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痴辱なる教団の黙示録  作者: 遣隋使
第一章 『賢聖都市』
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第一章7 『閑世界』

──ところ変わり、世界の北端。


 法皇都フランルクスでの騒がしい潜入劇など知る由もない、鬱蒼とした巨樹の連なる大密林『ホレスティア』。


 夜の森林特有の、生温かく湿った風が、木造ログハウスのテラスをがたがたと揺らし、周囲の原生林へと吹き抜けていく。漆黒の闇に包まれた森の奥からは、時折、夜行性の猛獣が獲物を引き裂く地響きのような鳴き声が、不気味に木霊していた。


 そのテラスの木製椅子に深く腰掛け、古びた真鍮のパイプに火を灯している一人の老人がいた。アルクの祖父──ステルク・メルクリウスである。


 彼の傷だらけでゴツゴツとした手の中には、つい数日前に法皇都フランルクスに到着したアルクから送られてきた、どこか締まりのない近況報告の手紙が握られていた。


『──じいちゃん、あの国で一体何をやらかしたんだ? 検問対策とか言って直剣をこれでもかってくらい多重梱包しやがって。剥がすだけでも一苦労だ。あと、あの時に森で見つけたボロボロのハリネズミと、そのお堅い兄貴の事情に巻き込まれた。どうなってんだよこの場所は』


 ミミズがのたくったような、いかにも面倒くさそうに殴り書きされた孫の文面を眺め、ステルクは煙草の濃い紫煙を鼻からふうと抜いた。白い髭を気怠げに揺らしながら、サファイアブルーの瞳を持つ兄妹を想起して目を細める。



「やれやれ、相変わらず文句の多い坊主だ。だが……歯車はしっかりと噛み合っているようだな」



 ステルクはパイプを咥え直し、視線をホレスティアの暗い森の奥へと向けた。


 老兵の脳裏に鮮烈に蘇るのは、ちょうど一年前の──あの忌まわしくも、奇妙な『夜』の記憶だ。



※



 一年前のある夜、ホレスティアの森は明確に「怯えて」いた。


 風は生温かく粘り気を含み、大気は鉛のように重く澱んでいる。ステルクはログハウスの居間に座っていたが、肌をチクチクと刺すような不快な魔力の残滓に、不自然な胸騒ぎを覚えていた。長年、戦場と野生の境界線を生き抜いてきた老兵としての勘が、脳内で明確に警鐘(アラート)を鳴らしている。数百年の時を重ねる巨樹たちが、まるでこれから来る何かを恐れるように、葉をガサガサと不気味に震わせていた。



「ただの野良獣の喧嘩じゃねえな、これは……」



 ステルクは低く呟くと、壁に立てかけてあった愛用の大剣を手に取り、慣れ親しんだ我が家から一歩外へと踏み出した。


 一歩、また一歩と原生林の奥へ足を進めるにつれ、ステルクの胸のざわつきは確信へと変わっていく。


 森の生き物たちの気配が完全に消えている。虫の音さえしない。そこに漂うのは、生物としての本能を根底から狂わせ、腐らせるような、泥のようにドロドロとした最悪の『不純』──因子の波長だ。


 このホレスティアに生きる野生の獣たちですら絶対に持ち得ない、あまりにも濃密で、傲慢な人間の「エゴ」が混じった汚染の匂いだった。


(──教団のイカれ信者の群れも、ついにこの世界の果てまで這い出てきやがったか……)


 ステルクは口元を歪め、舌打ちを噛み殺した。


 世界を裏から侵食し、人間の品性と理性を融解させようと目論む教団。その禍々しい気配が、よりによって自分が守るこの静かな森を汚しつつある。その事実に、老兵の胸の奥で、かつて戦場を駆けた戦士としての冷徹な怒りが静かに、しかし激しく燃え上がり始めていた。大剣を握る掌に、じわりと力がこもる。


 その時だった。


 前方の虚空──何もなかったはずの暗闇の空間が、まるでガラスが割れるかのように、バリバリと耳を裂くような音を立ててひび割れた。



「チッ、空間転移かッ!?」



 ステルクが咄嗟に身構えた瞬間、裂け目から猛烈な風圧と衝撃波が吹き荒れ、大地を爆裂させるような大音響とともに、一つの『肉塊』が地面へと凄まじい勢いで叩きつけられた。


 それが、全身の骨を無残に砕かれ、不穏な黒い霧に染まったエスペル・シルヴェリアだった。


 衣服は至る所が引き裂かれ、血と泥にまみれている。普通の人間の肉体であれば、その次元転移の衝撃だけで五臓六腑が破裂して即死していただろう。だが、ステルクの目を引いたのは、その傷だらけの肉体の内側から溢れ出んとする、世界を精神的に絶滅させかねない紫黒色の輝き──制御を失って暴走寸前で狂い咲こうとしている因子の波動だった。



「……がはっ……! く、そ……奴らの、手のひらの、上、だったか……」



 ドクドクと溢れ出る鮮血を口から吐き散らしながら、エスペルはうわ言のようにそう呟いた。


 ステルクは即座に警戒を解き、駆け寄って彼を抱き起こした。敵への怒りは一瞬で消え去り、目の前で命の灯火を消しようとしている若き剣士を「生かす」という、絶対的な理性が頭を支配する。



「話せ、剣士」



 即座に手持ちの薬草を取り出し、応急処置を施す中で、息も絶え絶えに語られた真実は、あまりにも計画的で絶望的なものだった。



「俺たちは……最初から、踊らされていたんだ……。あの『聖フランルクス高潔騎士学院』の特級教官マジエル……。あの男の誘導に、俺はあの教団の旅団の進行地に放り込まれた……」



「マジエルだと……? あの審判官の腰巾着が、裏で汚く糸を引いてやがったか」



「俺の力なら、教団の旅団を壊滅させ、護送中の『因子』を奪い取る──それすらも全部、連中の計算に組み込まれていたんだよ……。俺に因子を『奪わせる』、そのこと自体が、教団側の実験に過ぎなかった……。そして用済みとなった俺を因子ごと処理するため、旅団に同行していた『矮殖』の罪媒介者ロリアール・フレデモムが動いたんだ……。奴は権能も使わずに、ただの純粋な魔術だけで空間そのものを引き裂いて、俺をこのホレスティアの果てまで吹っ飛ばしたんだ」



「よく喋るな、お前本当に死にかけかよ」

 ステルクは眉をひそめた。この重傷でありながら、驚異的な精神力で呂律を回して状況を説明しようとしているエスペルに、老兵としての驚きを隠せない。これは果たして因子による影響なのか、それともこの若者の執念なのか。



「もう、終わりだ。俺が死ねば……この因子は再び、奴らの元へ戻るか、あるいはここで暴走して……」


 暴走する因子の汚染に体を内側から蝕まれ、禍根の中で意識を失いかけていたエスペル。


 奴らによってすべてを奪われ、絶望のまま死んでいこうとするその若者の胸ぐらを、出鱈目な腕力と圧倒的な威圧感で強引につかみ、この世界に繋ぎ止めたのが、ステルクだった。



「ホレスティアの森を汚すんじゃねえよ、品性高き剣士。連中の支配で魔境と化しつつある国にハメられたくらいで、そんな情けねー面すんな。まだ目は死んでねえだろ」



「……な、にを……」



「教団どものシステムが完璧なら、そのバグを突いてシステムごと叩き潰してやる。それが俺のやり方だ。お前が命がけで奪い取ったそのお宝、無駄にさせるつもりはない」



 ステルクは不敵な笑みを浮かべ、エスペルの胸元にゴツゴツとした掌を強く当てた。


 自らの、そしてホレスティアの巨樹が持つ『絶対的な原初の理性』の波長を、その体へと一気に叩き込む。ドォン、と重低音が響き、荒れ狂う因子の汚染が強引にスクラップされ、エスペルの体内に深く封じ込められていく。


 完全に意識を失い、泥のように眠る若き指南役の身体を、ステルクは無造作に肩へと担ぎ上げた。



「……さて、戻るか。問題は、あの目ざとい坊主にどう隠し通すかだな」



 脳裏に、ログハウスで呑気に行ぎ悪くいびきをかいて寝ているであろう孫──アルクの顔が浮かぶ。普段は自堕落を絵に描いたような少年だが、ホレスティアの過酷な大自然で育ったその野生の勘と五感の鋭さは、並の獣を遥かに凌駕する。そんなアルクに隠れて、瀕死の重傷者を数週間にわたって療養させる。それは、老兵にとっても骨の折れる隠密行動の始まりだった。



※



 それからの数週間は、まさに綱渡りのような日々だった。


 ログハウスの地下、普段は干し肉や古い醸造酒を保管している薄暗い地下貯蔵庫が、エスペルの即席の病室となった。ステルクはアルクが朝、朝食の準備や二度寝にうつつを抜かしているわずかな隙を見計らい、地下へと潜ってはエスペルの傷口の包帯を替え、ホレスティアの特殊な薬草を煎じた苦い汁を飲ませ続けた。


 ロリアールの放った魔術の傷痕は深く、最初の数日間、エスペルは高熱に浮かされながら、うわ言のようにマジエルへの呪詛や、離ればなれになった妹のクレアナの身を案じる言葉を漏らし続けた。その声が地上へ漏れ聞こえないよう、ステルクは地下室の扉に何重もの防音の魔術結界を張り、細心の注意を払った。


『じいちゃん、最近なんか地下室からカビ臭いっていうか、鉄っぽい匂いしね? あと、薬草の減りが異常に早いんだけど』


 ある日、スープをすすりながらアルクが何気なく口にしたその一言に、ステルクは心臓がちょっとだけ跳ね上がるのを覚えた。野生児の嗅覚を誤魔化すのは容易ではない。


『気のせいじゃろ。貴様が風呂に入らんから自分の体臭が臭ってるのではないか? 薬草は儂の腰痛の湿布に使ったんじゃよ』


 そう言って豪快に笑い飛ばし、アルクの意識を好物の干し肉へと逸らす。そんな冷や汗もののやり取りを何度も繰り返しながら、エスペルの肉体は、ホレスティアの原初の生命力によって驚異的な速度で再生していった。


 潜伏から二週間が経った頃、ようやくエスペルは自力で上体を起こせるまでに回復した。


 薄暗いランプの光の中、エスペルは壁に立てかけられた、厳重に梱包されつつあるアルクの直剣へと視線を向け、それからステルクを見つめた。


『……なぜ、俺をここまでして助ける。それに、上の階にいるあの少年……アルク、と言ったか。彼に俺の存在を隠し続けている理由はなんだ』


 エスペルのサファイアブルーの瞳には、まだ教団への強い警戒の火が灯っていた。ステルクはパイプの煙を燻らせながら、静かに椅子に腰掛けた。


『理由はシンプルだ。あいつに今この話をすりゃ、面倒くさがってホレスティアのさらに奥の山へ逃げ出すからだな。あいつは自堕落な生活を何より愛してるが……肉体には、教団のあらゆる精神汚染や因果を真っ向から斬り裂く、原初の特攻因子が眠っている』


 ステルクはエスペルの目を見据え、言葉を重ねた。


『お前さんが命がけで奪い取ったその「憂鬱の因子」は、この国じゃ持て余す。いずれお前はフランルクスに戻り、因子の暴走を抑えるために、自ら監獄の壁に身を隠すことになるだろう。奴らの社会ハッキングから国を守るためにな。……だが、それじゃ根本的な解決にゃならねえ』


 エスペルは息を呑んだ。この老人は、自分がこれから選ぼうとしている「自己犠牲の未来」を、すべて見抜いている。


『だから、その時が来たら、俺があいつをフランルクスへ送り込んでやる。あいつの直剣を覗き魔の権能から完璧に遮断するよう、これでもかってくらい多重梱包にして持たせてな。奴らのガチガチのシステムを内側からバリバリにブチ壊すには、うちの何も考えてねえ自堕落な孫を放り込むのが一番の特効薬だってな』


 その言葉を聞いたエスペルは、驚きに目を見張ったあと、やつれた顔に初めて、狂おしいほどの笑みを浮かべた。


『……なるほど。システムを壊すには、システム外のイレギュラーをぶつける、か。……クソジジイ、あんたのその最悪な悪巧み、俺も乗らせてもらおう』


『話が早くて助かるぜ、品性高き剣士』



※



「……フッ、あの時の約束通り、本当に監獄の底に入りおったな」



 現在へと意識を戻し、ステルクはパイプの灰をテラスの床にトントンと落とした。アルクからの手紙を再び大切そうに折りたたんで懐へと仕舞い込む。



「せいぜい頑張れよ、アルク。俺はここでお前の食っちゃ寝生活の準備をして待っといてやるからな」



※



「クシュンっ!!」



──その頃、遥か南の白亜の都、大聖堂の地下禁書庫。


 アルクはムツリヌスの背後で思いきり大きなくしゃみを噛み殺し、鼻をすすっていた。


(……クソ、誰か俺の噂でもしてんのか? そんな覚えはこれっぽっちもないんだが)


 そんな呑気なことを心の中で毒づきながら、アルクは目の前にある、ムツリヌスが羽ペンを止めてピキリと硬直している背中を凝視する。



「……おやァ? おかしいな……。波長……どこかで感じたことのあるような波長が大聖堂の内部から微かに……いや、私のすぐ『後ろ』から、信じられないほど濃厚に漂ってきている気がするのだけど……?」



 カラン、と机の上でムツリヌスの双眼鏡のレンズが、魔導ランタンの光を反射して怪しくきらめいた。


 奴の偏執的な嗅覚が、ついに背後の決定的違和感を察知し始めていた──。

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