第一章9 『白月の戦場』
静寂が、大聖堂の地下深くを冷たく支配していた。
過剰なまでの品性と道徳を重んじる法皇都フランルクス。その美しき絶対防御のシステムを内側から侵食し、じわじわと理性を融解させていく教団の覗き魔ムツリヌス。
高潔な誇りを人質に取られ、身動きの取れない少女を前に、この国の規律の外れからやってきた少年は、その腰から黒鉄の刃を静かに引き抜いた。
これまでの因果も、積み上げられた規律も関係ない。ただそこにいる存在を、その美学を真っ向から否定するための、剥き出しの精神。
アルクの投げ捨てた惰性極まる常識の一端が、張り詰めた禁書庫の空気をピキリとひび割れさせた、その刹那――。
爆発したのは、己としての絶対的なプライドをズタズタに引き裂かれた怪物の、狂気的な拒絶の絶叫だった。
※
「むかつくんだよ、苛つくんだよお前はァァァッ!! 私の、私の至高の美学を、そんな不届き極まるドブネズミの価値観で汚すなァァッ!!」
ムツリヌスが顔中の血管を怒りで引き千切れんばかりに膨らませ、狂ったように叫んだ。奴が双眼鏡のレンズをギチギチと弄ぶと、そのトレンチコートの裾から、さらに何百もの「血走った目玉の触手」が津波のように溢れ出してくる。
「消えろ! 消え失せろ! 彼女の極上の恥じらいをこれ以上濁らせるなぁぁぁッッ!!」
一斉に牙を剥いた肉の鞭が、全方位からアルクへと殺到する。
「おっと、ッ!?」
アルクは反射的に黒鉄色の直剣を振り回し、迫り来る目玉触手を次々と叩き斬っていく。巨樹の紋様をもつその直剣は触手の魔術を物質ごと引き裂いていくが、斬っても斬っても、それ以上の粘気を含んだ触手が闇から無限に湧き出てくる。
「くそっ、キリがねえな……!」
呼吸を乱しながら、アルクは執拗に迫る触手を強引に払い落とし、ムツリヌ스의懐へと踏み込んで、その透明な防壁へと再び刃を叩きつけた。
ズガァァァァンッッッ!!!
「ぐ、あっ……!」
だが、返ってきたのは先程よりも格段に硬度を増した、凄まじい反発だった。
「くっそ、さっきよりかてぇ……」
痛みに顔を歪ませるアルク。その様子を滑稽に思ったのか、先程の憤慨が嘘のような二チャリとした笑顔をこちらに向ける。相変わらず情緒が不安定だ。これだから変態の思考回路はわけがわからない。
「いい加減認めようよ、お前はさぁ。たしかにお前は品性だとか、規律だとか、そんなもんでいちいち恥じらったりしないんだろうけどさぁ……どーせそんだけでしょうよ。あの巨人みたいにバカみたいな力があるわけでもない、ラウのやつみたいに魔術の才能があるわけでもない、気力もなければ、後ろのかわいい彼女を汚しきれてもない……ねぇクレアナぁ、なんで私じゃなくてこんなやつなの?」
「っ……うっ…いゃ……」
気色悪い。さっきまでは呆れ半分に話を流そうとしていたが、そろそろ精神的にかなりの不快感を覚えるようになってきた。おそらくやつは今、最高に調子に乗っている。ここでもう一度、渾身の力でやつの脳髄を貫く。そうすればやつに決定打を与えられるかもしれない、少なくともさっきよりもマシな攻撃が通るはずだ。そう信じるしかない。
「こんなやつよりさぁ……私のほうが君を見てるよぉ、クレアナぁ……。こいつを片付けたら今度は二人で―――」
「なぁムッツリスケベ、俺このネズミ殿の名前をお前なんかに呼ばれるのスゲー腹立つわ」
ムツリヌスが振り向くより速く、純白の床を蹴る。彼が背後を振り向いた時には、とうに誰もいなかった。
「うおおおおおおおォォォッ!」
そしてまた背後を振り向く。視界には凄まじい形相でムツリヌスにその剣先を向ける少年。剣先が顔面を貫こうとするその寸前、怪物はニチャリと微笑む―――
「ばぁ~かぁ」
キイィィィィンッッッ!!
「あッ……ガァ……」
その刃先が、通ることはなかった。
衝撃による痺れで意識が飛びそうになるアルク。宙に浮き、無防備な体勢の中、すかさず勢いのままに回し蹴りを一発打ち込むムツリヌス。
アルクの肉体は容赦なく宙へと弾き飛ばされ、古い木製の巨大な書棚へと背中から激しく激突した。ミシミシと不穏な音を立てて書棚が傾き、大量の古書や羊皮紙が雪崩のようにアルクの全身へと降り注ぐ。
「くっ……あ、アルクさん……っ、ごめんな、さい……」
結界の奥で、クレアナは未だに目玉触手たちに足元を固定され、衣服をはだけさせられた状態で震えていた。
アルクが傷つく姿を見ることで、彼女の「自分が弱いせいで」「こんな恥ずかしい秘密のせいで」という罪悪感と羞恥心がさらに限界を迎えていく。それが最悪の概念燃料となってムツリヌスの盾の領域をさらに押し上げていく。
「あは、顔を真っ赤にして、太ももをガクガク震わせて……涙を流して……可愛いなぁ……。君が昨日の夜……どんなに破廉恥な妄想をしていたか、早くみんなに見せてあげたいなぁ……!」
クレアナの精神を絶望でへし折ろうと、ムツリヌスが狂笑とともにさらにその猟奇的な指先へとファイルを伸ばした──その、絶望的な均衡の最中であった。
──ドォォォォォンッッッ!!!
地下禁書庫の、頑丈な鉄格子で閉ざされていたはずの天井が、凄まじい衝撃波とともに文字通り「粉砕」された。
白大理石の破片と、空間を切り裂くような純白の闘気が嵐となって地下大資料室へと吹き荒れる。遥か上層の礼拝堂で、この場にいるはずのない何者かが、その規格外の武を振るったのだ。その圧倒的な質量がこちらへ向かって移動してくる地響きのような重低音が、天井の穴から響いてくる。
「――なんだ……加勢か……?」
だが、その怪物はいまだこの「白月の戦場」に姿を現さない。その分だけ、未知なる存在に対する畏怖がこの場の空気を縛り上げる。
「ひっ……!? なぜここにやつが……ッ! 私の密行は完璧だったはずだぞッ!?」
ムツリヌスが顔中の血管を浮き上がらせて愕然とする。だが、破滅を前にしたストーカーの目は、すぐに狂気的な歓喜へと塗り替えられた。
「あは……あはははは! 構うものかッ! やつが出てくる前に、この最高に不届きな秘密を全市民の脳内に垂れ流して、この国ごと品性を絶滅させてやラァッ!!!」
拡散の術式が暴走気味に再起動し、地下室全体に、濃密な紫色の『陰癖』の魔術光が爆発的に吹き荒れた。
「く、あ……あ、アルク……さん……っ!!」
触手がさらに衣服を引き絞り、クレアナのサファイアブルーの瞳から大粒の涙がボロボロと溢れ出る。比例して『羞恥の反射壁』ふたたび不落の城壁のように膨れ上がっていく。
「チッ……! 加勢ってわけじゃあなさそうだな。状況を見たところ、上にいるやつがこの事態をどうにかしてくれるんだろうが、それより先にこっちが木っ端微塵だ——」
アルクは書棚の残骸から強引に立ち上がり、痺れの残る右腕で直剣を両手で握り直した。正面から斬りかかっても通らない。
(なら、やることは攻撃じゃないな)
「おい、ハリネズミッ!! 泣いてる場合か、前を見ろ前を!!」
アルクは石畳を強く踏み込み、鋭い踏み込みとともに地を滑るように突進した。
「不届きだ何だと言われて、そんなに怖いかよ! ぬいぐるみと一緒に寝るのがそんなに悪いことかよッ!!」
「だって……っ、私は、お兄様と共に、この国の規律を護るために……っ!」
「全裸で魔女の足元を舐め回した、どこぞの騎士団長に比べりゃさぁ!! あんたの秘密なんて、天国みたいに清廉潔白でクソ可愛いもんだろがッッ!!」
大聖堂の地下に、アルクの身も蓋もない怒号が響き渡る。
「な……ッ!?」
クレアナの思考が、あまりに強烈な比較対象を提示されたことで一瞬だけ真っ白にフリーズした。
衣服の概念すら忘れて涎を流して地を這い回ったルーミナスの王族たちに比べれば、自分の「熊のぬいぐるみを抱っこして寝る」という秘密は、あまりにも無害で、ただの子供の日常に過ぎない。
(……比べる対象が、あまりにも極端すぎます……!)
アルクのあまりにも極端な切り返しが、彼女の胸の奥にあるガチガチの品性の防壁を、内側から強引に切り開いていく。
その一瞬、「隠したい」という必死の拒絶が、「もうどうにでもなれ」という諦めと開き直りへと反転した。それはほんの一瞬に過ぎなかったが――
「──今だッ!!」
クレアナの羞恥心が激しく揺らいだその瞬間、ムツリヌスを覆う『羞恥の反射壁』の輝きが、一瞬だけ目に見えて薄く、脆くなった。
「バ、馬鹿なッ!? 私の至高の防衛能力が、そんな俗悪な言い訳で減衰するだとァォッ!?」
「減衰どころか、これで終わりだよ、変態野郎ッ!!」
アルクは相手が完全に守りを失ったタイミングで直剣を、上段から一気の力任せに振り下ろした。
侵食された因果そのものを物質ごと圧殺する、究極の一振り。
バァァァァァンッッッ!!!
強烈な打撃音が地下室を震撼させ、アルクの刃が『羞恥の反射壁』を、文字通りガラス細工のように粉々に打ち砕いてみせた。
その衝撃の余波で、クレアナを拘束していた目玉触手たちが一斉に悲鳴を上げて黒い霧へと霧散していく。
「あがっ……がはぁぁぁッッ!?」
結界を破られたムツリヌスが、凄まじい衝撃波に吹き飛ばされ、背後の書棚へと激しく叩きつけられた。机の上の書類が四方に飛び散り、奴が抱え込んでいた黒いファイルがひらひらと宙を舞う。
「あ……足が、動く……っ!」
自由を取り戻したクレアナは、即座に隠密服の機動力を爆発させ、地を滑るような完璧な身のこなしで跳躍すると、宙を舞うファイルをその細い両手で完璧にキャッチした。
「おのれ、おのれぇぇドブネズミどもめぇぇ……ッ!!」
双眼鏡を失い、トレンチコートをボロボロにされたムツリヌスは、血走った目で二人を呪詛を吐きながら睨みつける。だが、もう用は済んだ。
二人がすべての目的を完遂した、その刹那。
──ドゴォォォォォンッッッ!!!
今度こそ、粉砕された天井の穴から、純白の重装甲鎧を纏った剣士の巨体が、大資料室の石畳へと地響きを立てて轟然と着地した。
巻き上がる爆煙の向こう、白月の光をその背に浴びてギラリと輝く、巨大な大剣の切っ先。
本当の怪物の「到着」に、地下資料室の空気が完全に凍りついた。
「――教団の不届き者が。我の目が、いつまでも貴様らの小細工に欺かれていると思ったか」
剣士の冷徹な眼光が、ボロボロになったムツリヌス、ファイルを抱える隠密服のクレアナ、そして黒鉄色の直剣を構えるアルクへと順に向けられる。
最悪の覗き魔を退けた二人の前に立ちはだかったのは、この国最強の武人であった――。




