第五話 俺たち以外、誰も居ない世界で。
ポップな文字と、色々な景色が飾る雑誌の表紙をめくる。見開きいっぱいの花畑と”他の人と被らない隠れ旅スポット”というタイトルが俺の目を奪った。
「ね〜リオン。こことかどう?温泉で有名なとこ!」
「……」
「リオン、聞いてる?」
向かいに座る未央が、雑誌の上からひょこっと顔を出す。けれど、俺はその雑誌から目が離せなかった。
未央と俺は、卒業旅行として二泊三日である場所を訪れる計画を立てている。
彼と大学で出会ってから2年。今までにお互い他の友達も出来たが、結局ずっと一番仲が良いのは未央だった。
サークルも学部も同じで、多くの時間を共有してきた俺たち。まだ大学3年生だが、就活で会えなくなってしまう前に卒業旅行をしようと決めた。
「そこ、気に入ったの?結構マイナーなところだよね」
未央が身を乗り出してこちらを覗く。ぐっと近づいた距離に驚き、反射的に避けてしまった。
ふわっと彼の柔らかい匂いが香る。かっと熱を帯びた顔は幸いにも彼には見られなかった。
「……ずっと前にこの場所をテレビで見たことがあって。なんか分からないけど、すごい惹かれる」
だから今回旅行に行くと決まって、本屋でその街の旅行雑誌を買ってみた。理由なく心惹かれるものに運命を感じて、訪れてみたいと思ったのだ。
「いいじゃん。僕もここ行ったことあるよ」
「あるの?」
ここからずいぶん遠い場所なのに。未央は自信満々に頷いて俺の手から雑誌を奪い取った。
「なんでここ行ったの?」
「えっとね……」
俺の目を見て話そうとした未央が、突然目を丸くして首をかしげた。
「あれ、僕、なんでそこに行ったんだっけ?」
「え?」
「あれれ……ちょっと待って……。確か高校生のときに一人で行ったんだけど……」
この場所はかなり辺鄙な場所で、高校生が好んで行くような観光地でもない。俺も未央も、頭にはてなを浮かべた。
「学校の探究課題とかだったのかな……いや、わざわざそんな理由で行く場所じゃない気がするんだけど」
行った本人が、なぜか頭を抱えている。
「そのときはたしか、図書館に行って、住宅街とかも見て……えぇ、なんだろう……思い出せない……。リオン、ごめんね」
「いや、謝ることじゃないけど」
唇を少し突き出して納得いかないような彼から、雑誌を取り返す。すると彼はさらに拗ねて今度は頬を膨らませた。
未央と旅行に行くのは、これが初めてだ。
大学以外で会ったり、遊んだりすることもほとんどなかった。
『ごめんなさい、ちがくて……』
初めて未央と出会ったあの日。彼は俺を射止めるように見つめて、なぜか大粒の涙を流していた。
理由は今でもわからない。けれど少なくとも、彼にとって俺が特別ということだけはわかった。そんな風に自分を思ってくれる人に出会うのは初めてだった。
多分俺はこの時すでに、彼に心を奪われていたんだと思う。
『はい、これ』
出会ってすぐの頃、未央は俺に自販機の飲み物を奢ってくれた。
『コーヒー牛乳?』
『うん、リオンくん、好きかと思って』
『好きだけど……言ったことあったっけ』
たしかに俺は飲み物の中で一番コーヒー牛乳が大好きだ。けれど、未央にそれを伝えた覚えはない。彼はエスパーか?
『あは、なんとなくだよ。好きなら良かった』
ほら、どうぞ。そう差し出された紙パックを未央の手から受け取る。不意に俺は未央を見上げた、すると彼は、泣きそうに眉を下げ、それでいて満面の笑みを浮かべていた。
その時の彼の表情が、目に焼き付いて、離れなかった。
綺麗だ___
何を想えば、どんな人生を歩めば、そんなに素敵な表情ができるのか。複雑な感情を持つ未央の隠された魅力に、夢中になった瞬間だった。
『未央、』
『……ううん!あのね、コーヒー牛乳はそのブランドがいっちばん美味しいの。僕も好きなんだ、コーヒー牛乳』
しかし、それは一瞬だった。未央は即座に顔つきを切り替えて、早口で話しだした。まるでさっきまでのことを誤魔化すかのように。それもまた、俺にとっては不思議で、もっともっと、未央のことを知りたいと思った。
それからというもの、俺は未央の魅力に溺れていった。
「てかさ、ほんとに卒業旅行行くの僕とでいいの?祖国に帰ったミアちゃん追いかけなくていいんだ?」
「もうその話出すのやめてくれよ……。1年の学年祭以来なにもないって言ってるだろ。それに、あの時だって悩んでて辛い彼女が抱きついてきただけだし」
未央の茶化す声に呆れて言い返す。あの日は本当に彼女から留学生活の辛さを相談されて、話している間に彼女が泣き始めたのだ。さらに彼女から抱きつかれて、仕方なく落ち着かせるために背中を撫でてあげたまでで。そもそも欧米では一般的なコミュニケーションの一環としてハグをすることは当たり前だから、あまり深く考えていなかった。
だが、学園祭以来、俺の中で未央に対する気持ちに明らかに変化があった。
「ふーん。それならいいけど」
未央には、勘違いをされたくない。他の人とどうこうなるとか、有り得ないことで一喜一憂されたくなかった。
「本当だよ。ミアとは友達。それでも未央が嫌なら、ミアとは縁切るし」
「いやいや、それはやりすぎ!全然、気にしてないし」
全然気にしていないようには見えないが、それ以上問い詰めることはせず、俺は旅行雑誌に視線を戻した。
未央に対する自分のこの感情に、名前が付くことを俺は薄々気づいている。けれどまだ、名付けないままのこの曖昧な時間を楽しみたかった。この関係の、居心地が良すぎて。
静かに息を吐いて俺は、コーヒー牛乳のストローを咥えた。
「良い旅館だね〜」
「だな。温泉もあるし、帰ってきたら入ろう」
卒業旅行当日。畳の上に荷物を置いて、未央と一緒にベランダへ出た。外は生い茂る木々と河川敷の景色が広がり、賑わう温泉街も見える。
「やっぱり、いいところだな」
最寄りの駅を降りてからレンタカーでここへ来るまで、ずっと優しい空気に包まれていた。自然の匂いがして、風は柔らかくて、歩くだけで気持ちがほどけていく。胸の奥が、いっぱいに満たされるような感覚。
「うん!2泊3日、めいっぱい楽しもう」
そしてなにより、想い人と過ごす3日間がとてつもなく幸せになる予感がした。
「行こう。今度は俺が運転する」
車を走らせて30分。今回のメインともなる、雑誌の見開きを飾っていた花畑に向かうため、舗装のされていない険しい山道を登っていた。
「うわっ、!」
「おっ、と、危ない」
途中石に乗り上げたのか、車体が上下に大きく揺れる。衝撃でダッシュボードに頭を打ちそうになった未央の体を左手で押さえると、彼は瞬発的に俺の手を掴んだ。
「ごめん、大丈夫?」
「……う、うんっ、だいじょぶ」
彼は上擦った声を出したかと思えば、慌てて俺の手を離してそっぽを向く。
その一方で、俺の掴まれた左手は熱を帯びて、途端に未央を意識してしまった。なんだこれ。心臓の音が、隣の未央にまで聞こえてしましそうで。俺はうるさい心臓を誤魔化すように、ぐっとハンドルを握り直した。
「うーん、もうすぐ着くはずなんだけど」
助手席で地図アプリを注視していた未央が顔を上げて周りを見渡す。辺りは林ばかりで、こんなところに花畑があるとは思えない。どこかで道を間違えたのだろうか。不安になった矢先、道の先にきらりと光が差したのが見えた。
「あそこ少しひらけてるみたい」
車が進むにつれて、その光はどんどんと大きくなっていく。そして林を抜けた瞬間、視界が白に染まった。
「うわぁ……!!」
未央が感嘆をあげて、窓に張り付く。それもそのはず、林を抜けた先は、道路を挟んだ両方向に見たことないほどに綺麗な、真っ白な花畑が広がっていた。澄んだ青空の下で、可憐に咲く小さな花々は、俺たちを歓迎するかのように上を満開だ。
「すごい……すごいきれい!」
隣ではしゃぐ未央を横目に、ゆっくりと車を停めた。
「いいよ降りて」
そう言うと彼は待てを解放された犬みたいに車を飛び出す。
光の中へ、未央が走っていった。
自分も車のエンジンを切って、花畑に足を下ろす。白い花に反射した日差しが目に飛び込んできて、眩しい。続く地の果てまで、瑞々しい純白が広がっていた。
未央が赤いカーディガンを翻して俺を振り返った。白い花と赤いカーディガンのコントラストに目を離せない。全ての色を失くした世界に、赤が溶け込んでいる。
「きれいだねえ」
世界の全ての幸せを煮詰めて甘くしたような彼の表情は、この目に映る何よりも美しくて愛おしかった。
「……きれいだな」
釣られて俺も笑顔になる。太陽の下で、心まであたたかくなった。
俺たちふたり以外、誰も居ない世界。ずっとここに居られたら。そんな叶わない願いが頭を過ぎった。
「ずーっとここに居たいね」
未央が地平線を見渡しながら微笑む。自分の頭の中を見透かされたと思って、心臓が跳ねた。
「俺もずっと、未央と居たい」
ふと零れた俺の言葉に、返答はなかった。その代わり彼は花畑にしゃがみこんで空を見上げるように寝転がった。
それを真似して、自分も隣に寝そべる。右隣を見やると、白い花に囲まれた彼の真っ直ぐな瞳が、無限に広がる空を映していた。
彼の上気した頬が、白に映えて鮮やかに映る。血色のいい、形の整った顔。無遠慮に未央の顔を凝視していると、俺の視線に気づいたのか、彼は恥ずかしそうにはにかんで身を捩った。
「ねえ、なんで花じゃなくて僕の顔ばっかり見てるの。照れるんだけど」
「ごめん、なんか、目が離せなくて」
綺麗だ、と本当は言いたかったが、綺麗という言葉では形容しきれないほど魅力的で。妥当な表現が見つからずに曖昧な返しをしてしまった。
100パーセント十分とは言えない俺の言葉に彼は、「なにそれ」とか「せっかくお花畑に来てるのに」とかぶつぶつ言いながら、最終的に俺を見つめてはっきりこう言った。
「僕もずっと、リオンと居たいって思ってるよ」
「……え」
「さっきの返事。あ、もちろん友達としてね!」
彼は照れくさそうに告げて、そそくさとまた空に視線を戻した。未央の最後の一言に苦笑して、自分も空を見上げる。やっぱりこの、友達以上恋人未満の関係が心地よくて幸せだ。
「俺いま、すげえ幸せ」
もしも花に埋もれた未央に触れてしまったら、もう永遠にこの関係に戻れない気がする。彼に伸ばしかけた手は、触れそうな距離で引っ込めた。
「帰りたくないなあ」
「ふふっ、素直なリオン珍しいね。いいよ、お腹空くまではずっとここにいよう」
「お腹空くまでかよ」
たったふたりの世界で、同じ景色を見上げる。その空が色を変え、花をオレンジに染めるまで、俺たちはずっと花畑の真ん中で寝転んでいた。




