第三話 前世の記憶なんか、なければよかった。
「…ねえ。ねえ、未央、」
「あ、ごめんリオン。なに?」
「次の講義遅れる。そろそろ行こう」
「あ、そうだよね、行こう」
食堂でリオンに頭を撫でられたあの日以降、彼との関係について考えてしまう。
僕はずっと彼とまた巡り会うことを夢見ていたけど、その先は何がしたかったんだろう、と。
今までも考えたことはあったが、ここまで真正面に向き合うことを避けていた。
僕は、“レオ”に会いたかった。欲を言えばもう一度、恋人になりたかった。
抱きしめて、キスをして、その先だって___。
けれど、リオンはレオの記憶を失っている。
そして、僕は今世では男だ。恋人だなんて、夢のまた夢なのに。
最近、友達でいることすら辛くなった。
前世の記憶を持っている僕だけが我慢していることにも、耐えられなかった。
80年前と変わらない、あの綺麗な横顔を見るたびに、泣きたくなる。
思わず、“レオ”と呼びそうになる。
いっそのこと、忘れてしまえばよかった。
あの死の果てに、レオの記憶を置いてくればよかった。
僕にとっていちばん大切だった思い出を自ら粗末に扱ってしまうほど、心は少しずつ、確実に弱っていた。
熱い日差しが差し込む中庭。日陰のベンチに座ってリオンの講義終わりを待つ。
夏真っ盛りで、隣の木のセミも元気に鳴いていた。
「未央」
「お、やっと来た。遅かったじゃん」
「いや……実はさっきの講義、終盤ちょっと寝ちゃって。気づいたら終わってたから焦った」
「なに、またノート取ってなかったの?」
最近、リオンがノートを取り忘れることが多い気がする。寝不足なのかな。
基本真面目に講義を聞いている彼にしては珍しい出来事だったが、特に聞くことはしない。またかよ、と笑いながらノートを差し出した。
「ご飯食べたあとで眠くなっちゃって」
「リオンは赤ちゃんなの?」
いつものように冗談を言い合いながら、肩を寄せて講義の内容を簡単に教えてあげる。
「ありがと。助かった」
「大丈夫だよ。てか、それでも成績はちゃんと落とさないの、すごいよね」
そう。リオンは他学部の研究所からもスカウトされるほど、前世と変わらず頭がいい。
「生まれ持ったものだし」
出会った頃からリオンはよくそう言って、俺は生まれたときから天才なんだよ、って冗談めかしていた。
生まれる前からずっと、お前は天才だよ、レオ。
「そういえばさ、未央」
「ん?」
「未央はさ、好きな人とかいないの?」
「……え?」
不意に、リオンが僕を覗き込んで首を傾げる。急な質問にたじろいで目を逸らした。
「未央、結構女子とも仲いいじゃん」
「あー……」
たしかに女の子と話しているほうが楽だし、最近やけに好意を向けられている気もする。僕にもモテ期が?と思ったけれど別に何が変わるわけでもないし、周りの女の子たちも友達としか思っていない。
__好きな人、か。そういえば、リオンとこういう話をするのは初めてだ。大きく息を吸い覚悟を決めて僕は口を開いた。
「いるよ。好きな人」
「え」
「ずっと僕の片想いでさ。相手はもう、僕のことなんかとっくに忘れてるのに」
「……忘れてる?」
「辛いんだ。もう、やめたいって思うほど」
一度話してしまえば、堰を切ったようにぽろぽろと本音が零れ落ちていく。そんな僕を見て、リオンは意外そうに目を見開いた。
「……そうなんだ。未央にもそういう相手、いたんだな」
「うん、まあ」
これを聞いても、君は思い出さないんだね。ワガママを口に出してしまいそうになったが、ぐっと唇を噛んでこらえた。
「リオンくん!」
その時、女の子がこちらに小さく駆けてきた。
「あぁ、ミア、ごめん待たせた?」
「うん、待ってても来ないから……こっちに来たらいるかなと思って」
太陽に透ける金髪と、海のような青くて丸っこい瞳。あれ、この子どっかで…。
「…語学サークルの留学生の子?」
「そう。この前のイベントで会ったんだけど、アメリカで住んでた地域が同じで、意気投合して」
「はじめまして。ミアといいます。未央さんのこと、語学サークルでお見かけしたことあります。よろしくお願いします」
ミア、というアメリカ人の女の子は留学生とは思えない語学力で僕に挨拶すると、キャッチーな笑顔で微笑んだ。
「よろしくお願いします」
「未央ごめん、この後ミアとサークルのグループ研究一緒にやらなくちゃいけなくて。先に帰ってて」
「あ、そうなんだ……わかった」
彼はそう言うと立ち上がりさっさと行ってしまった。
僕は呆気にとられて二人の後ろ姿を目で追う。二人は英語でなにやら楽しげに話していた。
もしかして、リオンが急に恋愛の話をしたのは、自分に好きな人が出来たからだろうか。
前世から今まで僕以外の女の影がもちろんなかった彼だから、余計にモヤモヤしてしまう。
今世では男の僕がこんな不安な気持ちになる資格がない、と自分をたしなめる気持ちと、それでもやっぱり嫉妬して我慢できない気持ちと。
きっと前世の記憶はあの世に置いてくるものだった。というか、普通はみんな前世を消して生まれ変われるはずだ。
僕だけずっと無駄に想い続けてしまって、勝手に自分の首を絞めている。
ベンチの背もたれに背をあずけ、視界いっぱいの青空を見上げる。
このまま空に吸い込まれて、もうすべて忘れてしまいたい。そんなことを思っては、長い溜息をつくのであった。
秋の学園祭に、僕たち語学サークルは世界の料理屋台を出店することになった。
学生たちは年に一度のイベントに浮足立ち、キャンパス内はいつにも増して楽しそうな声で溢れていた。
「もっとサークルの良さを活かしてさ、多言語のポップを出すのとかどう?」
「え!あり!!やっぱ未央くんアイデア出し上手いよね」
「さすが未央くん!私も賛成!!」
サークルの女の子たちと学園祭の企画について話し合っていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
振り返ると、仏頂面で僕を見下ろすリオンが立っている。
「ん、どうしたの?」
「未央、ちょっといい?」
「え、いいけど……」
みんなまたあとでね、と女の子たちに挨拶を交わして、ずんずん先を行ってしまうリオンを追いかける。不機嫌なのだろうか、俺が名前を呼んでも振り返ってくれない。
「リオン、どうしたの?話なら帰りでも……」
早歩きで追いかけていると、彼は急に立ち止まった。
「わっ、ちょ、危な!」
「学園祭の日、時間ある?」
真意が見えない突然の問いかけに素っ頓狂な声をあげるも、文化祭のスケジュールを思い出す。
「は?たしか、屋台の当番終われば時間はあるけど……?それがどうかした?」
「じゃあ、学園祭一緒に回れるよな?」
彼がやっとこちらを振り返る。彼の表情が曇っていたように見えたが、瞬きの間にいつもの表情に戻っていた。
「いいよ。てか僕もリオン以外に友達いないし、そのつもりだったんだけど」
「そっか」
「なに」
「……なんでもない」
「なんか、いつものリオンと違う」
そう僕が呟くと、彼の茶色い瞳が光を失った。
「いや、ほんとになんでもない。ごめん未央」
先程までの強引な雰囲気はどこかに吹き飛び、彼は萎れたように背中を丸め、額に手を当てた。
「僕はリオンのことなおざりにしたりしないし。そんな人だと思われてたならちょっとショックだな」
「ごめん」
「謝らないでよ。それじゃ肯定に聞こえる」
「そうだね」
やっと笑って僕と目を合わせてくれたリオンに安心して、僕も微笑みかける。
「初めての学園祭、楽しみだね」
そう言うと、リオンも柔らかく笑った。
学園祭当日。
前より随分涼しくなって過ごしやすくなったキャンパスの中庭にいくつもの仮設テントを立て、それぞれ屋台の準備をしている。僕は調理当番として、ホットプレートでパエリアを作っていた。
「めっちゃいい匂いする〜。我ながら絶対成功でしょこれ」
「すごーい!未央くん、料理上手だよね」
「まあね〜」
元女として女の子に料理を褒められるのは素直に嬉しい。ふふんと鼻を鳴らして満足気にフライパンを揺らした。
「あ、未央くん、エプロンの後ろほどけてる、」
「ほんと?ちょっと直して」
特に何も考えず、その子に背を向けた。しかし、次に聞こえたのは女の子の声ではなかった。
「俺が結んでやる」
「え、リオン?」
エプロンの紐をくいっと引っ張られて後ろは確認出来なかった。しかし、僕の近くに迫った彼の匂いが首筋のあたりから香ってきて、不意に胸が鳴る。
深みがあって、抱きしめられたときに森にいるような安心感を覚えるこの香りは、前世の彼と全く変わらなくて。
「未央、エプロン結べたよ」
「……」
「未央?」
久々にこんなに距離を縮めたからかな。鮮明に"レオ"を思い出してしまって今、リオンを振り返れない。
「…ごめん、ありがとう」
「大丈夫?少しきついか?」
「ううん、大丈夫だよ。ほんと、ありがと」
それでも、必死に込み上げてきたものを堪えて、笑顔で振り返った。すると特に彼も機にする様子なく「おう」と返してくれた。
「よしっ、絶対美味しいパエリア作るから!出来上がったらリオンも食べてね」
何事もなかったかのように元気よくそう宣言して、料理に戻ろうとした。が、その時。
「っ、ちょっと待って」
「えっ、な、なに」
エプロンの裾を掴まれ、驚いてまたリオンを振り向く。僕の目線の先にあった彼の顔は少し紅潮し、目を大きく見開いていた。
「俺どこかで……未央のエプロン姿、見たことあったっけ?」
「へ?ないと思うけど……」
僕自身、普段エプロンなんてつけないし、高校の家庭科実習以来だろう。大学なんてもってのほかだ。
思いつくとすれば___
「そう、だよな。でもなんかすごい既視感があって。未央、エプロン似合ってるし」
きっとそれは、リオンの無意識の奥底にある、昔の記憶。僕が、あの狭いアパートで料理をしていた姿じゃないかな。
少しだけ前世の彼に近づいたリオンだったが、それ以上はなにも思い出せないようだった。だから僕は、その記憶を諦めさせるようにエプロンを掴む彼の手を優しく離してあげた。
「…今じゃなくていい。いつか、思い出してほしい」
淡い瞳の、奥にあるもの全部僕が知っているから。弱々しいかもしれないけれど微笑んで見せて、自分の本音を吐き出した。しかし、リオンは理解できないはずのことを理解しようとして押し黙ってしまった。
「あは、リオン真面目に考えすぎ。冗談だよ〜」
「そうなのか?」
「そうだよ。ほら、リオンは設営係でしょ、行った行った!!」
彼の体を回転させ、背中をどんっと押す。その勢いに押された彼は「う、うん」と慌てて答えて僕を振り返った。
「また後で会おう」
そう言ってリオンにウインクまでしてしまった僕も、他の学生と変わらず学園祭の雰囲気に酔っているのだろう。
学園祭は大盛況だった。
学校の内外から溢れかえるほどの人が訪れ、僕たち語学サークルの世界の料理屋台も注文が途切れない。
「パエリア一つお願いします!」
「はーい!ありがとうございます!!」
朝早くから頑張って仕込んだパエリアもだんだんとなくなっていく。
笑顔で接客していると、買いに来てくれたお客さんが「ありがとう」と言ってくれることに初めて仕事のやりがいを感じた。労働をしているはずなのに、楽しいという感覚は初めてだった。
「おー、未央、なんか今日生き生きしてるなあ」
「先輩!買いに来てくれたんですか!」
学園祭の別のイベントに出ている語学サークルの先輩が途中で抜け出して様子を見に来てくれた。
やっほー、と後ろからひょっこり覗く先輩たちにパエリアを勧める。
「しょうがないな。2パック買ってやるよ」
「やったー!ありがとうございます!!」
「てか、未央の相方は?リオンは元気?」
「あぁ、リオンならそこにいますよ。さっきレンジを爆発させかけたのでおとなしくドリンク係してます」
声を潜めてさっきしでかしたリオンの失敗を告げ口すると、先輩は大きく笑い飛ばした。
「リオンらしいなあ。勉強はずば抜けてできるのに」
ひとしきり笑った先輩たちは、次に小さい声でリオンのある噂について話し出した。
「そういえばリオンって留学生のミアちゃんといい感じらしいよ。だよな、未央?」
「え…?」
「あれ?未央知らないの?」
急に出てきたリオンの噂に耳を疑う。僕が知らないことが意外だったのか、先輩は眉を寄せて言った。
「ほら、今までリオンってあんまり女に興味なさそうだっただろ?でもミアちゃんとは割と仲良いし楽しげに話してるじゃん」
この前の中庭での出来事を思い出す。たしかに、あの時からすでにミアちゃんとは仲睦まじい様子だった。やっぱり僕の勘は間違いでなかったのか。
「ミアちゃんの方はすでに好意あるみたいだし、あとはリオン次第だろうなあ」
「あんなに可愛い女の子に迫られたら断れる男いないだろ、なあ未央?」
そりゃそうだ。ぱっちりお目々の金髪海外ガール。お人形さんみたいで、男女問わず憧れる存在だろう。そんな子に迫られたら__
リオンも絶対になびかないとは言えない。そう考えると、一気に体が芯から冷えていく。
「おーい、未央?相方を可愛い留学生に取られて嫉妬しちゃった?」
「…そうですね」
テーブルの片付けをしながら、先輩の言葉にぶっきらぼうに答えた。
「おいおい未央本気かよ?」
「さすがに冗談だろ。てか、男と男なんて気持ちわりいから嘘でもやめろよ」
先輩が笑って放ったその一言に、片付けの手がピタッと止まる。思考が一瞬で真っ白になった。
「そうだよな。想像しただけで無理」
男と男、気持ち悪い。無理。反芻した言葉が自分を蝕んでいく。
動悸がする。脈が急激に早まって、車酔いのように目眩がした。
「ちょ、おい未央!!」
気がついたら、その場から逃げ出していた。人混みをかき分け、落ち着ける場所を探す。やっとのことで見つけた誰もいないトイレのドアノブに手をかけた。
「っ……」
ゆっくり目線を上げる。僕が無意識に駆け込んだトイレのドアには、青いピクトグラムが描かれていた。
「ううっ……」
人気のないトイレの前でしゃがみ込む。なんで、なんで僕は、性別を変えて生まれてきてしまったの。リオンと同性で生きているの。前世のように、当たり前に恋愛対象にも入れないの。
しゃくり上げた嗚咽は、可愛げのない、低い男の声だった。もう聞き慣れた現世の自分の声なはずなのに、鳥肌が立って思わず両手で口を塞いだ。
漏れ出る自分の声、男子トイレの前でしゃがみ込む自分。その事実が、僕に抗えない運命を突きつけた。
本当は分かってた。今世でリオンとどうこうなるのは無理だって。姿形も、性別も違う僕が、もう一度リオンの隣に立つのはどう考えたって不可能だ。
さっきの先輩たちの話を思い出す。そりゃ、可愛い女の子が、リオンに釣り合うに決まってる。隣同士で笑う、ミアちゃんとリオンは、誰から見ても、お似合いの二人だった。
それでも心のどこかで信じていた。僕らは前世の運命でつながっていると。僕が男だろうと、どれだけ形を変えようと、いつかリオンが僕を見つけてくれて、また選んでくれると。
『じゃあ、学園祭一緒に回れるよな?』
不意に、リオンの言葉を思い出した。いけない、このあとリオンと合流する約束をしているんだった。
慌てて目尻の涙を拭いて立ち上がる。せっかくのお誘いだ。僕のモヤモヤの張本人と実際に会って、また少し探ってみよう。
結局、彼を信じ続けるには、彼の言葉を聞かないといけない。今まで僕が現世の人生全てをかけて探してきた人への気持ちは、他人の言葉で流されるほど、半端なものではないはずだから。
サークルのブースに戻ると、すでに先輩たちは居なくなり、自分の当番の時間も終わっていた。リオンも先に上がって姿を消している。他の当番の子に挨拶をして、急いで自分の支度を済ませた。
「パエリア、持っていってあげようかな」
ふと僕の作ったパエリアが視線に留まる。透明パックに綺麗に盛り付けて、ビニール袋に入れた。熱々のパエリアは、ビニール袋の中で透明パックを曇らせた。
待ち合わせ場所の食堂に走って向かう途中で、紙パックジュースの自販機を通り過ぎる。少し悩んで、結局数歩戻った。
見慣れたコーヒー牛乳のボタンを連打して2本落とす。左手に提げたパエリアのビニール袋に乱暴に投げ入れて、また走り出した。
「あれ、どこ、?」
僕が待ち合わせに少し遅れて駆け込んだ食堂内は、学園祭を楽しむ学生やお客さんでいっぱいだった。
いつもはどれだけ人が居ても彼の風貌は浮いていてすぐ見つけられるのに。
今日はどこを見渡してもあの綺麗なアーモンド色の髪の男は見えない。
嫌な予感がする。そんな根拠もない勘が自分の足を早めた。
「あ、すみませ、」
人混みに突っ込んで、肩をぶつけてしまう。流れに押されながらも前に進んだ。ただ、どれだけ人をかき分けても、僕が探し求める彼を見つけられない。
心臓が早鐘を鳴らし始める。両手からなにかがこぼれ落ちていく感覚がした。
早く、会いたい。この世界で君だけをずっと探し続けているのに。
やっと人混みを抜け、窓から降り注ぐ光を浴びた。目の前がきらきらと輝いて、走ったせいで焦点が合わない。
息を整えようと膝に手をつく。ちょうどその時、ある人の影を目の端で捉えた。
目で追うように導かれた光景は、光に包まれた別世界だった。
「っ……!」
大きな窓から差し込む夕暮れをバックに、階段下で抱きしめ合う二人の姿。
僕を背に誰かを受け止めている男の髪は、夕暮れの色と溶け合い一本一本が生き生きと澄んでいた。
「れ、お……」
小さく呟いたその名前は、遠くて、届くはずもない。
唇がわなわなと震える。頭が真っ白になって目の前の状況を拒否しているのに、目だけは二人の姿を離れなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。僕には永遠にも思えた一瞬のあと、彼を抱き締めていた女の子が顔を上げて現れた。
やはり先輩たちが噂していたあの子。けれどいつもの潑剌な雰囲気とは違い、ゆるくウェーブを巻く金髪の中で、青い瞳が海に溺れていた。
彼女の綺麗な目から溢れる涙を見たとき、僕は思わずその場を離れた。
ふらつく足で自分の家に辿り着く。どうやってここまで帰ってきたのか思い出せない。
ただ、気づいたら目の前の景色は滲んで、何も見えなくなっていた。
光の入らない玄関先でしゃがみ込む。手に提げていたビニール袋が床に打ち付けられて、悲惨な音をあげた。
ビニール袋から、コーヒー牛乳の紙パックが透ける。それが目に入ってついに僕の堤防は決壊した。
汚れることなど気にも留めず地面に泣き崩れる。大人げない泣き声を荒らげて。あれ僕、今日何回泣いてるんだろ。泣きすぎて、涙は出ない。乾いた苦しげな声だけが部屋に響いた。
なんで、僕じゃないの。
僕も泣いてるよ。
あの子みたいに綺麗になんか泣けないけど。
僕のほうがずっと君を追いかけてるよ。
僕のほうがずっと想ってるよ。
一緒にいじめられたって、死んだって、生まれ変わったって、男になったって、君が僕を忘れていたって、違う名前になっていたって、
僕は君が好きなのに。
それでもこの長年の想いを嘲笑うように、君は僕の気持ちを裏切るんだ。
記憶なんか、持ってこなければよかった。
前世を思い出せば思い出すほど、辛くなるんだ。
楽しくて幸せだったあの恋を、もう取り戻すことはないとわかっていながら、僕はまだ信じていた。
いつか君にごめんねと言って、いいよ、と言われて。
また、また。
君と今世こそ幸せに生きて最期まで全うすると。
涙に濡れた地面に顔を擦り付ける。
今世の19年間、なんだったんだろうな。
僕、なんのために生まれてきたんだろうな。
こんな記憶なんかなければ。
君と普通に出会って、普通の友達になって、君の恋を応援できたのかな。
夕日の中、抱擁を交わしていた二人を思い出す。
誰が見ても今世の僕はただの脇役で、君の友だちでしかなかった。
やり場のない苦しさと痛みが全身を駆け巡る。
そして再び、慟哭に飲まれた。
体中の水分が無くなって、このままもう死んでしまってもいいと思った。
それでも、もちろん死ぬことは出来なかった。今世の僕は、僕のまま、次の日の朝日を迎えた。




