第一章10『軍神』
白大理石の石畳を容赦なく叩き割り、大聖堂の地下へと強行降臨したその巨躯は、周囲の空気を物理的に一瞬で凍りつかせた。
ドゴォォォォン、と地鳴りのような重低音が狭い地下大資料室の壁面を激しく震わせ、何十、何百という古書の山が衝撃波によって一斉に宙へ舞い上がる。巻き上がった白く濃密な大理石の粉塵の向こう。そこに静然と佇む純白のフルプレートアーマーは、返り血の一滴も、地下の煤汚れも、あるいは微細な擦り傷一つすら一切を拒絶するような神聖なる輝きを放っていた。
その鎧の表面には、不純な魔力を完全に遮断する法皇都特有の術式紋様が刻まれており、そこから立ち昇る純白の気魄の奔流は、見る者の防衛本能が機能しなくなるほどの圧倒的な圧迫感を伴っている。神聖法皇都フランルクス騎士団最高位──。全騎士を統率する、この国最強の武人。その圧倒的な秩序と暴力の権化が、今、目の前に立ちはだかっていた。
重厚な兜の隙間から覗く、凍てつくほどに鋭く研ぎ澄まされた眼光が、まずは壁際に這いつくばるボロ雑巾のような男──ムツリヌスを的確に捉えた。
「……ぐっ、がはっ……!? ま、まさか……あ、あなた様が、どうしてこんな埃臭い場所に……ッ!?」
ムツリヌスは恐怖に顔を醜く引きつらせ、張り付いている分厚い丸眼鏡の奥の目をこれでもかと剥き出しにした。普段、天井裏から人々の羞恥心を覗き込んで楽しんでいた怪物の余裕は、爪の先ほども残っていない。奴はトレンチコートの裾を芋虫のように蠢かせ、床に飛び散った機密書類の山を必死にかき集めながら後退りしようとする。だが、その無様な逃走は一瞬で断ち切られた。
将軍は容赦なく、鉄の塊のような巨大な鉄靴を無造作に振り下ろし、ムツリヌスのトレンチコートごと、その細い背中を床へ深く踏みつけたのだ。
みしり、と肉と骨が限界を迎えて軋む嫌な音が暗がりに響く。
「卑劣なる覗き魔め。教団の犬としてこの大聖堂の地下を私物化し、都の秩序を内側から蚕食していた不純分子よ。貴様のような汚濁を、我がフランルクスの土踏まずの下に置いておくことすらかなわぬ」
「まっ……あ、ガッ…ァ──」
弁解の隙すら与えられなかった。将軍がただ足元に力を込め、踏み込んだその一足が巻き起こした凶悪な衝撃波だけで、ムツリヌスの脳は一瞬で強制シャットダウンされた。白目を剥き、一瞬にして意識を完全に刈り取られて床へと崩れ落ちる。法の目をかいくぐり、女児たちの絶対に隠したい秘密をストーキングしてはノートへ書き連ねていた『陰癖』の罪媒介者は、理屈抜きの圧倒的な武の前に、文字通り一撃で無力化された。
──だが、将軍の視線は止まらない。
ムツリヌスから鉄靴を離した将軍は、ゆっくりと、しかし確実に、闇の中に立ち尽くす俺とクレアナへとその巨大な兜を向けた。鎧の関節が擦れ合う、重々しく不気味な金属音が地下室に響き渡る。
「……おや、クレアナ嬢ではないか。大監獄の面会状の件以来だな」
重厚な兜の奥から響いたのは、周囲の空気を震わせる威圧感の中にも、どこか年長者らしい親しみを覗かせる声音だった。
「将軍閣下……っ」
隣のクレアナが咄嗟に隠密服の背筋を伸ばし、小さく息を呑むのが分かった。マントのフードの奥で、彼女の美しい美貌が驚きに強張っている。
そう──クレアナが大監獄へ足を運び、あの偏屈でお堅い兄貴への面会状を取り付けるために頼った『お兄様の旧友』とは、他でもないこの騎士団将軍その人だったのである。
かつてエスペルが騎士学校で剣術指南役を務めていた頃、共にこの国の武を支え、エスペルの融通の利かない真面目な実力と高潔さを誰よりも買っていた人物。それゆえに、クレアナの決死の訴えを聞き入れ、裏で大監獄への一時面会を手配してくれたのだろう。
「面会状の融通までは受けてやったが……まさか、こんな夜更けに大聖堂の地下へ潜り込んでいるとはな。……して、そちらの少年は? エスペルから聞いていた『例の客人』か?」
将軍の視線が、俺──そして、俺の手の中でその梱包を剥がされ、剥き出しになった黒鉄色の直剣へと向けられる。その眼光は、剣の刀身に刻まれた『巨樹の紋様』を一瞬で見抜いていた。
「神聖法皇都フランルクス騎士団所属、『白光の将軍』マールス・グラディウスと申す。クレアナ嬢とは彼女の兄を通して縁がある」
「えーと……つまりおっさんがエスペルの知り合いで、俺達に面会状なりを回してくれたってことか」
「しかり。ただ、貴様らがここまで早く教団の者と接触することになったというのは唯一の例外であった。後始末は我々の仕事なのだ、教団のこともまだ表沙汰にするわけにはいかん。今後このようなことはないようにしていただけると助かる。いや、本当に大変だから……な?」
「それはその……申し訳ないっす…」
俺は頭をガシガシと掻きながら、マールスが豪快に降臨してきた天井の大穴を一見した。そこから差し込む月光が、大理石の粉塵に乱反射してやけに眩しい。上層の礼拝堂の美しいステンドグラスの破片が、星のようにきらきらと地下まで降ってきている。
「……あの…なんで扉から入ってこなかったんすか?」
正直、この場の一番の惨事はこの大穴である。そして、その原因を作った張本人は目の前にいるこの重装甲の将軍殿だ。
「?……扉がどうしても開かなかったからな、やむを得なかった」
おっさんは微塵の悪びれもなく、さも当然といった様子で首を傾げた。その仕草のせいで純白の鎧がガシャリと音を立てる。
俺は呆れながら、視線を大資料室の入口の扉へと向ける。
その先には、さっきまでの戦闘の余波で干からびた触手が網の目のように絡みつき、その隙間から、生気を失ってどろりと濁った気味の悪い眼球がいくつか転がり落ちていた。戦闘に必死で気づかなかったが、どうやらムツリヌスの陰癖の権能によって、この部屋の全方位が出入り不可能な軟禁状態にされていたらしい。それを力ずくで突破しようとして天井ごと粉砕したわけか。
「なるほどねぇ……やっぱおっかねーな、この国の人間は」
「状況を見るに、貴様ら二人はそこの教団の者と交戦をしていた。大聖堂の一部損壊はその影響と見て問題はないな」
「ああ、そういうことで問題ないっす。全部あいつのせいです」
「そういうことなら、我々の方でうまく隠しておいてやる。時に少年、この大聖堂にはどのような要件で忍び込んだのか伺っても?」
「ああ、話が早くて助かる。俺たちはただ、この変態野郎が抱え込んでた不快なガラクタを回収しに来たんだが──」
「──そこまでにしましょう、将軍殿」
地下室の冷え切った空気を滑らかに切り裂くように、頭上から穏やかな声が響いた。
マールスが天井に穿った大穴から、ひらりと風をはらんで軽やかな身のこなしで、もう一人の人物が舞い降りる。
降り立ったのは、一筋のシワすらない純白と深紅の特級教官服を隙なく纏った青年──『薔愛』のマジエルだった。その胸元には薔薇のロザリオが揺れ、昨日俺が街ですれ違った時と変わらない、穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「マジエル特級教官……? なぜ貴様がここにいる」
マールスの声から親しみやすさが一瞬で消え去り、地を這うような鋭い警戒感が宿った。
「いやぁ、大聖堂の地下から物々しい地響きが聞こえたものだからね。急ぎ駆けつけてみれば……まさか将軍閣下自らがここに立ち入っているとは思いもしなかったよ」
マジエルはクスクスと柔らかく笑いながら、俺とクレアナの前へと立ちふさがるように一歩を踏み出した。その背中は、過酷な規律に息を詰まらせた教え子を守る、慈愛に満ちた教官そのものの優しさに満ちている。だが、その足元から漂うのは、脳の防衛本能をフニャフニャ脆弱に溶かす、ねっとりとした薔薇の香気だ。
「将軍殿。エスペル元指南役の投獄に関して、あなたが心を痛めているのは察するよ。だがね、この子たちは我が校の生徒たちの心、そしてこの街の『理性』の有り様を揺るがす重要な存在だ。ここであなたに処断させるわけにはいかないな」
「……ほざくな、教団の狗が」
マールスの巨大な大剣が、わずかに鞘を滑り、キィンと硬質な金属音を響かせた。
「エスペルが嵌められた『教理違反』とやらの裏で、誰が糸を引いていたか……我が気づいていないとでも思ったか、マジエル。貴官が騎士学校の少年兵たちに与えている甘やかしの毒も、すでに看過できぬ領域に入っている」
「お情、厳しいな。私はただ、過酷な規律に疲れた彼らに寄り添っているだけさ。……ねえ、アルク君?」
マジエルは琥珀色の澄んだ瞳を真っ直ぐに俺へと向け、さらに濃厚な薔薇の香りを漂わせながら微笑みかけてきた。見つめられているだけで、自分の存在そのものが丸ごと肯定され、戦う気力が削がれていくような奇妙な感覚。この国の人々が誇っていたガチガチの理性の防壁を、内側から地ならししていた遅効性の汚染。その源流が、まさにこの男なのだと肌で理解させられる。
「君のその無垢な力……このガチガチで息の詰まる法皇都を解きほぐすには、最高のエッセンスだと思わないかい?」
将軍とマジエル。この国を守る絶対なる武と、裏から精神を蝕む毒。二人の怪物が狭い地下室で完全に対峙し、大資料室の空気は爆発寸前の緊張感でパチパチと跳ね上がった。
その一触即発の最中、俺は直剣を肩に預け、頭の後ろで空いた左手を組みながら、呆れたように大きなため息をついた。
「……はぁ。どいつもこいつも、俺の都合も聞かないで勝手に盛り上がりやがって。……クレアナ、ファイルは確保したんだろ? だったらこんなむさ苦しい地下、さっさとトンズラ決めるぞ」
俺は隣のクレアナに顎で合図を送ると、両者の隙を突くべく、静かに脚の筋肉に力を込めた。
※
上を見上げる。天井の大穴からは、冷たい夜風と白々とした月光がまっすぐに差し込んでいる。あそこへ飛び込めば、一気に地上の礼拝堂へ抜けられるはずだ。
「……アルクさん、いつでもいけます」
隣のクレアナが、奪還した黒いファイルを隠密服の胸元へがっちりと抱え込み、いつでも跳躍できる構えを取った。マントの裾が低く翻り、彼女のサファイアブルーの瞳は完全に戦闘モードの鋭さを取り戻している。
「よし。おっさんたちの喧嘩に付き合うほど、俺の品性は高くないからな。トンズラだ!」
俺は叫ぶと同時に、白大理石の床を強く蹴り上げた。クレアナと共に弾かれたように跳躍し、天井の大穴へと一気に飛び上がる──。
「──おいおい、少年。我がここで教団の狗とやり合おうというのに、先に帰るなど水臭いではないか」
ドゴォッ!!
突如、鼓膜を裂くような重低音とともに、凄まじい風圧が頭上から降ってきた。
いつの間に動いたのか。ついさっきまで床にいたはずのマールスが、その重装甲の巨躯からはおよそ想像もつかない神速の踏み込みで、俺たちの頭上へと先回りし、大穴を塞ぐようにして着地したのだ。ただそこにあるだけで周囲の空間が歪み、空気が激しく押し潰されるような、圧倒的な質量。俺とクレアナは空中で強引に軌道をねじ曲げられ、再び地下大資料室の冷たい石畳へと叩きつけられるように着地を余儀なくされた。
「チッ……! やっぱりあの重装甲、見た目に反して速すぎるだろ! バケモノかよ!」
俺が着地の衝撃を逃がしながら、直剣を構え直して毒づいた、その瞬間だった。
「おや、将軍殿。そんなドブネズミたちを構っている暇があるのなら……私の『愛』も、その頑丈な盾ごと受け止めていただきましょうかッ!!」
マジエルの純白の特級教官服が、生き物のように激しく翻った。
彼の全身から、物理的な質量と猛烈な魔力を孕んだ深紅の薔薇の花弁が爆発的に狂い咲き、濃密な嵐となってマールスへと殺到する。ただの植物ではない。その花弁の一枚一枚が、触れたものの品性や理性を融解させ、肉体を切り裂く、文字通りの『毒刃』だ。
「説いてみせよ、その不届きな美徳とやらを!!」
だが、マールスは一切怯むことなく、身の丈を超える巨大な大剣を正面から一気に振り下ろした。
凄まじい白光の闘気が大資料室を爆裂させ、舞い散る薔薇の嵐と大剣の打撃が真っ向から衝突する。キィィィィィンという耳を劈く金属音と、空間が軋むような衝撃波が吹き荒れ、俺とクレアナは吹き飛ばされないよう、その規格外の化け物二人が放つ余波の隙間で身を縮めるだけで手一杯だった。
──だが、戦況は一瞬にして、残酷なまでの傾きを見せる。
マールスの『白光の闘気』は、この国の絶対的な武力の権化そのものだった。マジエルの放つ狂おしい薔薇の嵐は、大剣が一振りされるごとに、まるで紙細工のように無残に切り裂かれ、粉々に霧散していく。力こそが秩序と言わんばかりの、圧倒的な圧殺。
「──くっ、あ……ッ!?」
マジエルの完璧だった端正な顔が、驚愕と、生まれて初めて迎える本物の死の恐怖によって醜く歪んだ。
過酷な規律に息を詰まらせた少年たちの心を甘く地ならしする彼の「包容力の毒」も、すべてを真っ向から粉砕する『軍神』の武の前には、あまりにも無力で、あまりにも脆かったのだ。大剣の腹による容赦のない一撃をまともに喰らい、マジエルは美しい教官服を泥と己の鮮血でドス黒く染めながら、石畳の上へと激しく転がった。圧倒的な実力差による、完全な敗北だった。
「そこまでだ、マジエル。貴様の甘やかしの毒も、我が武の前にはただの汚濁に過ぎん」
マールスがズシリ、ズシリと地響きを立てる足取りで、血に濡れた大剣を引きずりながらマジエルへと確実に迫る。その絶対的な死の気配を前にして、マジエルは口からドクドクと血の泡を吐き出しながらも、歪んだ執念の笑みをその唇に浮かべた。
「……ハハッ、素晴らしいな、将軍殿……。ですが、私はまだ、ここで捕まるわけにはいかないのですよ……」
マジエルは血に染まった震える手で、胸元に揺れる繊浅な薔薇のロザリオを、壊れ物を扱うかのように強く握り締めた。
その瞬間、ロザリオの奥深くに隠滅されて刻み込まれていた、教団の空間転移術式が暴走気味に起動した。大資料室全体が、ドロドロとした禍々しい紫色の魔力光によって侵食されていく。
「ムツリヌス、連れて行きますよ……!」
「あ、あがががが……ッ!?」
マジエルが血を吐きながら叫ぶと同時に、床に気絶していたムツリヌスの身体とマジエルの輪郭が、空間の歪みそのものへと濁濁と吸い込まれていく。
パキィィィィィンッッッ!!!
ガラスが粉々に砕け散るような、背筋の凍る不吉な高音が地下室に響き渡った。術式の限界負荷に耐えかね、マジエルの命の結晶でもあった薔薇のロザリオが、その役目を終えて虚しく粉々に砕け散り、大理石の床へと破片を四散させる。
次の瞬間、二人の罪媒介者は、その歪んだ気配ごと完全に大聖堂の地下から消失していた。
※
耳が痛くなるほどの静寂が、再び大資料室へと戻ってくる。
残されたのは、天井に空いた大穴と、粉々になった石畳、そして呆然と立ち尽くす俺とクレアナ。マールスは逃げられた大剣を静かに鞘へと収めると、重厚な兜の奥から深いため息を漏らした。
「チッ、大罪司教の仕込みか。空間転移の魔導具まで隠し持っていようとは、本当に往生際の悪い変態どもだ……。はぁ…後始末が面倒だな……本当に」
さっきまでの軍神の威厳はどこへやら、マールスはおっさん臭くガシガシと頭を掻きながら、俺たちの方へと振り返った。その視線が、クレアナの胸元にある黒いファイルへとまっすぐに落とされる。
「……さて。逃げた奴らのことは追跡部隊に任せるとして。少年、クレアナ嬢。貴様らが命がけで回収したその『不快なガラクタ』とやら……我にも見せてもらおうか。エスペルが何故に嵌められ、奴らがこの国で何を企んでいるのか、騎士団長として……いや、我個人としてもこれ以上見過ごすわけにはいかん」
俺はクレアナと視線を交わし、小さく肩をすくめた。
「はぁ……。分かったよ、おっさん。どうせ隠し通せるような状況でもねえしな。一緒に見ようぜ、じいちゃんたちの『悪巧み』の答え合わせをさ」
俺たちはマールスと共に、周囲に散らばった古書をいくつか積み重ねて即席の机を作ると、その上に奪還した黒いファイルを静かに広げた。
めくられた羊皮紙の奥から、法皇都フランルクスを内側から崩壊へと導く、教団の最悪の陰謀が、ついに白日の下に晒されようとしていた──。




