第四話 全てを手放したら、楽になれる。
学園祭が終わって1週間。あれから僕は一度も大学に行けていない。
学園祭の翌日以降、リオンからは鬼電と何十通ものメッセージが来ていた。しかし、ずっと既読を付けないままでいたら次第に連絡は来なくなった。
カーテンを締め切り、暗い部屋でひとり、ベッドにただ横たわっている毎日。
なにかを考えているのか、いないのか。自分にもわからないまま時間だけが過ぎていく。
今まで支えにしてきたものを失った心は、整理がつかないまま宙を舞っていた。
その時、部屋に着信音が響いた。
ゆっくりと起き上がって携帯に手を伸ばすと、画面にはいつも絡んでいる女の子グループのうちの一人の名前があった。
「……亜里紗、?」
「お、出た!未央くん元気〜?」
大学を一週間も休んでいるのに元気なわけがあるか。頭にそんな言葉が浮かんだが、久々に聞いた彼女の声に少し安心して思わず笑みを浮かべた。
「最近講義も出てないんだって?サークルは別に来なくてもいいけど、単位は大丈夫なの?」
「今まで真面目に受けてるから大丈夫。君と違ってね」
「なにそれ!一言余計!でもツッコミができるくらい元気そうでなによりだわ」
「……うん」
「そういえば学園祭のあと、リオンくんとなんかあった?」
「え……?なんで知ってるの」
「なんでって、当番してるときは元気そうに見えたし、あのあとリオンくんと合う約束してたんでしょ?あれから顔見せなくなったってことは絶対リオンくんが原因じゃん」
その言葉に思わず押し黙る。あまりにも図星すぎて、誤魔化すことも否定することもできなかった。
「一週間もひとりで悩んでることがあるなら、吐き出しなよ。私は未央のそういう話も聞くよ?」
いつもうちらの恋バナも聞いてもらってるし。亜里紗はそういうと、そのまま黙った。
電話越しに沈黙が流れる。それに背中を押されるように、僕はぽつぽつと学園祭の日のことを話し出した。もちろん前世の話はできないけれど、話せる範囲の状況を説明していく。
彼女はときどき相槌をしながら、いつものうるさいキャラに反して、口出しをせずに聞いてくれた。
「___僕はずっと、前の、理想の彼を追いかけ続けてたんだ。だから、リオンに出会ってから、前とは状況も関係も、自分の形も違うって気づいて、前の彼は心の奥にしまっておこうと思ってた。でも、消えないんだよ。仕草も、好きなものも、幸せだった頃の思い出も。リオンと昔の彼が、どうしても重なるんだ。今の彼は昔の彼じゃない。でもやっぱり昔の彼で。持っている思い出は宝石みたいにきらきらして、輝いているものなのに、ずっと岩石として心に居座ってる。もう全部、こんな想いぜんぶ、忘れたい……」
一息で吐き出した僕の言葉は最後に震えた。一言も発さずに話を聞いていた彼女は、少し間を置いて口を開いた。
「そっか。今まで、一人でたくさんの想いを抱えてきたんだね」
そんな全てをわかりきったような言葉を口にする亜里紗。ありふれた言葉のはずなのに、再び涙が込み上げてきた。
「話してくれてありがとう。未央くんはよくがんばった」
誰かに自分の本当の気持ちを話すのは、今世では初めてだ。学園祭の時のように、また引かれて悪口を言われるかもしれないと覚悟していた。けれど亜里紗は誰にも理解されないと思っていた気持ちを汲み取ってくれた。それだけで今までの辛さや寂しさが救われた気がする。
「……そんなに辛くなるほど、忘れたいって強く思うなら、その気持ちを一旦手放してみてもいいんじゃないかな?手の中で無理やり握り込んでるものを解放してあげるの」
「解放する……」
「そう。今までのことをリセットするみたいに」
そうしたら、少しは辛さが和らぐかもね。そんな彼女の言葉がストンと胸の中に落ちた。
彼女と軽く談笑したあと、電話を切ってベッドに沈む。体を布団に預け、ゆっくり目を閉じた。
亜里紗の言葉を思い返す。たしかに僕は、前世の心残りをを成仏させるために躍起になっていたのかもしれない。前世の悔いをやり直すために今世生まれてきた、そう考えてしまってたらそれ以外に生きがいを見つけられなくなってしまう。
リオンと結ばれない人生は、なんの意味もなくなる。
けれど、僕が生まれてきたのには、ただ”未央”を生きる、という意味だって当然あるはずだ。
僕が男としてこの環境に生まれてきたのも、前世の記憶さえなければ、平凡で楽しい人生だと思う。
レオとの思い出さえ、なくなれば____
不意に、僕の想い人が瞼の裏に浮かんだ。
透明な白い肌。周りと少し浮く茶色い髪。吸い込まれそうな瞳。
たまに見せる。きらきらした笑顔。
その幻像から手を離すと、目の前が闇に包まれて、意識が遠くなった。
微睡みから目を覚ます。外は既に暗い。寝落ちてから数時間は経ったようだ。
深呼吸をして天井を見つめる。途端、自分の違和感に気がついた。
「え……?」
目覚めるたびに思い出していたはずの、前世の想い人の名前。
なんだっけ。
嘘だ。そんなはず。
ベッドから出て、冷たい水をあおる。
頭を無理やりはっきりさせようとしても、前世の彼の名前だけがぽっかりと抜け落ちているのを鮮明に理解するだけだった。
なんで消えてしまったの?いっそ忘れてしまえば、なんてひどいことを簡単に願ったから?
「……やっぱり、やだ。そんなのやだ」
思い出せ、思い出せ。昨日まで嫌と言うほど頭にこびりついていた彼の名前を。
__いや、違う。僕が忘れたいって、昨日まで散々願ったじゃないか。
その願いが、叶っただけ。その事実に気がついた時、全身からすうっと熱が引いた。
足の力が抜けて、フローリングの床に座り込む。そして冷え切った指先で顔を覆った。取り返しのつかない後悔が襲いかかる。
今更あんな馬鹿な願いを、取り消せませんか。
お願いです。僕に彼の名前を返してください。
しかしそんな必死な願望も虚しく、この日をきっかけに記憶は少しずつ、確実に薄れていった。
「おはよ」
「あ、おはよ!未央くん、気持ちの整理ついたの?」
2週間ぶりに大学に顔を出すと、ちょうど講堂から出てきた亜里紗から話しかけられた。
「気持ちの整理?僕、なんかそんな話したっけ」
「え、未央くんこの前大学休んでた時、私と電話したよね?」
「え?……あぁ、たしかに電話はしたかも。でも、なに話したっけ」
そういえば、自分が2週間も大学を休んでいた理由さえわからない。体調が悪かったわけでもないし、用事があったわけでもなかった。
「未央くん、大丈夫…?まあでも、忘れられたならよかったのかな」
「うん。それよりもさ、この前話してたカフェ今度行こうよ。ほら、駅前に新しく出来たとこ」
困惑気味な表情をする彼女に違う話題を持ち込むと、ぱっと顔を明るくして「アリ!」とはしゃいだ。
そのとき、誰かに後ろから肩を叩かれた。
「未央、おはよ」
「あ、おはよ……う」
振り返って刹那、僕の心臓にぐっと力が入った。
その澄んだ瞳に溺れて。
「リオン……」
「なんでメールも電話も返してくれなかったの」
その言葉に片眉を上げる。無性に腹が立って言い返そうとした。が、
「っ、あれ、なんでだっけ……」
こめかみを押さえる。キリリと痛むのに肝心の理由は思い出せない。リオンにはなんだかすごく嫌なことがあって、それが気に入らなかったはずなのに。
「未央?」
「おかしいな僕……」
「未央くん、どうしたの?」
僕の異変に気がついた亜里紗も顔を覗き込んでくる。僕だって自分がどうしたのか分からないよ。僕に飄々と話しかけてくるリオンが癪に触る。なにか言ってやりたいこととか聞きたいことがたくさんあったはずなのに、内容は全く思い出せない。
「なあ、俺なんかしたか?学園祭の待ち合わせにも来ない、その後連絡しても全部無視でさ。俺どれだけ心配したか……」
「リオンくん」
勢いづいたように捲し立てるリオンの言葉を止めたのは、僕ではなく亜里紗だった。自分で自分のことが思い出せず混乱する僕を押し退け、リオンの前に立ちはだかった。
「まず、二人の関係に部外者の私が口出しするのは最初に謝っとく。でもさ、未央くんがこうなってるの、リオンくん自身は思い当たることないの?自分の行動は棚に上げて、未央くんだけ責めるのはどうなのよ?未央くんはもういっぱいいっぱいなんだよ。それをもうちょっとはさ、分かろうとしてあげなよ」
亜里紗の遠慮のない強い言葉に、リオンは度肝を抜かれた表情で亜里紗を見つめていた。彼のあんな素っ頓狂な顔を見るのは、初めてだった。数秒の沈黙ののち、亜里紗が僕を振り返って罰の悪そうに呟いた。
「……未央くん、余計なこと、しちゃってごめん。またなんかあったら相談してね」
「ちょ、亜里紗…!」
そそくさと去っていく亜里紗の背中を呆然と見送る。今リオンと二人きりになるのは気まずい。横目で彼を見やると、何か考え込んでいる様子だった。
「リオン、あの」
「未央」
どうにかこの場を取り繕おうと言葉を発した時、リオンに遮られた。僕の心を探るような視線に、思わず口を噤んだ。
「ミアか、」
「え…」
「学園祭の日、ミアと俺のこと、見たのか」
心臓が止まった。その一言で、僕の中で消えかけていた苦しさの、感情だけが顔を出す。
頭の片隅に思い出す、リオンとミアちゃんの姿。柔らかな夕日の中抱き合う二人を見て、僕、逃げて。
なんで逃げ帰るような真似をしたのか、こんなにも胸が締め付けられるのか、理由はやっぱり思い出せない。
リオンは僕の唯一の親友で、大切な存在で。でも、それ以上になにか、重要なことが欠けている気がする。
じゃなきゃ、親友が女の子と抱き合っているだけで、自分が滅茶苦茶になるわけない。
「え、未央、」
気づいたら僕は、たくさんの人がいるキャンパスで、リオンの前で、大粒の涙を流していた。
わけも分からず流れる雫は、沸騰してるんじゃないかってくらい熱くて、焦って止めようとしても止められない。
どうしちゃったの、僕。なんでリオンを見つめるとこんなに、胸が切なく疼くの。
「未央、一旦行こう」
リオンは泣きじゃくる僕の手を引いて、キャンパス内から連れ出した。周りの人たちが僕たちを不思議そうに見つめるけど、彼は目にも留めず進んでいく。大学内を抜け、階段を登り、リオンはある古いドアに手をかけた。
「ここなら大丈夫だから」
そう行って着いたのは誰もいない屋上だった。高い柵と広大な空だけの空間。お飾りのような錆びついたベンチに隣同士腰掛けると、安心してまた涙が溢れた。
「ごめんなさいっ……リオン、ごめん…っ」
「無理に話さなくていいから。ただ今は、思い切り泣きな」
俺がここにいるから、そう言って、彼はいつかのようにハンカチを差し出した。
いつか?いつだっけ。
その時も、僕は彼の目の前で泣いたんだっけ。
「怖いよ……っ」
「え、?」
「ぜんぶ、忘れちゃったら、やだ……」
「……」
「僕の中の、いちばん大切で幸せな記憶が、もう消えて無くなっちゃいそうっ……」
このまま全て消えたら、多分、忘れたことすら忘れてしまう。
なにがなにかもわからない。ただ、失っていく自分が怖くて怖くてたまらない。
「未央、落ち着いて。大丈夫だから」
僕の肩を、リオンが優しく抱き締めてくれる。
何も聞かず、僕を安心させるために熱を分け与えてくれるだけで、なんの説明もできない僕に問いただすことはしない。
「ごめん……」
「謝らないで」
「リオンが、いなくなったら、嫌だ……」
その言葉に、彼は僕を抱く力を弱めた。
「俺はずっとここにいるよ……?」
ちがう、違う。そうじゃなくて。
僕は、彼のシャツを両手で掴んで泣きじゃくった。彼の胸に頭を押し付けて、今目の前にある自分のいちばん大切な存在を確かめるように。
君が僕の、今まで生きてきた意味なんだって、その記憶を忘れることがひどく恐ろしいの。
けれどそんなことを言えるわけもなく、ただひとり、怯えることしかできなかった。
晴れた空から、風花が舞い降りてくる。
日が差して暖かいのに、震える指先に追い打ちをかけるように冷たい雫が溶けた。
幻想的な冬の日。雪とともに僕の中から、前世の記憶がなくなった。




