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契約者の悲哀と失われた神意

 千年王国歴千十四年十月七日。同じく戦乙女歴十四年十月七日。

「与え、奪う」

 神既に去り、悪魔ここに立つ。

 教会が燃えていた。燃え上がる教会を背景に火の粉の舞う村に降臨した漆黒の鎧まといし、二本の長剣を背負う、長髪を伸ばし放題にした死神は、背約者は呟いた。どこになりとも呟いていた。背約者ヴァレンシュタインは一人きりの兵団だった。彼は、焼け落ちる村で一人きりの生き残りになってもまだ祈り続ける少女を見て腹を立てていた。そいつに剣先をぶち込んで血まみれの剣をもう一度血のりで染めてやろうとヴァレンシュタインは振り抜いた。

「過去は何も与えない。クズだ。貴様は」

 振り下ろした剣先の切れ味は試すまでも無く皆無だった。鈍い音を立てて少女の額を陥没させる。剣を振り下ろす相手が何人目だったかももう覚えていない。ヴァレンシュタインは少女が倒れ落ちた後になって後悔する。クズにも価値がある。女で若い。ならば異教徒どもに高く売れる。売れればその金属が悪魔の召喚の対価となる。ヴァレンシュタインはその損得勘定を考えるとき憂鬱な気分に襲われる。異教徒に対して流す血が貴かったのは昔の話だ。神が絶え、悪魔たちが降り立つ以前のことだ。ヴァレンシュタインたち契約者の中で神は既に死んでいた。神は敗れ、悪魔が闊歩する。ヴァレンシュタインは祈りを見るたびに憎悪に駆られる。彼は契約者だった。悪魔との契約者だった。ヴァレンシュタインは世界が千年紀の黄昏の日を迎えてから悪魔と契約した最初の人間だった。悪魔は祈ることしか知らなかったヴァレンシュタインに力と武器を与えた。そうしてヴァレンシュタインは神が失われ、悪魔の支配する千年紀の最初の契約者となった。今や、彼は己の支配者だった。彼は不死だった。彼は不老だった。悪魔との契約では信じる心が試される。背徳するとき、人間は臆病風に吹かれた人間から騙される。知者と愚者だけが正当な報酬を契約できる。ヴァレンシュタインは、神が消え、人のものとなるはずだった世界を悪魔に売った最初の人間だった。神の千年王国は千年で予定に従って滅びた。祝福は消え去った。彼の生まれ落ちたニーベルンゲンの国はそれ以来毎年凶作が続いた。ヴァレンシュタインはかつて信仰に満ちていた。ただの農奴だったから。だから、彼は祈り信じた。助ける者を信じた。彼はその背信の契約が済んでも、その契約の相手が悪魔であることを暫く信じようとはしなかった。彼は熱烈な背教者だった。そういうわけだから彼は祈る人間を見ると損得勘定を考えられなくなる。彼は、祈るものを見ると無性に全てを奪い尽くしたくなるのだ。ヴァレンシュタインは悪魔から授かった漆黒の鎧で持ってよろっている。そして二本の魔剣、バルムンクとグラヴィウスを背中に背負いながら、誰からか奪いとったなまくら刀を手に狩をする。その姿を誰もが恐れる。悪魔との契約者たちでさえ恐れた。彼は神が失われた暗黒の千年紀に生きる怪物だった。彼は悪魔から対価として魔剣バルムンクを用い十万人を殺す契約を結んでいた。魔剣グラヴィウスの対価としては再び降臨する神を殺す契約を結ばされていた。ヴァレンシュタインは血に飽かない。その糧は地であり、天であり、人であった。悪魔は容易く人を誘惑する。

 村を焼くのは何度目だろう。ヴァレンシュタインは必要な時を除いてバルムンクを使うことが無い。十万人も斬れるはずが無いだろうに、彼は滅多なことではその剣を用いない。何せ千年もあれば、三日に一人斬ればいい計算だ。彼は、血に飽かないのだ。

 ヴァレンシュタインは村を焼いた後、その死骸の山を中心に魔法陣を描き金属粉を撒きその土地で悪魔を召喚する。そうしてその地は悪魔のものとなる。悪魔のものとなった土地は神の再臨が起こるまで二度と花を咲かすこと無く実を結ぶこともないという。

 ニーベルンゲンは、悪魔降り立ちし土地だった。

「貴様が。ヴァレンシュタインか」

「そうだ」

 悪魔は容易く人を魅了する。その姿は常に神にも見まごう美形ばかりだ。悪魔は魅了する。神無き大地に住まう人の似姿をした怪物たちをも誘惑する。その悪魔は漆黒の髪を長く垂れ、切れ目長の漆黒の目を持っていた。そしてその出で立ちは体のボディラインに切れ切れにフィットするスーツのようなものを着ているようだ。当然ボディラインは強調され、鑑賞していたヴァレンシュタインはわずかに眉を動かした。

「ソフィーだ」

「位は」

「ここに来ていることでわかるだろう。今の私の位など、こんな場所に送り込まれる程度のものだ。ワルキューレどもは、我々を占領地の浄化にしか使わぬ」

「位無か。なら、さっさと他の契約者の状況を伝えろよ」

 ヴァレンシュタインの視線がどこを見つめるでも無く彷徨う。その瞳にはただ、一点の曇りも無く輝いていた。踏みにじられた。だから踏みにじるのだ。彼の目には憎悪と怒りの輝きだけがあった。

「我々は総力を挙げてブルグント城を囲んでいる。あの地にはくそ忌々しい聖なるものどもが籠っている。奇跡の担い手たるクリエムヒルトと裏切り者の天才ブリュンヒルトは神の意思たるプロヴィデンスを再生しようと必死だ。アドルフ、ケーニヒスブルク、シュタインベルク、それにヴァーグナー。そうそうたる契約者たちが城攻めに加わっている。ただ、時間が無い。時間が経てば隣国のネーデルランドからジークフリードがやってくる。そうなれば攻囲は無意味だ。今の時勢、こんな片田舎を代償に捧げて僅かな報酬を得ようとするのは貴様ぐらいだな。それと言っておくが、私の位は…」

 悪魔は嘲笑する。その僅かなものに全てを賭けねばならぬ契約者を慰み物にする。ソフィーと名乗ったこの悪魔もヴァレンシュタインがかつて会った悪魔と同じように振る舞った。

「俺っちは確かに契約したがーね。だーれを殺すかは俺っちの勝手だーね」

 だからヴァレンシュタインはかつて、何も知らずに敬虔に神に祈っていた農奴であったころを思い出し、そう言った。

「この農奴あがりが!」

「なまってわるいべか」

「お前は最初の背約者だ。そうでなかったなら貴様など…」

「俺などどうだというのだ」

 悪魔に言葉にヴァレンシュタインの言葉が核ある言葉に戻る。その手が背中の魔剣バルムンクに伸びていた。

「魔王からは確か、悪魔を斬っても一人に数えられると聞いているが?」

 悪魔がヴァレンシュタインから距離を取るように跳びあがり、空に浮かぶと、悠々と背約者を見下した。だが、その語調には焦りの色が現れていた。

「悪い冗談は止せ。背約者よ」

「なら。さっさと仕事をしろ。それとも女悪魔よ、俺の契約者になりたいのか?」

 ヴァレンシュタインは魔剣の柄を震えながら握っていた。

「震える腕で何をすると言うのかな。背約者」

「武者震いだ。ついに悪魔さえも斬ることができるというのだから」

 ヴァレンシュタインの言葉が強がりではないことを認めた美しい悪魔ソフィーは地面に向かってつばきを吐いた。ねっとりとつばきの跡が滴る。そこにあったのは嫌悪の表情だった。

「馬鹿が。貴様には反吐が出る。弱い部分ばかりを狙う寄生虫の分際で。誰がお前の下につくか!」

「ならさっさと仕事をするんだな」

 教会が燃えている。ブルグント城への救援に向かわなかった騎士が近辺にいるとするならば、そろそろやってきてもおかしくない。不死のヴァレンシュタインにとっては何でも無いが、この位の低い悪魔にとっては大事になるかもしれない。何せ、悪魔たちの半分ほどは聖騎士たちが背負う奇跡や物理力にとことん弱い。ブルグント城を攻めきれていないのもその点があるからだろう。神の千年王国は黄昏た。次の千年は人のものになるはずのものだった。だが、背約者たちは契約し、悪魔は地上に降り立った。ヴァレンシュタインは馬鹿だったから、神を讃えるものたちが信じるがごとく魔法を見せた悪魔を信じた。彼は願った。全ての人が救われますようにと。不滅の体を頂けますようにと。世界が浄化されますようにと。高位悪魔たちは気紛れに人を魅了する。ヴァレンシュタインは焦ったまま空の上で儀式をしようとするソフィーのことを見ながら、彼自身のかつての純粋さに赤くなるほど参っていた。だが、空想を吹き飛ばす甲冑と騎馬の音が生暖かい火を上げる村に響きつつあった。

「余計なおしゃべりのせいだな」

 この辺りは王弟ギーゼルヘルの領地だ。ブルグント城を囲われているというのに、この王弟とその騎士団は救援に向かっていないのだ。

「ヴァレンシュタイン。儀式の間、私を守るのだ」

 悪魔の焦燥は激しい。神との戦いの間、悪魔も分化している。痛みさえ捨てた戦鬼たる悪魔、ワルキューレと、知と魔術に特化し痛みによる責めに対して容易く命を失うことにより秘密を厳守する式鬼たる悪魔、ノルンとに悪魔たちは分離している。ヴァレンシュタインが召喚した悪魔ソフィーはどう見たところで後者だった。つまり、騎士に見つかれば槍傷一つで死滅する身の上なのだ。

「ごめんだな」

 ヴァレンシュタインは素っ気なく告げる。彼は必要な人数を殺し、気ままに破滅を振りまく黄昏の旅人だった。

「悪魔め!」

 村の端で馬がいなないた。馬上の人である身分ありげな聖騎士が空中で立ち往生するソフィーに向かって由緒ありげな槍を構えていた。線の細い男だ。立派な武装とかみ合わないどこか神経質そうな男でもある。

「ヴァレンシュタイン。頼むから!」

 悪魔はヴァレンシュタインをこき下ろした口の根も乾かぬうちに哀願を始めていた。

「俺と契約を結ぶと言うのか?」

 ヴァレンシュタインが剣というより、もう鈍器と言ってしまった方がいい武器をゆったりと構え直した。

「今、ヴァレンシュタインと言ったな。では、貴様がヴァレンシュタインか!」

 ガチャガチャと鎧の擦れる音がする。身分ありげな騎士を守るように一ダースの騎士団が展開した。

「そうだが?」

「この下賤の背教者が!」

 悪魔が掴まれた槍の穂先が変わるのを見て密かに笑う。

「囲め!」

 高位の騎士が旗下に向かって叫ぶと同時に一ダースの人が波打つ。完全武装の重装騎士が八名、馬上の聖騎士が四名、あるいは槍を、あるいは剣を手に取って、ときの声を上げて向かってくる。

「はは、いい気味だよ」

 悪魔はそう呟くと風に乗せて歌を歌う。古いフォーク・ロアだ。空に五芒星が浮かび始めていた。悪魔の儀式が始まり、騎士団と背教者の戦いが始まった。

「王弟ギーゼルヘル。背教者ヴァレンシュタインの首、この手であげてみせようぞ」

 聖騎士は高位の騎士も高位の騎士だった。何はばかることも無い王弟ギーゼルヒルその人だった。こんな寒村に良くも出馬したものだ。ブルグント城への後詰にも動かず、自身の領地に籠っていた王弟による直々の御出馬だった。ヴァレンシュタインは鈍器で持ってギーゼルヘルが持つ伝説の神槍ロムルスを受け流し、戦闘を始めていた。後続の聖騎士が馬で持って駆け抜ける間、ヴァレンシュタインは漆黒の鎧の重さも感じさせずにふわりと浮いた。鈍器が真一文字に振り抜けられた。ごり、ごり、ごり、と三つの嫌な音を立てて馬上の聖騎士の首が、三つ首が三つとも折れて曲がる。後を追うように迫って来ていた八名の重装騎士の内三名がたたらを踏み、残りの五名が恐怖に駆られながらも突撃する。鈍器が今度は片手で振るわれた。犠牲者は一人。鎧の中に首がめり込む。四つの槍と剣が、ヴァレンシュタインの首を目指す。硬い金属音と共にその必殺の一撃は漆黒の小手で受け流された。二度目の剣戟はヴァレンシュタインが先だった。両手で握った鈍器を横なぎに薙ぐ。剣が悲鳴を上げながら一人の胴にめり込み、その余勢を駆って四つの金属の塊が転倒する。

「馬鹿な」

 王弟ギーゼルヒルが馬上で神槍ロムルスを手に絶句していた。ヴァレンシュタインが剣の刃こぼれを確認するように眺める。転倒した重装騎士は一人がろっ骨を折られ死んでおり、残りの三名は自重により立ち上がれない。これでは転倒した順に撲殺されてしまうだろう。たたらを踏んだ残りの三名が退くに退けず、進むに進めず。恐怖に思考が停止していた。王弟ギーゼルヒルは判断を迫られていた。ヴァレンシュタインが転倒している騎士を一人撲殺する。王弟ギーゼルヘルの決断は速かった。彼は悪魔に向かって名槍ロムルスを投げ放つと声を張った。

「退け、退け。撤退するぞ!」

 悪魔が空で高度を変えて槍を避けようと急旋回する。だが、神槍の名は伊達ではない。神槍ロムルスはその直線の動きを変え角度を変えた。伝説の神槍ロムルスは神の奇跡が創りたもうた必中の槍である。誘導されるように槍が歪曲し空間を裂く。槍がソフィーの右腕を貫き通した。悪魔はバランスと意識を失い落下する。再び槍がぐにゃりと空間を曲げると、その槍はギーゼルヘルの手元にあった。

「聖騎士様が逃げるのかい?」

 ヴァレンシュタインは笑いながら転倒した重装騎士の頭を鈍器で折った。

「背教者が!」

「背教かね。俺は信じろとだけ教わった。あのころの俺にどうやってこいつらのことを疑えというのだ」

 ギーゼルヘルの悪態に対して、ヴァレンシュタインは地面に墜落し、死にかけている悪魔を剣で指し示しながら呟くように愚痴を零した。ギーゼルヒルが馬を翻す。それに習うように三名の怯えきった重装騎士は踵を返して撤退を始めていた。ヴァレンシュタインが仕方なく後処理に転倒し、身動きもとれない重装騎士にとどめを刺すために鈍器を振り上げるとかすかな声が聞こえてくる。

「…そんなことは後にしろ。ヴァレンシュタイン。私を助けろ」

 悪魔の囁き。それは、まあ、情けないものではあった。だが、仕方あるまい。ソフィーは戦闘と無縁な悪魔ノルンであるのだから。

「助ける? 何の義理で?」

「私がいなければ儀式は終わらないのだぞ!」

 悪魔が命の限りを尽くした威厳を込めてヴァレンシュタインに命じる。だが、ヴァレンシュタインはどこ吹く風だ。

「また、他のを呼べばいいさ。それとも何か。嬢ちゃん。あんた既定の報酬を超えて俺と契約する気でもあるのかい?」

「…馬鹿な!」

 ソフィーの端正な顔が苦悶と怒りで高潮する。だが、その色は直ぐに土気色へと変わって行く。悪魔は自身が滅びつつあるのを認識せざるを得なかった。

「どうなんだい。嬢ちゃん」

 悪魔の契約だった。終焉か誇りか。悪魔ソフィー・ジェルマンは選択の時を迎えていた。苦悶する時間は長く感じ、決断する時間は短く感じる。ヴァレンシュタインが鈍器で地面を打ち鳴らし、音階を作る。この背教者にとって悪魔の価値はもはやその程度のものに過ぎない。悪魔は何時だって人間より狡猾で、そして律儀だ。契約を必ず守る。だから、悪魔ソフィーは究極の二択に選んではならない方を選んでしまったのだ。

「…する」

「何だって。聞こえんぞ。もう一度言え」

 ヴァレンシュタインが、半分驚愕しながら、半分面白がりながら、問い返す。

「する。契約する! だから、私を助けろ! 今死ぬわけにはいかんのだ! ヴァレンシュタイン!」

 ヴァレンシュタインは笑っていた。

「では契約に従い条件を出せ」

「…まず、私は、ソフィー・ジェルマンは自由意思を持つ。それはいいか」

 悪魔は契約する。悪魔ソフィーは定石に従って最初に禁忌として破約の対象になりかねない契約を持ってきた。

「お前。そんなにのんびりと条件を出していていいのか? その調子でいけば契約前に死ぬぞ?」

 ヴァレンシュタインの見立てでは、この悪魔は後数分しか持たない。契約には時間制限がある。このソフィーと言う名の悪魔は知恵がありすぎたのだ。

「っ! では、それに加えてヴァレンシュタインはソフィー・ジェルマンを決して傷つけず、傷つけさせないことを誓え!」

 また無茶な契約だった。

「構わんよ」

 だが、ヴァレンシュタインは軽く頷いた。

「では、契約だ。早く私を助けろ!」

 ヴァレンシュタインは背中の双剣の内の一本、魔剣グラヴィウスを抜き取るとその鋭利な剣で指先を裂いた。そうして再び剣を収めると、その血をソフィーに与えようと指先を美貌の悪魔に差し出した。

「何の真似だ、ヴァレンシュタイン」

 ヴァレンシュタインが肩をすくめる。

「不死。不老。契約がある。俺の血は全ての傷をいやす」

「いい加減なことを抜かすな。この変態が!」

 ソフィーは頭が良すぎるのだ。彼女は曲がりなりにも知と魔術を極めんとするノルンだった。悪魔だった。ヴァレンシュタインの言うことは、彼女にとって虫が良すぎることだった。

「変態だと? 俺の助けが要らぬのならそう言えばいい」

 ヴァレンシュタインが手をひっこめかける。ソフィーは戸惑うしかない。

「貴様は、契約すると言ったはずだぞ!」

 ヴァレンシュタインがやれやれと言いたげに空いている方の手で頭をかいた。ヴァレンシュタインは元々が農奴だ。信仰深いただの男に過ぎなかった。だから、この悪魔たちの狡猾さと律義さにいま一つついていけないところがあった。仕方なくつっけん鈍に指を突き指して、ソフィーの口元に持って行った。

「なら、飲め」

 悪魔が真っ赤になった。怒っているのか恥ずかしがっているのか分からない。だが、彼女の場合、葛藤よりも消滅の恐怖の方が勝った。知と魔術に寄って立つ悪魔ノルンは神との戦いの中、痛みを感じないように変化した。ただ恐怖までは克服できない。消滅の恐怖に打ち勝てるものだけが、真の悪魔と呼ばれる。その意味では、この端正過ぎる美貌を持った悪魔、ソフィー・ジェルマンは失格だった。悪魔は舌をだし、ヴァレンシュタインの指をぴとっとなめた。そうして悪魔は不条理なほどの爽快感を味わった。ソフィーの一生。その全てがこの下賤な男と契約し、血を貰うために今まで生きてきたのだという思いがした。それは背徳の甘い蜜であり至上の幸福だった。悪魔ソフィー・ジェルマンは穴が開いていた腕のことなどすっかり忘れ、傷を癒されて、天上の栄華を味わっていた。

「契約は成立だ。悪魔よ。俺に従え。俺の契約のために従え」

 その日、その時から、ヴァレンシュタインは一人でなくなった。だが、だと言ってどうだと言うのだ。やることは変わらない。倒れ込んでいた重装騎士が折り重なって死んでいる仲間の死骸と、自身の重苦しい甲冑を何とか動かそうと必死でがちゃがちゃとやっている音に向かって、ヴァレンシュタインは鈍器を手にやるべきことを成しに行く。

「待て。いや、待って下さい。わが主よ」

 悪魔が、悪魔ゆえに悪魔の契約を結ばされた契約者ソフィー・ジェルマンがよろよろと立ちあがって言った。

「おやおや。嬢ちゃん。言葉遣いまで変わっちまったか」

 ヴァレンシュタインは軽口をたたきながら鈍器に手をかけていた。

「相手は曲がりなりにも騎士です。捕虜にした方が」

 ヴァレンシュタインは一瞥し、首を振った。彼は血に飽かない男だった。殺戮者だった。捕虜? 交渉? 金属粉はそこまで不足しているか? 確かにあって困るものでは無い。だが、それよりも、全ての面倒くさい問いはヴァレンシュタインに鈍器を振り下ろすことを求めていた。だが、契約が彼を止めさせた。彼は、ソフィー・ジェルマンを傷つけてはならないのだ。それは、例外なく全てだ。その傷が心の問題であるにしろだ。

「悪魔の嬢ちゃん。あんた、なかなか狡猾だーね」

「私は、合理的なことを言っていると思う、のですが」

 話がかみ合わずずれてしまっているが、ヴァレンシュタインはそれならそれで仕方ないと諦めていた。

「金なんてもんはーな、金属粉にして悪魔を呼ぶ時ぐらいしか使いようも無いってぺさー」

 ヴァレンシュタインはいつものように誰をはばかる必要もなくなったので訛りを丸出しにした言葉で応じる。とにかくやっかいな契約だった。ヴァレンシュタインはソフィー・ジェルマンを傷つけてはならないし、傷つけさせてもならない。悪魔の習慣も心根もヴァレンシュタインにとっては今までどうでもいい事であったし、今更、天啓のように分かるはずもない。

「人間なのに金を望まぬとは、主は変わりものです。それと、その胡散臭い訛りも辞めて下さい。主の瑕疵は私の瑕疵ともなりますゆえ」

「厄介だー」

 ヴァレンシュタインは地を丸出しにして、訛ることも許されなくなったしまった。契約は厄介だ。ヴァレンシュタインはもう少し慎重にすべきだったと多少の後悔の念を覚えていた。だが、契約は契約だった。ヴァレンシュタインはソフィーの視線が注がれるのを意識して、のんびりとした口調を改める。

「全く厄介を抱えてしまったな」

 ヴァレンシュタインは首をすくめる。

「主はなぜ金を望まぬのですか?」

 今やソフィーは完全に態度を改めていた。ヴァレンシュタインの方もそう出られると態度を改めねばならない。

「俺は背教者で契約者だ。それも最初にして最大の契約者だ。死なぬし、老いぬ。この身に流れる血はアンブロシアに等しく、俺は地を糧に、天を糧に、人を糧に生きることが出来る。金など持っても何の意味も無い」

 血という言葉にソフィーがビクンとけいれんする。そして、高潮した顔で、まるで、神の前の子羊のように、悪魔の前の契約者のように、うっとりとした潤んだ目をする。そして、ようやく言葉を吐きだす。

「血。アンブロシア。血、血、血。あの血の味。あれは、あれは、至上の想いに私を誘います。主よ。私を誘惑しないでください」

「全く、変態は俺じゃなくてどう見てもてめーの方だな」

 ヴァレンシュタインが呆れたように言った。悪魔はようやくのことで自分を取り戻した。

「なら味を覚えさせた主は、もっと変態です」

「契約は契約だ。傷つけることを禁じられては、好きなように言わせるしか無いが、ね」

 ソフィーの言葉にヴァレンシュタインは肩をすくめた。さて、何の話だっただろうか。確か金の話であったはずだ。

「主よ。主は支配を望まぬのですか?」

「そういう面倒事は御免こうむりたいが」

 ヴァレンシュタインはぼりぼりと首筋をかきむしった。戦場に置いて無敵を誇るヴァレンシュタインの皮膚は代謝さえも捨てている。ただ、まだるっこしい話になりそうだから、退屈な時の癖として首筋をかいたのだった。ソフィー・ジェルマンは、ヴァレンシュタインにむかって恭しくかしずく。

「今や、契約は成りました。主の名声は、私の名に直結する。主よ。支配するのです。私が仕えてあげるのです。この国を悪魔に捧げるのではなく。己で支配なさい」

 悪魔は王冠を囁いた。ヴァレンシュタインは笑い出してしまいそうだった。悪魔が囁く。その紙より重いものを持ったことが無さそうな腕で王冠でもくれると言うのだろうか。ヴァレンシュタインは、心の中で大いに笑ったが、表情には出さない。ソフィー・ジェルマンを傷つけてはならない。それは契約だった。

「それは許されるはずねー、ないな。不可能だ。俺は魔剣バルムンクと神無き千年紀に十万人を斬る契約を結んでいる。支配すれば、斬れぬ。ゆえ、不可能だ」

 ヴァレンシュタインはなまりかけた言葉を思わず撤回する。そして彼が背中に背負う双剣の内の片方の名を出した。効果はてきめんだった。ただ、ヴァレンシュタインが思っていた効果と逆の意味でてきめんだった。悪魔ソフィー・ジェルマンがうっとりとした表情でバルムンクと、ヴァレンシュタインとを交互に見比べた。

「魔神ガウシアンが聖剣バルムンクの組成を基に精製した神との最終決戦兵器である魔剣バルムンクですね。それさえあれば、ブルグント城に籠る忌々しい奇跡の担い手クリエムヒルトとブリュンヒルトでさえ恐れるに足らないでしょう」

 ヴァレンシュタインは手元の鈍器を怯えてガチャガチャと鎧を鳴らす、二人の重装騎士の内うるさく金属音を立てている方の野郎に肩に置いて、二度軽く叩いてやる。

「確かに、魔剣バルムンクを手に戦えば、魔王が許すと仮定すれば、国くらい盗れるかもしれないが。まあ、俺には大望がある。そういう俗な事には関わりたくないんだ」

 鎧のこすれ合う音が酷くなる。

「なら。噂は本当なのですか。我が主よ?」

 ソフィーが困ったように顔をしかめる。この美貌の悪魔は、確かに魅力的だった。ヴァレンシュタインは悪魔を見るといつも思うことを今日も思っていた。なぜ神は人を不完全な似姿にし、悪魔に完全とも思える肉体を与えたのだろう。それはヴァレンシュタインには永久にも思えるなぞだった。噂によると元々悪魔たちは神の愛人であり、今は神の似姿に近づくために自身に対して魔法を使っているということだ。噂。そう噂の話だ。ヴァレンシュタインは自分自身の噂についてどうこう言われてもあまりイメージが固まらないのだ。

「噂か。ぞっとしないな」

「あなたが我々に土地をささげるのは契約のためであって、魔剣バルムンクによらず殺したものを悪魔たちにささげているのも契約のためだというのは」

 ソフィーの視線が物語っていた。悪魔は得体のしれないものを掴むように、ヴァレンシュタインの返事にすがるように、視線を投げかけていた。

「好きに取ってもらって結構だ」

 その言葉に帰って来たのは失望の視線だった。

「では、あなたが魔王と契約していると言うのも事実なのですね?」

 ソフィーが無念そうにそう呟いた。

「さあ。俺は契約者が誰かなんぞ覚えていないな。ただ青い澄み切った目と輝く鎧のことは覚えているがね。あの悪魔の持つ澄み切った美貌。今でもあれ以上の麗人は見たことが無いな」

 ヴァレンシュタインは悪魔ソフィー・ジェルマンと契約した。彼は、ソフィーを傷つけてはならない。だから、慎重に言葉を選ぶ。

「この私が、あの魔王の下につくことになろうとは」

 ソフィーの呟きの意味をヴァレンシュタインは即座には掴むことが出来なかった。だから、とっとと忘れて先延ばしにして、会話に戻る。

「で、だ。嬢ちゃん。俺としてはこいつらを殴って終わりにしてやりたい。だが、嬢ちゃんは、助けて身代金を取りたい。で、どちらの方がいいと思う?」

「あ、主よ。わ、私のことはただ下僕とだけ呼べばいい、のです。も、もちろんそれが嫌だと言うのなら強制はしませんが」

 美貌の悪魔は、あくまで契約に従順だ。ヴァレンシュタインにとっては、契約を守ることは分かっていても、守らせることはよく分からないことだった。ヴァレンシュタインはその僕、悪魔ソフィー・ジェルマンに問う。

「で、嬢ちゃん。どっちだ」

 ソフィーはヴァレンシュタインが変へなかった自身への呼び名に安堵しながらも、わずかに迷った後、自説に固執した。

「主よ。身代金を取りましょう」

「わかった。そうしよう。まずはその金で破れた服を繕ってあんたの武装でも整えるか」

 ソフィーが貫かれたフィットスーツの腕の部分を隠すようにもう一方の腕で覆った。それから困ったように言った。

「まずは死骸から鎧をはぎ、衣をはぎましょう。私の服と武装はそれから作ります」

 ヴァレンシュタインがまるで初めて聞いたかのように、目を丸くして、それからしばらくして笑いながら言った。

「悪魔はえらく節約家だな。それにしみったれているな」

「いいから。主よ。鎧をはいでください」

「その間、この二人の面倒を誰が見る?」

 ソフィーが、人差し指と親指を交差させて指を鳴らすとその手元に縄が現れていた。冷厳なる美形の悪魔が持つと何かサディスティックな感がある。

「縛ってください」

 ヴァレンシュタインはやれやれと首をすくめながら受け取って、縛り始めた。

「魔術か。嬢ちゃん。あんた意外と能力は高めだな。だがね、嬢ちゃんは主になった俺に面倒事を押し付けすぎるよ」

 鎧をはいで縄で縛る。ヴァレンシュタインに向かって縛られる騎士が、縄がきつすぎるとかそういうことを言うが、お構いなしだ。最後に鈍器と化していた剣で縄を斬る。それを二回繰り返す。

「残りの五人分全部はぎ取ってください。今度は衣服もお願いします」

 ヴァレンシュタインは、言われた通りにする。ヴァレンシュタインにとってこう言った戦後処理は珍しいことだった。殺し、奪う。そして悪魔を召喚する。それで、いつもの彼の仕事は終わりだった。金品を奪うことはあっても衣類や、鎧などを奪うことなど滅多に起こりっこない。彼の主要な獲物は何時だって寒村だった。いつだって城や領主の館から離れた寒村が彼の狙いだった。そうすれば騎士団が到着する前に一挙に片を付けることができるから。魔剣バルムンクに血を吸わせたいときだけは別だった。ヴァレンシュタインは既に四つの領主の館を陥落させたことがあった。そういう時は収穫を取り入れることまで頭が回らないのだ。金属貨幣を持てるだけ持ちだすと、悪魔を召喚して引き渡し、土地を滅ぼす。彼の仕事は今までただそれだけのことだったのだ。

「よいでしょう。では」

 悪魔は衣類を集めて、その周りを取り囲むように五芒星つまり、星形を描く。それから言った。

「光あれ」

 ソフィーが呟き人差し指と親指を交差させ音を鳴らす。

 ヴァレンシュタインは吹き出していた。それではまるで悪魔が否定した、神のようではないか。衣類が融けて新しい形をかたどる。ヴァレンシュタインは、炭素の結晶たるその着用感も分からなかっただろうし、その防御強度も分からなかっただろう。だが、悪魔ソフィーの腕前だけは分かった。知と魔術に関して言えば、彼が契約したある悪魔より上なのかもしれない。

「見苦しくは無いドレスでしょう? 二着作りました。毎日着替えれば済みます。洗濯は魔術を使ってイオン洗浄します。主にも数着作りましょうか?」

「嬢ちゃん。あんたかなり高位の悪魔だな」

 ヴァレンシュタインはそう言ってニヤリと笑った。俺にも運が向いて来た、そう言いたげな笑みだった。

「だとしてもどうだというのです。神との千年戦争を耐え抜き地上の降臨した最初の悪魔はワルキューレです。彼らが主流派です。今ではノルンも使い走りですよ」

 悪魔ソフィー・ジェルマンは現れた時とすっかり変わってしまった。ヴァレンシュタインも悪魔にとって契約は絶対だということは知っていた。それにしても。ヴァレンシュタインは胸の中で苦いような、甘ったるいような笑いが込み上げるのを感じていた。

「それにしても。俺に向かってあんなに悪態をついたあんたがな。悪魔の変わり身の早さには脱帽するね」

「主よ。契約たれば。それに」

 悪魔の視線がさまよう。その口元が言おうか言うまいか迷っていた。

「それに?」

 ヴァレンシュタインが促した。

「噂が事実なら、主にだけは言われたくありません」

 美貌の悪魔はほっぺたをぷくりと膨らませて言った。

「それもそうだ」

 ヴァレンシュタインが破顔する。ヴァレンシュタインが神に対して背約し、罪も無い民を殺して回っていることを悪魔は責めたのだ。それには深い理由がある。ヴァレンシュタインはその理由を言うべきか迷っていた。それには深い理由があるのだ。だが、言えない。決して理由が無い訳では無いのだ。それには深い理由があるのだ。海より深い理由があるのだ。決してヴァレンシュタインが行き当たりばったりの男であり何も考えていないなどと思ってはならない。彼には理由があるのだ。…たぶん。

「鎧から不純物を取り除きます。99.999999999パーセントの超高純度鉄にし、急所のみを覆う私用の装備品を作ることにします。あ、その、あの、あ、主よ。少し離れて下さい」

 悪魔が積み上げられた鎧を中心に六芒星を描き、その場から離れるように勧告した。ヴァレンシュタインが捕虜の縄を掴みながら一歩二歩、後退する。

「主よ。最低二十メートルは離れて下さい!」

 ソフィーが甲高い声を上げて警告する。ヴァレンシュタインが言う通りに離れた時だった。

「光あれ」

 全く悪魔らしくない言葉と共に先ほどと同じようにソフィーの指が音を立てる。光と熱の奔流だった。積み上げられた鎧の姿が閃光で全く見えない。熱は瞳を焦がす。ヴァレンシュタインはその不死の体にも関わらず思わずまぶたを閉じていた。それは二、三分の間続いたように思う。悪魔ソフィー・ジェルマンの甲高い声が響き、ようやくヴァレンシュタインはまぶたを開いた。捕虜の二人が神に祈り、悪魔に向かって恐怖の視線を投げかけていた。

「その名を唱えるな。その名の持ち主は現在、不在に過ぎないのだからな!」

 ヴァレンシュタインが怒りを込めた声を上げていた。彼は信仰者の敵だった。背教者で背約者だった。そして祈るものを見ると、憎悪と怒りが止めども無く湧いてくるのだ。ソフィーが声をかけるのがもう少し遅ければ、捕虜の片方は確実に鈍器と化した剣で撲殺されていただろう。

「主よ。私にとっては久しぶりの地上です。私は、ほんとは怖い。恐ろしい。だから守ってください。契約を守って下さい」

「契約は守る。それが、契約側が果たすべき当然のことだ」

 ヴァレンシュタインは怒りを抑え込むと抑揚の無い声でつっけんどんに言った。ソフィーは少しだけ悲しそうだった。だから、その元々の悪魔的な地を捕虜に対して遺憾なく発揮した。要は八つ当たりだった。

「捕虜共が。愚かな騎士共が。さあ、我々にいくら出す!」

 捕虜たちは助かるなら、助かるなら、と繰り返すが、金額の約束は一向にしようとしない。彼らは徒歩立ちだ。実際そう高位の騎士では無い。要はソフィーが吹っかけすぎだったのだ。悪魔は強欲だ。騎士に向かって、嘲笑を上げる。

「捕虜の分際で。速くうなずかないか! よしならば、こうしようではないか。貴様たちが払える全財産を出せ。それが最後の条件だ!」

 捕虜たちは顔を見合わせて、黙って、元々鎧だったものが重ねられた場所を見た。不作が続くニーベルンゲンで、今やそれが彼らの全財産だったのだ。

「…馬鹿な!」

 悪魔は呆れ果てて叫んでいた。綿密な計画は計画倒れに終わったのだった。

「嬢ちゃん。ニーベルンゲンは凶作続きだ。貴族たちも焦っている。蓄えが尽きつつあるんだろうな」

「主よ。あなたはそこまで分かっていて人の物たる大地を悪魔に差し出しているのですか?」

 あきれ顔のソフィーにヴァレンシュタインが嫌な顔をする。そもそもヴァレンシュタインが悪魔と契約した経緯から言ってニーベルンゲンを襲った災厄が原因なのだ。彼は、徴税吏たちの終末だ。地の獄につながれしものだ。だから、ヴァレンシュタインは農奴にとっての唯一の救いが何であるかを知っていた。

「王弟ギーゼルヘルがブルグント城の救援に行かないのもそこら辺りの問題があるからだろうよ。つまり遠征する金と食糧が無いんだよ」

「そして主がじりじりと寒村を遅い、ニーベルンゲンは蓄え尽きてブルグント城を失い最初の不浄の地となり、ワルキューレたちが喜びに感涙するというわけですね」

 悪魔ソフィー・ジェルマンは辛辣だった。ヴァレンシュタインは首を振るだけだ。それがそれは一面の真実ではあるだろう。

「契約だからな」

「主よ。主よ。あなたはわかっていない。そうはならない。そうはならないのですよ。時間さえあれば、ジークフリードもさすがに考えを変えるでしょう。隣国ネーデルランドからこのザクセンの地を通り英雄ジークフリードが救援にやってくる。クリエムヒルトとブリュンヒルトはプロヴィデンスを蘇らせることに成功するでしょう。そうすればニーベルンゲンの凶事は終わり、悪魔は再び地上から去るでしょう。そして主は神敵として追われるのです。分かりますか。私が言っている意味が?」

 悪魔のすっきりとした鼻梁が赤く染まっている。ソフィー・ジェルマンは興奮していた。ヴァレンシュタインは言葉を尽くすのを嫌がった。それは、彼自身が考えつくしていない真実ではある。だが、それがどうだというのだ。ヴァレンシュタインがやらねばならぬことに変わりは無い。

「そうだとして何だと言うのかね。俺は魔剣バルムンクに誓って十万人を斬ることにした。俺は魔剣グラヴィウスに誓って神を斬ることにした。それが、遠くなるか近くなるかの差にすぎんよ。で、この捕虜たちは結局、撲殺しても構わんのかね。嬢ちゃん」

 ヴァレンシュタインの言葉に捕虜たちが悲鳴を上げる。

「それは、その、駄目です。主よ。危険すぎます。今に適当に計画を立ててみせます。そうです。このものらに王弟ギーゼルヘルの館への先導役をさせるのです。それにバルムンクを抜き、影の騎士団、エインヘリヤルを呼べば…」

 ソフィーの考えた論理は破たんしていた。危険すぎるものを逃れるために、なお危うい危険に身をさらせと言うのだ。

「つまり、嬢ちゃんはこう言うわけだ。俺一人で王弟の館に攻め込み、奪い、落とし、ギーゼルヘルを魔剣バルムンクの餌食にしろと言うのだな」

 ソフィーは一生懸命考えていた。最適解を探していた。この彼女が今日契約したばかりの主に名声を与えるために。ヴァレンシュタイン。最初の契約者。彼は元々契約者の中の契約者だった。ソフィーがいなくとも彼は戦い続け、このニーベルンゲンの地を不浄の大地へと変貌させたことだろう。英雄ジークフリードを筆頭とする神が寵愛する聖騎士たちとの間に神闘を繰り広げたであろう。それが分かっていたがゆえに契約前の悪魔ソフィー・ジェルマンは悪態をついた。だが、『馬鹿が。貴様には反吐が出る。弱い部分ばかりを狙う寄生虫の分際で。誰がお前の下につくか!』と叫んだ誇り高き孤高の悪魔はもういない。今や彼女が悪態をついた男が彼女の主だった。ソフィーの見る限り今のヴァレンシュタインは弱いものばかりを狩る正しい悪魔の手先だった。勇者ではなく怯懦な狐だった。たった一人の兵団だった。ヴァレンシュタインは魔剣バルムンクの真の使い手となるには程遠い男だった。魔剣バルムンクを振るうものは、真の勇者と対峙せねばならない。そして、悪魔ソフィー・ジェルマンの主たるものは誇り高くなければならない。なぜなら、彼の悪魔ソフィー・ジェルマンは悪魔ノエルの中のノエルだったから。

「主よ。どちらにしてもあなたには勇士の血が必要なのです。それとも主は王弟ギーゼルヘルとその旗下の騎士団を勇士では無いとお考えですか?」

 ソフィー・ジェルマンの問いにヴァレンシュタインは笑っていた。契約者であり、契約側でもある彼は相矛盾する状況に追い込まれつつあった。

「分かった。俺は嬢ちゃんを決して傷つけないよ。契約だからな。だから、まずこの地で儀式を済ますんだ。嬢ちゃん。そして神の采配によりこの呪われた大地さえも与えられなかったクズどもを塵に返すんだ。そして僅かばかりのバカな徴税吏たちもな」

 儀式が問題だった。ソフィーの直接の契約者は人間ヴァレンシュタインだ。そしてヴァレンシュタインの直接の契約者はあの悪名高き魔王だと言う噂だ。だが、ソフィーは人間ヴァレンシュタインと契約した。契約は絶対だ。だが、ヴァレンシュタインは人間だ。契約により彼には二つの方法しか残されていない。人であるゆえを利用し人を支配し、悪魔と協定する方法。そして、もう一つは悪魔との契約に従い、ニーベルンゲンの国を、ミズガルズ大陸を、全て滅ぼし不毛の大地に代えることだ。

「主よ。私は契約者のために働くのです。儀式は行います。ただし、大地をそのまま捨て置き死者だけを塵に返すにします。我々は支配せねばなりません。主よ。私は…」

 ヴァレンシュタインの顔が頑ななものに代わる。彼は、悪魔が土地から収奪することを望んでいた。土地を『浄化』し尽くすことを望んでいた。

「それは駄目だ。嬢ちゃん。大地は不浄なるものに変えねばならない。そうしなければ、全てのものがいずれ元に戻る。それでは意味が無いんだ」

 悪魔ソフィー・ジェルマンは、困惑していた。契約者は人間だ。だから、彼女は、相手が必ず彼女の提案に乗ってくるものだと決めつけていた。

「主よ。主は支配を望まぬのですか?」

「徴税吏はこの世界に必要ない」

 ヴァレンシュタインは短く言った。ソフィーはこの元農奴の吐く言葉の意味を計りかねていた。人はおのずから欲するものだ。掛け値なしで言おう。この世界で自由に生きるには無限の土地が必要なのだ。だが、それでも、ヴァレンシュタインはソフィー・ジェルマンを傷つけなかった。ヴァレンシュタインは捕虜の縄を片手で引っ張りながら、撲殺され、尊厳さえもはがれた騎士を、彼が殺した寒村の『クズ』どもと一まとめにするために肩に背負って運んでゆく。一人。また、一人と、村の中心に犠牲者が集められる。

「嬢ちゃん。嬢ちゃんがそうしたいと言うのなら、俺はそれでも構わない。だが、いいか、嬢ちゃん。このニーベルンゲンの国は、ミズガルズ大陸は、一度、滅びなければならない。なぜなら、な」

 ヴァレンシュタインはそれきり押し黙った。後は、かつて人であった死骸を運ぶ作業だけが残った。

「主よ。これではどちらが契約者だか分かりませぬ」

 ヴァレンシュタインは悪魔ソフィー・ジェルマンがぴっちりとしたタイトスーツから、炭素結晶の漆黒のドレスに着替え、胸当てと小手、そして短刀を装備する間、寒村の全ての家を回ってその犠牲者である『クズ』どもを一人も漏らさず回収して行くことにした。彼は、みずから、あるいは切り裂き、あるいは切れぬ刃で振り抜き、撲殺した死体を回収して行く。

「主よ。主がそのようなことをせずとも、私の魔力から言えばこの村ごと不浄の地と化し、蒸発させることはできます。主がそれをお望みならば、そうすることもできないではないのです」

 ヴァレンシュタインは捕虜につながれた縄を引っ張りながら、肩に軽い子供の死骸を背負うと、笑った。

「今更、俺の負担を考えるって訳かい。なら、最初から難題を出すのは止して欲しいね」

「主よ」

 悪魔の端正過ぎる容貌が歪んだ。

「俺は嬢ちゃんを傷つけないし、傷つけさせないよ。契約だからな」

 それは悪魔の囁きだった。悪魔ソフィー・ジェルマンは、人間であり、背教者であり、背約者であり、最初の契約者にして至高の契約者ヴァレンシュタインに魅入られた。ソフィー・ジェルマンは孤高の悪魔だ。運命を知る知と魔術に長けたノルンだ。だから、彼女は純粋な力に惹かれる自分を恥じていた。魔人ガウシアンが製錬した最終決戦兵器、魔剣バルムンクと契約し、その刃で斬れぬものは無いという魔剣グラヴィウスと契約した、不死の怪物ヴァレンシュタインと悪魔ソフィー・ジェルマンは契約するのは必然のことだった。だが、それは彼女にとって不本意な契約だった。それでも彼女は自由意思だけは確たるものとして持つつもりでいた。ではあるのだが、契約側と契約者との関係を突き詰めて行くと、どちらの側ももはや孤高を保ちえないのだ。ソフィーは契約さえなければ孤高の悪魔でいられたはずだ。ヴァレンシュタインは契約さえなければ孤高の背約者だった。神の千年紀が過ぎ、人間は悪魔と契約する。まるで、埋め切れない心の隙間を埋めるように。悪魔は人間を魅了する。そして背約者は悪魔を魅了する。悪魔は契約を破ることが出来ぬゆえ。

 死体が全て村の中央に運ばれると悪魔は死体を中心に五芒星を描いた。そして悼むような悲しそうな顔をしながら声を張り上げた。

「光あれ」

 光があった。激しい光が五芒星を中心に村へと踊った。やがて、光が弱まると死体の群れが、使者たちの塔が、淡い燐光を放って滅んでゆく。塵は塵へ。全てが粉微塵になって消えてゆく。

「主よ。では、行きましょう。王弟の館へ」

 ヴァレンシュタインが肩をすくめた。ヴァレンシュタインは血に飽かない。彼は、滅び去った使者たちの跡に悲しそうな視線を注いでいたが、やがて悪魔ソフィー・ジェルマンと二人の捕虜に掛け声をかけた。農奴上がりの背約者はその王国の王弟たるギーゼルヘルを攻めるべく立ち上がった。背約者と悪魔。たった二人の出陣だった。だが、王弟ギーゼルヘルにとっては十分脅威となる戦力だった。何と言ってもヴァレンシュタインはたった一人の兵団なのだから。

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