第一章8 『覗き魔の性癖』
「……誰だァ? そこにいるのは……」
カタ、と渇いた音を立てて、机の上を羽ペンが転がった。
──痴女教徒、【陰癖】の罪媒介者ムツリヌス・ワイド・フトモモム
彼は前ボタンをこれでもかとキッチリと隙間なく閉め、襟を異様なほど高く立てた極厚のブラウンのトレンチコートをいかがわしく蠢かせた。そして、ゆっくりと、だが肉食獣が獲物の位置を特定するように確実に、アルクたちのいる暗がりへとその不気味な細面を向けた。
配置された魔導ランタンの淡い黄光が、奴の顔の半分を左右非対称に、異様なほど白く照らし出す。その手には、昼間も大聖堂のバルコニーから、粘つくような視線でクレアナを値踏みしていた黒塗りのワイド型双眼鏡が、禍々しく握られていた。
「……私の脳内ノートの記述が、酷く乱れている。クレア聖女、君は今、お家に戻ってお兄様を想い、枕を涙で濡らしているはずなのに……。なぜ、私の特等席に、その濃密な哀愁溢れる『匂い』が満ちているのかなァ……?」
「くっ……!」
クレアナは嫌悪感のあまり全身に鳥肌を立て、自身の細い身体を隠密服の上から両腕で抱きしめた。サファイアブルーの瞳が、怒りと侮蔑によって激しく燃え上がる。
奴はやはり、二人の足取りを正確に視ていたわけではなかった。ただ、その偏執病じみたストーカーとしての異常な嗅覚と執着心が、おじいちゃんの施したプロテクトすら突き破り、『本物のクレアナ』が放つ気配を鋭敏に察知したのだ。
だが、ムツリヌスは未だ、彼女のすぐ隣に立つ『アルク』という凶悪なイレギュラーの存在には気づいていない。
「……そこにいるのだろう? 恥ずかしがらなくていいんだよ。ふふ、お昼に私が見ていたことにも気づかず、あの高貴なドレスの裾をキュッと握りしめて……。君が今、どんな服を着て、どんな風に動いているか……私の双眼鏡の奥からは、1ミリも隠せはしないんだから……あは、可愛いね……」
「ニチャァ」と、皮膚が裂けるような嫌な音が聞こえるほど、ムツリヌスの口角が耳元まで歪んだ。奴が双眼鏡を構え、そのガラスレンズの焦点をクレアナへと完全に合わせようとした、その瞬間──。
「おいおい。人の連れを勝手に自分の汚い脳内ノートに書き込んでんじゃねえよ、この変態トレンチコート」
巨大な書棚の死角から、アルクが心底面倒くさそうに片手を挙げながら、のそりと姿を現した。
静まり返った地下室に、バキリと、ムツリヌスが驚愕のあまり羽ペンを握り折る音が響き渡る。
「──なんだお前ァァァァッッッ!!!!」
その瞬間、地下資料室の澱んだ空気が激しく咆哮した。
ムツリヌスの細い顔が、驚きよりも先に、顔中の血管を一本残らず引き千切らんばかりの凄まじい怒りと拒絶によって、ドス黒く跳ね上がった。全身の毛穴という毛穴から、ドロドロとした偏執的欲望塊のような気色の悪い魔力が噴出し、ブラウンのトレンチコートが爆風を受けたようにバタバタと狂ったように鳴り響く。
「消えろ! 消え失せろドブネズミがァッ!! なぜだ、なぜ私のノートの余白に、そんな自堕落で、無粋で、品性のカケラもない薄汚いオスガキの記録が入り込んでくるんだッ!? 汚らわしい! 吐き気がするッ!! 私は、高潔な者が羞恥心に悶える極上の防衛線(境界)だけを覗き見していたいんだッ! お前のような、最初からすべてを投げ捨ててダラダラ生きているような剥き出しの野生獣など、視界の隅に入れるだけでも私の繊静な脳が腐り落ちるんだよォォォッッッ!!」
血走った両目を肉眼の限界まで見開き、ムツリヌスはアルクという存在そのものを細胞レベルで毛嫌いし、激しい呪詛を撒き散らした。
ステルクが「ムツリヌスの覗き魔の権能から脅威を隠蔽するため」に、これでもかと頑固に施した直剣の多重梱包。その鉄壁のプロテクトのせいで、直前までアルクの接近を完全にハメ殺しにされていたという事実が、ストーカーとしての奴の異常に高いプライドを真っ向からズタズタに引き裂いていた。
「うわ、すっげえ嫌われようだな俺。それにしても、あんたのその性癖、輪をかけてドロドロしてて最悪だな。品性の塊みたいなこの都で、よくそれだけ不気味なむっつりエゴを溜め込めたもんだぜ」
アルクは小指で耳をほじりながら、ムツリヌスの怒号を完全に冷めきった目で見つめる。
だが、敵の切り替えの速さは異常だった。ムツリヌスはもうアルクなど眼中にないと言わんばかりに、クレアナへと疚しさ全開の視線を戻す。次の瞬間、奴のトレンチコートの裾が生き物のように蠢き、そこから何百もの「血走った目玉の触手」がドロドロと這い出してきた。それらはすべて、クレアナの動きやすい隠密服によって明確に強調された、美しい太もものラインへと吸い付くように向けられ、ギチギチと音を立てて視線を固定していく。
「……フゥ、フゥ……。隠そうと、したって……無駄、だよ……。君がどれだけ……気高き聖女を気取って、服の裾をキュッと握りしめていようが……その双眼鏡の奥の『私の目』からは……1ミリも、隠せはしない……。最初から全部見えているものなんて何の風情もない、無意味に見せびらかすだけの顕癖のガツリアスなんて無粋なバカだ! 僕が愛しているのは……君のように高潔な聖女が……羞恥心に顔を真っ赤に染めながら、必死に『見られたくない、恥ずかしい』って、衣服を抑える……あの、極上の防衛の仕草なんだよォォッ!!」
ムツリヌスが双眼鏡の側面を指先でトントンと叩く。その歪んだ『陰癖』の魔術熱量が部屋の因果を侵食し、クレアナの細身の革ズボンが、まるで強力な磁石で引っ張られるかのように引き絞られた。太もものラインが、これでもかと露骨にはだけた状態で奴の視線に固定されていく。
「くっ……あ、足が……動か、ない……っ!?」
クレアナは咄嗟に露出した太ももを手で隠そうとしたが、そうすればするほど、全身の筋肉が「見られたくない」という羞恥の負荷によって硬直していく。一歩も身動きが取れない。サファイアブルーの瞳から、屈辱と羞恥の涙がポロポロと床へこぼれ落ちる。
「あは、顔を真っ赤にして、太ももをガクガク震わせて……涙を流して……可愛いね……。君が昨日の夜、ベッドの中で……どんなに破廉恥な妄想をしていたか、この戦場のみんなに見せてあげたいなぁ……!」
傍から見たら、不快という言葉すら生ぬるい。人間の品性を根本から解体しにかかる、完全に常軌を逸した変態。そんな怪物にアルクは本気で呆れ果てていた。会話が成立する見込みなど最初からない。そもそも目的はこの怪物の討伐ではなく、書類の奪取だ。やるべきことをやってさっさと家に帰るに越したことはない。
「ああ、もういいわ。それより、あんたのその机の上にある引き出し……そこに、このハリネズミ聖女の『絶対に知られたくない秘密の書類』が入ってんだろ。悪いけど、それ回収させてもらうわ」
「──―ッ!渡さん! 渡すものかッ! あれは私が幾日も大聖堂の天井裏に張り付き、彼女の部屋の換気口から、彼女が夜な夜なベッドの中で行っている最高に破廉恥で、最高に不届きな『秘密の陰癖』を克明にハッキングした、私の命の結晶だぞォ!!」
ムツリヌスは狂ったように、机の上の黒いファイルを両腕で脂ぎったトレンチコートへと抱え込んだ。
「おい、クレアナ。あいつなんか今、サラッと夜な夜なベッドの中でやってる不届きななんちゃらって言ったぞ。お前一体裏で何やらかしたんだよ。俺、ホレスティアの森で拾った時、あんたのことクソ真面目な堅物だと思ってたんだけどなぁ」
アルクがジト目で隣を振り返ると、そこには、これまでの凛とした冷静さを完全に喪失し、顔面を耳の裏まで真っ赤に染めてぶるぶると震えているクレアナの姿があった。
「ち、違います……! あれは、その、奴の破廉恥な妄想です……! 私はただ、その、実家のベッドの中では、いつもお気に入りの、あの、ホレスティアの熊のぬいぐるみを、その、抱きしめないと眠れないだけで……っ!!」
「……あ、それ自分で言っちゃうのね」
アルクは深いため息をついた。
聖フランルクスの品性と規律を絵に描いたような高潔な聖女の、あまりにもギャップが有り余る可愛い秘密の全貌が、ストーカーのハッキングによって白日の下に晒されようとしていた。
「ふふ……ふはははは! 言ったな、認めたな! その恥ずかしい『現在』を、今すぐダイアネムに渡して、フランルクス中の全市民に公開してやるッ!! 隠されているからこそ、暴いたときの絶望が深くなるんだからねぇッ!!」
ムツリヌスが狂笑とともに双眼鏡を高く掲げ、そのガラスレンズが不気味な紫色に発光する。
「おっと、これ以上は品性が死ぬな。……じいちゃん。検問だけじゃなくて、こういう変態の対策にこんな梱包したんだろうな、あんたは最高のクソジジイだよ」
アルクは腰の直剣の柄に手をかけると、これでもかとガチガチに巻き付けられた防水布、呪符、何重もの麻紐の束を、野生的な腕力でバリバリバリッ!!と豪快に引き剥がし始めた。
一年前のあの夜、ホレスティアの森でおじいちゃんとエスペルが交わした密約。
教団の仕込みを内側からバリバリにぶっ壊すイレギュラーの刃が、ついに大聖堂の地下深くで、その圧倒的な輝きを放ち始めようとしていた──。
※
「……無駄だよ、無駄ァッ!!」
梱包をバリバリと剥ぎ取られた黒鉄色の直剣が、地下禁書庫の闇を鋭く裂いた。
アルクは鋭い踏み込みと同時に、迷いなくムツリヌスのトレンチコートの胸元へと向かって、一直線の鋭い刺突を放つ。無駄のない、容赦のない一撃。
しかし──。
キィィィィィンッッッ!!!
直剣の先端がムツリヌスの肌に触れる直前、大気の中に突如として、ガラスのように透明な、だが鋼鉄のように強固な『壁』が出現した。激しい金属音と火花を四散させながら、アルクの渾身の突きは、ムツリヌスのトレンチコートを1ミリも傷つけることなく完全に弾き返される。
「──っ!? 硬……ッ!」
衝撃で骨まで痺れる腕を押さえながら、アルクは後ろへとステップを踏んで距離を取った。直剣の刀身は健在だが、まるで分厚い城壁を真っ向から叩いたかのような凄まじい跳ね返りだった。
「ひ、ふふ……あはははは! 見ただろう! これが私の至高の芸術を守る絶対の盾──『羞恥の反射壁』だァッ!!」
ムツリヌスは抱え込んだ書類を愛おしそうに撫血まわしながら、歓喜に身を震わせて笑い声を上げた。
「この結界の強度はね、そこでお漏らししそうになりながら太ももを震わせている彼女が『暴かれた秘密を隠したい』『こんなみっともない姿を見られたくない』と強く願う、その純潔な羞恥心の質量に比例して爆発的に跳ね上がるんだ!! 彼女が恥じらえば恥じらうほど、この壁は神の盾すら凌駕する不落の概念へと生まれ変わるッ! お前のようなドブネズミの攻撃など、システム的に1ミリも通るはずがないんだよォッッ!!」
「くっ……あ、アルクさん……っ、ごめんな、さい……」
結界の奥で、クレアナは未だに目玉触手たちに足元をロックされ、衣服をはだけさせられた状態でガクガクと震えていた。
歩こうとするだけで自分の太ももがこれ見よがしに露出してしまい、それを隠そうとすればするほど、全身の筋肉が羞恥の負荷によって硬直していく。彼女のサファイアブルーの瞳からは、屈辱の涙が止めどなく溢れていた。
「私は……。こんな、熊のぬいぐるみが、ないと眠れないなんて……そんな恥ずかしい秘密を、みんなに、晒されたら……っ。嫌……見ないで……恥ずかしい、です……」
クレアナのその「隠したい」という必死の防衛本能が、そのまま最悪の概念燃料となり、ムツリヌスの周囲を展開する透明な防壁の輝きをドロドロと肥大化させていく。
「なるほどね。あいつが変態であればあるほど硬くなるんじゃなくて、あんたが勝手に恥ずかしがってるせいで硬くなってんのか」
アルクは痺れが残る掌を開閉しながら、心底呆れ果てたように大きいため息をついた。
お堅いフランルクスのお国柄が生んだ、品性と規律の呪縛。それこそが、このストーカーの持つ最も陰湿で狡猾なハッキング回路だった。
「おい、ハリネズミ。ちょっと一回落ち着いて俺の顔を見ろ」
アルクは直剣をだらりと下げ、全く戦う気のない自堕落な構えのまま、涙目のクレアナを冷めた目で見つめた。
「あんたさ、さっきからぬいぐるみがどうのってグズグズ泣いてるけど……。ぶっちゃけ、俺からすりゃ『だから何?』って話なんだけど」
「え……?」
クレアナが涙に濡れた睫毛を震わせ、呆然とアルクを見た。
「だってそうだろ。熊のぬいぐるみ抱っこして寝るとか、ただのガキじゃん。俺からすりゃ、そんなのただの可愛い趣味で終わりだよ。っていうか、そんなクソどうでもいい内緒話がみんなにバレたくらいで、なんでそんなにこの世の終わりみたいな顔してんの?」
「な、何を……不届きなことを……! 私は高潔たるフランルクスの──」
「だからその高潔とかいう品性なりなんなりが、最初からあいつのハッキングの餌になってんだよ、バカ真面目。そんな息苦しいプライド、今すぐゴミ箱にでもポイしちまえ」
アルクは肩をすくめ、完全にムツリヌスの『陰癖』の美学を鼻で笑い飛ばした。
天井のステンドグラスから差し込んだ冷たい月光が、アルクの握る剣に当たる。反射された光をまとった剣は、その光以上に神聖な輝きを放っていた──。




