8色目-漆黒の悪夢-
――ピンポーン。
眠っていたぼくを起こしたのはインターホンの音だった。
あけるのも億劫な目をどうにかあけて玄関の扉をあける。
「は~い……って……美影?」
扉のむこうにいたのは美影だった。
「遅くにごめんなさい……。具合はどうかと思って……その……」
美影の言葉は途切れ途切れで目も泳いでいた。何かあったのかな?
「お見舞いに来てくれたの?」
「…………うん」
「ありがとう。ぼくは大丈夫だよ」
「でも学校を休むくらいだから……」
一瞬、話してしまおうかと思った。でも、美影に会ってからこうなったなんて言ったらどうなるか。そんなの決まっている。美影を傷つけるだけだ。そんなのいやだからなにも言わないと決めたのに。
話したら楽になるなんて――救われるなんて思っていない。
「たいしたことないよ。朝は頭が重くて休んじゃったけど、明日はちゃんと学校に行くよ」
「……本当に?」
「嘘はつかないよ」
「……わかった。ゆっくり休んでね。じゃあ、また明日」
「お見舞いありがとう。また明日」
美影はもう帰るみたいだった。本当に様子を見に来ただけ――だったみたいだ。
美影が見えなくなるまで玄関先で見送り続けた。
嬉しい――と、素直に思えた。人が幸せを実感する瞬間っていうのはこんな時なんじゃないかってつくづく思う。何かあった時に心配して様子を見に来てくれる――これが友達ってものなのかな。
もう以前の幸せなんて思い出せないぼくにはわからないけど、今は充分に幸せだった。
その夜、夢を見た。悪夢だった。
何もない真っ暗な空間にぼくが一人だけ立っていた。周りに何も見えないのに、自分だけはしっかりと見える。
誰もいない暗い暗いその空間にいる理由はわからなかった。でも、ああ、夢なんだってただ漠然と思った。
目を覚ます方法なんて知らないからとりあえず暗闇を脱する方法を探す。歩いて行ったらどこか知ってる場所に行けるかな……。
この先に安定した足場があるのかわからない。でもこのままこうしていてもしかたないから恐る恐る一歩踏み出す。足場が安定していることを確認してゆっくりと体重を踏み出した足に移動させる。
一歩目を踏み出してしまえば二歩目からは案外すっと足を進められた。とはいえかれこれ歩き続けてどれくらいの時間が経ったことだろう。景色も明るさもなにひとつ変わらない。いい加減うんざりしてきたその時だった。
美影と一緒に見た夕日がこんな真っ暗な世界を照らした。
辺りはぼくたちが住んでいる町が一望できる丘の上に変わっていた。隣には美影がいる。微笑んでいる。その温和な笑みに思わずぼくも笑ってしまう。ああ、美影がいてくれてよかった。毎日がこんなに楽しくて、ぼくはとても幸せだ。
しかしその幸せな時間は一瞬で崩れ去った。
「ねえ――梓……」
「今、幸せかい?」
オレンジ色の優しい光が包む風景には亀裂が入って、隙間からはさっきまでいた真っ暗な空間が覗いている。その隙間からは死んだはずの両親の姿が覗いており、無機質な眼でぼくを見ている。
怖くなって美影のほうを見ても美影はさっきの幸せそうな微笑を顔に貼り付けたまま動かない。まるで一枚の絵画のようだった。
「ねえ――答えて、梓」
「お前は今、幸せか?」
壊れていく美影の笑顔を尻目に、両親のビー玉のような目をもういちど見る。両親からの問いは言葉の刃のようにぼくの心に突き刺さっていった。まるでささくれを少しずつはがされているようなチクチクとした小さな痛みとして心に蓄積していった。
「ぼくは――――幸せだよ……」
「――そう」
「――そうか」
答えを告げると両親は俯いてしまった。
しかし次の瞬間、ぐわっと顔を上げると目を見開いて弾丸のような勢いでぼくの目の前に迫ってきた。あまりにも速すぎてぼくは動けず、その場で固まっていた。
「父さんたちを置いて幸せになっていいと思っているのか?」
「母さんたち悲しいわ。梓は私たちを置いて一人で幸せになってしまったなんて。私たちはそんな風に育てた覚えなんてないわよ」
両親の声は恨みがましかった。もっと生きていたかったのに死んでしまって、幸せになっていないことを嘆いている。そして幸せになろうとしているぼくにその怒りや恨みをぶつけていた。
次々と空間は壊れ始めて、最終的にはオレンジ色の欠片が足元に散らばった。
両親とぼく。対峙したぼくらは無言のままそこにただ、いた。
どうしてだろう、怖い。五年もの間会えなかった父と母に会えて、嬉しいはずなのに。会いたかったはずなのに。それなのにどうして――どうして――こんなに――――怖いのだろう。
「――父さんと母さんは……本当にぼくの父さんと母さん?」
さきほどから気になっていたことを思い切って訊ねてみた。どうにもぼくが知っている父さんと母さんではないような気がしていた。どこか――なにかが違っていると直感が告げていた。
「何を言うんだい梓。父さんは父さんじゃないか」
「母さんもあなたの母さんよ。貴方をお腹を痛めて産んだ母さんよ」
――嘘だ。声が――声が明らかに――違う。
確かに父さんと母さんそっくりの声を真似しているけれど、これは父さんと母さんの声じゃない。うわべだけを取り繕ったそんな声が父さんと母さんの声なわけがない。
どっちも声にぬくもりがあった。暖かかった。陽だまりの中でうたた寝している時のようなまどろむような心地よさがあった。それなのに、目の前に居る父さんと母さんのような「何か」にはそんな暖かさなんてなかった。
「――違う」
「どうしたの? 何が違うの?」
「お前らはぼくの父さんと母さんじゃ――ない!!」
「どうしてそんな事を言うんだ? 正真正銘の父さんと母さんじゃないか」
「違う! あなたたちはぼくの父さんと母さんじゃない! 父さんと母さんはもっと優しくて、温かくて――そんな気力のない眼なんてしてなかった! いつだって生きることは楽しいよって、大人は楽しいよって言ってるようなそんな人だった!」
「――母さん、悲しいわ。梓がそんな子になってしまったなんて……」
「――フ……。フフ……。そうだよ。お前の言うとおり俺らはお前の両親なんかじゃない」
そのときおもむろに父の姿をした何かが笑い出した。そして真実を告げた。
「折角お前にいい夢を見せてやろうと思ったのにな。自分からぶち壊すなんてとんだバカがいたもんだ」
「いらない……そんな偽者、ぼくはほしくない」
「わがままな子ね。与えられるものを拒み、決して届かないものにばかり手を伸ばす。それで救われる人が何人いるのいかも知らずに」
「お前が求める幸せなんて、呆気なく簡単に崩れるだけだというのに。それでもまだ求めるというのか?」
「そもそも父と母を差し置いて幸せになることが可能だと本当に思っているの? あなたの両親だってもっと生きていたかった。幸せになる権利は持ち合わせていた。それなのにあなたはもう時間を進めることもできない両親を差し置いて一人で勝手に幸せを掴もうとしているの? そんなこと許されるはずがないに決まっているじゃない。私達が壊してあげるわ」
「たとえどれだけ幸せになっても、俺達はそれを壊してやる。お前に幸せになる権利なんて――ないんだよ」
二人の冷たくて何も映っていない無機質な目に吸い込まれるような感覚で、ぼくはあの世界から抜け出すことが出来た。
ハァ、ハァ……。
自室のベッドの上で目を覚ましたぼくは全身汗だくだった。それは真夏の暑さとは無関係の、恐怖のせいであることはわかりきっている。
「なんて……夢だ……」
ぼくは幸せになってはいけないっていうの? どうして? 父さんも母さんもあの日々が幸せじゃなかったっていうの? そんなの全然解らないよ!
ぼくの顔は汗と涙でぐちゃぐちゃになっていた。
久しぶりに父さんと母さんの顔を見たっていうのに、ちっとも楽しくなかった。まさしく悪夢だ。どうしてこんなひどい夢を見たんだろう……。
時計を見ればまだ深夜だった。午前二時。ちょうどというわけではないけれど、だいたいそんな時間だった。
汗でぐっしょりと濡れたパジャマを脱いでたんすから新たにTシャツを取り出し、着替える。もう一度眠ろうと横になるものの、さっきの夢の影響が強すぎてなかなか寝付けない。というよりも、単純に眠るのが怖い。またあの夢を見るのではないかと思ってしまう。そんなはずはないと強く自分に言い聞かせてもダメだ。怖くて怖くて眠れない。だからといってこの夜中に起きているのも怖い。なんだか夢の中に出てきたあいつらが暗闇の中にぼんやりと浮かんできそうで暗いところを見られない。
結局、その後は一睡も出来ずに朝日が昇ってしまった。顔を洗おうと洗面所に向かい、鏡を見ると眼のしたには今までに見たこともないくらいの隈ができていた。どうやって隠そうか。これを見たらきっと美影は心配する。ぼくは余計な心配はかけたくなかった。ただでさえいじめられていることを美影は気にしているというのに。
そんなに気にしても仕方ない。隈を隠す方法なんて知らないし、ぼくはそのまま台所に立った。こんな状態だから食欲はない。だから朝ごはんは食べないつもりだけど、お昼ご飯は作らないと。美影が楽しみにしてくれている。
正直食材を見ると吐きそうだ。お酒を飲まされたあの時とは違う気持ち悪さがお腹のあたりにある。でも耐えた。耐えて、料理をして、いつものお弁当箱に詰めていく。いつものように二人分。
お弁当が完成したとき、ぼくは緊張の糸が途切れたのか、我慢していた吐き気が限界に達した。すぐにトイレに駆け込み、空っぽの胃から胃酸を吐き出す。それでもなお収まらない吐き気を収めようと薬箱の中の胃薬を飲んだ。
少し収まってきたところでぼくは鞄を掴み、家を出た。朝ごはんを食べていない分、いつもより少しだけ早い時間だった。美影には当然会わない……はずだった……のに……。
「……梓?」
視線の先には美影がいつもと変わらぬ姿で立っていた。
「美影……どうして……」
「目が覚めてしまったから……」
最悪だ。この体調のことを知られたくなかったのに。
「具合はどう? よくなった?」
「……うん。もうすっかりよくなったよ」
実際元気ではないけど、美影の手前でそんな素振りは見せられない。笑顔で元気だと錯覚させる。
「……嘘」
「え?」
「梓、無理してる。本当は元気じゃないんでしょ?」
「……うん」
美影はどうしてわかったのだろう。
「無理しないで」
上目遣いにこちらを見てくる美影の顔を見たら、嘘を吐いてた自分が恥ずかしくなった。そっか、美影の前でまで虚勢を張ることはないんだ。
いつの間にか、美影の前では格好をつけたいと思っている自分がいたらしい。でもそんなのみっともないだけだ。人は独りでは生きていけないのだから。時には寄りかかることも必要なんだ。
「ありがとう、美影。午前中は休むよ。午後になったらちゃんと学校に行く。だからそれまで待っててくれる? あ、これ、お弁当は作ったからさ」
ぼくはさっき作り終えたお昼ご飯を美影に渡す。食欲がなかったから美影の分しか作っていない。
「これ……私の分?」
「うん。食欲なくてさ。食べれるか自信なかったから美影の分だけ作ったんだ」
「……ありがとう。ゆっくり休んでね」
「うん。美影」
言いたいことを言って踵を返した美影を呼び止めた。
「何?」
「――いってらっしゃい」
「――いってきます」
美影は驚いた表情をしたあと、にっこり優しく微笑んで小さな声で恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに返事をして学校の行った。
ぼくは美影が見えなくなったら玄関のドアを閉めて静かに二階に上がった。同居人を起こさないように足音を忍ばせていたにも関わらず、二階からは物音がした。
「なん――で……」
「何化け物見たみてえな面してやがる。俺が起きてることがそんなに珍しいか」
「そんなこと……ないけど……」
「けど何だってんだよ。言ってみろよ」
「何も――ない――です……」
「玄関先でごちゃごちゃとうるせえんだよ。女と乳繰り合うなら他所でやってくれ。俺は朝が嫌いなんだよ」
「ごめん……なさい……」
俯いて謝罪の言葉を述べる。
「あ? 何だって? 声が小さくて聞こえねえよ。言いてえことあるならはっきり言えよ」
同居人とはこの間のバーでの一件以来、関係がギクシャクしている。できることなrあまり顔を合わせたくなかった。
「ごめん……なさい……」
さっきよりも大きめの声で言った。
「聞こえねえっつってんだろ!! お前、俺が短気なの知ってんだろ!?」
「なんでもない……です」
遂には言うのを諦めた。
「途中で言いかけてやめるんじゃねえよ」
――理不尽だ。
「なんでもない……」
「言えっつってんだろ!!」
同居人は怒りに任せてぼくのお腹を蹴った。その蹴りは鳩尾に入り、ぼくは息ができなくてその場にうずくまった。
「うっ……」
「早くしろって言ってんだろ!!」
同居人はそれを合図のように暴力をふるう。うずくまっている間に蹴られ、倒れたところで襟を掴み上げられて殴られる。
頬は腫れ上がり胴体には鈍い痛みが走る。腹部の鈍痛は呼吸を邪魔して肺は空気を求めて収縮し、手足がその状況をどうにかしようともがく。しかしそれも力なくぐったりと重力に従って垂れ下がる。
意識が……なくなりそうだった……。朦朧としていて、身体が受ける衝撃はどこか他人事のように、実感のない出来事のようだった。どうしてぼくはこんな目に逢ってるの? なにかいけないことをしたの?
思考が子供の様に単純化していく。疑問にまみれた中で、ぼくの意識は完全に消失したのだった。




