王弟の没落
千年王国歴千十四年十月八日。同じく戦乙女歴十四年十月八日。
王弟ギーゼルヘルは八名もの騎士を失った。事態は深刻だった。ヴァレンシュタインはただの寒村だと思っていたが、王弟ギーゼルヘルや騎士団にとってかの地は最初期の教会を保存した、王室発祥の地と言われる守るべき重要拠点の一つだった。あの最古の教会の一つが火の粉をあげることを王弟ギーゼルヘルは領内の警備中に絶望的な思いで見たのだ。王弟ギーゼルヘルはその端正な顔に深い絶望を刻みながら、重苦しい鎧を支える力さえ失いかけて領主の座る最上段の席から、直立した筋骨たくましい不敗を誇る騎士ダンクワルトと、若く力ある騎士オルトウィーンを見下ろして、遅々として進まない会議に苛立っていた。
昨年の秋も収穫は少なかった。王弟ギーゼルヘルは仁君だった。徴税の手を抜いた。ゆえに今、彼は国家の一大事であるブルグント城の攻囲戦に駆けつけることができない。王弟ギーゼルヘルは騎士ダンクワルドとオルトウィーンと共に策を練っていた。王弟ギーゼルヘルが号令をかけ、ブルグント城へ駆けつけるとさえ言えば、兵の二千や三千は直ぐに集まるだろう。問題は金と食糧だった。ニーベルンゲンの国は、国中が呪われたかのようにここ十数年間、例年のように不作なのだ。かつて蔵に山のようにうなっていた食料もほとんど尽きかけているし、高く積み上げられていた財宝もそれが自然でもあるかのように離れて行った。王弟ギーゼルヘルの苦悩は濃い。偏頭痛が彼を襲っていた。若き王弟はその資質により、ニーベルンゲンで一、二を争う要衝ザクセン地方を任されている。だが、結局のところ王弟ギーゼルヘルの立場もブルグント城と奇跡の担い手たる姉クリエムヒルトあってのものだ。この王弟はかつて神に選ばれていた奇跡の担い手クリエムヒルトの祝福を受けていたのだから。ギーゼルヘルの苦悩の色は濃い。ブルグント城の攻囲を解くために隣国ネーデルランドの元首にして当代最強と言われる聖騎士ジークフリードとの間に書簡を交わしてはいるが、なかなか色よい返事は返ってこない。ブルグント城を囲む悪魔と契約者たちの攻囲と、クリエムヒルト、ブリュンヒルドの神に対する再降臨の要請のどちらの物語が先に完結するかが勝負の分かれ目だった。どちらにしてもブルグント城の運命は後半年の内には決まるだろう。王弟ギーゼルヘルは今でも敬虔な信徒だった。だから彼は勝利を疑ってはいなかった。だが、騎士たる彼の一面が確実性を求めていた。隣国ネーデルランドの立憲君主にして当代最高の聖騎士ジークフリードの出馬さえあれば、姉たちがもし神の意思をとらえることに失敗しても、ブルグント城を囲む悪魔と契約者たちを打ち破ることが出来るだろう。だが、王弟ギーゼルヘルは隣国ネーデルランドが見返り無しに動かぬことも薄々ではあるが知っていた。かの地は民主的な手続きなしには何も成せぬのだ。加えてヴァレンシュタインの問題がある。王弟ギーゼルヘルは憂鬱だった。あの元農奴は今や、当代一の怪物に成り果てている。僅か一瞬で八人の騎士を失った。あれの相手は常人では無理なのだ。どれだけ鎧でその身をおおったとしてもあの強力の前では紙に等しい。あの怪物を決してブルグント城の攻囲に加わらせてはならなかった。噂によればヴァレンシュタインは最初にして最大の契約者であり、魔王との契約者だ。死なず、老いず、その身に流れる血はアンブロシアのごとくして、地を糧に、天を糧に、人を糧に、その身に何の食事もいらず、睡眠でさえも必要ないと言う。王弟ギーゼルヘルは憂鬱そうに、「今の状況では悪魔と取引でもせぬ限り、どうにもならぬ」と、ダンクワルトとオルトウィーンにこぼしていた。ヴァレンシュタインは確かに一個の兵団だった。だが、それだけならまだいい。問題はヴァレンシュタインが持つという魔人が鍛えた最終決戦兵器、魔剣バルムンクにある。あの剣で命を絶たれてしまったものは生別され、エインヘリヤルという名の不死の兵団として、影の騎士団として、ヴァレンシュタインの意のままに操られてしまうという噂なのだ。噂によるとヴァレンシュタインは当代一の剣聖ヒルデブラントとその弟子たちをその魔剣バルムンクで切り捨てている。王弟ギーゼルヘルは考え込むたびに頭の痛くなる現実に直面する。あの元農奴は一ダースの騎士を投入しても止められぬだろう。ならばとて、一悪魔との契約者との戦いに動員できるだけの兵を動員しようにも、そこには何の名誉も報酬もないわけだ。自然、人は集まらない。王弟ギーゼルヘルの頭痛は酷くなる一方だ。王弟ギーゼルヘルは思うのだ。神の千年王国の終わりとともに、我々、聖騎士たちの時代も終わるのかもしれない、と。だが、そこから先に何があるのかまでは彼は思い至らなかった。王弟ギーゼルヘルは資質を持った男だった。だから、彼は、あの時代の変わり目に漂う嫌な臭いをその肌で感じていた。
とにかく彼の救いは西方から来る。ネーデルランドの立憲君主ジークフリードにはぜひ来てもらわなければならない。そうでなければ王弟ギーゼルヘルは破滅するだろう。最悪の事態をも想像しなければならない。ブルグント城が落ち、このニーベルンゲンの国が悪魔降り立つ荒廃の大地となることを。我々は神にミズガルズ大陸に住まうことを許された迷える子羊だ。羊飼いは消え去った。狼が子羊を狩るだろう。番犬は子羊たちを守れるだろうか。王弟ギーゼルヘルの迷いは深い。悪魔たちは大地を荒廃させ、人心を荒廃させる。彼らは神のことさえも荒廃させるだろうか。王弟ギーゼルヘルは立ち上がると、ダンクワルトとオルトウィーンに呼びかけていた。
「親愛なる勇士ハゲネの親族たちよ。ブルグント城が落ちる前に、何らかの手を打たねばならぬ。それに、あの農奴も問題だ。あれは危険だ。そこで貴君らの…」
王弟ギーゼルヘルの長くなりそうだった演説は突如現れた配下の騎士によって遮られた。運命は何時だって残酷だ。全てが手遅れになってからしか救いの手を差し伸べてはくれないのだから。
「最初の背約者です! 来た。やつがついに来た! ヴァレンシュタインです! 門を突破されました。あれは、ヴァレンシュタインです。私は、聞いたことがあります。漆黒の鎧に背中に担いだ二本の長剣。血に飽かない背約者が正門を突破しました!」
王弟ギーゼルヘルは真っ青になっていた。二人の聖騎士が顔を崩して屈託なく笑っていた。ダンクワルトとオルトウィーンはこれから来る悪夢を知らない。二人の聖騎士は、これまで敗れることなど想像さえもしたことが無い人間だった。勇気ある者だった。ギーゼルヘルが抱える騎士団の筆頭だった。
「貴君ら、ヴァレンシュタインに勝てるか? あれは剣聖ヒルデブランドでさえも斬って捨てているが、よもや、貴君らのみで勝てると思うか? 援兵の使者は出すが…」
王弟ギーゼルヘルが慎重に聖騎士たちの出方を見ていた。ダンクワルトもオルトウィーンもその噂のことは聞いていた。だから、彼らは恐れなどどこ吹く風で言葉をかくちくさせる。実際、ブルグント城の救援に比べれば事態はひどく簡単だった。彼らにとり金と食糧の話を持ち出されるより、難敵と戦う話を持ち出された方がひどく簡単だった。要は勝つか負けるかだ。
「よもや、王弟ギーゼルヘルの言葉とは思えませぬ。たかが農奴ごときを」
王弟ギーゼルヘルに与えられた騎士団の筆頭ダンクワルトは王弟ギーゼルヘルの問いに筋骨隆々たる体躯を鎧の奥で揺らして返す。
「剣聖も老いたのです。ヴァレンシュタインの首級は我らが挙げましょう」
王弟ギーゼルヘルに与えられた騎士団の俊英オルトウィーンは王弟ギーゼルヘルの問いに涼やかな目筋のはっきりとした顔に若者の特権たる傲慢を持って返す。
王弟ギーゼルヘルは二人の相異なる勇士が返す勇ましい返事に気を良くした。何となれば、彼自身も資質ある騎士だったから。王弟ギーゼルヘルは鎧を着込み始めると旗下の騎士をして神槍ロムルスを取りに出させた。ダンクワルトが剣を引き抜き、抜き身にすると館で輝く燭台の火が剣の影をかたどった。銘もない剣。だが、鋭い剣だった。オルトウィーンがその端正な顔を兜でおおう。じりじりと燭台のろうが融けて行く。旗下の騎士が神槍ロムルスと共に帰ってくる。ギーゼルヘルに彼に託された王国伝来の神槍が手渡された。
「では、出るぞ。ダンクワルト、オルトウィーン!」
「「はっ」」
館が騒がしくなってゆく。館に詰めている騎士はわずかに十数名だ。援兵が集まるまで持ちこたえねばならない。王弟ギーゼルヘルが抱える騎士団と一人の兵団とその契約者との戦いが始まった。




