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痴辱なる教団の黙示録  作者: 遣隋使
第一章 『賢聖都市』
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第一章6 『昔の話』

 大監獄を隔てる重厚な鉄門が、背後で重低音の地響きを立てて閉ざされた。


 その瞬間、アルクの肌を容赦なく刺したのは、外界の純白の陽光だった。長い間、地下の湿った暗がりにいた身には、昼の光はあまりに暴力的だ。アルクはたまらず顔をしかめ、細めた目を手で覆う。


 陽光を照り返す灰白色の石畳は、どこまでも無機質で、冷徹な法皇都の性質をそのまま形にしたかのようだった。その張り詰めた路地を並んで歩きながら、アルクは隣を行くクレアナへと、横目で視線を走らせる。華美な布地に包まれた彼女の細い肩は、先程よりもかすかに強張っているように見えた。



「……なぁ。さっき大監獄を出る間際にお兄さんが言ってたよな。投獄された本当の

理由はあんたが知ってるって。これからの作戦も含めてさ、道すがら教えてくれよ」



 歩調を緩めずにアルクが尋ねると、クレアナは真っ直ぐ前を見つめたまま、小さく、そして重い息を吐き出した。陽光を反射してきらめくサファイアブルーの瞳。だがその奥には、監獄の冷たい檻の中では決して見せなかった、昏い葛藤の影が鋭く走っている。



「……ここでは少し目立ちすぎます。お兄様はかつてこの都で指南役を務めていました。どこでその知人たち──あるいは、教団の息がかかった監視の目に晒されているか分かりません。何より、このような服装のまま、警備の厳重な大聖堂に忍び込むなど不可能です。……一度、私の家へ。着替えを済ませてから、すべてをお話しします」



 彼女の案内に従い、二人は人の往来が激しい大通りを巧みに避け、法皇都の隅に位置する閑静な住宅街へと滑り込んだ。白大理石で造られた品性ある家並み。その一角に、クレアナとエスペルが暮らす──いや、正確にはかつて共に暮らしていた、小綺麗な一軒の石造りの家があった。


 クレアナが鍵を差し込み、微かな金属音と共に扉を開ける。一歩足を踏み入れると、長い間主を失っていた空間特有の、ひんやりとした死寂が二人を迎えた。埃の静かに舞うリビングは、時が止まったかのように静まり返っている。



「少し待っていてください。すぐに着替えてきます」



 クレアナはそう言い残すと、躊躇いのない足取りで奥の部屋へと消えた。一人残されたアルクは、リビングにある素朴な木製の椅子を引き、きしむ音を立てて腰を下ろす。工芸品としては上等だが、今のアルクにとっては少し硬すぎる。彼は壁際へ、布で厳重に多重梱包された黒鉄色の直剣を、音を立てないよう静かに立てかけた。


 しばらくの沈黙の後、衣類が擦れ合うかすかな絹擦れの音と共に、奥の扉が開いた。


 現れたクレアナの姿に、アルクは思わず目を丸くする。


 昼間の可憐で華やかなローブライン・ドレスからは一転、彼女が身に纏っていたのは、夜の闇に溶けるような深い濃紺の隠密服だった。上質な生地はカシュクール仕様で胸元を固め、彼女のしなやかな肢体にぴったりと吸い付くように馴染んでいる。ウエストから太ももにかけては、極限まで無駄を削ぎ落とした細身の革ズボン。足元は泥を吸わない頑丈な黒革のブーツが固めていた。


 さらにその肩には、同じく深い濃紺の、足首までを覆う大きなフード付きのマントが羽織られている。一見すると旅人の防寒具のようだが、その裏地には光を吸い込む特殊な魔紡糸が織り込まれているのか、彼女の輪郭を曖昧にぼかす独特の陰影を生み出していた。


 昼間は風に揺れていた、ところどころに鮮やかな青が混じる神秘的な銀髪。それは激しい動きの邪魔にならぬよう、低い位置ですっきりと一本の束にまとめられ、マントの内側へと静かに収められている。



「……お待たせしました。これが、私の本来の『仕事着』です」



 冬天の氷のように凛としたその美貌。そこに機能美の塊のような服装と、妖しい影を落とすマントが加わったことで、今の彼女は、まるで夜の闇そのものを従えて戦場へ赴く冷徹な剥き出しの刃のような、鋭利な気配を放っていた。アルクは喉の奥で感心したような息を漏らし、対面にある椅子を指で叩いて、彼女に座るよう促す。


 二人が木製の椅子に深く腰を掛け、リビングの小さな木目を挟んで向き合ったところで、アルクは彼女の姿を爪先から頭のてっぺんまでまじまじと見つめ、どこかおかしそうに口を開いた。



「いや、動きやすい服装にするって言うからさ。もっとホレスティアの時みたいな、泥にまみれたボロっちい格好を想像してたんだけど。……何それ、めちゃくちゃキッチリしてんじゃん。やっぱりこの国の人って、裏稼業の服までそんなに品性が高くて隙がないわけ?」



「……これでもこの法皇都の中では、相当に『不届き』で罪深い部類の衣服ですよ」



 クレアナは自嘲気味に、マントの隙間から覗く自分の細い腕を見つめた。



「肌の露出こそありませんが、身体のラインがここまで明確に出る衣服は、法皇都の厳格な風紀を司る法官たちが見れば、一発でお縄になりかねません」



「そりゃまた、ずいぶんと息苦しい都だな。けど、俺からすりゃ、ドレス着て聖女様みたいにしおらしくしてる時より、今のハリネズミみたいに全身尖らせてマントにくるまってるあんたの方がさ。ホレスティアの鬱蒼とした森で初めて見た時に近くて、なんだか落ち着くんだけどな」



「ハリネズミとは失礼ですね……。ですが、そうですね。私もこちらの衣服の方が、ずっと自分の性に合っている気がします」



 クレアナはほんの少しだけ口元を緩め、サファイアブルーの瞳を和らげると、椅子の背もたれにそっと身体を預けた。しかしそれも一瞬のこと。彼女はすぐに表情を鋼のように引き締め、意を決したように、冷え切った唇を開いた。



「──それでは、数ヶ月前の話をしましょう。私とお兄様はフランルクスの外、とある極秘任務の道中で、教団の移動部隊である『旅団』と遭遇してしまいました。……いいえ、今にして思えば、あれは遭遇などという生易しい偶然ではなかったのでしょう」



「遭遇じゃない? どういうことだ」



 アルクは椅子の背から身体を少し起こし、彼女の言葉を促す。



「お兄様は、あの『聖フランルクス高潔騎士学院』の特級教官……罪媒介者マジエルによって、その旅団と『遭遇するように』、最初から巧妙に誘導されていたのです。お兄様の融通の利かない真面目な性格も、任務の経路も、すべては奴の手のひらの上で踊らされていた。そうとしか思えません」



「……あの、いつも胡散臭い笑顔を浮かべてる神父様、そこまで裏で汚く糸を引いてたのかよ」



「はい。そして始まった、息の詰まるような激しい死闘の末──お兄様は教団の実力者から『憂鬱の因子』を力ずくで簒奪することに成功したのです」



 アルクは思わず小さく息を呑んだ。大監獄のジメジメとした暗がりで見た、あのやつれながらも、爛々と狂気的な光を放っていたエスペルの眼光が脳裏をよぎる。彼はマジエルの冷酷な手引きによって死地に放り込まれながらも、その圧倒的な執念と剣技で、教団から因子を奪い取ってみせたのだ。



「だけどさ、因子を奪い取ったお兄さんが、なんでホレスティアの森なんて世界の最果てで行き倒れてたんだ? 距離が違いすぎるだろ」



「……その旅団に、最悪の怪人が同行していたからです。『矮殖』の罪媒介者、ロリアール・フレデモム。奴は自身の権能を振るうまでもなく、純粋な魔術の圧倒的な深さだけで、教団トップクラスに君臨する化け物でした。お兄様が因子を奪った直後、ロリアールが放った、時空を歪めるような広域転移魔術によって……私とお兄様は、一瞬にして遥か遠方、あのホレスティアの森林へと吹き飛ばされてしまったのです」



 クレアナは悔しげに拳を握りしめ、言葉を紡ぐ。



「そこで私たちは離ればなれになりました。鬱蒼とした森を一人で彷徨っていた私を拾ってくれたのが、アルクさん、あなたでした。そして……」



「……傷だらけで息も絶え絶えだったお兄さんを拾ったのが、うちのじいちゃん、ってわけか。あのジジイ、あの日の夜にやけに姿を見せないなと思ったら、裏でそんな事してやがったのかよ」



 アルクの頭の中で、これまでバラバラに散らばっていたピースが完璧に繋がった。


 じいちゃんが何食わぬ顔でクレアナへの手紙を渡し、この国への滞在券を無理やり握らせ、検問対策と称して直剣をこれでもかと厳重に多重梱包して隠させた理由。あの二人は数ヶ月前のその時に、すべてを察し、見据えていたのだ。マジエルたちの冷酷な誘導によって狂わされたシルヴェリア兄妹の、起死回生の「切り札」として、アルクを法皇都へと送り込むために。



「その後、私たちはこの国へ戻りました。ですが、お兄様の肉体には奪い取った『憂鬱』の因子が深く根を張っている。もしそれが暴走すれば、この国を護る大結界すら、内側から粉々に崩壊しかねない。だからお兄様は……これ以上の事態の悪化を防ぐため、最高審判官ダイアネムによる理不尽な判決を──あえて、自ら進んで受け入れ、大監獄の最深部にその身を隔離したのです」



「……なるほどな。クソ真面目でお堅いお兄さんだと思ってたけど、そこまで命を張ってたのかよ。本当に、バカがつくほど真面目な剣士様だな」



 アルクは呆れたように小さく息を吐き、椅子の背もたれにどかと体重を預けて、頭の後ろで両手を組んだ。当初目論んでいた「この国でのんびり食っちゃ寝生活を送る」という野望は完全に潰え、まんまとあのジジイの言いなりに成り果てたわけだが、不思議と胸のうちは嫌な気分ではなかった。



「話は分かった。要するに、あの大聖堂の覗き魔ムツリヌスは、あんたのプライベートを覗き見してハァハァ言ってるだけじゃなくて、お兄さんが隠し持ってる『憂鬱の因子』に関する情報や、マジエルが裏で手を引いていた過去の秘密を暴こうとしてるってことだな?」



「可能性は極めて高いでしょう。もしその秘密──教団の不祥事や私たちの弱みが書類として彼らの手に渡れば、お兄様は監獄の中で闇に葬られかねません。もし万が一があれば、最悪の場合、このフランルクスという国家そのものが終わりを迎えます」



「オッケー。じゃあ、サクッとその大聖堂に忍び込んで、書類を泥棒しに行きますか。……作戦決行は、大聖堂の夜が最も深くなる刻限だな?」



「はい。頼りにしています、アルクさん」



 クレアナは静かに椅子から立ち上がり、衣服の袖を軽く引いてフィット感を確かめると、大きなマントのフードを目深に被った。その瞬間、彼女の美しい顔立ちは夜の影に隠れ、ただサファイアブルーの瞳だけが暗がりで妖しく煌めいた。


 窓の外では、白亜の都の美しい街路灯がじわじわと灯り始め、夕暮れの琥珀色から、やがてすべてを飲み込む夜の藍色へと世界を染めていく。二人の少年少女は、都市の命運を握る最悪の覗き魔との、最初の夜戦への準備を静かに完了させるのだった──。



「あ、そうだ。じいちゃんに書いてあった愚痴の手紙送っとこ」



※



 ──カチャリ。


 夜の静寂を切り裂くような、しかし極限まで抑えられた微小な金属音が響いた。


 クレアナの細い指先によって大聖堂の裏口の鍵が滑らかに解錠され、二人は滑り込むように、影となって内部へと侵入する。


 夜の大聖堂の礼拝堂は、昼間の厳かさとは裏腹に、背筋が凍るような不気味さを漂わせていた。高い天井のステンドグラスから差し込むのは、血の気の引いたような冷たい月光のみ。広大な空間に整然と並ぶ無数の長椅子は、まるで闇の中に沈む棺桶の列のように見えた。



「……こっちです」



 クレアナの蚊の鳴くような囁き声に導かれ、アルクは巨大な円柱の這う影へと身を潜める。クレアナが身をすくめると、その大ぶりなマントが周囲の闇と完全に同化し、まるで彼女の存在そのものが大聖堂の影に溶けて消えたかのような錯覚をアルクに抱かせた。その足元には、地下の「禁書庫・大資料室」へと続く、重厚な鉄格子の扉が口を開けていた。


 幸いにも扉の鍵は開いている。二人は衣服の擦れる音すら殺し、細心の注意を払いながら、ひんやりと湿った空気が足元から吹き上がる螺旋階段を、地下深くへと下りていく。


 その先には、幾千、幾万もの古書や茶褐色に変色した羊皮紙が、天井に届くほどの書棚を埋め尽くす、広大な大資料室が広がっていた。鼻腔を突くのは、カビ臭い古い紙の匂いと、鼻の奥がツンとするような微かなインクの香気。


 その遥か奥、巨大な書棚の影に遮られた暗がりの向こうから、昼間と同じ、あの不快な音が鼓膜を叩いた。


 ──ガサリ。

 ──カリカリカリカリ……。


 何かに取り憑かれたような異常な速度で書類を繰り、硬い羽ペンを走らせる音。暗がりに配置されたいくつかの魔導ランタンが、淡く不気味な黄色の光を放ち、その中心にトレンチコートを着込んだムツリヌスの背中を浮かび上がらせていた。奴は手元にある山積みの報告書に狂ったように何かを書き込みながら、時折、首にかけた双眼鏡を覗き込んで、ネチャリとした独り言を漏らしていた。



「……ふふ、お昼に私が見ていたことにも気づかず、あの高貴なドレスの裾をきゅっと握りしめて……。今頃は家に戻って、お兄様を想って枕を涙で濡らしているのかなぁ、クレア聖女……。それとも、まだ宿屋のベッドの中でガタガタと震えているのかなぁ……あは、どちらにせよ可愛いね……」



 その悍ましい呟きが耳に届いた瞬間、アルクは隣のクレアナと視線を交わした。


 張り詰めていた二人の胸の内に、呆れと、言葉にならない奇妙な安堵が同時に広がる。


(……なんだ、あいつ。俺たちが大監獄に行ったことも、その後のことも、さっぱり気づいてねえじゃん)


 ムツリヌスの異能は確かに強力だが、決して万能ではなかった。彼が覗き見ることができるのは、あくまで「自分が執着し、意識して見つめているその瞬間」だけ。さらに今のムツリヌスは、昼間に見たクレアナの恥じらう姿の残像に脳内だけで固執し、妄想を膨らませているに過ぎない。大監獄を出てからの二人のリアルな足取りなど、1ミリも把握していなかったのだ。


 二人が抱いていた危惧は、完全な杞憂に終わった。しかし、だからこそ彼らの隠密行動は、今この瞬間、完璧な奇襲として機能している。


 クレアナは嫌悪感に美貌を歪めつつも、マントのフードの奥、そのサファイアブルーの瞳に冷徹な光を取り戻した。ムツリヌスは未だ、自分のすぐ背後まで「現実の」脅威が迫っていることに全く気づいていないはず。


(やるしかないな……)


 アルクはクレアナに顎で合図を送ると、呼吸の音すら完全に消し去り、ムツリヌスの背後にある「機密書類が保管された棚」を目指して、音もなく、確実な最初の一歩を踏み出した──。

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