9色目-絶望と笑顔-
──どれくらい時間が経っただろう。意識も記憶も覚醒した。きっと午後の授業なんて終わってるんだろうな──。美影に嘘吐いちゃった……。ごめんねって言いたい。
『なら──早くその瞼を開けなさい。待ち人がいるのでしょう?』
──そんな声が聞こえたような気がした。
意を決して瞼を開ける。──どうか同居人がそこにいませんようにと祈って。
──いない……。よかった……。
結構時間が経ったみたいだ。外はもう暗い。日当たりの悪いこの階段も真っ暗だ。よくこんなところにいられたものだと我ながら感心する。
「いたっ……」
起き上がろうと力を入れると身体のあちこちが痛んだ。打撲ばっかり。痣になってる。青かったり赤かったり。それでも何とかして起き上がるとポケットの中の携帯の電源を入れて時刻を確認する。もう夕食時だ。同居人はいないだろう。
──今のうちに行こう。
ぼくは着替えとかを適当なカバンにまとめると家を出た。今晩はあの家にいたくない。だから泊まるところを探す。
「美影に謝りに行かないとね……」
独り言を言って目的地を定める。まずは家から徒歩十分もかからない近所に足を運ぶことにした。
ピンポーン。
インターホンを押して玄関先で待つ。少しすると美影が出てきた。
「梓?」
扉を開けるなり美影はぼくの名前を呟いた。
「美影、突然お邪魔してごめんね。入れてくれる?」
「いいよ。どうしたの? その痣……」
「中で説明するよ」
そう言うと美影はすぐに一階の部屋に通してくれた。相変わらず飾り気のない部屋だけど居心地がいい。何故か落ち着く。
「何か飲む? 麦茶と緑茶しかないけど」
「麦茶ちょうだい」
「わかった」
美影は中身がスカスカな冷蔵庫から麦茶のパックを取り出して二つ並べたコップに注ぐ。
「はい」
「ありがとう」
手渡された麦茶は数日間ずっと冷やされてたみたいだった。一口飲んでテーブルにコップを置き、話を始める。
「こんな時間に来てごめんね。実は同居人の機嫌を損ねちゃって。それでこの有り様なんだ」
「──痛む?」
「まだ少し。力を入れると痛いかな」
「手当てはしたの?」
否定を表すために首を横に振る。
「ちゃんと手当てしよう? 今救急箱持ってくるから……」
「……ありがとう」
美影が部屋を出るのを見て、ポツリと漏らす。自然に出てきたありがとうは初めてだったかもしれない。
「痣になってるところ、ちゃんと冷やして。これ、使っていいから」
少しして戻ってきた美影の手には救急箱ではなく、氷のうがあった。冷凍庫を開けてせっせと氷を詰める美影を見てると、出会った時よりも人間らしくなったと思える。
「はい」
美影は氷を詰めた氷のうをぼくの頬に当てる。ひんやりとして気持ちがいい。
「ありがとう。自分で押さえるから大丈夫」
「無理しないで」
美影はぼくの言葉に従わず手を離さない。まるでぼくの心を読み取ったみたいだった。ぼくは上げかけた手を下ろした。
「美影……聞いてくれる? ……何があったのか……」
「ゆっくり──梓のペースで話して。全部ちゃんと──聞くから……」
「うん……。ぼく、前にお酒飲まされた話したでしょ? それから同居人が怖くなっちゃって、避けてたんだ。でも今日──会っちゃったんだ──」
「朝に?」
「そう。普段は生活時間が違うからめったに会わないんだけど、偶然会っちゃったんだ。階段のところでばったりと──ね。玄関先での会話が全部聞こえてたみたいでさ、起こしちゃって煩いって言われて殴られたり蹴られたりしたんだ。それでこの痣ができた」
「顔以外にもいっぱいあるんだね……」
「……ごめんね」
「え……?」
「午後から学校行くって言ってたのに、行けなくて──約束破って──ごめんね……」
かしゃん、と氷がぶつかる音がしたと思ったらぼくの身体をぬくもりが包んでいた。
──ぼくは美影に抱き締められていた。
「泣きたい時は──ちゃんと泣いて。笑いたくない時に笑わないで。でないと──壊れちゃうから……」
いつの間にか涙が頬を伝っていた。感情では制御できず、ボロボロと溢れ出てくる。今まで背負ってきた無意識の苦しさを吐き出すように、涙はこぼれ落ちた。
「……うっ、うぅ……」
「そう、ちゃんと泣いて──。辛いときはつらいって言って。──でないと、壊れちゃうから……」
美影は同じように繰り返す。何か大事な言葉のように、ゆっくりと。
「もう──大丈夫?」
「グスッ……。うん……。ごめんね、みっともないところ見せちゃって」
「梓は無理しすぎ。もう少し私を頼ってくれてもいい」
美影は少しむくれて言った。そっか、頼られないことの方がつらいときもあるのか。気付かなかった。
「明日はきっと、大丈夫だから……。今度こそ待ってて」
「うん。ちゃんと待ってる。梓は嘘はつかないもん」
「でも、今日……」
「あれはハプニングがあっただけだよ」
「そっか……。ねえ──美影、何か変わった?」
今日の美影は、なんだか明るかった。今までの重みというか、影がなくなってなんだかすっきりとしている。
「そう思えるならきっと梓が変わったんだよ」
美影は微笑んだ。しかしその笑みもいつもと違って明るいものだった。
「そっか。でも、美影も変わったんだよ」
「だとしたらきっと梓と出会ったから変わったんだよ」
「ぼくと──出会って?」
「そう。人間を変えるのは出会いだけだから。それが物であれ人であれ、そうなんだよ」
「それもお姉さんの言葉?」
「そうだけど、今は私の言葉だよ」
「そっか。──ねえ、今日、泊まってもいい?」
「いいよ。そんなことがあったなら帰りたくないもんね」
「ごめんね、何から何まで……」
「梓が教えてくれたんでしょ? こういう時はありがとうって言うんだって」
「──そうだったね、ありがとう」
「うん」
美影は嬉しそうに笑った。その笑顔は今までの感情を抑えたような笑いかたじゃなくて、心の底から笑えたみたいだった。
「美影、やっぱり変わったよ。前よりちゃんと──自分を出せるようになってる」
「そうかもね。梓のおかげだよ」
この時、美影の笑顔をもっと見たいと思った。それと同時にこの笑顔を描きたいと思った。そういえばしばらく描いてない。最近ゴタゴタしてて描けてなかったもんね。
「ねえ、美影。絵のモデルになってよ」
「……私が?」
「お願いできないかな? しばらく描いてないから、なにか描きたくてさ」
「どうして、私?」
「美影の笑顔見た時にさ、描きたいなって思ったんだよ。ひまわりが咲いたみたいにさ、キラキラしててきれいだったんだ。だから……」
「そう……なんだ……」
「嘘じゃないよ。本当にそう思ったんだ」
「わかってる。私だって嘘くらい見抜けるもの」
「美影……」
「いいよ、やってあげる。その代わり、完成したら見せてね」
美影は再び花が咲いたみたいに笑った。ああ、やっぱりきれいだ。人が心から笑った顔というのは、世界中の何よりもきれいだ。あの夕焼けよりも、ずっとずっと。
「じゃあ、毎日美影の家に来てもいい? 美術室にはそろそろ立ち入れないからさ」
「わかった。泊まってもいいよ?」
「それはさすがに悪いからやめておくよ」
「どうせ私一人しかいないし──それに梓、帰りたくないでしょ?」
確かにその通りだけどそれじゃまるで──。
「──一緒に住んでるみたい──だよ──」
「えっ……」
「えっ……?」
もしかして口に出してた!?
「──確かにそう──見えるね……」
美影はうつむいてしまった。髪の毛の間から覗く顔は真っ赤だった。失言による羞恥心か、それとも別の理由かはわからない。
ぼくも心なしか顔が熱かった。
その時不意にぼくのお腹が鳴った。そういえば朝から何も食べてない。
「晩ごはんに──しようか──」
「そうだね。──ねえ、梓」
台所に立とうとしたところで呼び止められた。振り向くと美影はまだ恥ずかしそうにモジモジとしていた。
「どうしたの?」
「その──私にも料理──教えてくれない?」
「じゃあまず、お米を研ごうか」
「どれくらい?」
「明日の朝ごはんの分も一緒に炊くから、三合かな」
「わかった」
美影は慣れない手つきで計量カップにお米をすくってザルに入れる。
それを水道水で丁寧に洗っていく。美影の手つきはたどたどしくも丁寧で、もともと器用だということがわかった。
「どれくらい──洗うの?」
「水が透明になる位──っていうのが理想なんだけど、そんな時間もないから三回から四回洗えばいいと思うよ。完全に透明な水になるには相当時間がかかるから」
「わかった。じゃあ、あと一回だね」
「うん。それくらいでいいと思うよ。あとは経験と勘かな」
「梓はいつもそうしてるの?」
「まあね。──研ぎ終わったら炊飯器にお米を移して、お米と同じ量の水を入れて」
「カップで三杯?」
「そう。そしたら十分間水にお米を浸けておいて」
「わかった」
手際よく教えた通りに手を動かしていく美影は本当に要領がいいのだと実感した。ぼくは美影に比べるとだけど飲み込みが遅いみたいに思えた。
「お米を浸してる間に味噌汁を作るよ。鍋に水を入れて」
棚から取り出した鍋を軽く水洗いして水を入れる。美影は──料理をしたことがないわけじゃない──。そう思った。初心者ならそんな工程を知らない。
「具は豆腐とこの間のワカメ──まだあるよね?」
「これ?」
美影は引き出しから乾燥ワカメを取り出す。
「そうそう。それと、出汁のもとを入れて……」
その後も美影はぼくが指示した通りの手順で料理を進め、無事に完成した。
「──これで、完成だよ」
「──梓みたいに上手に作れなかった」
「初めてなんだし、しかたないよ。確かに見た目は不揃いだけど、美味しそうだよ。気持ちがこもってる。あんなに丁寧に作ったんだから絶対美味しいよ」
「──食べてみよう」
「そうだね、いただきます」
──その後、ぼくらは食事を終えるとシャワーを浴びて眠った。今日くらい、いい夢を見れたら、なんて思いながら。
翌朝は美影を起こして朝ごはんを食べて美影の家を出た。荷物を家に取りに行ってそれから登校した。
二日ぶりの学校は何も変わっていなくて、相変わらずクラスメイトの視線は冷たいものだった。
「二日間も休んでごめんなさい。準備、大分遅れてしまったので、これから挽回していきましょう。それで、展示内容ですが、クラスアートというのがぼくたち実行委員が選らんだものですが、どうですか?」
「これなら当日、教室を開けておいても問題はありません。準備さえきちんとやれば──言い方はアレですけど、当日は遊び放題です」
「その辺を踏まえて多数決で決めます」
──結果は言うまでもなく、クラスアートに決定した。テーマも以前決めた「神話」で決まり、早速今日から製作開始だ。
夕暮れの教室。西日が差し込む空間の一角でぼくらは話をしていた。
「じゃあ、ぼくがデザインしていいんだね?」
「うん。私には無理だもん。梓の方が知識もあるだろうし」
「わかった。明日までに考えてくるよ」
「お願い。──ねえ、梓」
改まって美影はぼくを呼んだ。
「どうしたの?」
「その……梓は、いじめられてる──でしょ? その犯人──知りたくない?」
ドクン、と、心臓が大きく鼓動を刻んだ。
「梓が休んでる間に私、犯人見つけたの……」
それは──。それは、衝撃的な──ことだった。知らなければ、耐えるだけで幸せに過ごせるかも知れない。
犯人は必ずこのクラスにいる──。それは紛れもない事実だろう。しかしこれから人を動かす立場にいるぼくは、それを知ることでうまく人を動かせるのだろうか。──無理かも知れない。自信はなかった。
「だ──誰──?」
それでも──。それでも、ぼくは好奇心には勝てなかった。自分を追い込むと知っていながらに知りたいという探求心は抑えられなかった。
──それを知ってどうなる?
頭の中では警鐘が鳴り響いてる。しかし口から出てくる言葉はそんな意思とは無関係に、自傷行為を促進する。
「梓をいじめてるのはね──」
気付けば日は暮れていた。
「それは──」
カウントダウンのように、美影が繰り返すのを聞く。時間の経過に伴って緊張感も増幅していく。
「うちのクラスの──」
「お前たち、まだ残ってたのか? もう遅いんだし早く帰れよ。ほら、教室の鍵閉めるぞ。急げ急げ」
その真相が聞けると思った刹那、教室に担任が入ってきて帰宅を促された。
今は急かされるがままに帰る準備をしている。
担任が施錠するのを確認したあと、ぼくらは帰路についた。




