第一章5 『今の話』
大聖堂の重厚な大理石門をあとにしたアルクとクレアナは、白亜の街並みの中でもひときわ異質な彩りを放つ区画──法皇都の北端に位置する『神聖大監獄』へと向かっていた。
大通りの華やかさから離れるにつれ、整然と並んでいた白大理石の建物は無機質な灰白色の石造りへと変わり、道行く市民の姿も次第に途絶えていく。
「……なぁクレアナ。あんたの兄貴が投獄された理由って、結局何なんだ?」
前を行くクレアナの背中に、アルクは歩調を合わせながら尋ねた。ドレスの裾をかすかに揺らしながら歩く彼女の佇まいは凛としているが、その細い肩には重い緊張がのしかかっているように見える。
「……正直に申し上げますと、私にも正確な理由は分からないのです」
クレアナは前を見据えたまま、サファイアブルーの瞳に葛藤を滲ませて答えた。
「お兄様は一月前、『教理違反』という曖昧な罪名を着せられて身柄を拘束されました。面会も一切許されず、詳しい釈明も受けていません。……ですが、あの真面目でお堅いお兄様が、本気で国の法を破るようなことをするはずがないのです」
サファイアブルーの瞳を伏せ、クレアナは言葉を区切る。
「私にできるのは、お兄様の知人を頼って、こうして一時的な面会状を取り付けること、それだけでした」
「なるほどな……」
アルクは腰に下げた多重梱包の直剣にそっと手を置いた。昨日から耳にし、目にしてきた違和感のピースが、じわじわと嫌な形に繋がり始めていた。
街を包む絶対防御の結界。
騎士候補生たちの心を甘く溶かす若き神父。
暗がりから人々の恥部を覗き見る禁書庫の管理人。
指示も理由も明かされずに囚われたクレアナの兄──。
「着きました」
クレアナが立ち止まる気配に、アルクは思考を引き戻された。
目の前にそびえ立っていたのは、天を突く大聖堂とは対照的な、地にはびこる黒ずんだ石造りの巨大要塞──『神聖大監獄』であった。窓という窓には分厚い鉄格子が嵌め込まれ、入り口には重装甲の警備兵たちが槍を構えて鋭い視線を光らせている。
クレアナが懐から透かし彫りの施された銀色の面会状を取り出すと、警備兵たちは不機嫌そうに書類と二人を交互に見比べ、重い鉄の扉を押し開けた。
「奥の第四地下牢だ」
内部は外の光を完全に拒絶した、暗く冷ややかな空間だった。壁に掛けられた魔導の松明が橙色の影を怪しく揺らしている。カツン、カツンと二人の足音だけが、湿った石壁に空々しく反響した。
螺旋階段を幾重にも下り、地下深くへと進む。生暖かいカビと鉄の匂いが充満する廊下の突き当たりに、頑丈な鉄格子で仕切られた無機質な小部屋──面会室が現れた。
数分後、奥の暗がりから重い鎖の擦れる音と、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「……クレアか。それに……」
鉄格子の向こう側、かすかな明かりの中に姿を現したのは、一人の青年だった。
囚人服の上からでもわかるほど鍛え抜かれた、しなやかな体躯と無駄のない佇まい。そこからは、彼がかつてこの国の騎士たちを束ね、指導していた元・剣術指南役であったという事実が嫌でも伝わってくる。
わずかに乱れた短髪は、くすんだ灰色の毛並みの奥に、夜の静けさを思わせる深い藍色がところどころに混じり込んでいた。
そして何より目を引くのは、その瞳だ。妹のクレアナと同じ凛とした涼やかさを感じさせながらも、彼女よりさらに深く、濃厚なサファイアブルーの色彩を宿している。やつれた頬と拘束具の重みにも屈せず、暗がりの中で爛々と光を放つその眼光は、まるで本人の研ぎ澄まされた剣技そのものを物語っているようだった。
「アルク・メルクリウス。俺の名前です」
「知っている。エスペル・シルヴェリアだ。こうして会うのは初めてだな、メルクリウス」
※
エスペルは鉄格子に一歩近づくと、拘束具の重い鎖をジャラリと鳴らした。その深いサファイアブルーの瞳が、薄暗い面会室の中で怪しく、しかし極めて冷徹にアルクを射抜く。彼には、アルクの見えていない何かが見えているかのようだった。
「メルクリウスの爺さんに手紙を書いたのは知っての通り俺だ。だが、実際に送ったのはクレアだ。俺はこんな有様だしな。クレアからお前が来たという手紙を受け取った時は半信半疑だったが……まずはここまで来てくれたことに感謝する。ありがとう」
「いやまあ、それはいいんですけど。うちのじいちゃんについてずいぶんと知ってそうな感じじゃないですか、お兄さん。一体どういうことか説明してくれよ。俺はただの、のんびりしたい旅人なんだから」
アルクが肩をすくめて見せると、エスペルは痛々しくやつれた顔に、かすかな苦笑を浮かべた。しかし、その眼光はすぐに鋭い剣士のそれへと戻る。
「のんびり、か。……いいや、メルクリウス。お前がこの国に足を踏み入れた時点で、それはもう不可能だ。この『神聖法皇都フランルクス』は、すでに内側から手遅れなほど腐り始めている」
「……歪んだ何かに、支配され始めている……クレアナも言ってたな」
「ああ。奴らは『教理違反』などという、最高審判官のさじ加減一つでどうにでもなる新法を仕込み、異を唱える者をこうして合法的に排除している。だが、真の恐怖はそこじゃない」
エスペルは声を潜め、鉄格子の隙間からアルクを真っ直ぐに見据えた。
「この国を守る絶対防御の大結界は、かつて中世に滅んだ『ルーミナス聖王国』の惨劇──一人の少女の『痴辱の権能』によって、国家の威信も理性の防壁もすべて引き裂かれ、精神的に完全絶滅させられた『白き夜の羞恥劇』を教訓に作られた。不純な魔力や波長を100%遮断する鉄の規律。だがな……」
エスペルの拳が、ガチリと鉄格子を握りしめる。
「今のフランルクスは、その規律と品性を『高めすぎた』。人々は衣服を正しく着ることに怯え、わずかな不純すら罪だと恐れている。奴らはそこに目をつけた。完璧な衣服をまとい、完璧な『美徳の体現者』として社会のトップに擬態したんだ」
「トップに擬態……?」
アルクは怪訝そうに首を傾げた。そんな奴らが本当にいるのだろうか、と。目の前のエスペルは、アルクの戸惑いを置き去りにするように言葉を続ける。
「そうだ。俺がかつて剣術を教えていた騎士学校──『聖フランルクス高潔騎士学院』の特級教官を務めるマジエル。奴は規律に息を詰まらせた少年兵たちの心を、優しい包容力という名の毒で地ならししている。そして大聖堂の禁書庫管理人ムツリヌスは、聖女たちの絶対に知られたくない秘密をストーキングし、恥じらいの火種を限界まで膨らませている。さらに、それを合法化する最高審判官ダイアネム……。奴らは、この国のガチガチの理性を内側からじわじわと削り、骨抜きにしている『罪媒介者』だ」
大聖堂で出会った、あの不気味なトレンチコートの管理人の姿がアルクの脳裏に蘇る。だが、マジエルという神父の裏の顔については、アルクにはまだ知る由もなかった。もっとも、言われてみれば確かに納得だ。
──『罪媒介者』。
『白き夜の羞恥劇』において、遅効性の毒を用いて暗躍していた教団の刺客。まさかこんな形でその名を耳にすることになるとは思いもしなかった。とはいえ、あまりにスケールの大きな話に、アルクの心は未だどこか他人事の域を出ていなかった。
「奴らの狙いは、この国の品性と理性の防壁が完全に融解した瞬間、かつてのルーミナスと同じ『羞恥劇』の幕を再び上げることだ。そして、それを防げるのは──」
エスペルの視線が、再びアルクへと注がれた。
「メルクリウス、お前であるとクレアから聞いたのだが……」
そう言うと、エスペルは視線をクレアナへと移した。アルクに聞こえないほどの囁き声で、二人は密やかな確認を交わし始める。
(こいつの持っている因子、その権能が教団に対する特攻。そういう話じゃなかったのかクレア。こいつにそんなものは備わっていない)
(いえ、彼にはちゃんと因子が組み込まれていますよ。見ればわかります)
(何を見れば何がわかるのか皆目見当がつかないが……まあいい。あの爺さんの一件もあった、信じるに値するのだろう)
(はい、そういうことです)
ひそひそ話が終わると、エスペルは再びアルクに目を向け、小さく息を吐き出して口を開いた。
「メルクリウス、頼まれてくれないか。本当なら俺がなんとかしなければならない。だが、悔しいが今の俺は国に逆らえん身だ」
すかさず、隣のクレアナが引き締まった表情で言葉を添える。
「それに、罪媒介者ムツリヌス……彼の権能は見知った者の『現在』を覗き見る力です。運が悪ければ、こちらの話を聞かれてしまっているかもしれません。それがもし他の罪媒介者、ひいては大罪司教にまで漏れてしまっては一巻の終わりに等しい。急かすような意図はありませんが、私たちに時間の猶予はありませんよ、アルクさん」
アルクは頭を抱えた。自堕落な食っちゃ寝生活の野望が、今度こそ音を立てて完全消滅していく。
「頼む、メルクリウス。俺の力不足のせいで、クレアもすでに奴らの標的にされかけている。俺の代わりに、この国を裏から操る『罪媒介者』たちの擬態を暴き、その術を斬り裂いてくれ」
「お兄様……」
クレアナがサファイアブルーの瞳を潤ませ、ドレスの裾をきゅっと握りしめる。その姿を見たアルクは、深く、長いため息をつき、腰の多重梱包された直剣をぽんと叩いた。
「はぁ……。じいちゃんの『やってもらわねばならんこと』ってのも、どうせこれのことなんだろうな。分かったよ、エスペル。お兄さんの頼みと、そこのハリネズミの涙を見過ごしちゃ、ホレスティアの男の名が廃る」
「もっとも、ホレスティアにそこまでの誇りはないんだけどな」と、アルクは心の中で、あるいは聞こえないほどの小声で付け加えておく。
アルクの言葉に、エスペルのサファイアブルーの瞳に初めて確かな「希望の灯火」が宿った。
「感謝する、メルクリウス。……大聖堂の夜は深い。気をつけて行け」
「ん、あーそれと、俺の名前はアルク・メルクリウスだ。アルクって呼んでくれると嬉しい」
「……あぁ、分かった。よろしく頼む、アルク」
そうやって微笑むエスペルの目は、ほんの少し、彼の鋭い瞳には不釣り合いな温かさを湛えていた。
「他に気になることはあるか? 時間ももうそこまでない、答えられるうちに答えておいてやる」
「うーん、そうだなぁ。じゃああと一つ。結局なんでお前はここにぶち込まれたんだ?」
「ああ、そういえば言ってなかったな。以前──」
「時間だ、出ろ」
静かな空間に、看守の厳格な低い声が響き渡る。タイムオーバーだ。
二人の去り際に、エスペルは最後の言葉を残す。
「その理由はクレアが知っている。これからの話も含めて、道中にでも聞いてくれ」
それは、いずれまた必ず生きて会えることを確信している者の話し方だった。
「そうですね。一度戻ってからゆっくりとお話しましょう、アルクさん」
「知ってたのかよ」
「何分事情があるもので。ではお兄様、近いうちにまた」
「さいならさん」
エスペルに小さく会釈をした二人は、再び、今はまだ煌びやかな白亜の都市へと戻るべく歩みを進める。
こうして、ただの旅人だった少年は、自分の知らないところで巣食っている化け物たちから警戒されつつも、白亜の都の裏に潜む最悪の怪物たちとの「精神と品性の防衛戦」へと身を投じることになるのだった──。




