10色目-紫が消えた世界-
帰り道、ぼくらはとても静かだった。どちらも口を開かず、ただ黙々と足を進める。
街灯のない暗い夜道を無言で歩くというのはわりと怖い。
「──じゃあ」
うつむいて歩いていると、不意に隣を歩く足音が消えた。同じく足を止めて振り替えるといつもの分かれ道に到達していたことに気付く。
「──また、明日……」
美影消え入るような声でそう言うと家までの道をトボトボ歩いていく。その背中はとても寂しそうに見えた。
「じゃあ、またね」
ぼくの声もまた、小さくて消えそうだった。
帰ると家の明かりはついていなかった。同居人はちゃんと務めに出たようだ。
いないことにホッとしてポケットに入っていた鍵で玄関を開ける。
部屋に入って荷物を置いて、カバンの中からスケッチブックと色鉛筆を取り出してクラスアートのデザインを決めることにした。
アルミのケースを開けるとそこにはいつもと同じようでいて違う光景があった。
(ああ……また──か……)
そろそろ慣れてしまいそうなその現象。医者にもわからないその現象。そして、何かある度に必ず起こる、あの、現象。
──今度はぼくの世界から──紫が消えた。
どんどんと描けなくなる。どんどんと見えなくなっていく。寂しさ──虚しさ──そんなありきたりな言葉じゃ言い表せない感覚がぼくを蝕んでいく。
「神様なんて──いるのかな……」
ぼくから色を奪った犯人がいるとすれば、それはきっと神と呼ばれるものに違いない。これから描こうとしている世界ではそんな理不尽なことをする神が主役だ。許せなかった。そんなものをこれから描こうとはしたくなかった。でも自分で言い出してしまったことだから仕方ない。責任は取らないと。
鉛筆を握る手に力が入る。それこそ折れそうな程に。
怒りで震えた腕は、知らず知らずのうちに真っ白い画用紙に思いの丈をぶつけていた。
既に見えなくなった色も合わせて全ての色を使ってぼくは描いた。どうなっているのかなんてわからない。見えない色はどれも同じに見える。明日にでも美影に見せて評価してもらおう。
ぼくは色鉛筆を置いた。今持っていたのは色のわからないものだった。灰色にしか見えない。
出来上がった絵は昨日見た星空を天馬が駆けるというものだった。配色がどうなってるかわからないけど一応それっぽく見える。
「……こんなのでいいのかなぁ……」
自信は当然のようになかった。料理に例えるとそれは、味見をしないで客人に手料理を振る舞うことと同じだから。それでもできることなんてこれしかない。ぼくはスケッチブックを静かに閉じて部屋の明かりを消した。
*
翌日、描いた絵を見せると好評だった。美しいと言ってもらえた。しかしぼくの心は晴れなかった。
少しずつ、消えていく感覚。それはそのうちぼくのすべてを飲み込んでいくに違いないだろう。
誉められた嬉しさはもちろんあったけれども、それも空っぽのような表面的な感情にすぎず、心には響かない。
「──あのね、梓……」
「どうしたの?」
昼食を摂っている途中にも関わらず、美影が箸を置いた。それほどまでに大事な話があるのだろう。
「──梓、私と一緒に住まない?」
──それはとても唐突な提案だった。
「あ、あの部屋でじゃないよ。遠縁の親戚がね、私を引き取りたいって言ってくれたの」
「それで──ぼくも一緒に? それは悪いよ」
子供一人を養うのには大変お金がかかることをぼくは知ってる。ぼくの毎月の仕送りだって多くの親戚が少しずつお金を出し合って成り立っているのだから、それを一つの家庭で賄うというのはなんとも負担が大きいのだ。
「そこの家はね、子供が欲しかったのに恵まれなくて、養子を欲しがっているの。この話をされた時、私は一度断った。その家はここから遠くて、とてもじゃないけれどこのままこの学校には通えない。梓とも会えなくなっちゃう。その旨を伝えたら、梓のことを詳しく教えてほしいって言われて知ってることを話したの。梓が両親を亡くしていることを知ったら、その人たちは梓も一緒に引き取ってもいいって言ってくれた」
思わず箸を落としそうになった。こんな都合のいい話があるだなんて。こんな世界だけどまだまだ捨てたものじゃないなと思った。
「ほ、本当にいいの?」
できることなら今すぐにでもあの家を出たい。この話が本当ならばとてもありがたい。
「いい。あの人たちなら私たちも今までみたいな苦労を強いられなくて済むし、何より梓は幸せになれる」
ぼくの家庭環境は美影も知っている通りだ。
しかしあの家を出るには一応保護者となっている親戚に話をしなくてはいけない。
「その話、ちょっと待ってもらっていいかな? ぼくの方の親戚に話をつけないといけないからさ」
「わかった。向こうも返事はいつでもいいからよく考えてほしいって言ってたし」
「うん、ありがとう」
それからぼくらは他愛のない話をして昼休みを過ごした。路地裏に住み着いた猫に名前があるとか、文化祭の展示のことについてとか、まあ色々と。
美影にされた話は今週末にでも話をつけにいくとしよう。これでぼくにもまともな家族ができるという胸の高揚感は麻薬のようにぼくに浸透して授業は手につかなかった。
放課後、決まった図案に従ってぼくと美影は教室でクラスアートの制作を開始した。頑張れば四日で完成しそうだ。ただし絵の具が乾けばの話だが。この時期なら乾かないなんてことはそうそうないだろうけど、たまに厚く塗りすぎると乾かないことがある。そこだけには気を付けないといけない。
作業に熱中すること二時間。時計の針は六時半を指していた。
(ラフは完成したから明日から塗りに入ってそれから……)
「梓」
「………………」
「梓!」
「わっ! な、なに? 美影」
「そろそろ最終下校時刻になるよ。校門閉まっちゃう」
「わかった。すぐに片付けるよ」
片づけを始めた時間が遅かったから帰りも必然的に遅くなった。
帰宅して荷物を置くと普段は使わない携帯電話を取り出して電話帳の中から必要な連絡先を指定する。数回のコールで通じたから話を始める。
「あ、もしもしおじさん? ……お久しぶりです。実はお話がありまして……」
ぼくは美影からされた話を伝えた。家族で話し合うから少し待てと言われ、返答が来たのは夜中の十二時だった。答えは構わないとのことだった。きっと親戚の間ではぼくは重荷でしかなかったのだろう。それがいなくなってくれるのだからありがたいことこの上ないだろう。
ぼくはその旨を翌日美影に伝え、美影はその場ですぐに親戚に意思を伝えてくれた。ぼくらは文化祭が終わったらその家に行くことになる。転校することになるけれど、ぼくは気にしない。元々友達なんて美影くらいのものだから後悔も何もない。その唯一の友人と一緒に行けるのだ。これ以上に嬉しいことはない。
美影が電話を切るとぼくらは堪え切れなくて笑った。心の底から、喜びという感情を素直に外に出した。帰り道の途中にある公園にその声は木霊して恐らく近所迷惑ともとれるほどの騒音になったに違いないだろう。でも、そんなの気にしなかった。今だけは子供のように無邪気に笑わせて欲しかった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「そうだね。もう遅いし」
ぼくらはある程度の時間が経ってから帰宅した。重かった心が少しだけ軽くなったような気がした。少しだけど元気が出たような気がした。
そんな気持ちがこれからずっと続くんだと思うと嬉しくて、さっき散々笑ったにも関らずまた笑いがこみ上げてくる。幸せにようやく手が届く、そう思うと自然と口角が上がる。あと少し。あと少しで望んでいた生活が手に入るのだ。美影の親戚には感謝しなくてはならない。
幸せと不幸の割合っていうのはこの世に釣り合うだけの量しか存在していないとぼくは思う。大きな不幸を味わった人間はいつしかそれに見合うだけの幸せに恵まれるのではないだろうかと、そう考えている。誰に教わった訳でもない、ぼくが今までの経験で培った知識といってもいいかもしれない。だってそうでもしないとやってこられなかった。両親が同時に居なくなったとき、同居人がぼくを殴ったとき、そうやって自分で希望を見出さないと心が腐りそうだった。
そこらへんは美影も多分同じだと思う。美影もぼくと同じように一般的な家庭とはいえない環境で育っている。だから人より苦労だってしているだろうし、不幸だと自分を呪ったことだってあるだろう。でもきっと美影はこのことを知らない。ただ不幸に身を任せ、流されてきたのだろう。抗う術も見出せず、その理不尽な運命をただ受け入れていたのだろう。出会った当初の美影は感情どころか心そのものを今にも手放してしまいそうだった。いや、実際手放そうとしていたのは命だったけど。
とにかく、ぼくも美影も大きな不幸を、苦悩を味わってきたわけだからこれから待っている幸せというのは大きすぎるといっても過言ではないかもしれない。
期待に胸が躍る。その日の晩は興奮して眠れなかった。
それでもやっぱりいつの間にか眠っていたみたいで、気づけば外は明るみ、開けていた窓から外の冷たい空気が流れ込んできていた。心地いいとまどろんでいたけどそのうち意識がはっきりとしてきた。
夢――ではないよね? 本当のことだよね? ぼくは――家族ができるんだよね?
試しに自分の頬を思い切り抓ってみる。とてもいたい。どうやら夢ではないようだ。
文化祭はもう少しで始まる。それまでに引越しの準備はしておかなくてはいけないだろう。必要な荷物は少ないけれどもまとめておかないと。少しずつでも準備しないと向こうに迷惑がかかる。養って貰うんだから余計な迷惑は掛けられない。
クローゼットを開けて今は着ない冬の洋服をハンガーから外して丁寧に畳む。そうして積み上がった服はとても少ない。それほどにぼくは物欲に関してだけど無欲だった。望まないし欲しがらない。ぼくはどこかで生きているというよりは生かされているという思考が働いているらしく、自分の意思が置き去りになっている。
思春期という多感な時期に色々と普通じゃない境遇に身を置いているならばそれはそれで当然かもしれない。でもぼくはなるべく普通の生活を営みたかった。そんなことはないと否定していても意識の根底ではそう思っている自分がいる。
クローゼットの中の服を整理し終えるとそれを衣装ケースに入れた。
そういえば同居人にも居なくなることを言っておかないといけないけれど、ぼくは出来ることならあの人には会いたくない。お酒を飲まされてからあの人は枷が外れたみたいにぼくに対して遠慮がなくなった。勿論それは暴力行為に関しての話だ。それ以外はいつも通りで何一つ変わっていない。生活時間も、仕事の内容も。直接会うのなんて耐えられないから置手紙でもしておこう。
机に向かって適当なノートの切れ端に居なくなることを伝えるメッセージを綴る。なるべく同居人の神経を逆なでしないような言葉を選んで、丁寧に書き進めていく。完成した手紙は読み返せばとても短いもので、それでも最低限のことを伝えるには十分なものだった。書き上げたそれをリビングのテーブルの上に置いて再び自室に戻った。読んでくれるかどうか解らなかったけれどもとりあえず出来るだけのことはやった。これであの人から逃げることも出来るというわけだ。
その事実がぼくの心を再び軽くしてくれた。今夜は蒸し暑いけれども良く眠れそうだった。ここのところ悪夢やらなにやらであまりよく眠れていなかったから疲れも良く取れるだろう。




