第七話 呼び起こす、80年越しの記憶。
「リオン、ねえリオンってば」
リオンの眼前で手を振ってようやく、彼は僕に視線を戻した。雨の降りしきる窓の外を見つめたまま固まっていたリオンは、こちらを見たかと思えばすぐにまたぼーっとし始めた。
講義が終わったばかりのがやがやと賑やかな講堂。なのに僕たちはただ黙ったままだった。
原因は分かっている。あの旅行の後からリオンは明らかに変わった。
講義にも集中していない様子で、僕と離しているときも心ここにあらず。ひたすら遠くに想いを馳せて目の前の何も手につかないようで。
「リオン、大丈夫?」
「……うん、平気」
「絶対平気じゃないでしょ。ここにいて、飲み物買ってくるから」
放心した彼を講堂に置いて一人駆け出す。自販機に小銭を投入して見慣れたボタンを押した。
「お待たせ。はい、コーヒー牛乳」
いつも通りのコーヒー牛乳。彼の一番の大好物であるそれをあげたら、元気になると思った。
なのに、
「っ……」
「え、リオン……?!」
彼はコーヒー牛乳の紙パックを見た瞬間、目を見開いて一粒の涙をこぼしたのだ。
『ねえ、レオほんとに大丈夫?』
『大丈夫だよ。俺は気にしてないから』
俺が前世で周りに馴染めていなかったとき、みよはいつも俺を気にかけてくれていた。
引っ越してきたばかりで、他の人とは違う見た目をしている俺はなかなか周りに馴染めず、孤独だった。
でもそんなこと言われるのは慣れっこだから、全然大丈夫だから。
平気なフリをする俺の弱さを支えてくれたのは、ずっと隣にいたみよだった。
『大丈夫じゃないときは、ちゃんと大丈夫じゃないって、言わなきゃ』
中学に入ったばかりの、仲もまだ浅かったころ。そう言って彼女は、俺にコーヒー牛乳をくれた。
なんでコーヒー牛乳?そう疑問を抱いたが、その当時まだ瓶だったそれに口をつけると、苦さの奥に広がるミルクの甘さに心が和らいでいくのを感じた。
『……おいしい』
『美味しいの?私飲んだことないけど』
『飲んだことないのかよ』
隣でオレンジジュースの瓶を開ける彼女に目をやる。不意に目があって、お互いに笑った。
それをきっかけに俺はコーヒー牛乳が好きになり、よく飲むようになった。
『レオって本当にいつもコーヒー牛乳しか飲まないよね』
高校からの帰り道。俺たちはよく川べりの草原に座ってお互いの高校の話をしていた。
『うん、だって好きだから』
『そんな甘ったるいの、よく飽きずに飲めるね』
コーヒー牛乳を飲む俺のそばで、みよはよくそう言っていた。俺がコーヒー牛乳を好きになった理由が自分だと覚えていないようだ。
『……まぁな』
でもそれを彼女に伝えることはしなかった。自分だけの宝物にしたかったっていうのは建前で、本当は照れくさくて口に出せなかっただけ。
「お待たせ。はい、コーヒー牛乳」
目の前に差し出されたのは、あの頃とデザインもパッケージも変わった俺の大好物。
あれから80年。前世の記憶を思い出す前から、ずっと好きだったこのコーヒー牛乳が今となっては、俺にとって幸せの象徴であり、懺悔の象徴でもあった。
「っ……」
飲まなくてもわかる、あの苦くて甘い味。思い出すだけで胸が苦しくて目頭が熱くなった。
「みよ……」
「……」
脳裏に焼き付いた、赤い雪に横たわる女の子が、途端にフラッシュバックする。
あのときの彼女の悲惨な死は、紛れもなく俺のせいだ。このコーヒー牛乳のせいで彼女は___
「リオン」
刹那、頬に冷たいもの当てられた。あまりの冷たさにびくっと体を揺らす。未央が俺の頬に紙パックのコーヒー牛乳を押し当てていた。
「リオン、僕を見て。リオンが何を考えているか分からないけど、僕は今リオンの目の前にいるよ」
未央の強い想いが押し当てられた紙パックから伝わってくる。力がこもって、俺の頬を潰していた。
「辛い世界に一人で入らないで。僕がここにいるから」
頬から冷たいものが離れていく。自分の霞んでいた視界もだんだんと未央を鮮明に捉えていった。
「未央、」
「うん。僕だよ、未央だよ」
ほら、ぬるくなっちゃう前に飲もう、と未央はもう一つのコーヒー牛乳にストローを差した。
「……本当は好きじゃなかった?」
「ん、なにが?」
「コーヒー牛乳」
俺の問いかけに、未央は少し考えてから口を開いた。
「好きだよ?コーヒー牛乳が、ってよりは、コーヒー牛乳をリオンと飲んでるこの時間が好き」
「そっか、」
未央のあまりにも真っ直ぐすぎる言葉に、俺はどう反応していいかわからなかった。手の中の紙パックを転がして、意味もなく成分表示の文字をなぞる。
「リオン、飲まないの?」
「家で、冷やし直してから飲もうかな」
そう言ったのに、結局家に帰ってからも飲めなかった。冷蔵庫の奥にしまったまま、記憶を閉じ込めるように二度と触れなかった。
「次は〜◯◯、◯◯停留所に停まります」
バスの車内アナウンスで目を覚ます。
聞き馴染みのある地名に、慌てて降車ベルを押した。
バスを降り、ふう、と息をつく。するはずのない懐かしい匂いが鼻をかすめた。俺は、未央との卒業旅行以来久々に前世の故郷に来てみたのだ。
「……やっぱり変わったなあ」
前回来たときは記憶がない状態で回ったからそんなことは思わなかった。が、記憶を取り戻した今、前世とはかけ離れた故郷の街並みに寂しさを感じざるを得ない。
未央がいつから前世の記憶を持っていて、いつ忘れてしまったのかはわからない。
ただ、今世で俺と初めて出会ったあのときの涙を見る限り、未央は俺と出会うずっと前から記憶を持っていたに違いない。
『僕の中の、いちばん大切で幸せな記憶が、もう消えて無くなっちゃいそうっ……』
あの1年生の文化祭後にはすでに前世の記憶が消えかけ、卒業旅行前には完全に記憶がなくなっていたのだろう。
卒業旅行の前、未央は高校生のときにここに一度来たことがあると話していた。きっと、今の俺と同じように前世の故郷をこの目で見たかったのかな。
ジリジリと遠くでセミの鳴く音がする。汗ばむ額を手の甲で押さえながらアスファルトの上をひたすら歩いた。
「ここが俺の通ってた高校……か?」
俺の記憶をだけを頼りにすると、高校の名前は合っているはず。なのに、景色がずいぶんと違って本当に合っているのかわからなくなった。
校庭には体操着を着た高校生たちがわらわらと群がっている。俺が通っていたときは男子校だったけれど、みよの通っていた隣町の女子校と合併したらしく、今は共学になっているようだ。
ここを卒業してからあまりに時間が経ちすぎてしまい、跡形もない景色に懐かしさは感じなかった。学校をぐるりと一周して次に行こうと思った矢先、俺の目にあるものが飛び込んできた。
正門のそばにそびえ立つ大木。荘厳かつ年季の入ったそれは、この場所で唯一見覚えのある木だった。
『今日から学校離れちゃうね』
『家近いんだから毎日会うだろ』
『そういうことじゃないの!高校でいじめられたら私に言ってね、すぐ駆けつけるから』
高校の入学式の日。小中学校は一緒の学校だったみよと俺は高校からそれぞれ別の高校に行くことが決まっていた。
『もう俺そんなガキじゃねーから』
『えー、まだ私より身長低いくせに』
男子校の正門。まだ細く小さかった桜の木の下で、俺たちは入学式に向かうために別れた。
彼女が俺の前を去り、ちょうど強い風が吹いた。桜吹雪が舞って、彼女を俺の元から連れていってしまう喪失感を覚えた。
『みよ』
自分がいつから彼女のことを好きだったのか、未だに思い出せない。
『ん?』
けれど、この時振り向いた彼女の笑顔も、立ち姿も、目の前を掠めた桜の花びらも。今でもはっきりと呼び起こせる。
『元気でな』
『もちろん。レオもね』
背が伸び、太くなった葉桜から木漏れ日が差す。その光は、前世の彼女を消した。
最初から、なにもなかったかのように。
「その桜の木、もうすぐ伐採されるのよ」
「え?」
「樹齢がもう100年超えてて、いつ倒れてもおかしくないからってね」
葉桜を見上げていた俺は、突然誰かに話しかけられる。振り返るとそこには、シニアカーに乗った小さなおばあさんがいた。
白い婦人帽を被りピンクのスカーフをしたその方は、シニアカーをゆっくり動かし、俺の隣までやって来た。
「……そうなんですね、もうこの木もそんなに長くここにあるんですか」
「そうなの。この高校、あたしの兄がほんとむかーしに通っててねえ。ここを通るたび、兄のことを思い出すの」
優しく聞き馴染みの良いおばあさんの声に耳を傾ける。感情たっぷりのその声は、昔に思いを馳せているようだった。
ふと、くいくいと袖を引っ張られる。大木からおばあさんに視線を移すと、初めて白い婦人帽の奥から目が合った。
「やっぱり、お兄ちゃんなのね」
「……え?」
「間違いないわ。この後ろ姿、髪の色。よく見たら、顔立ちも全く同じ。あなた、お兄ちゃんだったのね」
お兄ちゃん。俺のことをそう呼ぶ人はこの世にたった一人だ。
「結……?」
「そうよ。あらあ、天国から私を、迎えに来てくれたのねえ」
高校のチャイムが遠くに聞こえる。驚きを隠せない俺を、彼女は温かい笑顔で見上げた。
シニアカーの後ろを追って彼女に着いていくと、到着した先は一人で住むには大きな平屋だった。
「ここに一人で住んでるの?」
「まさか。娘夫婦と5人で住んでるわよ」
結はシニアカーのエンジンを止め、杖をついた覚束ない足で降りようとしていた。
「大丈夫?」
「なに、大丈夫よ。お兄ちゃんに心配されるほどじゃないわ」
思わず彼女の右腕を掴んだが、それをたしなめるように彼女の左手が伸びてくる。
俺の手を撫でたそれは、昔よりも冷たくてかさついていた。
「今、結はいくつだ?」
「今年で99歳よ」
「……もう、そんなに時間が経ったんだっけ」
「経ったわ。もうお兄ちゃんの80回忌だもの」
玄関をくぐる彼女の曲がった背中が、前世の彼女の背中と重なった。あの頃の結は凛とした綺麗な背中をしていたのに。
後ろ手で玄関の引き戸を締める。まるで現世から切り離された、歪んだ時空にいるかのような感覚だった。俺の前世と今を繋げる彼女の目は、下垂した瞼の奥で遠い過去を見ていた。
「お兄ちゃんが死んでから、ずっと考えてたのよ。お兄ちゃんとみよちゃんが結ばれない運命なんて、あたしには信じられないって」
『近くの交差点で事故があってな、あれ、君のお嬢ちゃんじゃ……!?』
外は雪の積もり、体の芯から冷え込む日だった。同じアパートの住人の一報で俺は強い衝撃を受けて頭が真っ白になった。
交通事故。
みよが、事故に──?
薄着で部屋を飛び出し、雪道を駆ける。白い息が、やけに大きく揺れた。
しかし、次の瞬間、その足はぴたりと止まる。
俺の目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった雪だった。
そして、その上に横たわっていたのは、ほんの少し前まで家で見ていた格好の人形人形。
『みよ、、みよぉっ!!!!!』
叫びながら駆け寄ろうとするも、警官に腕を掴まれ止められる。
どうすることもできず、その場に崩れ落ちた。
『みよ、逝かないでくれ……みよ……』
後悔と自責の念が一気に押し寄せ、息が詰まった。胸が裂けそうだった。
みよ、と声に出して呼べたのは、それが最後だった。
ほどなくして死亡確認がなされ、事故で原形をとどめない彼女の顔を見た。
葬式のときには何度泣いただろう。もしかしたら、あまり泣いていないのかもしれない。
それくらい、みよが死んでからの俺は、何も感じられなかった。
心が動かなかった。俺は生き残っているだけで、なにもかも失ってしまったから。
たったひとつ残っているのは、みよを死なせてしまったという後悔。
あの日、コーヒー牛乳を買いに行かせなければ、彼女は今でも俺の隣にいたのかな。
懺悔と痛いほどの恋慕が自分を蝕み、狂わせる。
婚約者の死をきっかけに精神的に追い詰められた前世の俺は、みよの死から一年後、ふらついた足で橋の上に立っていた。
会いたい。
みよに会いたい__
柵を乗り越え、むき出しの死を目の前にする。
最期に、涙が一粒こぼれたのを覚えている。それは、死への怖さだったのか。それとも、みよへの想いだったのか。
どちらだったのかは、今世を生きている俺にも分からない。
足を踏み出した先は、天駆ける快楽、そして一瞬の痛みへの恐怖だった。
永遠にも感じられる自由落下の末、川の中に静かに吸い込まれていった。
「私が死んだら棺に入れてもらおうと思ってたけど、会えたから直接渡すわ」
隣同士座った縁側。結は俺に向かい合って、そっと白無地の封筒を差し出した。
「……結は、俺がレオの記憶を持ってること、すぐ受け入れられるんだな」
封筒を見つめたまま呟く。だって、普通の人間なら前世の記憶を持っているなんて考えもしないし信じられないだろう。それなのに結は、俺が死んでから何十年も覚えてくれていた。そして疑うことなく俺をレオと信じて、前世の記憶を持っていることに何も言わない。自分でさえこの記憶を受け入れられないのに。
「当たり前でしょう。あたしは今でも、お兄ちゃんの妹だもの」
お兄ちゃんの顔を見れば全部わかるの。そう言って、結はもう一度、ずいと封筒を俺に押し付けた。
「だから、貴方にこれを持っていてほしい」
その言葉に導かれるように封筒を手に取る。震える指先で封筒を開け、中身に触れた。
かさり、と紙が擦れる乾いた音が響く。思い出箱の奥底に眠る、大切なものに手を伸ばしたときのような緊張に息を呑んだ。
「…っ、は、」
封筒の陰から姿を現した写真を見た瞬間、目頭が熱くなった。今世の俺にあるはずのない追憶が色付いて、形を成していく。
『レオ!こっちこっち!!』
『はいはい、今行く』
『お兄ちゃん、もっとみよちゃんに寄って!』
『結、1枚しか撮れないから綺麗に撮るんだぞ』
快晴の空の下、白い花畑で反射した光を浴びて。
小さい結が両手でカメラを構えた。
『二人とも、笑って!!』
レンズを覗きながら必死に試行錯誤する結が面白くて、ふっと表情を和らげると結の手が覚悟を決めたようにピタリと止まった。
パシャリ。
シャッター音だけが響いたこの一瞬が、まさか80年後も心を震わすものになるとは当時の俺は想像もしていなかった。
『結ちゃん、うまく撮れた〜?』
『うーん、分かんない!』
『現像した後のお楽しみだな』
カメラを受け取って結の頭をわしゃわしゃと撫でてやると、結は花畑の中に走っていった。
『…幸せだねえ』
燦々と降り注ぐ光に目を細めてみよが呟く。その表情は、世界中の誰にも負けないほど素敵な笑顔で、どうしようもなく愛おしかった。
『これから先もずっと幸せにする』
照れくさくて景色に目をやりながら言った俺の言葉に、結は『当たり前』と笑って答えた。
『またここに来ようね』
そう言って俺を覗き込んだ彼女の顔は逆光で見えず、反対に白い花の残影だけが強く映った。
『……そうだな』
あの時のみよの表情が見えていたら、彼女は居なくならなかっただろうか。
彼女が死ななきゃいけなかった理由があるなら探して縋りたいと願ったほど不運な事故で、みよはこの数か月後帰らぬ人になった。白い花畑で撮った写真が入ったフィルムを、写真屋にちょうど預けたばかりの出来事だった。
『お兄ちゃん、この前現像に出した写真できたから、もらってきたけど…』
みよの葬儀から数日後、結が気まずそうに話しかけてきた。彼女の手には写真屋の名前が入った白い封筒を握られていた。
『いらない』
『せっかく撮ったのに__』
『いらないと言ってるだろう!』
拳で思い切り机を叩くと、結の肩が跳ねた。普段なら絶対にありえない俺の激昂に慄いたのか、彼女は俺と目があった瞬間、瞳を揺らした。
『お兄ちゃん……?』
『……その写真は、燃やしておいてくれ』
それ以来、写真のことは一度も口にしなかった。結が捨ててくれたのだと思っていた。
白い花畑の前で幸せそうに微笑むカップル。もうじき夫婦になるはずだった俺たち。
視界が滲んで、両手で持ったL版の写真が幻に見える。当時のノスタルジーを強調するモノクロの写真が俺の前世の記憶を本物に仕立てた。
「なんで、これが、ここに……」
「燃やせるわけがないでしょう。いつかあたしがお兄ちゃんとあの場所に行った時に一緒に見返せるように、ずっと持ってたのよ」
写真の中で笑うみよの顔を見ると、痛いほど狂おしくて。楽しかった思い出のはずなのに、込み上げてくる涙が止まらない。
「ちゃんと、綺麗にっ……撮れてるよ……」
80年越しに、結に答えた。背中の曲がった小さな結は、嬉しそうに無言で頷いた。
「っ……ふ…あぁっ……」
割れそうな心を繋ぎ止めるように、写真を胸に抱く。そして溢れる嗚咽を我慢せずに子供のようにわんわんと泣いた。花畑の中で絶えず笑う、儚いみよの姿が瞼の裏で反芻した。
ひとしきり泣いた後、俺は今までのことを結と語り合った。俺とみよが死んだ後の結の暮らし。俺たちの両親のこと。今世で生まれ変わった俺と未央の話もした。
「そう。じゃあみよちゃんは男の子に生まれ変わってて、前世の記憶がないのね」
「俺も最近前世の記憶を取り戻したばっかりなんだけどな。でも未央は、ずっと前から知ってて、俺が思い出す直前に忘れたように見える」
話し始めてから時間が経って、太陽が傾いてきた。縁側にもぽかぽかと暖かい光が差し込んで、目を閉じると夢から醒めてしまいそうな、そんな予感がした。
「でもあたしは、どんな形であれ、お兄ちゃんとみよちゃんがまた生きてるってだけで嬉しいなあ。ふたりが一緒にいるって聞いただけであたし、99歳まで生きててよかったって思うよ」
結の言葉が、すっと心に溶けていく。なにか言葉を返そうと口を開いた時、玄関が開く音がした。
「おばーちゃん!!ただいま!」
「お母さん、いる?」
「陽茉莉、おかえりなさい」
タタタッと部屋に駆け込んできたのは、小さな女の子。黄色い帽子を被って、ランドセルを背負ったまま結に抱きついた。
「お母さん、ただいま……って、お客さん?やだお母さん、言ってくれたらもっと遅く帰ってきたのに」
女の子の後を追って、女性が部屋に入ってくる。その女性は薄手のコートを脱ぎながら、俺を好奇の目で見てきた。
「いえ、俺は……」
「この方、最近近くに引っ越してきたらしいの。気が合って話が弾んじゃったのよ」
結との関係をどう説明しようかと焦っていると、結がすばやく助け舟を出してくれた。
「そうだったの。こんな老いたおばあちゃんの話、つまらないでしょう?お母さんおしゃべり好きだから、付き合わせちゃってごめんなさいね、娘の怜子です」
結の娘である怜子さんに軽く会釈すると、先程の怪しげな視線が途端に、優しい目つきに変わった。
「おばあちゃん、アイス食べたい!!」
「はいはい、宿題終わったらね。この子はあたしの孫の陽茉莉よ」
結の腕の中で、陽茉莉ちゃんが振り返る。幼い頃の結にそっくりで、思わず目を見開いた。けれどすぐ我に返り、笑顔を作る。
「陽茉莉ちゃん、よろしくね」
人見知りしているのか、表情は固まったまま。けれど結に促されると、ぺこりと頭を下げた。陽茉莉ちゃんの後ろに見えた結は小さかった昔とは違い、母親として祖母として、責任感のある表情をしていた。
あのときひとり残してしまった結が、しっかりと自分の家庭を築き自分の力で幸せを掴んでいる。
俺もそんなふうに、未央とこれから人生をともに出来たらいい。結の家を出た帰り道、俺は今世の未央を思い出しては覚悟を決めるように深呼吸をしてあの交差点を越えていった。




