忘れられない女
区役所の前を通り過ぎたとき、ふと視線が5年前のあの雑居ビルに吸い寄せられた。
スマホの日付を見る。
8月19日。
あぁ、そっか。この日がまた今年も来たんだ。
「ん? どうした?」
「あぁ、いや、なんでもないですよ」
「ふーん、なんでもないね…お前、今の自分の顔ちゃんと鏡でよく見たほうがいいぞ」
「そんな酷い顔してますか」
「あぁ、してるね。幽霊でも見たかってくらい真っ青だよ」
言葉に迷っている間、無数の足音がコツコツとアスファルトを叩き、容赦なく街の喧騒が2人を包み込む。
歌舞伎町は今日も男と女の欲望が渦巻く街だ。
無言の均衡を破ったのは僕だった。
「聞かないんですか?」
「ん? 何を」
「理由。説明。言い訳。全部」
「あぁ、別に。言いたいことがあるなら言うだろ? それに、この仕事してたら言いたくないことや、見たくなかった景色なんて腐るほどあるからな」
「そうですね…」
必要以上に踏み込まないのが佐竹の優しさだとわかっている。
この男から学んだことは数え切れないほどある。
けれども、今この瞬間、彼のその気遣いがささくれ立った心に塩が塗り込まれたかのように痛む。
「初めてだったんです。5年前の今日」
「は?」
「初めて、担当していた子が限界を迎えてビルの屋上から電話をかけて来た日」
「あぁ…そういうこと」
「そういうことです」
5年前の今日。視線が否応なしに吸い寄せられたあのビルの屋上。
そこから彼女は電話をかけてきて、電話を繋いだまま飛び降りた。
「だから今のスタイルなの?」
「まぁ、そんなところです」
「なるほどね、正義の味方ってやつか」
「そんなつもりはないっすよ…。けど、同じことを繰り返してたら死者を冒涜しているのと一緒でしょう?」
「確かにな。あ、俺こっちだからまたな」
「お疲れ様でした。今日はほんとありがとうございます」
「おう、いつでも繋いでやることはできるけど、後はお前次第だからな、仙田ちゃん」
「うす。おやすみなさい」
「おやすみ~」
佐竹の軽口が梅雨の湿気みたいに体から離れない。
正義の味方...か。僕が?
そんな気持ちにはなれないし、そんな大した存在じゃない。
僕は、ただ、罪悪感を減らしたいだけだ。
自分のせいだとわかっているのに、自分のせいだと思いたくない。ただの弱虫。
彼女のことを守れなかった僕に正義もくそもない。
「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき。大嘘つき。あんたなんか信じなきゃよかった」
あぁ、僕もそう思うよ。
「あんたなんか信じたから私は...私は」
そうだね。僕がこの道を君に教えた。
「開き直らないで! 私は女優になりたかっただけなのに…」
そうだったね。そっちでは大きなステージに立っている。そう信じてるよ。
「今更遅いんだよ…」
そうかもね。
「あんたのせい」
わかっているよ。
脳内に住まう彼女の残像が罵ってくる。
彼女が言った言葉と僕が彼女に言わせている言葉の境目はとっくに消えている。
あの日のリフレインなのか、彼女の声と残像を使って僕が僕を責め続けているのか、もはや判別する術もない。
それでいい。あの日のことを忘れてしまったら、それこそ僕は僕という人間を許せない。
今日はもう家に帰ろう。
今を生きている僕ができることは毎日をちゃんと丁寧に送ることくらいだ。
「見ているからね」




