第一章2 『白亜の都市』
「アルク、メルクリウス……」
その名が兵士の口から漏れた瞬間、彼の眉間には深い皺が刻まれた。
早速何かやらかしてしまったのだろうか。アルクの背中に嫌な汗が伝う。おいおい勘弁してくれ、入国初日から投獄なんて笑えない冗談だぞ。
「あの……俺、何か変なことしました?」
頭をフル回転させて弁解の言葉を何パターンも組み立てながら、アルクは恐る恐る尋ねてみた。
「いや、何でもない。……通行許可証を」
何でもない奴の反応じゃないだろ、それ。せめて理由を言ってくれた方がまだマシだったのに。アルクは心の中で激しくツッコミを入れながら、懐を探る。
「はい。これ、招待状なんです。裏にサインもあります」
「ホレスティアからか……。よし、確認した。ようこそフランルクスへ。宿に着いたら、そこでこの滞在券を提示するんだぞ」
「了解です」
よし、ひとまずは何事もなく済んだようだ。受け取った書類をしまい、アルクがホッと胸をなでおろしたその時だった。
「──最後に、一つ」
教訓。心の内であっても、安易にフラグを立ててはいけない。
なんだなんだ、今度こそお縄か? 本当に勘弁してほしい。アルクは引きつりそうになる顔を必死に理性で取り繕った。
「そのサインはお前の祖父のものだな。……その人について、いや、それはいいか。質問を変える。お前が腰に携えているものは何だ? 剣か?」
なぜ、ここでじいちゃんの話が出てくるのだろうか。確かにうちのじいちゃんは頭がおかしいし、色々と尋常な人間ではないと思っていたが、まさかこの国で指名手配でもされているんじゃないだろうな。前に「昔ちょっと行ったことがある」とは言っていたが……。後で絶対に手紙でとっちめてやろうと、アルクは胸に誓う。
「お察しの通りです。ホレスティアからの道中はバカ長い獣道なもんで、これがないとたちまち魔獣の餌になっちまうんです。もし持ち込みがまずいなら、預かり申請でも何でもしますよ」
そう言いながら、アルクは厳重な多重梱包をいくつかつつき、中から黒鉄色の直剣を抜かないまま、鞘ごと受付の兵士に差し出した。
兵士の目が、一瞬にして鋭く細められる。
「──巨樹の紋様か。特定の性質に対して高い特効性を持つ、特異の代物だな。まさか、ここ数年でこれほどの珍品を二度も見ることになるとは」
やけに詳しいな。というか、この剣ってそんなに珍しいものだったのか。子供の頃、実家の庭でさんざん素振りに使い、時には玩具代わりにぶん回していた(流石に鞘からは抜いていなかったが)思い出が蘇り、アルクは急に申し訳ない気持ちになってきた。
「問題ない、持って行け」
「あ、はい。ありがとうございます」
そんなこんなで、ようやく大国家の門をくぐる許可が下りた。牢屋にぶち込まれなくて本当に良かった。とはいえ、あんなに検問で不審げに睨まれては、この国にいる間の居心地が悪くなってしまいそうだ。まあ、美味いものでも食べて一晩寝れば忘れるだろう。
──とまあ、そんなトラブルを経て、どうにか入国を果たしたアルクであったが。
背を向けて歩き出す彼の一部始終を、砦の陰からじっと覗き見ている者が一人。
その気配はあまりに希薄で、アルクがその不穏な視線の存在に気づくことは、ついぞなかった。
※
白亜の巨大な城壁が、天を突くようにそびえ立っている。
それはかつて数千年前に滅び去ったという『ルーミナス聖王国』の面影をどこか残しながらも、さらに強固に、さらに厳格に洗練された「人類の精華の最高峰」──『神聖法皇都 フランルクス』の正門であった。
不純な魔力や波長を100%遮断すると謳われる神聖な大結界の境界線を潜り、俺は無造作な黒髪を軽く掻きながら、活気と規律に満ちた白大理石の街並みを見上げた。
「へえ……すげー綺麗な街だな。これなら人酔いする前に、美味いもん巡りでもした方が得かもな」
腰に下げた、厳重に多重梱包されて抜くことすらできない直剣を軽く叩きながら、俺は人当たりの良い爽やかな笑顔を浮かべて歩き出す。じいちゃんに無理やり旅立たされた時はどうなることかと思ったが、いざ着いてみれば良き都だ。何とも平和で、自堕落に過ごすにはうってつけの理想郷のように思えた。
さて、入国当日のその一日は、自身の経験上他に類を見ない新鮮さであった。宿屋に向かう道中の売店には、ホレスティアでは見たこともないような代物が視界を埋め尽くしている。
例えば、光を放つ水が入った小さな小瓶──おそらく聖水か何かだろう。あるいは、日照時に不思議な輝きを帯びるという魔法の調理具。商品紹介の札を眺めているだけでも、とにかく目が眩むほどだ。
「白すぎて目がチカチカするけど、この飴玉はすげーな。なんか頭がシャキッとする」
そんな感じで、売店で買った飴玉をしゃぶりながら宿屋の方向が記された地図に目を落とす。「帰ったらじいちゃんにどんな手紙を書こうかな」なんてことを考えて歩いていたからだろう。
目の前を通る一人の人物に気づかず、俺は肩を軽くぶつけてしまった。
「おとっ……あっ、すんません! 俺ってば不注意で……」
慌てて頭を下げて顔を上げると、そこにいたのは一人の若き神父であった。
肩に柔らかくかかるプラチナシルバーの髪は、差し込む陽光を弾いて柔らかな光の輪を描いている。中性的で端正な顔立ちには、見る者の警戒を一瞬で溶かしてしまうような穏やかな笑みが浮かべられていた。
身に纏うのは、一筋のシワすらない純白と深紅の特級教官服。首元まで隙なく仕立てられたハイネックの襟と、胸元に揺れる繊細な薔薇のロザリオ、そして手元を覆う白革の手袋。そのどれもが「完璧な清廉さ」を体現している。
だが、それ以上に恐ろしいのは、彼が放つ圧倒的な「包容力」だった。
琥珀色に澄んだその瞳に見つめられるだけで、誰もが自分という存在をまるごと全肯定されたような、甘やかな錯覚に陥ってしまう。
──だが、なんだろう。このかすかな引っかかりは。
「お気になさらないでください。……お見かけせぬお顔ですね。見たところ、遠方からの旅のお方でしょうか」
神父の声は、鐘の音のように低く、耳に心地よく響いた。
「はい、ホレスティアからです」
「おぉ、遠路はるばるようこそお越しくださいました。旅の道中、お疲れではありませんでしたか?」
「まあそれなりには。この国に知り合いがいましてね。その人に会いに来たんです。フランルクスに来るのは初めてで」
「なるほど、左様でしたか。主のご導きにより、良き再会となりますように。ところで……『聖フランルクス大聖堂』には、もう足をお運びになりましたか?」
──『聖フランルクス大聖堂』。
数百年ほど前に築かれた、国の中央に佇む大陸最大の聖堂だ。じいちゃん曰く、かつての惨劇(表向きは疫病)を教訓とし、都市全体に常時展開されている神聖なる防御結界──その核となっている場所らしい。
「いやぁ、まだ行けてないです。宿に荷物を置いたら真っ先に寄ってみます」
「ええ、主のおわす聖堂にて、あなたのお越しを心よりお待ちしておりますよ。……それでは、どうか良き旅路を」
「はい、ありがとうございました!」
別れ際、神父は愛想よく差し出された俺の手を、白革の手袋越しに静かに握り返した。
※
「失礼しました」とアルクが頭を下げて去っていく背中を、神父は穏やかな微笑みをたたえたまま見送る。
──しかし。
アルクの姿が人混みの中に消えたその瞬間、その完璧な笑みの奥で、琥珀色の瞳がかすかに細められた。
(……今のは、何だ……?)
手袋越しに触れ合った、ほんの一瞬。
自身の術の気配が──まるで何もない空洞に吸い込まれるかのように、すんなりと受け流されたのだ。
拒絶されたわけでも、魔力で弾かれたわけでもない。ただ当たり前に衣服を着ている者に対するかのように、自分の術が一切の引っかかりを持たずに雲散霧消した。
(ホレスティアの少年、と言っていたね……。ただの無垢な旅人にしては、少しばかり妙な手応えだ)
胸の奥で芽生えたかすかな歪みを打ち消すように、神父は胸元の薔薇のロザリオに軽く手を添え、再び慈愛に満ちた教官の表情へと戻った───。
※
一方、当のアルクは前方に注意しながら歩みを続けていた。
「……ふぅ、なんか緊張したな」
人群れの中でも一際目を引く、立ち姿の美しすぎる青年神父。
細身でありながら無駄のないしなやかな体躯は、間違いなく相当な剣の使い手であることを物語っていた。すれ違う人々や若い騎士候補生たちが、尊敬と熱の籠もった視線を彼に注いでいたのも頷ける。
完璧だった。服装も、仕草も、誰にでも平等に向けられる慈愛に満ちた笑顔も、「理想」そのものを絵に描いたように隙がない。
「いやいや、何考えてんだよ俺は」
初対面の人間に対して抱く感情ではないと自分でも分かっている。それでも、あの神父の佇まいには、どうしても拭えない小さな違和感が残っていた。
だが、違う場所へ行けばまた違う発見があるのは当たり前だ。そう自分に言い聞かせ、アルクはその違和感を思考の隅へと押しやり、再び宿屋を目指して歩き出した。




