第一章11 『これから先は』
大資料室の片隅、瓦礫の中からかき集めて積み上げられた古書の山。その歪な「机」の上に、ムツリヌスから奪還した黒いファイルが載せられていた。天井の大穴から差し込む白々とした月光が、その表紙を冷酷に照らし出している。だが、三人のうち、誰一人としてすぐにその表紙に手を伸ばそうとする者はいなかった。
──皆、躊躇っていた。
この中に、法皇都フランルクスを内側から破滅へと導く、教団の最悪のハッキング計画が記されている。それを目にするということは、この白亜の都市が張り巡らせてきた美しき「在り方」が、跡形もなく崩壊していく瞬間に立ち会うということに他ならない。純白の重装甲に身を包んだマールス将軍の手が、ガシャリと重い金属音を立てて宙で止まる。百戦錬磨の『軍神』の指先が、信じられないことに微かに震えていた。隣に立つクレアナもまた、隠密服の胸元を強く抑え、サファイアブルーの瞳を激しく揺らしてファイルを凝視している。ただの旅人である俺でさえ、その表紙の奥から漂ってくる、生物としての本能を逆撫でするようなドロドロとした不快な気配に、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じていた。
やがて、マールスが意を決したように深く息を吐き、分厚い鉄の手袋でファイルの表紙をゆっくりと、しかし重々しくめくった。
そこに刻まれていたのは、法皇都の洗練された文字ではなく、血の混じった黒インクでのたくられた、おぞましい教団の暗号紋様──そして、最高審判官ダイアネムが主導する、国家ハッキング計画『美徳の過剰摂取』の全貌であった。
※
ファイルに克明に記されたムツリヌスの脳内ノートの手記を読み進めるにつれ、地下室の温度がさらに数度下がったかのような、凄まじい戦慄が三人の身体を駆け抜けた。
ダイアネムが国中へ発令しつつある、あのガチガチの新法。市民に「完璧な品性」と「絶対的な道徳」を過剰なまでに強いるその法律の真の狙いは、都市の倫理観を高めることなどでは断じてなかった。人々の防衛本能を極限まで尖らせ、高め、規律の恐怖によって限界まで羞恥心の風船を膨らませる──。それこそが、この国を守る絶対防御の大結界を内側から乗っ取るための、最悪の『遅効性の汚染』だったのだ。
フランルクスの大結界は、かつて中世に滅んだルーミナス聖王国の惨劇──一人の少女の『痴辱の権能』によって、全員が全裸で涎を流して愛を乞う獣と化し、精神的に完全絶滅させられた『白き夜の羞恥劇』を教訓に作られた。不純な魔力を100%遮断する鉄の規律。だが、人々が規律を恐れること…例えば、衣服を正しく着ることに怯えれば怯えるほど、彼らの「隠したい」「恥ずかしい」という精神エネルギーは結界の深層へとドロドロと蓄積されていく。奴らは、国が自ら築いた防衛システムそのものを利用していたのだ。限界まで膨らんだ理性の防壁は、教団の仕掛けたバグ術式が起動した瞬間、一瞬にしてかつてのルーミナスと同じ『羞恥の拡散器』へと反転するように仕込まれていた。
「……なるほどな。綺麗に衣服を着るのが文明だの品性だのってガチガチに縛って、限界まで恥じらいの燃料が溜まった瞬間に世界システムを羞恥へ反転させる、か。まるごと『白き夜の羞恥劇』のそれだな……被害件数ゼロで国家を精神的に完全絶滅させるなんて、相変わらず最悪な不条理を考える連中だ」
流れるように書かれた悍ましい文字列を追いながら、俺がボソリと呟いた、その瞬間。
「──何だと……」
マールス将軍が兜の奥の目を大きく見開き、弾かれたように俺を凝視した。その純白の重装甲から、張り詰めたような鋭い威圧感が爆発的に漏れ出る。
「少年、貴様……今なんと言った? 『白き夜の羞恥劇』だと? なぜその名を……中世・暗黒期に起きたあの凄惨極まる惨劇は、生存者を秘密裏に処分し、都市を跡形もなく焼き払って歴史書から完全に抹消されたはずだ! 国家の最高機密である教団の裏歴史を、ただの旅人である貴様が、なぜ当然のように知っているッ!?」
『軍神』としての圧倒的な気魄を伴うマールスの問い詰めに、俺のすぐ後ろにいたクレアナが、困惑を隠しきれずにサファイアブルーの瞳を激しく揺らした。
「アルクさん……? あなた、一体何を……。なぜお兄様や将軍閣下すら怯える教団の最悪の不条理を、それほど鮮明に理解しているのですか……?」
二人の容赦のない視線が俺へと突き刺さる。うわ、めんどくさいこと口走っちまった。俺は頬をポリポリと掻きながら、心底嫌そうに視線を逸らす。
「いや、違うんだって。そんな大層な裏の事情とかじゃなくてさ。子供の頃、うちのじいちゃんが『俗悪な絵本代わりだ』とか言って、寝る前に散々読み聞かせてきた物語のタイトルが、確かそれだったんだよ。変に臨場感があったから、気味が悪くて鮮明に覚えてるだけだって」
「メルクリウスの爺が、あの惨劇を童話代わりに……!? あの老兵、孫の脳内に一体何を流し込んでやがるんだ……」
マールスが愕然としながら片手で兜を抑え、クレアナはさらにわけがわからないといった様子で眉をひそめてフリーズしている。じいちゃんへの不信感が地下室に満ちる中、マールスは重い溜息を吐き、再びファイルへと視線を戻した。
『──品性が極限に達した白き夜、その理性を反転させる。国王も騎士も、自らの意志で衣服を引き裂き合い、そのみっともない醜態を、全人類への「音声付き超高画質ビジョン」で伝播させる。被害件数:0。誰一人傷つけることなく、フランルクスの品性を完全絶滅させる──』
めくられる羊皮紙に書かれた文字が、あまりの凄惨さと不名誉さを伴って脳髄に突き刺さる。そして、その計画を裏で完璧に誘導していたのが、特級教官のマジエルだった。奴は規律に息を詰まらせた騎士学校の少年兵たちの心を、優しい包容力という名の毒で地ならしし、防衛線を骨抜きにしていた。この計画のバグに気づき、すべてを暴きかけたエスペル・シルヴェリアは、奴らの手によって教団の旅団の元へと誘導。その後、教団から『憂鬱の因子』を力ずくで簒奪。その因子を国に持ち帰れば大結界が崩壊する恐れがあること、そして万が一にも、自身の因子が暴走する可能性があることを知っていたエスペルは、ダイアネムによる理不尽な『教理違反』の判決をあえて自ら進んで受け入れ、自らの肉体を封印の器として、大監獄の最深部へと身を隠した。
すべては、この国が内側から自壊するタイムリミットを、たった一人で引き延ばすために。
ファイルを読み終えた瞬間、大資料室は完全な死寂に包まれた。マールス将軍はあまりの恐怖と激しい怒りに全身の血の気が引いている。だが、そこはさすが国家最強。その圧倒的な気力はそれでもなお、強固な精神を物語るかのように凄まじい存在感を放っていた。クレアナは冬天の氷のように美貌を強張らせ、言葉を失って立ち尽くしていた。先程の件も踏まえると無理もない。俺もまた、人間の品性を根底から侵食せんとする教団の狂気に、背筋を冷たい汗が伝うのを止められなかった。
その、全員が最悪の真実に戦慄し、息を詰めていたタイミングだった。
ボッ、と静かな闇の中に、不意に鮮やかな青い炎が燃え上がった。
「うおっ!? なんだ!?」
俺が慌てて飛び退くと、そこには、ムツリヌスが「命の結晶」と呼んで脂ぎったトレンチコートに抱え込んでいた、あの『もう片方のファイル』──クレアナの絶対に知られたくない恥ずかしい秘密とやらが書き連ねられたノートの束が、青い魔法の炎に包まれて激しく燃え盛っていた。
「ちょっと、クレアナ!? 何やってんだお前、証拠品だぞそれ!」
俺が手を伸ばして消そうとするのも構わず、炎は一瞬にして羊皮紙を灰へと変え、地下室の冷たい夜風にさらさらと霧散させていく。当のクレアナは、眉一つ動かさず、冬天の氷のような平然とした顔のまま、サファイアブルーの瞳をまっすぐに俺へと向けた。
「……何の問題もありません、アルクさん。あちらのファイルは、今回の作戦において『一枚たりとも必要のない、俗悪な虚偽の書類』です。教団の行動回路を完全に遮断するためにも、速やかなる処分が妥当であると判断しました」
「いや、俗悪な虚偽って……さっき自分で熊のぬいぐるみがどうのって認め──」
「──何か仰いましたか、アルクさん?」
クレアナの瞳から、ムツリヌスを睨んでいた時以上の、絶対的な殺気と冷徹な刃のような気配がピキピキと放たれた。
「いいえ、何も言ってないっす。完璧な危機管理能力だと思いやす……」
俺が両手を上げて降伏すると、それまで戦慄していたマールス将軍が、重厚な兜の奥から「ふぅ……」と、どこか緊張感の抜けた深いため息を漏らした。それから、再び大剣の柄に鉄の手袋をかけ、険しい聲音を取り戻す。
「……話の脱線はここまでだ。教団の、そしてダイアネムの陰謀の全貌は分かった。エスペルが嵌められた理由もな。奴らはこの国の理性を骨抜きにし、一夜にしてフランルクスを滅ぼす気だ」
マールスは、血に染まった大資料室の床を見つめ、静かに、しかし確かな殺気を込めて言葉を紡いだ。
「我が騎士団長として表立って動けば、最高審判官ダイアネムに『反逆』の口実を与え、新法の施行を早めさせることになる。だからこそ、システムの外れに位置する貴様たちに動いてもらいたい。まずは、この国を裏から侵食している『毒』の源流──騎士学校に潜伏しているであろう、特級教官マジエルを討伐する」
将軍の鋭い眼光が、俺、そしてクレアナへと向けられる。
「そしてマジエルの毒を断った後、最高審判官ダイアネムの目を盗み、大監獄の最深部に囚われているエスペルを救出する。奴の肉体に封印されている『憂鬱の因子』を、教団の手から完全に守り抜くために。……少年、クレアナ嬢。この国を裏から救う、隠密の特命、受けてくれるか」
クレアナは即座に右手を胸に当て、凛とした声で応じた。
「お兄様を救い出し、教団の狗どもを駆逐するためなら、この命、いつでも捧げる覚悟です。……行きましょう、アルクさん」
俺はガシガシと頭の後ろで髪を掻き回し、腰にある剥き出しの直剣の柄をぽんと一度叩いた。同じことを二度言うが、俺の食っちゃ寝する自堕落な生活の野望はこれで完全に消し飛んだ、だけど不思議と、胸のうちはすっきりと晴れ渡っている、そんな気がしてる。
「分かったよ。マジエルの不気味なむっつり笑顔をぶん殴って、そんであのお兄さんを牢屋から引っ張り出せば、俺の仕事は終わりってわけだ。やってやろうじゃん」
大聖堂の地下深く、冷たい月光が差し込む大穴の下で、俺たちの本当の反撃の作戦が、今、静かに決定された──。
※
大聖堂の地下に渦巻いていた、あの悍ましくも息の詰まるような闘気と魔術の残滓。それらを背後に残し、俺たちは崩壊した大資料室からようやく地上の礼拝堂へと這い上がってきた。
天井の巨大な大穴から差し込んでいた月光は、いつの間にか白々と明けていく夜明けの薄明かりへと移り変わろうとしている。
「さて、少年。クレアナ嬢。我は一度、この大聖堂の大惨事を、不器用な下級法官どもに上手く言い訳するための書類仕事に戻らねばならん。まったく、扉が開かないからと天井を叩き割るなど、誰が言い出した悪癖なのだかな」
「あんただよ」
俺が即座にジト目でツッコミを入れると、純白のフルプレートアーマーをガシャガシャと鳴らしながら、マールス将軍はおっさん臭く兜の後頭部をポリポリと掻いた。
「ハハハ、細かいことは気にするな。貴様らが命がけで回収したあの『最悪の計画書』は、我が責任を持って騎士団の最奥に秘匿しておく。明日からの作戦については、追って連絡する。……が、まずは今夜はその激務の疲れを癒やすがいい」
将軍はそう言って、俺たちの肩をその巨大な鉄の手袋でポン、ポンと力任せに叩いた。骨が軋むような痛みに俺が顔をしかめると、おっさんは満足そうに豪快な笑い声を漏らし、そのまま大聖堂の正面口へと重々しい足取りで歩み去っていった。本当に、嵐のようなおっさんだ。
「……アルクさん。私も一度、家へ戻ります。隠密服のまま朝の街を歩くわけにはいきませんし、何より、あの変態に不法侵入されていた部屋の戸締まりを徹底的に見直さねばなりませんから」
「ああ、あの『俗悪な虚偽の書類』とやらの件ね。部屋の換気口、ちゃんと塞いどけよ」
俺がニヤニヤしながら言うと、クレアナは冬天の氷のような美貌をピキリと引き締め、サファイアブルーの瞳で俺を鋭く射抜いた。
「……何か仰いましたか?」
「いいえ、何も。戸締まりは大事だって言っただけっす」
お互いに一晩中戦い抜いた疲労感をうっすらと滲ませながらも、俺たちは大聖堂の裏口で静かに一度頷き合い、それぞれの帰路へと就くために別れた。
※
人混みを避けるようにして、どうにか昨日泊まった高級宿へと戻ってきた頃には、街路灯の明かりが静かに消え、朝の清らかな光が白大理石の街並みを満たし始めていた。
部屋の真鍮の鍵を回して中に入ると、昨日と変わらない、贅沢すぎるほどにふかふかな天蓋付きのベッドが俺を待っていた。
「うわぁ……生き返る……」
俺は腰の剥き出しの直剣を壁際にそっと立てかけると、隠密服のボタンをいくつか緩めるのももどかしいほどに、吸い込まれるようにベッドへとダイブした。
昨日の夜は、変態ストーカートレンチコートの妄想を聞かされたり、透明な壁に剣を弾かれて腕を痺れさせたり、将軍殿に天井から降臨(降臨?)されたりと、とにかく俺の「のんびり」の許容量を遥かに超える大惨事の連続だった。
柔らかい枕に顔を埋め、泥のような深い眠りへと意識を沈めていく。じいちゃんへの愚痴の手紙、無事にポストに入ってるといいな……そんな益体のないことを最後に考えながら、俺は完全に意識を手放した。
※
「──アルクさん。朝ですよ。いい加減に起きてください」
耳元で、鈴の音のように澄んだ、しかし一切の妥協を許さない冷徹な声が響いた。
んあ……? と、重い瞼を無理やり押し上げると、視界に飛び込んできたのは、眩しい朝の陽光をその神秘的な銀髪に弾かせたクレアナの姿だった。
「うわっ!? なんで部屋にいるんだよお前!」
「フロントの女性従業員に『アルクさんの連れの者です』と通行許可証を提示したら、大変丁寧な所作で合鍵を貸してくださいました。この国の宿は、身元の確かな者に対する信頼が非常に厚いのです」
「防犯の概念はどうなってんだよこの国は……!」
俺がベッドの上で跳ね起きると、クレアナはすでにすっかり着替えを済ませていた。昨晩の濃紺の隠密服からは一転、今日の彼女は、上質な紺色のビロード生地で仕立てられた、ローブライン・ドレスを身に纏っている。胸元から袖口にかけて施された銀糸のアラベスク模様の刺繍が、朝の光を受けて気品高くきらめいていた。どこからどう見ても、非の打ち所がない高潔な人間そのものだ。
「昨夜のムツリヌスの手記にあった通り、現在の法皇都フランルクスは、市民の品性と規律を極限まで高めることで、大結界を教団の波長と同調させる『美徳の過剰摂取』、その渦中にあります。……そこで提案なのですが、アルクさん。本日は明日からの作戦に備え、市街の偵察も兼ねて、この都の日常を二人で歩いてみませんか?」
「偵察って……要するに、ただの街の観光だろ?」
「違います。厳格なる市街偵察です」
クレアナはそう言って、冬天の氷のような美貌のまま、ふいと視線を逸らした。
まあ、せっかくの高級宿だし、どうせなら至高なる朝食をいただきたいとことだが(昨日は食べずに外に出たから実は一度もいただいていない)、まあこの綺麗すぎる街をもう少し見て回るのも悪くはない。俺は諦めてベッドから這い出ると、顔を洗って旅人用のダブレットを羽織り、腰に直剣を下げて彼女と共にロビーへと向かった。
※
一歩外へと踏み出すと、眩いばかりの陽光に照らされた白亜の街並みが広がっていた。
朝の活気に包まれたフランルクスの大通りは、昨日俺が一人で歩いた時と同じように、どこまでも清廉で、規律正しく調和しているように見えた。
「やっぱり、いつ見ても白すぎて目がチカチカする。ほらクレアナ、あそこの売店、美味そうな果物がたくさん並んでるぞ。ちょっと見てこうぜ」
「……仕方がありませんね。まあ、市民の食生活の有り様を観察するのも、偵察の重要な一環ですから」
クレアナはドレスの裾を上品に揺らしながら、俺の歩調に合わせて売店へと向かう。
ホレスティアの田舎町では見たこともないような、淡い光を帯びたリンゴを二つ買い、俺たちはそれを齧りながら白大理石の路地をのんびりと歩いた。シャリリ、と瑞々しい音が響き、頭がシャキッとするような甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
「美味しい、ですね……。やはりホレスティアの森の酸っぱい木の実とは、何もかもが違います」
「だろ? じいちゃんに無理やり旅立たされた時は最悪だったけど、こういう美味いもんが食えるのだけは、この都の良いところだな」
俺たちはそんな他愛のない雑談を交わしながら、街の隅々まで歩みを進めた。
だが、のほほんとした空気の中で街並みをじっくりと観察していくにつれ、アルクの野生的な勘が、昨日よりもずっと明確な『歪み』を捉え始めていた。
通りを歩く市民たちは、一見すると誰もが上品な笑顔を浮かべ、お互いに一分の隙もない完璧な挨拶を交わしている。だが、よく見るとその誰もが、衣服の襟元や袖口のシワを、強迫観念に駆られたように何度も何度も指先で直していた。
軒先の露店で買い物をしている主婦たちも、お釣りの硬貨を受け取る手が微かに震えている。
「──おい、そこのお前。衣服のバックルが僅かに緩んでいるぞ。法皇都の規律を乱す不届き者め、猛省せよ」
「ひっ……! 申し訳ありません、すぐに、すぐに直します……!」
ふと視線をやると、風紀の取り締まりを行う下級法官が、ただバックルが緩んでいただけの若い男を、まるで大罪人でも見つけたかのような烈火の如き声音で怒鳴りつけていた。注意された男は顔面を蒼白に染め、涙目を浮かべながら狂ったように衣服を正している。
周囲の人混みも、それを当然の正義であるかのように、冷徹で硬直した目で見守っていた。
(……うわぁ。やっぱり、おっかねぇっていうか、全員が狂気的な何かに追い詰められてる感じがするな)
俺は無意識に、腰の直剣の柄にそっと手を置いた。
完璧な美徳。高潔な品性。ダイアネムが仕掛けたあの新法という名のバグによって、この国の人々は、自らの理性の防壁を自分で極限まで尖らせ、自壊の爆弾を限界まで膨らませ続けているのだ。
隣を歩くクレアナもまた、サファイアブルーの瞳を酷く暗く沈ませ、ドレスの裾をきゅっと握りしめていた。
「……アルクさん。街の中心に漂うあの薫香の奥に……微かに、昨日大聖堂の地下で感じたあの気配が混ざっているのが分かりますか?」
「ああ。マジエルのあの甘い薔薇の匂い……いや、毒の波長だったな。市民たちの心が、あの完璧神父の包容力に地ならしされてるのがよく分かるぜ」
「少し気分が悪いですね。場所を変えて他の地域も見回ってみましょう」
「おお、そうだな」
さて、そんなこんなで市街偵察を続けていく二人。日が傾き、白亜の街並みが夕暮れの琥珀色から、やがてすべてを飲み込む夜の藍色へと染まっていく。
夕方の売店で、朝出会ったような若い騎士候補生たちが、うっとりとした熱っぽい瞳で身を寄せ合い、「今日もマジエル教官の講義は素晴らしかった」「もっと教官に相応しい、完璧な剣士になろう」などと、盲信的な言葉を呟き合っているのを、俺たちは静かに見送った。
「……偵察は、ここまでですね。一度、私の家へ戻りましょう」
クレアナは大きなマントのフードを目深に被り、夜の影にその美しい美貌を隠した。
ただののんびりとした旅人だったはずの俺の日常は、この白亜の都の裏側に潜む最悪の怪物たちとの、逃れられぬ防衛戦へと完全に組み込まれてしまった。
隣を行く少女の横顔を見つめながら、俺は直剣の柄をぽんと叩き、小さく苦笑いを浮かべたのだった。
※
かくして、大陸の最高峰たる精華、神聖法皇都フランルクスを舞台にした、不条理なる精神と品性の防衛戦──その序章は、ここに静かに幕を閉じる。
表向きの歴史には被害件数ゼロと刻まれる、裏の歴史における最悪の羞恥劇。その内側からの侵食を食い止めるため、アルクとクレアナは、次なる戦場──マジエルの支配する『聖フランルクス高潔騎士学院』へと潜入するため、その確かな一歩を踏み出すのだった。




