第一章1 『旅路』
かの災厄からしばらくの年月が流れ去って、今に至る。
忌まわしいことに、今の世界にも依然としてその教団の勢力は健在であるが、未だその全貌を知る者は少ないのが現状だ。
──何だろう、何かが引っかかる。
幼少期に祖父から散々読み聞かされ、普段は温厚で滅多なことでは他人を悪く言わない祖父にさえ「俗悪」と言わせしめたその物語を、俺は幼いながらも鮮明に記憶している。それこそ、まるで自分ごとであるかのような奇妙な臨場感を伴って。
普段、物語を読むときにいちいち感情移入することなど滅多にない身としては、なかなかに忘れがたい引っかかりとも言えるのだが、当人としてはあまり良い気分ではなかった。
「っとと、そろそろだな」
とある山道。古びた書物を朗読しながら、のんびりと坂道を下っている一人の少年がいた。
無造作な黒髪に、どこか冷めているようでいて澄んだ黒い瞳。気さくで親しみやすい顔立ちの青年──いや、青年と言うには少し幼く、少年と言うには大人びている、そんな曖昧な印象を抱かせる佇まいだ。
黒の頑丈なハイネックインナーに、ダークグレーの動きやすいフード付きコットンダブレット。黒い細身の革ズボンに白い旅人用のブーツと手袋を合わせた、一目で旅の者とわかる格好だが、その腰には装飾のない極めてシンプルな一本の直剣が下げられている。その実は、腕利きの剣士だったりするのだろうか。
「聖王国、ねぇ……」
残念ながら、彼にとっては「旅人」という響きの方がしっくりくる。
彼が向かう先は、この世界における大国家の一角『神聖法皇都 フランルクス』。今はその道中だ。
その発端は、今から数ヶ月前まで遡る。
※
「……なんこれ」
その日の朝、俺は祖父から一通の手紙を渡された。悲しいことに、手紙をよこしてくれるような友人のあてなど皆目見当がつかない。故に、激しく困惑。こんな地の果てのような田舎に、わざわざ手紙を送ってくる得体の知れない奴は一体誰なのか。
「フランルクスへの招待状っぽいのう。差出人は……おっと、匿名じゃな、書いておらん」
「捨てとこうぜ、そんなもん。あんなきらびやかな国に行ったら、人酔いと目眩でぶっ倒れるわ」
「その極端な人嫌いをどうにかするのも兼ねて、行ってみればよいじゃろがい」
「誤解するなよじいちゃん。俺は人混みが無理なだけだ。別に人間そのものが嫌いなわけじゃない」
「大体、何のために」と言いかけたところだったが、聞かずともその詳細は、手紙の隅々までしっかりと読み込んだ祖父の口から語られることとなった。
「以前、お前が山道を案内した迷い子がおったじゃろ。あやつの兄君からのようじゃな。お礼か何かがしたいのか、はたまた……。兎にも角にも行ってみるのが良い。人の善意はしっかりと受け取っておくものじゃぞ」
手紙で身分を明かすなら何のための匿名だよ。疑問に思いながらもその時の俺は深く考えないでいた。
「お礼だと決まったわけじゃねんだけどな、んでもあれだ、どーやって行くんだよ。このへんの近くに馬車なんか通ってねーぞ」
「歩け」
「あ゛?」
「良い運動じゃろ。土産物を期待しておくぞ」
そう言って、旅費の入った小袋と、いつの間にか勝手にまとめられていた荷物、そして聖王国の滞在券を差し出してくる祖父。
「相変わらず用意周到だな。最初から断らせる気なかったろ」
「今は話せんのじゃ。お前には、やってもらわねばならんことがある」
「それ、言われないとこっちには全くわからないやつ」
「着いたら手紙をよこすのじゃぞ」
じいちゃんはそう言って、悪戯っぽく笑った。
「くそったれ」
※
──というような理不尽な流れで、俺は聖王国に向かっているのだった。
途中でいくつかの馬車を経由したこともあって、道中そこまで大変ではなかったが、旅に不慣れな身としては「やっぱり慣れないことはするもんじゃない」という後ろ向きな結論に達しそうになる。
「──よぉ兄ちゃん。いいもん持ってるじゃねえか」
ため息混じりに歩いていた俺の耳に、野太い声が飛び込んできた。
革製の帽子に泥のついたブーツ、弾帯を身にまとい、薄汚れたマントの隙間から銃や短剣を覗かせた荒々しい男たちが数名。山賊だ。最悪だ、運が悪い。
腰には剣があるが、面倒なことに、今の梱包では抜くまでにかなりの時間がかかりそうだった。検問まで見つからないようにと、厳重に多重梱包したのが完全に裏目に出た。後悔、激しく後悔。
「のぅにちんたらしとんのじゃ、おめーさんよぉ! おとなしく出すもん出しな!」
急かされるものだから、俺は銭の入った小袋を取り出すふりをして、懐から一粒の錠剤を取り出した。
「んだそりゃ」なんて山賊様が怪訝な顔をするものだから、それをゴクンと飲み込んで、一言。
「さいなら」
そう言った瞬間、俺は全力疾走で斜面を駆け降りた。一瞬だけ後ろを振り返ると、さっきまで目の前にいた山賊たちが、すでに豆粒ほどの大きさになっている。
そう、これを飲むと爆発的に足が速くなる。わざわざこんな時のために、じいちゃんが協会から仕入れたのであろう、即効性のある高性能な薬品。いまどき珍しい丸薬タイプだが、こういう緊急事態には一秒の猶予も惜しいので大助かりだ。
だが、急な斜面を尋常ではない速度で疾走しているのだ。少しでも足元を誤れば大事故になることくらい、誰の目にも明らかだった。
「本当に用意が良すぎるだろ、じいちゃん……ってうわ! あっぶね!」
あろうことか、よそ見と宛てのない考え事のせいで、危うく大樹に激突するところだった。次からは真面目に前を見て逃げよう、心に誓う。
そんな調子で風を切って走っていると、不意に前方に巨大な砦の門が視界に飛び込んできた。
「思ってたよりデカいな」
気圧されそうになりながらも、その門を目指して最後のスプリントをかける。流石にあの検問までたどり着けば、賊も追ってはこられないだろう。もっとも、奴らはもう影も形も見えないのだが。
「っし、もうすぐだ! ゲートを潜れば、思う存分怠けられる!」
無事に国に入ることができたら、絶対に走ったりしない自堕落な生活を送ってやる。さっさと用事を済ませて、あとは食っちゃ寝するだけだ。幸いなことに、じいちゃんのおかげで金には困らない。
そんなささやかな野望を脳内で膨らませているうちに、俺は砦の前に滑り込んだ。ちょうど薬の効果が切れていく感覚があったが、これだけ走ったというのに全く息切れをしていない。あの薬の優秀さには、ただただ感激するばかりだ。
「すいませーん、入国の手続きをしたいんですが」
さてさて、そんなこんなで色々とトラブルはありましたが、無事に『神聖法皇都 フランルクス』にたどり着くことができました。正直、自分の人生で訪れることなどない場所だと思っていましたが、人生何が起こるか本当にわからないものですね。
お土産は何にしよう。旅路は散々じいちゃんの用意の良さに助けられたからな──もっとも、巻き込まれた原因もあのクソジジイに無理やり行かされたからなのだが──。まあ、俺は優しいからそれなりに良いものを買ってやるとしよう。
「名前は?」
受付の兵士に名を問われたその男は、それまでの疲れを感じさせない、それはそれは屈託のない笑みを浮かべて答えた──。
「──アルク。俺の名前は、アルク・メルクリウスだ」




