第二章3 『潜入記録Ⅲ』
【歪んだ授業】
第一校舎の長い廊下は、整然と並ぶ白大理石の柱と、一分の曇りもなく磨かれた魔導ガラスの窓に縁取られていた。
授業開始を告げる一分前の予鈴が遠くで鳴り響く中、生徒たちは教科書を正確に右脇に抱え、規則正しい歩幅でそれぞれの教室へと吸い込まれていく。誰一人として私語を交わす者はいない。廊下に響くのは、擦り切れた革靴が石床を打つカチ、カチという冷機を孕んだ足音だけだった。
「……うわぁ、マジで誰も喋んねぇのな。通夜の席でももうちょっと賑やかだぞ」
その厳粛な隊列の最後尾を、ダブレットの胸元を緩めたアルクがだるそうに歩いていた。腰に下げた黒鉄色の直剣が、歩くたびにガシャガシャと下品な金属音を立てる。前を行く生徒たちが一斉に肩を跳ね上がらせ、まるで害虫の羽音でも聞いたかのように不快そうに振り返るが、アルクは「お前らも大変だな」と言わんばかりにひらひらと手を振り返すだけだった。
教室の扉──『編入特別1組』の重厚なオーク材のドアを開けると、室内にはすでに三十名ほどの生徒たちが着席していた。
ピシリと背筋を伸ばし、正面の黒板だけを凝視する生徒たち。その最前列中央、最も教壇に近い特等席には、今朝の食堂から一足先に向かったクロード・アストレイが座っていた。制服のボタンは首元まで固く留められ、髪も入念に整えられているが、そのアメジスト色の瞳は、どこか焦点が定まらないまま手元のノートを強く握りしめている。
(……あいつ、さっきの食堂でのやり取り、まだ引きずってんのか?)
アルクが一番後ろの空いている席へとドカッと腰を下ろし、腰の直剣を壁際に立てかけた、まさにその時だった。
静まり返った教室に、カツン……カツン……と、優雅で靴音の澄んだ足音が近づいてきた。
扉が静かに押し開けられる。
教室内の空気が、一瞬にして甘やかで濃密な香気に満たされた。まるで春の盛りの薔薇園に足を踏み入れたかのような、頭の奥がじんわりと痺れる不自然な甘さ。
「おはよう、私の愛しい生徒たち」
ねっとりとした、どこまでも優しく響く声音。
純白と深紅の特級教官服を完璧に着こなし、胸元に深紅のロザリオを光らせた男マジエルが、ゆっくりと教壇へ上った。首元の高めに立てられた襟からは、昨夜の火傷の痕など微塵も感じさせない完璧な品性が漂っている。
その姿を目にした瞬間、教室中の生徒たちの瞳から一斉に感情の光が消え、うっとりとした熱っぽい盲信の色彩が宿った。
「教官……! おはようございます、マジエル教官……!」
揃った声。それは挨拶というよりも、救済を乞う信者たちの祈りの発声に近かった。クロードすらも、それまでの葛藤を吹き飛ばすようにハッと顔を上げ、すがりつくような瞳でマジエルを凝視している。
「ふふ、今日も皆、素晴らしい品性だね。……過酷な規律の中で自分の無力さに怯え、心を痛めながらも、こうして私の前で正しく在ろうとする……ああ、なんて健気で愛おしいのだろう」
マジエルは白革の手袋を嵌めた手を胸元に当て、目を細めて生徒たちを見渡した。そして、その琥珀色の瞳が、一番後ろの席でだらしなく頬杖をついているアルクの姿を捉える。
一瞬だけ、マジエルの瞳の奥にドロドロとした偏執的な暗火が揺らめいた。だが、彼はすぐに完璧な微笑みの裏へとそれを隠し、滑らかな足取りで教壇の端へと移動した。
「さて……本日の講義は、我が聖フランルクスが掲げる最高峰の徳──『心の去勢と同調』についてだ」
マジエルが黒板に美しい筆致で文字を刻んでいく。
「人間という生き物はね、未熟であればあるほど『個のプライド』や『身勝手な欲望』という不浄な垢を溜め込んでしまう。服のシワ一つ、立ち振る舞い一つを気にするのは、君たちがまだその不浄さを捨てきれていない証拠だ。……だが、恥じることはないよ」
マジエルは両手を広げ、慈愛に満ちた声を教室全体へ注ぎ込んだ。
「君たちが自分の不純さに耐えかね、誇りがへし折れそうになった時……その醜いプライドを私に預けなさい。私の『愛』が、君たちの傷ついた心を優しく包み込み、何も考えなくていい従順で無垢な存在へと導いてあげるからね……」
「教官……ぁぁ、マジエル教官……!」
最前列の生徒が、感極まったように涙を流し、胸元で手を組んだ。教室全体に、過剰な規律で自我を削り取られた少年たちが、マジエルの甘い毒によって自ら思考を放棄していく「去勢」の波動が広がっていく。
生徒たちがトロンとした瞳で教官を見つめる中──。
「……ふあぁぁぁぁぁん……」
一番後ろの席から、静寂を盛大に引き裂く、本日何度目かわからない豪快な欠伸の音が響き渡った。
ピキリ、と教室内の空気が固まった。
アルクは涙目になった目をゴシゴシと擦りながら、教壇の上のマジエルに向かって気のない声を投げかけた。
「なぁ、先生」
「……何かな、アルク君?」
マジエルは穏やかな微笑みを崩さず、しかし琥珀色の瞳を冷たく光らせてアルクを見つめ返した。
「先生の言ってることってさ、要するに『自分で考えるの面倒くさいから、全部俺の言う通りにしてバカになれ』ってことだろ? 難しそうな言葉使ってるけど、じいちゃんが昔言ってた『自分でメシ食えねぇ赤ん坊に戻すおまじない』と何が違うんだ?」
──静寂。
教室中の生徒たちが、信じられないものを見たかのような顔でアルクへと首を向けた。
完璧な教官に対する、明確な否定。
マジエルが与える絶対の救済を、「ただのバカになれ」と言い切る決定的な冒涜。
「な……何を言っているんだ君はッ!?」
最前列でクロードが立ち上がった。その顔は蒼白に染まり、激しい怒りと恐怖で小さく震えている。
「マジエル教官の慈愛を侮辱するのか!? 教官は僕たちの不純な心を正し、導いてくださっているんだぞ! 君のような不届き者に、教官の尊さが理解できるはずがないッ!」
「そうよ! 立ち去れ、不純物め!」
「教官に謝れ! 今すぐ膝をついて謝罪しろ!」
教室中から次々と上がる激越な罵声。生徒たちが一斉に立ち上がり、アルクを「害虫」として排斥しようとする強烈な同調圧力の波が、嵐のように一番後ろの席へと押し寄せる。
だが、当のアルクは背中を深々と椅子に預け、ダブレットの裾をパタパタと煽りながら、心底面倒くさそうに吐き捨てた。
「お前らなぁ……そんなに他人に自分の頭の中身任せて楽しいか? 自分で何食うか決めて、自分でどこ行くか決めるから面白いんだろうが。そんなに誰かの『お人形』になりたいなら、勝手になっとけよ」
アルクの澄んだ黒い瞳が、生徒たちの盲目的な怒りを真っ向から射抜く。
品性の呪縛も、集団の排斥も、マジエルの「薔愛」の毒すらも、彼の「だから何?」という野生の理性の前には、一閃の風によって吹き飛ぶ羽虫のようなものに過ぎなかった。
教壇の上で、マジエルの白革の手袋が、ギシリと音を立てて握りしめられた。
(……メルクリウスのバグが……。規律の檻の中でも、これほどまでに濁らんというのか……!)
マジエルの首元で、衣服に隠された火傷の痕が、先日の屈辱を思い出したかのように熱く疼く。
「……静かにしなさい、皆」
マジエルが静かに手を挙げると、あれほど荒れ狂っていた生徒たちの怒号が、一瞬でピタリと止んだ。
「アルク君の言うことも一理あるよ。彼はまだ、このフランルクスの高潔なる光を知らないだけだ。……焦る必要はない」
マジエルはいつもの穏やかな笑みを浮かべ直し、琥珀色の瞳にドロドロとした偏執的な愉悦の火を宿した。
「彼にはこれから、じっくりと学んでもらおう。……この学院の『美徳』が、どれほど深遠で、逃れられないものであるかをね」
放たれる、甘く密やかな宣戦布告。
狂気の檻のただ中で、少年と怪物たちの精神の攻防は、より深く、より危険な領域へと足を踏み入れていくのだった──。
※
【ヘリカ・ベーガー】
午後の講義終了を告げる重厚な鐘が鳴り響いた瞬間、教室内の緊張感は頂点に達していた。
「──講義はここまでとする。各自、本日の学びを『省察の書』へ克明に記し、品性の向上に努めるように」
マジエルが純白の教官服の裾を優雅に翻し、教壇を後にした途端だった。
一ミリの歪みもなく整列していた生徒たちが、まるで示し合わせたかのように一斉に席を立ち、一番後ろの席──ダブレットの胸元を緩めてあくびを噛み殺しているアルクの元へと押し寄せてきた。
「アルク・メルクリウス! 貴様、さっきの態度は何だッ!?」
「マジエル教官の尊いお教えを『バカになれ』などと吐き捨てるなど、断じて許されない!」
「不届き者め! 直ちに教官の執務室へ出向き、膝をついて不純を洗ってこい!」
十数人の生徒たちが取り囲み、口々に罵声を叩きつけてくる。その瞳には、過剰な規律と同調圧力によって自我を削り取られた者特有の、狂信的で冷酷な排斥の光が宿っていた。
最前列からは、クロード・アストレイがアメジスト色の瞳を酷く揺らしながら、悲痛と怒りが混ざり合った視線をアルクへと注いでいる。
「……はぁぁぁ……。お前ら、講義が終わった後くらい静かにさせてくれよ。大声出すと余計にお腹減るだろ」
アルクは耳をほじくりながら、心底面倒くさそうに息を吐いた。
彼らにいくら正論を説いたところで、ガチガチに固まった頭には何も届かない。クレアナとの約束もある。これ以上ここで不毛な押し問答を続けて目立つのは、純粋に「だるい」だけであった。
「あー、はいはい。俺が悪かったです。反省するために部屋に戻りまーす」
「待て! 逃げる気かッ! 貴様の品性評価値はすでに──」
詰め寄るクラスメイトたちの隙間を、アルクはヌルりとウナギのように潜り抜けた。
背後で上がる怒号と「待てッ!」という金切り声を完全に無視し、彼は教舎の重厚なオーク材の扉を開けて廊下へと滑り出す。
「うわぁ、集団で責め立ててくる時の勢いだけは凄まじいな。ほんと、見てるだけで肩がこるわ……」
首をゴリゴリと鳴らしながら、アルクは白大理石の廊下を歩を進めた。
次の講義は屋外訓練場での実技演習だ。自室の104号室に戻り、昨日受領書と一緒に部屋の棚へ適当に放り投げておいた教材を取りに行かねばならない。
白大理石の柱が整然と並び、一分の曇りもなく磨かれた魔導ガラス窓から午後の柔らかな光が差し込む廊下。だが、すれ違う生徒たちは誰一人として会話を交わさず、前方を凝視してカチ、カチと規則正しい靴音を響かせるだけだ。
相変わらずの息が詰まる空間に、アルクは腰の直剣をぽんと叩きながら、小さく苦笑いを浮かべた。
その時だった。
「──ねえ、君。ずいぶんと大変そうな目にあってたねぇ」
不意に、廊下の曲がり角の陰から、ひょっこりと顔を覗かせる影があった。
鈴を転がすような、どこか軽やかで脱力感のある声。
この学院に充満する、強迫的で張り詰めた空気とはおよそ掛け離れたその声音に、アルクは足を止めた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
神秘的な銀髪──だが、光の加減によってごく微かに暖かみのある金色が混ざり込む、不思議な色彩の髪を背中まで伸ばしている。そして、その髪の隙間から覗く彼女の瞳は、とろりと甘い蜂蜜のような黄金色をたたえていた。
制服の着こなしも、学院の標準からはごく微かに崩れていた。ボタンは一見すると正しく留められているように見えるが、襟元がわずかに緩められており、胸元のリボンも少しだけ斜めに結ばれている。一見すると『高潔な生徒』だが、よく見ると完璧な規律の枠組みをさらりと受け流しているかのような、絶妙な抜け感があった。
「……あんた、誰だ?」
アルクが胡散臭そうに尋ねると、少女は蜂蜜色の瞳を細め、いたずらっぽくクスリと笑った。
「私はヘリカ。ヘリカ・ベーガーだよ。君より一つ上の学年……一応、先輩ってことになるのかな?」
ヘリカと名乗った少女は、白い手袋を嵌めた手をあごに当て、アルクのダブレットの胸元から腰の黒鉄色の直剣までを、興味深そうにしげしげと観察した。
「この場所って窮屈だよねぇ~、分かる分かる。私もここ入ってからずっとそう思うもん。だから噂を聞いたときから君には一片会ってみたかったんだよね」
「噂? 俺の?」
「うん。『ホレスティアの山奥から来た不届きな編入生』だって、風紀委員会の人たちがすっごい勢いでプリプリ怒りながら噂してたよ? 授業中にマジエル教官の前であくびして『バカになれってこと?』なんて言っちゃう子がいるなんて、私、感動しちゃった」
ヘリカはパチパチと小さく手を叩き、心底楽しそうに目を細めた。
その蜂蜜色の瞳には、周囲の生徒たちが抱いているような「排斥」や「軽蔑」の光は一切存在しなかった。むしろ、目の前にある珍しい生き物を面白がっているかのような、自由で柔らかな光が宿っている。
「……へぇ。ここにも、そんなまともな感想抱く奴がいたんだな」
アルクは少し驚いたように片眉を上げた。
この学院に来てから出会った人間といえば、過剰な規律に縛られてピキピキしているクロードか、ねっとりとした毒を振りまくマジエルか、あるいは影で隠密行動をしているクレアナくらいだ。これほどフランクに、そして平然と「この場所は窮屈だ」と言い切る生徒に出会うとは思っていなかった。
「まとも、なのかなぁ? 私としては、周りのみんながちょっと真面目すぎるだけだと思うんだけどね」
ヘリカはそう言って、窓の外──遠くに見える白亜の防衛塔と、そこから覗く青空を所在なさげに見上げた。その横顔には、ほんのわずかだけ、大人びた静かな陰影が差していた。
「みんな、『いい子』になろうと必死になりすぎて、自分が何でここにいるのかも忘れちゃってるみたい。衣服のシワを気にしたり、教官に褒められることに全神経を使って……ねぇ、それってちょっと、勿体ないと思わない?」
「……まあな。メシの味すら分からなくなるくらいなら、最初から完璧なんて目指さなきゃいいのにさ」
「ふふ、やっぱり君、面白いね」
ヘリカはくるりと振り返り、蜂蜜色の瞳を輝かせてアルクを見つめた。
「ねえ、アルク君。君はこの学院で、何を探してるの? ただの編入生にしては、その……なんだかただ者じゃない気配がするけど」
ヘリカの鋭い視線が、一瞬だけアルクの腰にある直剣へと向けられた。
多重梱包が解かれ、無骨な鉄塊のように見えながらも、静かに異能の波長を放つその黒鉄色の刀身。彼女はただの天然な先輩ではなく、相応の観察眼と勘を持っているらしい。
「……俺? 俺はただ、ふかふかのベッドで食っちゃ寝する平穏な生活を取り戻したいだけだよ。こんな暑苦しい都になんて、好きで来たわけじゃないしな」
「あはは! 食っちゃ寝だって! 最高だね、それ」
ヘリカは可憐な口元を押さえて、ころころと楽しそうに笑った。
「そっかぁ。じゃあ、君のその『食っちゃ寝の野望』、邪魔されないといいね。……あ、でも気をつけてね? マジエル教官は、君みたいに『自分に思い通りにならない子』ほど、色んな手を使って自分の好みに染め上げようとするから」
ヘリカの声から、ほんのわずかだけ軽やかさが消え、密やかな警告の響きが混ざった。
「あの人の優しさは、甘いけど……一度飲み込んだら、二度と吐き出せない毒だから」
「……知ってるよ。あんなむっつり神父の毒、喰らってたまるかっての」
アルクがフンと鼻を鳴らすと、ヘリカは満足そうに微笑んだ。
「うん、君なら大丈夫そうかな。……あ、自室に戻る途中でしょ? 邪魔しちゃってごめんね。私はこれから第二講義室で座学なんだ」
ヘリカは制服の裾を軽やかに揺らし、すれ違いざまにアルクの肩をぽんと小さく叩いた。
「またね、アルク君。もし風紀委員の人たちに追い詰められて困ったら、いつでも私を頼っていいからね? 先輩として、ちょっとくらいなら匿ってあげるから」
「へいへい。期待しないで覚えておきますわ」
銀髪に微かな金色を混ぜた髪をふわりと揺らしながら、ヘリカ・ベーガーは軽やかな足取りで廊下の奥へと去っていった。その佇まいは、重苦しい狂気の檻の中に咲いた、一輪の花のように、異質なまでに鮮やかだった。
アルクはその背中をしばらく見送った後、自分の腰の直剣をぽんと叩く。
(……ヘリカ・ベーガー、か。へぇ……こんな奴も、ここにはいるんだな)
全員が狂信的な模範生かと思われた『聖フランルクス高潔騎士学院』。
その白亜の檻の中に隠された新たな不協和音を感じ取りながら、アルクは教材を取りに、自分の104号室へと再び歩みを進めるのだった──。
ヘリカさんは私が好きなタイプの子。




