落します。ニーベルンゲンはその歴史を終えることになるでしょう」

 共和主義者エラスムスは感慨深げに、返答を返す。

「ブルグント城にはクリエムヒルトとブリュンヒルドがいる。そうそう落ちはせぬ」

 返答を返しながら、その実、エラスムスはまさにその時を待っていた。彼はニーベルンゲン国が悪魔に完璧に占領されるか、それに近い状態になるまで待つつもりだった。共和主義者エラスムスは時を計っていた。ザクセンは落ちた。アンザスも、ロレーヌも落ちている。数え上げればきりがない。ニーベルンゲンの広き大地の三分の一ほどが悪魔の手に帰していた。

「ブルグント城が健在な内に何とか援兵を出していただきたいのです」

 王弟ギーゼルヘルの義侠心も、仁政も、ザクセンを失った不覚人という不名誉な称号の前には無力だった。

「見返りは?」

 壮年たるエラスムスがコツコツとテーブルを指先で呟いた。

「悪魔との共闘に見返りが必要ですか?」

 王弟ギーゼルヘルは困惑する。ネーデルランド王国にやって来た彼は全ての面で自らを捨てなければならなかった。神の敵たるものは全ての人間にとって敵のはずだった。だが、このネーデルランド王国は、見返りを欲しがっている。

「話にならんね」

 そっけないエラスムスの態度に、王弟ギーゼルヘルは最後の手を切った。

「ではニーベルンゲンとネーデルランドの同盟もこれまでと言うことだ。我々は悪魔に魂を売るだろう。そして次はネーデルランドの番だ」

 王弟は地の底から響くような声で言った。エラスムスの眉がピクリと動いた。この王弟ギーゼルヘルについた不覚人という不名誉な称号が役に立った。エラスムスにはこの不覚人が本当に悪魔に魂を売りかねないと写っていた。ニーベルンゲンは広い。エラスムスの予想ではかの土地全てが悪魔の手に落ちた後からでも勝てる戦いとなるはずだった。だが、それは悪魔がニーベルンゲンを滅ぼすことを前提としていた。ニーベルンゲンが悪魔に降伏し魂を売ることは想定の外にあった。

「これから軍事演習中のジークフリード王に会いに行く。共に来られるか?」

 エラスムスは折れた。今戦うか、将来戦うかのどちらかに過ぎないのなら、敵の勢力が小さいうちに戦う方がいい。別段、相手が悪魔であるからそう言うのではない。統一された強固な国家が隣にあると言うだけで脅威なのだ。逆に言えばこの王弟ギーゼルヘルを筆頭とするいつの時代の遺物ともしれぬ旧時代の聖騎士共が支配している間は安泰だと言うことだ。

「では、共に参りましょう」

 エラスムスが紳士として最低限の武装であるリボルバーを胸ポケットに押し込んだ。テーブルの置かれた部屋を飛び出るエラスムスに王弟ギーゼルヘルが従っていく。大理石で作られた議事堂の一室を抜け、二つの影が議事堂の廊下を歩んでゆく。議事堂を出ると二人して馬車に乗り込む。王弟ギーゼルヘルにとってその馬車は最悪の乗り心地だった。そしてそのことが王弟に今最悪の相手と共に乗車していることを思い出させる。反戦派の首魁エラスムスは、政治的に王弟などよりずっと擦り切れている。やはりギーゼルヘルの頼みの綱はジークフリード王その人だけだった。王その人にさえできないことをよそ者の不覚人であるギーゼルヘルがやろうとすること自体が、既に滑稽を通り越して悲劇だった。馬車に揺られて一時間ほど行ったところだった。その間、エラスムスに向かい王弟ギーゼルヘルは何度となくすがり着く様に陳情した。だが、全ては無意味なことだった。彼が言うには、今のネーデルランド人は誰も死にたくはないのだそうだ。例えそれが神の名においてなされる戦いであったとしても。ギーゼルヘルは吐き気を催していた。それは共和主義者エラスムスの煮え切れぬ態度に対してであり、馬車の揺れに対してだった。更に三十分が経過したころのように思う。停まった馬車の中で壮年の紳士が声をあげて立ち上った。エラスムスに促されるようにギーゼルヘルも馬車の階段を下りる。

 そこにあったのは一面の人と硝煙の群れだった。

「第一大隊構え。撃てーっ!」

「第二大隊玉を込めろーっ!」

「第三大隊斜角をそろえろーっ」

「第四大隊塹壕から各々狙撃せよーっ」

 人の群れから叫び声が上がるたびに、一瞬遅れて轟音や、破裂音が広がって行く。ネーデルランドの対悪魔マスケット部隊と砲兵隊の演習こそがこれだった。ギーゼルヘルは全てが狂っているようにしか思えなかった。ニーベルンゲンではまだ火薬兵器すら満足につくれていないというのに、隣国ネーデルランドは火術戦術を実戦投入しようとしている。エラスムスが満足そうに笑うのが見えた。ギーゼルヘルは打ちのめされていた。同時になぜネーデルランドが救援の要請を断り続けたのか理由が分かったように思えた。兵器の革新が起こっていたのだ。この戦術的火術の運用は、物理的打撃に弱い悪魔たちに効果的だろう。同時に、ギーゼルヘルは城や館を頼む戦術が終わったことを知った。騎士たちの時代の終わりを知った。演習はとどまることなく続けられていた。だが、ギーゼルヘルは人の群れが相対するもう一方の相手を見ていなかった。この実戦演習は、一人の男を相手にしたものだった。当代最高の聖騎士ジークフリード王と共和主義者たちの熱烈さが織り成す戦意を持つ未来を乗せた兵団の実戦演習だった。硝煙の煙が舞う戦場でエラスムスが言った。

「見るがいい。ギーゼルへル。十個大隊の火力を持ってしてもジークフリード王一人に傷もつけられぬのだ。これこそ我らが陥っている現状だ。汝も分かるだろう。我々は勝算の無い戦いはやりたくないのだ」

 千を超える銃弾が壁に阻まれたかのように、空中でその影を射抜かれて停まっていた。その千を超える銃弾の的が、当代最高の聖騎士が悠々と歩みを進めていた。当代最高の聖騎士。立憲君主ジークフリードその人だ。銃弾が向きを変え、地面に向かって突き刺さった。その上をゆったりと歩むのは金色の鎧に、金色の兜をかぶった時代を外れてしまった怪物だった。その手に握られるのは銃だ。噂に名高いジークフリードに与えられたという神の武器だ。連装式神銃ユピテル。短時間の内に行われる物質錬成と極短波の集積を可能にするため意図的に重力半径を崩したという無限に撃てるフルオート銃、連装式神銃ユピテルだ。大隊が陣形を作り、銃撃し、狙撃し、砲を撃つ。だが、その全てが無意味だった。ジークフリードが、的が、悠々と第一防衛線を突破する。多くの大隊が下がり始めた。砲兵隊。銃撃部隊が下がり、塹壕からの狙撃戦となる。猟犬に与えられた対悪魔狙撃銃がジークフリードの空間歪曲を貫通し、そのいくつかが王の頭を軽く撃った。コツンという音が響いて銃弾が割れる。それだけだった。王はゆうゆうと第二防衛線を突破した。銃撃隊が銃剣で持って突撃を始めていた。銃剣突撃に対してジークフリートの片手が持ちあがり、銃の照準が当たったことを可視光線で告げて行く。ばたばたと訓練上死亡者扱いにされた銃剣突撃者たちは、だが、それでも二名ほどジークフリード王に接近した。王が銃でふさがっている利き手をそのままに、空いた手でサーベルを振り回し銃剣を受け止めた。訓練だから仕方ないが、サーベルの柄で突撃隊員の腹を打ち、首筋を撫でる。その間僅かに一秒。銃剣突撃を仕掛けた七百名が死亡扱いになるまで五分とかかっていない。ゆうゆうと歩み続ける王が最終防衛線を突破し、ジークフリードが持つ連装銃の射程に砲兵隊が入った時点で演習は終了となった。

 王弟ギーゼルヘルは衝撃を受けていた。悪魔はヴァレンシュタインを準備した。だが、神はジークフリードを残したまわった。それなのに。なのに、ギーゼルヘルは胸に湧きだすどす黒い感情を隠しきれずにいた。彼はその時、何に祈ればよかったのだろう。このような不公平を作り出した神に祈ればよかったのか。それとも…。あるいはその時からすでに彼は悪魔に魅入られていたのかもしれない。

 部隊が再整列し、点呼が始まっていた。それが終わると金色に輝くジークフリード王の演説だった。

「諸君。我々は悪魔や契約者、そして異教徒どもと戦わねばならない。今日の実戦訓練で分かって貰ったとは思うが、諸君の戦力では、ワルキューレや契約者と戦うとなると、まるで足りない。神の遺物を調べ、魔道研究は進展しつつあるが、時勢の方が待ってはくれない。我々が戦う日は近い。諸君。我々は断固としてネーデルランドの一欠片の領土も渡さぬし、ミズガルズ大陸には一人の背約者さえも許してはおけぬ。偉大なるミズガルズ大陸に、神の千年王国に、ネーデルランド王国に栄光あれ!」

「「栄光あれ!」」

 斉唱された言葉が、興奮が、高揚が、軍を包んでいた。兜を取ったジークフリードが金色の髪に金色の瞳を輝かせながら、騎馬に乗ると、解散の号令を出した。馬が走りだした。やがて独歩行が数百メートルほど進んだところで、ジークフリードがエラスムスと彼の馬車に気が付いた。そして壮年の紳士エラスムスの元へと、密かにどす黒い嫉妬に駆られた王弟ギーゼルヘルの元へと英雄はやってくる。当代最高の聖騎士、英雄ジークフリードと連装式神銃ユピテルがやってくる。

「エラスムス? こいつは?」

 砕けた口調でそんな言葉がもれてくる。

「ニーベルンゲン国の王弟ギーゼルヘル殿です」

 エラスムスの返答にジークフリードの表情が一瞬の間に険しいものになり、何か言いかけたが、やがて締まりのないにやにやしたものに戻って言うべきことだけを言った。

「ほう。神槍ロムルスを与えられたという王弟か。それで王弟殿、神槍は?」

 ギーゼルヘルは、この英雄の前でまた同じ言葉を繰り返さねばならぬのかと思うと恥辱と怒りで真っ赤になっていた。

「ヴァレンシュタインに奪われました」

「奪われただと。神の遺物を、か。何とたわけたことを」

 ジークフリードが責めるような口調でそう言うのを聞きながら、王弟ギーゼルヘルは恥辱にまみれていた。もし、自身にジークフリードのような力があれば、そうであれば、恥辱が彼を誘惑した。

「面目ありません」

 ギーゼルヘルは頭を下げるしかない自分が嫌だった。

「それにしてもヴァレンシュタインか。元農奴にして最初にして最大の契約者とは聞いているが。聞いてはいるが、だ。それにしても、惜しいことだ。これでは、我が曾祖父が聖剣バルムンクを失った時の二の舞だぞ。神槍があればどんな強力な契約者でさえ討つことができたものを。あたら悪魔どもの研究材料になってしまうとは」

 金色の聖騎士、ジークフリードがどこか遠くを見るように感慨深げに言った。ジークフリードを見上げるギーゼルヘルは本当のところ恥じ入るということがどういうことなのか知らなかった。彼はかつて資質ある領主で騎士だった。神槍ロムルスを預けられた王家に連なる希望の騎士だった。彼がもっとしっかりしていれば、ヴァレンシュタインを討つことでさえ可能だったのだ。ジークフリードの言葉端を捕えて言うならば、そういうことだったのだ。彼は機会を逃した不覚人だった。嫉妬に狂い、悪魔に誘惑されかねない弱い人間だった。だが、それでも、彼は失ったものを取り戻さなければならない。

 与え、奪え。さすれば讃えられるだろう。ため息の数だけ与え、喜びの度に奪え。さすれば讃えられるだろう。呪いの言葉の度に与え、祝福の言葉の度に奪え。さすれば讃えられるだろう。

「もし、神槍を取り戻せたなら、私でも、ヴァレンシュタインを討てるでしょうか?」

 ギーゼルヘルは奪われた。だから喜びの度に奪われるだろう。だから祝福の言葉の度に奪われるだろう。彼の機会は奪われた。だから彼の希望はやはり奪われるだろう。王弟ギーゼルヘルは資質ある領主で騎士だった。今や、彼の持ち金は三百名の亡命騎士とジークフリードが主戦派であるという事実だけだった。ギーゼルヘルの持ち金は奪われる一方だった。頼むべきネーデルランドの立憲君主ジークフリードの返答さえ今や、彼から高慢さを奪うだけのものに過ぎなかった。

「それは無理だな。噂によるとあの最初で最大の契約者は不死の契約を結んでいる。ただでさえ契約者はやっかいなのに、噂の通りにあの農奴の結んだ契約のことを考えればぼ無敵だろう。やつに血を流させるのには神の奇跡がかかった遺物が必要だ。ギーゼルヘル。お前にも機会があった。だが、生かせなかった。奪われたものを取り戻すにはより大きな力が必要だ。例えば、私の連装式神銃ユピテルを用いればあるいは神槍ロムルスは取り戻せるかもしれないが、その場合、貴殿は私に対価を払わねばならぬ。私は貴殿には決して払えぬものを要求するだろう。つまり、返さぬというわけだ。はーっ、はーっ。ははは…っ。ま、ゆっくり滞留したまえ。ネーデルランド王国は貴殿らを歓迎するよ」

 ギーゼルヘルは呆然としていた。立憲君主ジークフリードは明確な主戦派だった。そして典型的な資本主義者であり、生粋のネーデルランド人だった。ギーゼルヘルはこの短い滞在で彼らネーデルランド人のことを嫌と言うほど知らされた。彼らは常に対価を欲する。対価なしでは何も始まらないのだ。書簡を通じては到底分からない現実がギーゼルヘルとジークフリードの間に横たわっていた。救いは西から来る。だが、その対価は何を持って成せというのだろうか。

「ジークフリード閣下。ブルグント城は風前の灯にあります。我が姉クリエムヒルトとブリュンヒルドはミズガルズ大陸の希望です。神の再臨は奇跡の担い手の中の奇跡の担い手たるあの二人にしか成しえません。どうかニーベルンゲンの国を憐れみ下さい。ジークフリード閣下!」

 ギーゼルヘルの胸にぽっかりと穴が開いていた。彼の上滑りする軽い言葉は確かにジークフリードの耳に入っているのだろうか。ギーゼルヘルは戸惑い、胸やけに苦しんだ。当代最高の聖騎士を前にして私は狂ってしまったのだろうか。ギーゼルヘルは到底受け入れることのできない現実に打ちのめされていた。

「ブルグント城か。あれが落ちればニーベルンゲンの国は悪魔に支配された国として周辺諸国に蹂躙されることだろうなあ。我が国はニーベルンゲンの国とは永世の同盟関係にあるが、悪魔に支配された背徳の大地となれば話は別となるであろうなあ。なあ、エラスムス。そうは思わぬか?」

「御意」

 漆黒のスーツに身を包む魔道学者エラスムスは、この金色に彩られた立憲君主との二人三脚を比較的上手くこなしている人物だった。彼ら二人の間では既に了解が成り立っていたのだ。ブルグント城が落ちたならニーベルンゲンを悪魔の国と断定し、周辺諸国と共にニーベルンゲンに侵攻する。それは魔道学者エラスムスにとっては自明なことであり、より強大な敵を求めるジークフリードにとっても自明なことだった。この世界では、誰もが血に飽かない。英雄ジークフリードは血と名誉を求めていた。魔道学者エラスムスは血と国益とを求めていた。ギーゼルヘルは何を求めていたのだろうか。彼はその日過去と決別した。ギーゼルヘルはその日から血と復讐を求めるようになった。それは悪魔と紙一重のところに身を置くと言うことだった。神の千年王国は確かにその日一人の中で終わりを告げた。神の千年王国は忘れ去られて行くだろう。デウス・エクス・マキナは死んだ。この血に飽かぬ世界で奪われたものは奪い返さなければならないのだ。さにあらざれば、喜びの度に奪われるだろう。祝福の言葉の度に奪われるだろう。力が全てであった。

「ブルグント城か。確かに過去は偉大ではあるが。だが、あの最初にして最大の契約者が本気になればあのような前近代の要塞は三日と持つまいよ」

 ジークフリードがぽつりと漏らした言葉はギーゼルヘルの憎悪を煮えたぎらせた。彼は今や悪魔とヴァレンシュタインを憎んでいるのか、それとも、自身が最後の希望だとすがっていたものを憎んでいるのかもはやわからなかった。

「ニーベルンゲンは滅ばぬ。何度でも蘇るさ」

 ギーゼルヘルが冷徹な声で千年王国が始まるころから伝えられている伝説を口にした。エラスムスは嘲笑し、金色の騎士ジークフリードが慰めるように言った。

「だとよいな。客人よ」

 その日から二日後ネーデルランドは臨戦態勢に移行した。表向きは王弟ギーゼルヘルの要請を受けた援軍ということになっていたが、事実はニーベルンゲンへの侵攻への備えが目的だった。血に飽かぬ戦いが幕を開けようとしていた。

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