第一章4 『大聖堂の少女』
一歩中へ入ると、外の喧騒が嘘のように遮断され、静謐でひんやりとした空気が肌を刺す。
驚くべきことに、その広大な礼拝堂の中には、人っ子一人存在していなかった。並ぶ長椅子にも、祭壇の前にも、祈りを捧げる信徒の姿はただの一つもない。耳に届くのは、自分のブーツが白大理石の床を叩くコツン、コツンという虚しい足音だけだった。
天高く広がるヴォールト天井は、幾重にも交差する美しいリブが森の巨木のようにそびえ立ち、気の遠くなるような高さで結実している。その遥か上空から差し込むのは、無数の細密画が描かれたステンドグラスを通した五色の光だ。誰にも踏まれることのない光の帯は、誰もいない大理石の床に鮮やかな万華鏡のような模様を寂しげに描き出し、宙を舞うわずかな塵さえも黄金色に輝かせていた。
礼拝堂の両脇にずらりと並ぶ太い円柱には、歴代の聖人たちの彫刻が彫り込まれており、どの顔も無人の空間を厳格な表情で前方を凝視している。その奥の壁面には、聖王国の歴史や教義を描いたであろう壮麗なフレスコ画が、金箔の装飾に縁取られて一面に広がっていた。
中央の長いバージンロードを進むと、重厚な木製の長椅子が整然と並んでいる。さらにその最奥の壇上には、鈍い銀色に輝く巨大なパイプオルガンが静まり返って鎮座し、その下には、不純な魔力を寄せ付けないための神聖なる防御結界の核である『聖遺物』を祀る、純金製の大祭壇がまばゆい光を放っていた。
空間全体を優しく満たしているのは、厳格に調合された最高級の薫香の匂いだ。白檀に似た、しかしもっと洗練された清らかな香りが、人影のない広大な空間の隅々にまで行き渡り、訪れる者の雑念を強制的に洗い流すかのような、不思議な圧迫感を伴って漂っている。
アルクは感嘆の溜息を押し殺しながら、あまりに非日常的な、そして不気味なほどに静まり返った白亜の無人空間をじっくりと見回した。ホレスティアの素朴な教会の礼拝堂しか知らない身にとっては、この大聖堂の持つ宗教的な威厳と、圧倒的な情報量の美しさは、ただただ圧倒されるばかりであった。
──だが。
静寂が深まれば深まるほど、大聖堂の門をくぐる直前に鼻腔をかすめた、あの甘くねっとりとした濁った香気の記憶が、妙に鮮明に脳裏へと蘇ってくる。
この不自然なほどに静まり返った美しい空間のどこかに、あの神父の影が、あるいは何かが潜んでいるのだろうか。
静まり返った大祭壇を見つめながら、アルクは場違いな居心地の悪さを感じていた。
あまりに広大で、あまりに無人。自分の足音だけが天井に吸い込まれていく空間は、まるで精巧に作られた巨大な白い墓標のようでもある。
(……やっぱり、さっさと手紙だけ出して、手紙主のところに向かえばよかったな)
これ以上の観光は胃がもたれる。そう結論づけて踵を返そうとした、その時だった。
「……フゥ、フゥ……。隠そうと、したって……無駄、だよ……」
静寂の隙間を縫うように、礼拝堂の奥、円柱が並ぶ暗がりの向こうから、極端に押し殺された男の低い息漏れと、ボソボソとした呟きが聞こえてきた。
アルクの身体が硬直する。声のした方へ視線を向けると、太い円柱の影、地下の「禁書庫・大資料室」へと続く重厚な鉄格子の扉の前に、一人の男が佇んでいた。
ボタンをこれでもかとキッチリ閉め、襟を高く立てた極厚のブラウンのトレンチコート。大資料室の管理人だろうか。極度の人間嫌いでまともなコミュニケーションを拒む、恐ろしく口数の少ない男──アルクの抱いた第一印象はそんなものだった。
男は手元にある台盤の上で、山積みにされた古い記録書類や報告書をめくりながら、静かに、しかし取り憑かれたような速度で羽ペンを走らせて書類仕事を進めている。
だが、男は時折、仕事の手を止めては手にした年代物の双眼鏡を誰もいない礼拝堂の空間へと向け、ただ静かに、異様な熱を孕んだ目で虚空を覗き見ながらボソボソと独り言を漏らすのだった。
「君がどれだけ……気高き聖女を気取って、ドレスの裾をキュッと握りしめていようが……その双眼鏡の奥の『私の目』からは……1ミリも、隠せはしない……」
カラン、と双眼鏡のボディを指先でトントンと叩く。乾いた微小な金属音が、無人の聖堂に嫌に響いた。
「……ほら、見せてごらん。君が昨日の夜、ベッドの中で……どんなに破廉恥な妄想をしていたか……あは、顔を真っ赤にして、太ももをガクガク震わせて……涙を流して……可愛いね……」
「…………」
アルクは完全に引いていた。表向きはただ黙々と書類を捌いている真面目な管理人にしか見えない。だが、暗闇から一方的にドロドロとした偏執的な妄想を吐き出すその姿は、まだ見ぬ誰かを品定めしているようで冷徹な気味悪さを際立たせていた。関わってはいけないタイプの本物だ。
あの神父の時に感じたものと同質の、日常の裏側に潜む歪んだ執念のようなものが、そのボソボソとした声から濃厚に漂ってくる。
一歩、また一歩と、極力足音を立てないように後ずさりする。
だが、不意に男がガサリと書類をめくり、首を回して分厚い丸眼鏡の奥の目をアルクへと向けた。人と目が合ったことで、男の表情が一瞬で強張る。他人を激しく拒絶する冷たく余裕のない低い声が、アルクへと突き刺さった。
「……見るな。去れ」
「あ、いや……すんません。その……失礼します」
それだけを早口で告げ、アルクはすぐに背を向けた。会話を続ける気など毛頭ない。こちらまで頭がおかしくなりそうだった。アルクは大理石のバージンロードを入り口の門へと向かって足早に突き進む。後ろからの追跡や言葉は一切なく、ただ書類を繰る乾いた音だけが遠ざかっていくが、振り返るつもりは微塵もなかった。
ようやくあの奇妙な管理人から十分に距離を離し、大聖堂の巨大な大理石の正門が目の前に迫った、その時。
「──ねえ」
不意に、すぐ背後から、鈴の音のように澄んだ、しかしどこか冷徹な少女の声が響いた。
アルクの心臓がドクリと跳ねる。
つい先ほどまで、この大聖堂の入り口付近には人っ子一人いなかったはずだ。誰かが近づく気配など、文字通り一切感じ取れなかった。
恐る恐る振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
「──え?」
思わず、間抜けた声が出た。
振り返ったアルクの視界に飛び込んできたのは、驚くほど整った、しかし冬天の氷のように冷ややかな美貌を持つ一人の少女だった。
彼女が身に纏っているのは、上質な深みのある紺色のビロード生地で仕立てられた長袖の『ローブライン・ドレス』。首元は肌の詰まったデザインになっており、胸元から袖口にかけて銀糸を用いた繊細なアラベスク模様の刺繍がびっしりと施されている。ウエストから足元へと流れるたっぷりとしたドレープの裾が、大理石の床に美しく広がっていた。高貴な仕立てであることが一目でわかる、気品ある格好だ。
ところどころに鮮やかな青が混じった神秘的な銀髪をさらりと揺らし、その隙間から覗く深いサファイアブルーの瞳が、まっすぐにアルクを射抜いていた。
──アルクはこの気配を知っている。
この国に来てからは一度も感じなかった、しかし数ヶ月前まで自分が暮らしていたホレスティアの鬱蒼とした山々で、嫌というほど肌に馴染んでいた、どこか懐かしい空気の波長。
(……あ。あの時の)
記憶の引き出しがバチンと開いた。
当時、森の奥で途方に暮れていた彼女は、もっと泥に汚れた衣服で、必死に強がって周囲を警戒していた。服装も髪型もすっかり見違えるほど綺麗になっているが、全身から放たれている、あの周囲の空気をピリピリと震わせるような張り詰めた鋭い『刃』のような気配だけは、間違いなくあの時の少女のままだ。
アルクが驚きで言葉を失っていると、少女はサファイアブルーの瞳を少しだけ和らげ、しかし声音には凛とした響きを残したまま、静かに、丁寧な口調で唇を開いた。
「お久しぶりですね、アルクさん。……このような場所であなたを見つけることになるとは思いませんでした」
彼女の視線が、アルクの腰にある多重梱包された黒鉄色の直剣へと落とされる。
この国の住民特有の潔癖さや、先程の歪んだ香気も一切持ち合わせず、微かに古い羊皮紙や厳格な聖油の匂いをまとっている彼女は、そのまま音もなく一歩を刻み、アルクとの距離を詰めてきた。
彼女はある理由から、普段から頻繁にこの『大聖堂』へと通う生活を送っているらしく、今日もいつも通りに足を運んだところ、この無人の空間で偶然にもアルクの姿を見かけたようだった。
「お兄様が招待状をお送りしたのに、あなたが一向に動かれませんでしたので……。まさか、大聖堂にいただなんて、本当に少しお気楽な方のようですね」
「……いや、ちょっと待ってくれ。一向に動かなかったってのは、そっちのバカ長い道中に数ヶ月もかけたからなんだが……」
アルクは両手を軽く上げて、大袈裟なため息をついて見せた。
森の中で泥にまみれ、ハリネズミのように威嚇していた頃のクレアナを知っている身としては、今目の前にいる上質なドレス姿の彼女はどこか非現実的に思える。
兎にも角にも、数カ月ぶりの再会を果たした二人は、他愛もない雑談に花を咲かせる──はずだった。
「それにしても、そもそも、お前の兄貴って何者なんだよ? 匿名なんかで招待状よこしやがって。この国じゃそれなりに偉い奴だったりするのか?」
急に黙り込むクレアナ。しばらくの沈黙が流れた後、彼女は重い口を開いた。
「……お兄様はこの国で剣術指南役を務めていました。剣のことなら、この国の騎士団の将軍にも引けを取らないほど腕の立つ方です。ですが、今は……その職にはありません」
クレアナはサファイアブルーの瞳を酷く暗く沈ませた。冬天の氷のような美貌が、痛々しいほどに強張る。
「どういうことだ?」
「お兄様は一月前に、わけあって『投獄』されてしまったのです」
──投獄。
それほどの実力者が捕まったという聞き捨てならない事実に、アルクの思考が一瞬で停止した。差出人がすでに囚われの身であるという困惑と、得体の知れない事態への焦りが一気に胸を突き上げる。アルクは混乱のままに、矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「はぁ!? 投獄って……じゃあ俺、一体何のために呼ばれて……っていうか、そんなヤバい状況なのか? ……つーかそれも気になるんだが、お前はお前でなんでそんな大層なドレス着てんだ? 森にいた時は全くそんな印象なかったけど、そんな身分高いのかよ」
アルクの焦り気味な視線と、どこか核心を外れた問いかけに、クレアナは自嘲気味にドレスの裾を少しだけ握りしめ、声音をさらに潜めた。
「……今回は、大聖堂にちょっとした用事があって、この格好をしているだけです。普段からこのような格好をしているわけではありませんよ。大聖堂へ頻繁に通うようになったのも……その、とある都合からです」
多くを語ろうとしない彼女のサファイアブルーの瞳には、法皇都を支配する何者かへの強い警戒と、冷たい影が宿っていた。
「少々事情がありまして、詳しいことはお話しできそうにないことを謝らせてください。ただ、現在のフランルクスは、あなたが考えているよりも遥かに、歪んだ何かに支配され始めています。それだけは確かです。私は、あなたにその侵食を食い止めるための力が備わっていると考えています」
クレアナの真っ直ぐな視線が、アルクへと向く。
「そんな力が俺にあるわけ無い……」
考えられる可能性ががあるとすれば、腰に携えている一本の直剣だけだ。入国時の兵士は「特定の性質に高い特効性を持つ」として驚いていた。しかし、アルクがじいちゃんから聞かされているその剣の特効性は、あくまでホレスティアから向かう道中の魔獣避けのものであって、決してあんな狂った気色の悪い何やかに対抗できるような、都合の良い力などではない。そうなると、アルクには全く見当がつかなかった。
「とにかく、ここでお話ししている時間はありません。お兄様が囚われている『大監獄』の場所へ案内します。あなたを呼んだ理由はそこで明かされるでしょう。……ついてきてくれますか、アルクさん」
クレアナはドレスの裾を静かに翻し、大聖堂の出口へと歩き出した。
アルクは腰の直剣をぽんと一度叩くと、「食っちゃ寝する自堕落な生活」というささやかな野望が、入国二日目にして木っ端微塵に崩れ去っていくのを察して、小さく苦笑いを浮かべた。
「わかったよ。ここまで来て見過ごすのも寝覚めが悪いしな。……案内を頼む、クレアナ」
白亜の大聖堂の門をくぐり、二人は再び、眩い陽光と狂った何かが待つフランルクスの街へと足を踏み入れた。




