第二章2 『潜入記録Ⅱ』
静寂が、104号室の空気を重く、冷たく押し潰していた。
ふかふかの枕に顔を埋め、早くも規則正しい(そしてどこか緊張感の欠けた)寝息を立て始めようとしているアルク。
その無防備極まる背中を見下ろすクロードのアメジスト色の瞳は、激しい困惑と、それを即座に塗り替えた激越な怒りによって、暗い紫の炎を宿していた。
「……っ! ふざけるのも……大概にしろよッ!!」
パシィンッ! と、甲高い衝撃音が部屋に響き渡った。
クロードが手元に携えていた磨き上げられた皮鞭──風紀委員会にのみ使用が許可されている「指導具」が、アルクのベッドの木枠を鋭く打ちつけたのだ。木屑が微かに舞い散り、部屋の空気が一瞬でピキリと凍りつく。
「起きろ! 靴を履いたままベッドに上がるなんて……我が聖フランルクス高潔騎士学院の全校規に対する決定的な冒涜だぞ! すぐに起き上がって、床に膝をついて反省しろ!」
少年の甲高い声には、特級風紀委員としての威厳を保とうとする必死さと、同年代の少年らしい感情の昂ぶりが剥き出しになって混ざり合っていた。
「……んあー……うるさいなぁ……」
アルクは鬱陶しそうに片目だけを薄く開けると、ベッドの上でゴロリと寝返りを打ち、クロードの方を胡散臭そうに見上げた。
「お前さ、鞭なんて物々しいもん振り回して疲れないのか? ほら、放っておけば俺は勝手に寝て静かになるんだから、お前も自分のベッドで横になればいいだろ」
「僕の完璧さを君のだらしなさと同列に語るなッ!」
クロードの胸元で、『特級風紀委員』の銀色のバッジがカチカチと細かく震えていた。その顔は怒りと、それ以上に「自分の信じる世界を平然と無視された」ことに対する根深い恐怖によって、青白く引きつっている。
「君みたいな不届き者がこの部屋に存在すること自体、僕の品性評価を脅かす毒なんだ! いいか、この学院において規律を守れないやつは『人間』じゃない! マジエル教官の慈愛を汚す『害虫』なんだよ! 害虫には……相応の『指導』が必要なんだ!」
クロードが再び皮鞭を高く振り上げ、アルクの肩口目掛けて一閃した──その瞬間。
ヒュッ、と風を切る鋭い音が室内を走った。
だが、期待された打撃音は響かない。
アルクはベッドに横たわった姿勢のまま、ただ腕をひょいと伸ばし、迫り来る皮鞭のしなやかな先端を、まるで飛んできたハエでも摘むかのように指先で軽々と挟み止めていたのだ。
「……っ!?」
クロードが息を呑み、力任せに鞭を引き抜こうと腕を引く。だが、アルクの指先は鉄の万力のように鞭を固定したまま、ミリ単位すら動かない。
「なぁ、クロード」
アルクの声音から、先程までのふざけた軽快さが消え、底知れない波長が滑り込んできた。
「俺に『害虫』だの『不届き』だの言うのは勝手だけどさ……お前、その規律とやらを守るために、自分がどれだけ必死で、どれだけ息苦しそうな顔してるか自覚あるか?」
「な……何を……言ってるんだよ……ッ!」
「お前のその目、奥のほうがガタガタ震えてんぞ。そんなに誰かに怒られるのが怖いのか? 服のシワ一つで人生終わるみたいな顔して……見てるこっちが肩こるわ」
パッと、アルクが指を放す。
勢い余って後ろへ数歩タタタとよろめいたクロードは、信じられないものを見る目でアルクを凝視した。
「くっ……不届き者のくせに、知ったような口を叩くな……ッ! 良いから入り口まで戻れ! 正しい歩幅と角度で室内に入り直し、僕に、そしてこの場所の品性に謝罪しろ! それができないなら、今すぐ風紀委員会総出で君を『省察の間』へ連行する!」
「はいはい、わかったよ……。戻れば満足なんだろ?」
アルクは心底面倒くさそうに「はぁ〜あ」と長い溜息をつくと、ベッドからドサリと足を下ろした。ダブレットの裾をだらしなく引っ張り、腰の直剣をガシャガシャと鳴らしながら、だるそうにドアの前まで歩いていく。
クロードは腕を組み、冷徹な風紀委員の表情を作ってアルクの動作を凝視した。
「そうだ。三尺以内の歩幅、視線は十五度上方、扉の開閉は角四十五度──」
「へいへい。お邪魔しまーす」
ガチャリ、とドアを開け、アルクは再び足を踏み入れた。
歩幅は先程と全く変わらない適当な大股。
視線は床に落ちた自分の靴先を気だるげに追うだけ。
胸元のボタンは二つ緩んだままで、ダブレットの裾は右側だけがめくれ上がっている。
……一ミリたりとも、やり直されていなかった。
「────────ッ!?」
クロードの顔が、怒りと驚愕で真っ赤に跳ね上がった。
「な……何なんだよその歩き方はッ!? さっきと何一つ変わってないじゃないか!! 君は僕を、我が高潔騎士学院の全校規を馬鹿にしているのか!?」
「え? なんでだよ。言われた通り一回外に出て、もう一回入ってきたじゃん」
「態度だよ! 角度も! 歩幅も! 襟元も!! 何一つ正されていないだろうがッ!!」
「いやぁ、俺の故郷じゃこれが一番丁寧な入り方なんだよ。風通しもいいし」
「嘘をつけぇぇッ!!」
クロードは髪を振り乱し、再び皮鞭を構えてアルクへと詰め寄ろうとした。だが、怒りの限界を迎えた少年の疲労と、アルクの常識外れすぎるマイペースな重力に引きずられ、その足取りはどこか空回りしている。
「ま、そういうわけだから。俺はもうやるべきことやったし、寝るわ」
「待て! 待てと言っているんだアルク・メルクリウスッ! 認めないぞ、そんな入場は絶対に認めない……ッ!」
「おやすみー」
「話を聞けぇぇッ!!」
キンキンと響くクロードの金切り声を背中に浴びながら、アルクは再びベッドへドサリとダイブした。頭から掛け布団をスッポリと被り、外界の音をシャットアウトする。
「起きろ! 布団を頭まで被るのも校規違反だ! 通気性を確保し顔を出すのが『清廉なる就寝』の基本なんだぞッ! 引っぺがしてやる……ッ!」
クロードが布団の端を力任せに引っ張り、アルクがそれを内側からガチッと押さえ込み、室内で不毛な布団の引っ張り合いが繰り広げられる。
「離せよッ!」
「嫌だね、寒いもん」
「今は初秋だぞ!? 寒いはずがないだろッ!」
「心根が寒いんだよ」
「屁理屈を言うなーーーッ!!」
ドタバタと騒がしい音が数分間部屋に響き渡っていたが……やがて、アルクの側から一切の抵抗が消えた。
「……ッ!? なんだ、急に力を抜いて……覚悟が決まったのか!?」
クロードが勢いよく布団を引っぺがすと──そこには、両手を頭の後ろで組み、スースーと穏やかな寝息を立てて完全な熟睡モードに入っているアルクの姿があった。
「……な……」
クロードは手に残った布団を握りしめたまま、口を半開きの開けて固まった。
「な……なんで……この状況で……寝落ちできるんだよ…………!?」
風紀委員としての怒りも、規律を守らせようとする使命感も、すべてが巨大な綿の壁に吸い込まれるように消え去っていく。クロードはガクリと肩を落とし、手に持った皮鞭と布団を交互に見つめると、脱力したようにその場に崩れ落ちた。
「……あり得ない……。こんなやつ……今まで一人もいなかったのに……」
深夜、104号室には、アルクののんきな寝息と、あまりのショックに自分のデスクで膝を抱えてブツブツと校規を暗唱し続けるクロードの壊れた呟きだけが、静かに響き続けていた。
※
翌朝。
清廉なる法皇都の朝を告げる鐘の音が、透き通った空気の中を爽やかに駆け抜ける。
104号室の窓から差し込む白銀の陽光の中、クロード・アストレイはすでに完璧な状態でデスクの前に座っていた。制服のボタンは首元まで寸分の狂いもなく留められ、髪は一筋の乱れもなく整えられている。ただし、そのアメジスト色の瞳の周囲には、昨日の一夜を物語るような薄い隈が刻まれていた。
ジーッと、クロードの殺気立った視線が、未だにベッドで大の字になって眠っているアルクへと注がれる。
「……起きろ。朝だ」
クロードの冷たい声が室内を打つ。
「……んー……あと五分……」
「五分などという不確定な時間は認めない! 朝の起床時刻は六時整! ベルが鳴り終わるまでにベッドを離れ、シワ一つなく整頓するのが我が校の規律だ! 直ちに起きろ、アルク・メルクリウス!」
バン! とデスクを叩く音。
アルクは重い瞼を擦りながら、うーんと背伸びをしてベッドから起き上がった。
「……ふわぁぁあ……。おはよ、クロード。朝から元気だな」
「元気ではない! 君の不届きな態度のせいで僕は一晩中校規の再確認を余儀なくされたんだ! 良いか、朝の準備には厳格な手順が存在する! まずは衣服を正し、水下で顔を清め、髪を左から右へ三回梳かし──」
「へいへい」
クロードが朗々と「正しい朝の準備手順」を捲し立てている横で、アルクは完全にそれを聞き流していた。
あくびをしながらパジャマ代わりのくたびれたシャツを脱ぎ捨てると、昨日と同じ旅人用のダブレットをひょいと引っ張り上げる。ボタンは上から二つ目までしか留めず、腰紐はやっぱり適当に一回結んだだけ。
さらに、洗い場へ向かうと、洗面器に溜まった水を両手でバシャバシャと豪快に顔へ叩きつけ、濡れた髪を手ぐしでガシガシと掻き回して終了。
時間にして、わずか三十秒。
「────────ッ!?」
完璧な手順を説明していたクロードの言葉が、途中で盛大に詰まった。
「な……何なんだその雑な準備はッ!? 髪は櫛で梳かしていないし、服のボタンも留めきっていない! 洗顔の水切りも手ぬぐいを使わず手で払っただけじゃないか!!」
「え? だって顔洗って服着ただろ? 何が不満なんだよ」
「全部不満だッ!! 朝の身だしなみは品性の鏡なんだぞ!? そんなだらしない格好で食堂へ行ったら、風紀委員会全体の責任問題になるんだ!!」
「大丈夫だって。誰も俺のことなんて見てねえよ」
「見てるよ!! 昨日だって全員が君を軽蔑の目で見てただろうがッ!!」
叫ぶクロードを余所に、アルクは腰に黒鉄色の直剣をぽんと吊るすと、さっさと部屋のドアを開けた。
「腹減ったわ。食堂行こうぜ」
「待て! 待ちなさいッ! ボタンを留めろ! 髪を拭けぇぇッ!!」
※
第一大食堂。
そこは、天井から巨大なクリスタルの魔導灯が吊り下げられた、まるで貴族の晩餐会会場のような豪華絢爛な空間だった。
しかし、漂う空気は修道院の断食の場のように重苦しい。
数百名の生徒たちが、完璧に統一された姿勢で整列し、無言で銀のトレーを受け取っている。
トレーの上に並ぶのは、法皇都の基準に基づいた「品性高き食事」──味付けの薄いスープ、固く焼き上げられた無塩のパン、そして蒸しただけの葉野菜。
一口食べるごとに胸元で静かに祈りを捧げ、噛む回数すら規定されているかのように規則正しい。
その完璧な排他的空間の中央を、アルクはトレーを片手に適当な足取りで歩いていた。
「……見ろ、昨日の不届き者だ」
「朝食の場にまで、あの緩んだ服装で来るとは……」
「品性評価値が暴落するぞ。近づかない方がいい……」
周囲の生徒たちから注がれる、氷のように冷たい排斥の視線。同調圧力の波が、まるで物理的な圧力となってアルクへと押し寄せる。
だが、アルクの関心はそんな視線には微塵も向いていなかった。
(うわぁ……何だこのメシ。色味も薄いし、見るからに味しなさそうだな……。じいちゃんが適当に焼いたイノシシ肉の方が、遥かに美味そうだわ)
アルクは空いている長テーブルの端にドカッと腰を下ろすと、トレーの上の固いパンをむんずと掴み、豪快に口へと放り込んだ。
バリッ! ガリガリガリッ! と、静まり返った食堂内に、あまりにも下品で品のない咀嚼音が盛大に響き渡る。
周囲の生徒が一斉に手を止め、絶句してアルクを凝視した。
「……アルク・メルクリウスッ!!」
向かいの席に音もなく滑り込んできたクロードが、顔を真っ赤にして卓上を拳で叩いた。
「食事の際の感謝の祈りはどこへ行ったッ!? パンはちぎって一口ずつ口に運ぶのが基本校規だぞ! なぜそのまま丸かじりしているんだッ!?」
「ん? だってちぎっても味変わんねえじゃん。固いから一気にかじった方が早いし」
モグモグと口を動かしながら、アルクはスープを器ごと手で持ち上げ、ズズズッと下品な音を立てて飲み干した。
「な……スープを器に口をつけて飲むなんて……ッ!? 匙を使え! 匙を使えと言っているんだッ!!」
「匙だと一口が小さくてまどろっこしいんだよ。腹減ってんだから、一気に流し込んだ方が手っ取り早いだろ」
「食事は腹を満たすための作業じゃない! 魂の品性を磨くための儀式なんだよぉぉッ!!」
頭を抱えて頭髪を掻き乱すクロード。特級風紀委員としての自負も、完璧な模範生としての矜持も、アルクの野生の前にズタズタに引き裂かれていく。
「なぁクロード」
アルクはパンのクズを手のひらでパンパンと払いながら、向かいで半狂乱になっている少年をじっと見た。
「お前さ、そんなに怒ってばっかりで、メシ食ってて美味いか?」
「……え?」
クロードの動作が、ピタリと止まった。
「感謝の祈りだの、匙の使い方だの気にしてさ。そんなの気にして食べるメシ、ただの作業だろ。もっとこう……うまいもんを『うめぇ!』って食う方が、絶対楽しいと思うんだけどな」
アルクの澄んだ、一切の裏表がない黒い瞳。
そこには、クロードを馬鹿にする意図も、挑発する意図すらも存在しなかった。ただ純粋な「事実」として、彼のあり方を問いかけているだけだった。
「……僕……僕は……」
クロードの手が、微かに震えた。
味のしない薄味のスープ。固いパン。マジエル教官に褒められるためだけに、毎日、吐き気を催しながら完璧な作法で口へ運び続けてきた食事。
『美味しい』なんて感情、いつから抱いていなかっただろうか──。
クロードの胸の奥で、過剰な規律によってガチガチに固められていた理性の防壁が、ごくわずかに、しかし確実に軋む音がした。
「……っ! ふ、ふざけるな! 僕は……風紀委員だ! 君の詭弁には惑わされないッ!」
クロードは慌てて自分のトレーを引き寄せると、逃げるように立ち上がった。
「朝食の時間は終了だ! 直ちに第一校舎の教室へ向かう! 授業中までその不届きな態度を続けたら……本当に風紀委員会全員で君を処罰するからなッ!」
捨て台詞を残し、クロードは早足で食堂を飛び出していった。
アルクはその背中を「はぁ〜あ」と見送ると、最後に残った水をキュッと飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
「さてと……じゃあ、恐怖の授業に向かいますかね」
腰の直剣をぽんと叩き、アルクは生徒たちの排斥の視線が渦巻く廊下へと、変わらのだるそうな足取りで踏み出していった。
狂気の檻の中に刻まれる、歪で清々しい不協和音。
アルク・メルクリウスの「ふざけた潜入劇」は、次なる舞台へと向かって、動き出す──。




